汗を流しながら真剣に修行するポケモンたちとトレーナーたち。そんな熱気の渦中、エボルはただ壁に寄りかかり、静かにそれを見つめていた。
ふと、視線を感じた。斜め後方、あの女性――レンがこちらを見ていた。口に出すでもなく、ただ真剣な目でエボルの動きを見ている。
「……なんとなく、体動かしたくなったな」
ぼそっと呟くエボル。自身でも珍しい気分だった。
「俺もやるっかな」
ぽつりとそう言って立ち上がると、周囲にいたポケモンたちが一斉に目を向けた。少しだけその空気に肩を竦めながら、エボルは歩き出す。
(……さすがに、ポケモンの力を出すのはまずいか)
心の中でそう呟き、周囲を軽く見渡す。まだ、自分が人間とは違う何かだと知られてはいけない。
「ライガ」
『お、やる気か? 人間』
ゼラオラ――ライガがすぐに応え、背を伸ばしてエボルの前に立つ。
「拳の打ち合いだ。遠慮はいらない」
『へっ、言ったな? あとで泣くなよ』
軽く拳を鳴らすライガに、エボルはひとつ小さく息を吐くと、周囲に声をかけた。
「見ててもいいが、参考にはならないぞ。……多分な」
その言葉に、修行中だった者たちは「何を言い出すんだ」と言わんばかりの表情で彼を見た。だが、その真剣な眼差しと佇まいに、ふざけているわけではないと気付いたのか、誰も口を挟まなかった。
「……じゃあ、2割ぐらいに抑えておくか」
エボルが軽く構えた。シンプルな拳の構え。しかし、そこには奇妙なまでの隙がなかった。
『なっ……』
ライガは思わず喉を鳴らした。ただ立っているだけに見える。だが、見れば見るほど、攻め入る隙が見当たらない。無駄な動きも、呼吸も、重心も、完璧すぎる。
「……来ないのか?」
エボルが催促するように、視線をライガに投げかけた。
『ちっ……舐めやがって!』
ライガは素早く踏み込み、右の拳をエボルの顔めがけて突き出す。
だが――
『は?』
エボルは微動だにせず、右手一本でその拳を止めていた。がっしりと掴んだまま、指一本動かす気配がない。
『だったら、こっちだ!』
今度は左の拳を繰り出す。
しかし、左の拳も、エボルの左手に同じように掴まれて止められた。
『な、なんだこれ……! 固定された……!?』
拳を引こうにも、エボルの手はまるで鉄のように、がっちりとライガの拳を捕らえていた。
「さて、次はこっちからいくぞ」
エボルは手を放すと同時に、一歩下がった。
ライガはすぐに構え直す。
『来いよ!』
その瞬間、エボルは勢いよく前進する……かと思えば、今度はライガと同じモーションで拳を繰り出す。
『え……俺様と同じ……?』
だが、その拳の速度、重み、角度、全てがライガのものとは段違いだった。
『ぐっ……!』
なんとか防御の構えを取るライガだったが、押し込まれる重みがまるで違った。
「お前の動きを真似てみただけだ。……少しだけ改良したがな」
エボルがにやりと笑う。
『くっ……化け物かよ、てめえ……!』
「化け物言うな。」
エボルが再び構えた。
ライガは一歩、自然と後退していた。
「ライガ、もういいぞ」
その声に、ライガは深く息を吐き、拳を下ろす。
『ちっ、やっぱお前にゃ勝てねえや……!』
「それでいい」
エボルは笑っていた。どこか、満足そうに。
そのやり取りを見ていた周囲の修行者たちは、ただただ唖然としていた。
レンもまた、道場の柱の陰からその光景を見て、驚きの眼差しを隠せなかった。
「……あいつ、本当に、ただの人間なの?」
木の床を踏むエボルの足音が、修行場に静かに響いていた。
その時、甲高い声が飛び込んできた。
「修行だーーーっ!!」
元気いっぱいに叫びながら現れたのは、つい最近再会を果たしたエースバーン──フレアだった。紅く逆立つ毛並みを揺らしながら、満面の笑みで跳ねるように近付いてくる。
『あーーーっ!!ライガ、もしかしてエボルとやったの!?ずるい!!俺もやる!!』
その場にいた全員がフレアの勢いに少し驚きながらも、思わず微笑む。
「お前、また突然……」と、呆れ顔のエボル。
その後を追うようにして、息を切らしながらフレアのトレーナーが駆け込んできた。
「ああもう!また勝手に飛び出して!フレア!勝手な行動はやめろって言っただろ!」
『だってエボルに会えたんだもん!あのバトル、俺もやりたい!今すぐ!』
フレアの燃えるような視線を受け、エボルは肩をすくめる。
「……分かった。ただし、お前は蹴りだけな。手は出すなよ」
『うおおおーーっ!俺の得意分野じゃん!やったぁ!!』
フレアはその場でジャンプしながら嬉しそうに喜び、地面に降り立った瞬間に構えを取った。鍛え抜かれた脚筋が、エネルギーで振動しているかのように感じられる。
その様子を見ていたレイカが苦笑交じりに呟く。
『はぁ……また始まったのね。ご主人様も相手がいないと鈍るって言ってたけど、まさかこんなペースで……』
シルヴィアが腕を組んでフレアの動きを観察する。
『ま、あの子、速さには自信ありそうね。でもエボルに当てるのは至難の業よ』
ゼラオラのライガは、ふんと鼻を鳴らす。
『まったくよぉ、蹴り合いが得意だか何だか知らねぇけど、こいつの動きについてこれるわけねえだろ』
ナギは少しだけ心配そうに呟いた。
『人間さん……大丈夫かな。燃えすぎて火傷しないといいけど』
アークは真剣な表情で見つめる。
『また勉強になるな……フレアってすごく素早いし、体術が洗練されてる。きっとすごい戦いになる!』
道場の隅で休んでいた道場生たちも、自然と目を奪われていた。場の空気が一変するほどの緊張感が漂っていた。
フレアが大地を蹴り、突進してくる。
『行くぞエボルーーーっ!!』
エボルは軽く膝を曲げ、重心を低く構える。
「来い、フレア」
飛び込んできたのは、華麗な回し蹴り。だが、エボルは首を傾けて避けた。
次に、フレアは飛び上がり、上からの落下蹴り──が、エボルは左手で地面を突いてバク転のように後方へ下がり回避。
『避けられた!?じゃあ……!』
高速のフェイントからの二段蹴り。瞬間的に軌道を変える巧みな動きに、観客たちが息を呑む。しかし──
「甘い」
エボルはわずかに体を傾け、蹴りの軌道のわずかなズレを利用し、掠らせすらしなかった。
フレアの口元が引きつる。
『なんで当たらない!?こんなに全力出してるのに!』
「動きは良い、だが、もっと体の芯からくる“気”を感じさせろ。俺はそういうのを見てる」
『くっ……じゃあ、これならどうだっ!』
フレアはその場で回転し、脚に火を纏わせて渾身のフレアドライブキックを放つ。
しかし、エボルはその蹴りを真正面から受け止めた。
片手で。
『えっ!?』
「悪くないが、力の逃がし方が雑だ。もっと重心を軸に使え」
フレアは足を離すと、肩で息をしながら次の攻撃に移ろうとしていた。
『くらえ、俺の超・高速・回し蹴り!』
フレアは跳び上がり、得意技を炸裂させた。火花が空気を裂き、道場の床が揺れるような勢いだった――が。
エボルは体をほんのわずかに傾けただけで、それをすり抜けさせた。
『う、うそ!? なんで今の見えてた!?』
「……目つぶってても分かる」
『なんでえええ!?』
レイカが呆れながらも微笑む。
『ご主人様はこういう方なのよ』
シルヴィアは腕を組んでため息を吐いた。
『強すぎて意味わかんないっての』
ケルディオも見守りながら頷く。
『僕もまた戦いたいな……勉強になるし』
ライガは少しだけ笑った。
『あいつの力の底が見えねえな』
フレアは攻撃を繰り出し続けた。ローキック、ハイキック、連続回し蹴り――その全てが空を切る。
『なっ……避けんなよ!! 今度こそ――!』
エボルは無言のまま、フレアの全力の蹴りをいなし続けた。ときに紙一重、ときに指先で軌道を変えるような動作すら見せた。
ついに30分が過ぎ、フレアはへたり込んだ。
『はぁ……はぁ……もう無理……!』
「満足したか?」
『……うん。もっと強くなって、次は当ててみせる!絶対!』
エボルは少し笑いながら頷く。
「楽しみにしてるよ」
トレーナーが息を切らして近付いてきた。
「……ほんっとに、勘弁してくださいよ……こっちは毎日練習に付き合ってヘトヘトなんですから……!」
エボルは少し肩をすくめた。
「悪かったな」
こうして、再戦は終わったが──燃えた情熱は、次の挑戦者へと受け継がれていくのだった。