偽りの兎座   作:コユルギミカン

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仮面舞踏会

 ──夜風(よかぜ)(さら)された硬いコンクリートの()てつくような感触が、倒れ込んだ私の右(ほお)を突き刺すように伝わってくる。

 

 ──ダメ……立ち上がらなきゃ……

 

 そう自らを(ふる)い立たせながら顔を上げようとする私の反対側の頬に、今度は生暖かく柔らかい物体が押し付けられる。

 

「はぁ〜ぁ……せっかく期待していたのに……」

 

 頭上から、溜息(ためいき)混じりの『彼女』の声が聞こえてくる。

 

「この程度だったなんて……本当にガッカリだわ……」

 

「……っ……!」

 

 私は咄嗟(とっさ)にそれに何か言い返そうとするが、ダメージのせいなのか、声が思うように出せない。

 

「──もういいわ……なぜ、『彼』があなたなんかに執着(しゅうちゃく)しているのかはわからないけど、ここまでしてあげても『覚醒(かくせい)』すらできない半端者(はんぱもの)なんて……」

 

 その言葉とともに、私を地面に押し付ける肉球の弾力は段々と強さを増していき──

 

「──消えてしまえばいいのよ!」

 

 そして『彼女』は、コンクリートに頬擦(ほおず)りするかのように横たわる私の頭を、思い切り踏み抜いた──

 

 

 

 ──半日前。

 

「……い……お……い……おいっ!」

 

 プリズムタワーの(そび)える広場の片隅で、唐突に現れた謎のポケモン……『マスカーニャ』の不意打ちによって意識が遠のいていた私を、彼方(かなた)から引きずり戻したのはゼロにぃの声だった。

 

「……う……うぅ……おにぃ……ちゃん……」

 

 段々と回復していく私の視界に映ったのは、地面に倒れている私を取り巻く大勢の人間やポケモンたちの野次馬のシルエットを背景に、私に向かって必死に呼びかけるゼロにぃの姿だった。

 

「しっかりしろ! 何があったんだ!」

 

「わ……わたし……うぅ……」

 

 ゼロにぃの声に何とか応えようとするが、急所を不意打ちされ、瀕死(ひんし)の重傷を負った私にはそれは叶わなかった。

 

 再び私の意識が闇に覆われ始める。ゼロにぃの悲痛な呼び声と自らの慢心(まんしん)を深く後悔しながら、私の意識は深淵へと誘われていった……

 

 

 次に意識を取り戻した時には、私はベッドの上に横たわっていた。

 

「……こ……ここ……は?」

 

 頭を枕から軽く持ち上げ、周囲を見回すと近くからポケモンの声が聞こえた。

 

「あら、目が覚めたのね! どう? 身体の調子は?」

 

 声の方を向くと、そこにはピンク色の身体の見たことのないポケモンが立っていた。

 

 そのポケモンはお腹のポケットに白くて丸い球体を入れ、頭には何やらナース帽のような帽子を被っていた。

 

 その柔らかな声色と(ゆる)やかな雰囲気から、とりあえずこちらの敵ではなさそうなことは察することができた。

 

「あ……だいじょうぶだけど……えっと……ここは……?」

 

「うんうん! 受け答えも問題なさそうね! ここはミアレシティのポケモンセンターよ。待ってて、ジョーイさんを呼んでくるから……」

 

 そう言うと、そのポケモンは部屋を出て行った。彼女に言われた通り、しばらく待っていると、慌てた様子でピンク色の髪が特徴的な人間の女性が、部屋に入ってきた。

 

 そして彼女は私を見るなり、ホッと胸を()で下ろしたかのような様子で私に話しかけた。

 

「あっ……!! 意識が戻ったのね! 待ってて、すぐにあなたのトレーナーさんを呼んでくるから!」

 

 そう言うと、その女性は急ぐ素振(そぶ)りを見せながら部屋を出て行った。

 

 やがて、ドタドタという駆け足とともに、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。

 

 そこにいたのは、興奮と歓喜が()()ぜられた表情をしたマチエールだった。

 

 そして彼女は、顔を上げたままあんぐりと口を開けている私に構わず、こちらの方へ飛びつく勢いで近寄ってきた。

 

「ユイちゃんっっ!! よかったぁ!! 身体は大丈夫!? どこか痛まない?」

 

 マチによる怒涛(どとう)の質問の嵐に困惑する私を助けるかのように、先ほどのピンク髪の女性がマチを追いかけるようにして部屋に入ってきた。

 

「ちょっと! シーッ! ……ポケモンセンター内では静かにしてください! 他の患者(かんじゃ)さんもいるんだから……」

 

 その注意にマチはハッと我を取り戻したかの様子で、ピンク髪の女性に振り返った。

 

「あっ……すみません、ジョーイさん……この()が無事だったことが嬉しくてつい……」

 

 ジョーイと呼ばれた女性は、興奮気味のマチに苦笑を浮かべながら応えた。

 

「お気持ちはわかるけど、彼女もまだ病み上がりだし、無理させちゃダメよ。わかった?」

 

 ジョーイに(さと)される形になったマチは、肩をすくめながら「は〜い……」という控えめな返事を言った。

 

 

「……身体の方は、特に目立った傷とかアザはないわね。うん! これなら、すこし休めば大丈夫そうね!」

 

 ベッドに腰をかけて座る私の身体を少し調べた後、ジョーイはユイに向かって言葉を発した。

 

「本当ですか! ありがとうございます!」

 ユイはうるさくなりすぎない程度の声のトーンでジョーイにお礼の言葉を述べた。

 

 その後、ジョーイは部屋の(すみ)(ひか)えていたピンク色のポケモンに、「じゃあ、ラッキー。あとは任せたわね」と言うと、静かに病室から退出した。

 

 ジョーイが部屋から出ていくのを見送ったユイは、再びベッドの上で横になった私に神妙(しんみょう)面持(おもも)ちで語りかけてきた。

 

「……ゼロから話は聞いたわ……ユイちゃん、通り魔のポケモンに襲われたって……こんなに小さくてか弱いポケモンに危害を加えるなんて……私……絶対に許さないっ……!」

 

 口調は抑えめだったが、シーツを掴んだ彼女の手が小刻みに震えているのを、ベッドの(かす)かな揺れを通して感じ取ることができた。

 

 その時、私が何を考えていたかというと、率直で健気なマチに対する罪悪感と、私に襲いかかった『あのポケモン』についての苛立ちだった。

 

 あのポケモン……『マスカーニャ』と名乗った卑怯(ひきょう)忌々(いまいま)しいポケモンは、私と同じ『紋章』の力を持っていた……

 

 ──そして、復讐に燃える私を挑発するかのように私にニャオハ……おそらく、彼女の進化前の姿だろうが……その姿で易々(やすやす)と私に近づき、『紋章』の力を見せびらかすと同時に、このキュートでナイーブなメロメロボディに容赦(ようしゃ)ない一撃を加えたのだ……

 

 ──その野蛮で卑劣な行為を、断じて許すわけにはいかない……

 

 そういえば、私に攻撃をする直前に、奴は何か言っていたのを思い出した……

 

 ──確か、『今夜0時、ミアレ美術館の屋上』

 

 ──『そこで待っている』

 

 ──『もし勝てたら、教えてあげるわ』

 

 ──『あなたの……一番知りたい情報をね』

 

 考え込むまでもなく、それが仕組まれた罠だということは重々承知していた。

 

 だが、それを思い出した瞬間、私の心は既に永久凍土(とうど)の如く固まっていた

 

 ──やってやろうじゃない……

 

 ──私を舐めてかかったこと、後悔させてやるわ……! 

 

「……イ……ゃん! ……ユイち……! ユイちゃんってば!」

 

 焦点を横に()らすと、私に必死に呼びかけていたマチの心配そうな顔が目に入った。

 

「ボーッとしていたみたいだけど、大丈夫? まだどこか悪いの?」

 

「……あ……ごめん……ちょっと……かんがえごとしてたの……」

 

「考え事?」

 

「うん……そういえば、ゼロおにいちゃんは、どうしているのかなって……」

 

「あー、ゼロなら……」

 

 そこまでマチが言ったところで、病室のドアが突然音を立てて開く。

 

「クソッ! ダメだった……逃げ足の速いポケモンめ……! ユイッ! 目が覚めたのか!」

 

 病室に入ってきたのは、全身汗だくになったゼロにぃだった。

 

 相当な運動をしたのであろう。息もすっかり上がってしまっている。

 

 だが、彼は私の姿を見るなりそんなことはお構いなしといった様子で、マチを押しのけるようにして私の元へと駆け寄ってきた。

 

「ユイ……悪かった……俺が目を離した隙に……」

 

 ゼロにぃは唇を噛み締め罪悪感を(にじ)ませながら私に優しく話しかけた。

 

「ゼロおにいちゃん……おにいちゃんはわるくないよ……わるくなんて……」

 

 (うつむ)く彼の顔にそっと小さな手を当ててあげると、食いしばっていた表情が微かに(やわ)らいだように感じられた。

 

 そんな彼の頭に、突然乾いたハンドタオルが投げ込まれた。

 

「ほら、ゼロ。汗びっしょりじゃない……これ使って」

 

 マチから受け取ったタオルで顔を拭きながら、ゼロにぃはお礼を言った。

 

「……あぁ……ありがとう、マチ」

 

「それで……やっぱり逃げられちゃったのね……」

 

 マチの問いかけに、ゼロにぃは苦虫を噛み潰したような表情で答えた。

 

「……俺がマチを連れて戻った時、丁度ユイが通り魔のポケモンに倒されるところだった。マチにユイのことを任せて、ユイを襲いやがったポケモンの後を追ってたんだが、途中で見失っちまった……クソッ! 俺がもっとしっかりしていれば……!」

 

 思わず語気を強めてしまいそうになるゼロにぃを、マチがフォローする。

 

「……ゼロでも追いつけないほどすばしっこくて身軽なポケモンだったってことなんだから、そんなに自分を責めることはないよ……でも、そんなポケモンって一体……」

 

「ユイを襲ったポケモンの姿……あの後ろ姿はたしか……」

 

 そこまで言いかけたゼロの言葉を私が遮った。

 

「……『マスカーニャ』……」

 

 目を丸くするようにこちらを見ているゼロにぃとマチに、私は視線を送り返した。

 

「……かのじょは、そういっていたわ……」

 

 それから、私はゼロにぃとマチにマスカーニャに襲われた経緯を説明した。

 

 ──私とゼロにぃの目の前に現れた『ニャオハ』というポケモンは、迷子を装って私とゼロにぃ近づき、ゼロにぃを私から引き離した後、人目につかない場所に私を誘き寄せ、その場から逃げた。

 

 ──すると、その仲間と思わしき『マスカーニャ』が突如として私の前に現れ、自分の名を名乗ると、私をいきなり襲撃した──

 

 それが、私がマチとゼロにぃに話した『シナリオ』だった。

 

 ゼロにぃとマチが私の話を完全に信用したかどうかは定かではないが、一方的に襲撃を受け、精神的なショックも残されているであろう、か弱いポケモンをこれ以上追い詰めることはできなかったようで、それ以上は踏み込んでこなかった。

 

 彼らに嘘を吐くのはこの上なく心苦しいのだが、それ以上に優先すべきは私の目的なのだ。誰にも邪魔させる訳にはいかなかった。

 

 

 日が暮れる頃、私は心配するマチを何とか説得して、ポケモンセンターから退院しハンサムハウスへと帰ることに成功した。

 

 マチには、私が退院を急ぐ様子を(いぶか)しまれたが、ハンサムハウスの方が安心して落ち着くということで押し通した。

 

 本当のところは、人目につきづらいハンサムハウスの方がモルと入れ替わりやすいためなのだが。

 

 そして、ハンサムハウスへ戻るや否や、私は体調が悪い素振りを見せて2階の部屋を占有し、誰も部屋に入って来られない状況を作り、昨晩の『兎座(レプス)』作戦と同様に、町外れの洞窟へと急いで向かった。

 

 モルは一部始終を聞くと、予想通り、驚きと心配に満ち(あふ)れた様子を見せたが、今夜、私の『復讐』が大きく進展するかもしれない、という話を聞くと、喜んで私の『留守番(みがわり)』を引き受けてくれた。

 

 その後、モルを連れミアレシティに戻り、ハンサムハウスで『ミミロル(みがわり)』の姿になったモルに一時の別れを告げると、私は『兎座(ミミロップ)』として高鳴る胸の鼓動と共に『待ち合わせ場所(美術館の屋上)』へと向かって行った。

 

 時刻は、午後11時を回ったところだった。

 

 ミアレ美術館──ミアレシティの真北、ノースサイドストリートの14番道路への出口近くに面したその建物は、純白で静謐(せいひつ)(たたず)まいを見せていた。

 

 日中は多くの人間たちが訪れる美術館も、普段であればこんな真夜中には静けさに包まれていた。

 

 だが、その日のミアレ美術館の周囲は私の予想を反して多くの人間が(あわ)ただしく動き回っていた。

 

 その人間たちの格好を見る限り、どうやら全員紺色の服装に身を包んだ……いわゆる『警察』と呼ばれる人間たちのようだった。

 

 私は彼らに姿を見られることのないように細心の注意を払って美術館の入口付近の茂みの陰まで忍び寄って隠れ、その近くで会話していた2人の警察官たちの話をこっそりと盗み聞きした。

 

「おい! 何か手がかりは見つかったか!?」

 

 恰幅(かっぷく)の良さげな壮年(そうねん)の警察官が、彼の部下であろう若い警察官に勢いよく言った。

 

「……いえ……すみません、現在館内と館外で隅々まで調べているところですが、まだ発見できておりません……」

 

 若い警察官は肩をすくめるようにしながら、言葉を続けた。

 

「……通報を受け、真っ先に現場に到着した者によれば、現場に突入した時すでに煙のように『犯人(ホシ)』は姿を消していたとのことで、行方の手がかりも見つかっておらず捜査が難航している状況です……」

 

 その言葉を聞いて、壮年の警察官はいっそう不機嫌な様子で言葉を返した。

 

「クソッ! これほどの『犯行(ヤマ)』を起こしておきながら、監視カメラにも映らずに、跡形もなく姿を消すとは……! 全くどうなっている!」

 

「報告によれば、現在鑑識の方で『犯人(ホシ)』の体毛やゲソ(こん)を徹底的に調べ回っているところですが、そちらもどうやらうまくいっていないようですね……」(※ゲソ痕: 犯行現場に残された犯人の足跡のこと)

 

「……徹底的に自分の痕跡を残さないこの手口は、間違いなく『魔術師(マジシャン)』の仕業(しわざ)だ……ふざけやがって……」

 

「警部! 報告します!」

 

 すると、別の警察官が壮年の警察官に忙しなく駆け寄りながら大声で言った。

 

「鑑識による捜査も一通り行われましたが、有力な手がかりは得られなかったとのことです……」

 

「そうか……報告ご苦労……」

 

 警部と呼ばれた警察官は、途方に暮れたような様子で力なく答えた。

 

「……悔しいが、今日の捜査はここまでのようだな……各員に撤収の指示を伝えろ!」

 

「はっ! 承知しました!」

 

 警部の命令に、2人の警察官は勢いよく敬礼し、足早にその場を去った。

 

 やがて、美術館内外に大勢いた警察官は(たちま)ちその場を後にして、気がつけばミアレ美術館はいつものように静けさに包まれた深夜に(そび)え立っていた。

 

 私は周囲にもう誰もいないことを確認すると、ゆっくりと茂みから身体を出した。

 

「……一体、何があったというの? ……いえ……今はそれより……」

 

 ふと、美術館の入り口近くに備えられていた時計を見ると、既にその針は午前0時寸前を指し示していた。

 

「……屋上に……行かないとね……」

 

 極限の緊張と興奮を抑えながら、私は美術館の脇に設けられた非常階段を伝って屋上へと身軽に跳んで行った。

 

 美術館の屋上に着いた時、そこにはまだ誰もいないようだった。私は警戒を強めながら、屋上の中央へと慎重に歩を進めた。

 

 ──既に指定された時間は過ぎているはず……まさか、ハメられた? 

 

 そう逡巡(しゅんじゅん)したと同時に、私の背後から(かす)かな物音がした。

 

 それは、聴力が発達したミミロップ(わたし)でなければ聴き逃していたであろうほど、本当に微かな物音だった。

 

 それに反応して咄嗟に振り向くと──

 

「……来たわね……『マスカーニャ』ッ!!」

 

 ──私の眼に映ったのは、憎たらしくほくそ笑みながらこちらを見つめる『仮面のポケモン(マスカーニャ)』だった。

 

「こんばんは……そして、ごきげんよう……ミミロップの──『兎座(レプス)』さん……♡」

 

 ……聞きたいことは山ほどあったが、相手のペースに持ち込まれないように、まずは深く呼吸をしてから、私は抑揚(よくよう)を抑えて言った。

 

「……昼間は驚いたわ……まさか、私の正体を知るポケモンが正面から襲いかかってくるなんて……」

 

 すると、マスカーニャは思わず殴りたくなるようなキュートな表情を見せながら応えた。

 

「……あら、あんな姿(ミミロル)でいれば無事でいられるなんて思っていたの? ウフッ♡やっぱり見た目通り可愛いポケモンね、あなたって♡」

 

 感情の(たかぶ)りのあまり、拳と脚がプルプルと震え始めるが、懸命に抑えながら続けた。

 

「……単刀直入に聞くけど……あなたの目的は何? ……なぜ私の前に姿を現したの?」

 

 相変わらず、ウフ♡ウフ♡と不快な声を挟みながら、猫仮面(マスカーニャ)は答えた。

 

「……あら……言ったじゃない……私は楽しむことが目的なの……例えば、あなたが来る数時間前にこの美術館に飾られていた貴重な宝石を盗んだり……ね♡」

 

 その言葉を聞いて、一瞬何を言っているのか訳がわからなかったが、すぐにそれが何を意味しているのか理解できた。

 

「……まさか、さっきまで人間の警察たちが探していた『魔術師(はんにん)』って……」

 

 私がそう言うと、彼女は見せびらかすように(ふところ)からキラキラと暗闇でも眩く光る紫色の宝石を取り出してみせた。

 

「……そう……私の別名は『魔術師(マジシャン)』……どんなお宝でも完璧に、そして華麗に盗み出してあげるの♡」

 

 私はそんな彼女に驚くと同時に、ある種の感心を持ってしまった。

 

 ミアレ美術館はカロス地方最大の都市であるミアレシティに築かれた、カロス地方や他の地方の文化財を蒐集した重要施設の内の一つであるが、当然そのセキュリティは他の施設と比べても格段に厳しいものである。

 

 赤外線センサーや無数の監視カメラ、そして盗難防止のための無数の設備が至る所に取り付けられており、この美術館から展示品を盗み出すのは極めて難しいことは言うまでもない。

 

 事実、カロス美術館が設立されてから『魔術師(マジシャン)』が現れるまで、展示品へのイタズラはされたことはあるものの、展示品の『窃盗』という重大犯罪までは、これまでなかったのである。

 

 そんな話をマチから聞いていた私は、改めて彼女の言っていることがどれほどのことを示しているのかを痛感せずにはいられなかった。

 

「……なるほど……ね……あなたが物凄く手際の良い『コソ泥』っていうことはわかったわ。でも、そんなあなたが、なぜ私の『正体』を……いえ、それ以前に、どうして私と同じ『紋章』の力を持っているの……?」

 

 私はマスカーニャの胸で私のものと同じ輝きを(たた)える『紋章』を(にら)みつけながら訊いた。

 

「……フフ……言ったじゃない……私と遊んでくれたらあなたの知りたいことを教えてあげる……って……」

 

「……わかった……悪いけど、そうさせてもらうわっ!!」

 

 妖しげに笑いながら言うマスカーニャのその言葉を待っていたかのように、私は勢いよく彼女の身体に向かって不意打ちの蹴りを繰り出した。

 

 

「──っ!?」

 

 結論から言うと、限界まで速度と精度を引き上げた私の蹴りは彼女に当たらなかった。

 

 防がれたとか、目の前で避けられたということではない──消えたのだ。

 

 あのポケモンは、確かに今私が突き出した脚の位置に立っていた……

 

 ──それが、文字通り煙のように忽然(こつぜん)と消え去ったのだ……

 

 ──もしかして、私が普段やっているように一瞬で瞬発的に高くジャンプしたのか

 

 ──咄嗟(とっさ)にそう判断して上を仰ぎ見るが、そこにも彼女の姿はない。

 

 背後、側面、そして地面も(くま)なく見てみるが、どこにもあのポケモンの姿は見つからなかった。

 

 まさか──そんなバカな──『魔術師(マジシャン)』が消えた──まさに『魔術(マジック)』の如く──

 

 心の焦りを隠せずに、必死に辺りをキョロキョロと見回してマスカーニャの気配を探っていた、その時。

 

 首筋にチクリと小さな痛みが奔った。何か鋭いものの先端が、首筋に当たっ───!? 

 

「ざ〜んねん♡外れちゃったね♡」

 

「……は……? う……そ……?」

 

 ──驚愕と混乱のあまり、私はまともに喋ることができなかった。

 

 先ほど、あれほど見回しても姿形がどこにも見えなかった『魔術師(マスカーニャ)』が、今、私の背後に立って鋭い爪を私の喉元に当てているのだ。

 

「……な……なんで……い……一体……どうやって……!?」

 ──もはや私に、先ほどまでの威勢は全く感じられなかった。

 

 少しでも動けば、彼女の爪先は容赦なく私の喉を()っ切るだろう……と恐怖すら覚えていた私は、ただただ立ち尽くして震える口をなんとか動かす他なかった。

 

 そんな私の心を見透かしたかのように、マスカーニャは余裕の様子で私の言葉に応えた。

 

「フフッ♡あなたもさっさと『本気』を出さないと、殺されちゃうわよ……♡」

 

 そのセリフが終わる刹那、私の喉元に押し付けられていた爪に込められた力がわずかに(ゆる)んだのを私は逃さなかった。

 

「っ!!」

 

 私は彼女が立っていた背後の空間に向かって全力の回し蹴りを繰り出した。

 

 いくら素早いポケモンとはいえ、この間合い、そしてこの速度の攻撃は避けられるはずはない。そう思ったのだが……

 

「……!?」

 

 全力で振り回した私の脚は、またもや虚空を舞うのだった。──また、『魔術師(マジシャン)』が消えたのである。

 

「だからぁ♡『本気』を出さないとダメって言ってるでしょ〜♡」

 

「っ!?」

 

 ──彼女は再び、私の背後から突如として甘い声を出してきた。

 

 もう、私には何が起こっているのかまるで理解できなかった。

 

「……くっ! 『本気』って……どういう意味!? 私はさっきから、あなたに『本気』で攻撃しているつもりよっ!」

 

 もう彼女に攻撃を振っても(らち)が明かないと直感した私は、背後を振り向かずにマスカーニャに言った。

 

「……あら、そうだったの……まだ、『紋章』の力を完全に解放できている訳じゃないのね……」

 

 彼女のその言葉遣いには、先ほどまでの甘く妖しい印象とは別の冷ややかな響きが含まれていた。

 

「……『紋章』の力の『解放』……? それってどういう……っ!?」

 

 すると、マスカーニャは私の長耳を掴みあげ、背後に立つ彼女の口元に近づけると、ハァ……というため息をそれに流し込みながら静かに言った。

 

「……その様子じゃ、まだ『覚醒』できていないみたいね……でも、知ってる? 『紋章』の力ってね、生命を(おびや)かす程の危機が迫ったとき、新たな能力を『解放』できるのよ……私みたいに……ね」

 

「……あなたのように……? ……何を言って──っ!?」

 

 意味不明な彼女の発言を理解しようと口を動かしていたその時、鈍い痛みとともに私の身体が吹き飛んだ。

 

 彼女の──マスカーニャの攻撃を受けたのだ。

 

 何か鈍い……おそらく、彼女の周りを漂っていた花弁のようなもので私を突き飛ばしたのであろう。

 

 昼間、『ミミロル』になっていた私を奇襲した時の技と同じとみて間違いなかった。

 

「──っ! やってくれたわね!」

 

 ミミロルのときは体力が貧弱なこともあり一発でノックアウトしてしまったが、『兎座(ミミロップ)』となっている今、その技のダメージの影響は私にとって微々たるものだった。

 

 いくら攻撃を(かわ)すときに姿形を完全に消す彼女でも、攻撃を仕掛ける時は必ず姿を現すはずだ……

 

 ──そう考えた私は、体勢を立て直すと、作戦を変更して相手の攻撃を見てから行動することにした。

 

「……さぁ、どこからでもかかってきなさいよ!」

 

 私は視覚と聴覚を限界まで研ぎ澄まし、またもや忽然(こつぜん)と姿を消したマスカーニャの気配を探っていた。次に彼女が攻撃する時が、私にとって最大のチャンスとなると思っていた。

 

「……3……」

 

「……?」

 

 ……? 声が聞こえたような気がするが、気のせいか? 

 

「……2……」

 

「……!?」

 

 ──いや、気のせいではない! マスカーニャが何か数字を言っている! 

 

 ──だが、辺りにはまだ姿形は見えない! 

 

 ──何!? 何をカウントダウンしているの!? 

 

「……1……」

 

「……っ!」

 

 まだ姿は見えないが、来るっ! 私はこちらから攻撃することを諦め、相手の攻撃に合わせてカウンターが取れるように構えた。

「……0」

 

 ボンッッッ! 

 

 私に襲いかかったのは、突然の爆発だった。

 

 全身に焼き付くような痛みが奔り、放物線を描くように宙空へ身体が舞い上がった。

 

 私は地面に身体が叩きつけられるまでに、今私の身に起こったことを思索(しさく)していた。

 

 マスカーニャのカウントが終わったと同時に、私の身体が爆発した。

 

 おそらく、彼女は私の身体に爆発のトリガーとなる『爆弾』を取り付けていたのであろう。

 

 それであれば、カウンターの構えを取り、彼女の気配を探っていた私が探知できなかったのも頷ける。

 

 だが、この威力の爆発を起こす技とは一体──

 

「──うぁっ!!」

 

 やがて、自由落下していた私の身体は、受け身も取れずに硬いコンクリートの地面へとそのまま叩きつけられた。

 

 爆発のダメージと、今の落下によるダメージで私の身体は瀕死の状態になっていた。

 

「……うぅ……」

 

 地面にうつ伏せに倒れた私は、何とか力を振り絞って顔を上げてみた。

 

 すると、前方から『魔術師』のシルエットが近づいてくるのが朦朧とする視界に映り込んだ。

 

「……フフッ……どう? 『新たな能力』を解放できた? ……って……その様子じゃ、どうやらダメだったみたいね……」

 

「……あなた……いま……何を……?」

 

 息も絶え絶えに私の身体に近づく彼女を目で追いながら問いかけると、彼女は投げやりな様子で答えた。

 

「あぁ……あの技? あれは『トリックフラワー』っていうのよ……さっき、あなたに攻撃した時、花爆弾をこっそり着けておいたのよ……まぁ、そんなことはどうでもいいとして……」

 

 倒れる私の目前に立ったマスカーニャは、私の顔を見下ろしながら言った。私は顔を見上げる気力も尽きて、コンクリートの地面に顔を落とした。

 

「やっぱり、失敗しちゃったみたいね……『彼』の『計画』の邪魔にならないよう念押しされてたけど、……ホント、失望しちゃったわ……」

 

 

 そして、彼女はゆっくりと、その右脚を私の顔の方に向けて振り上げるのだった──





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