「んあ……寝てた……」
重い瞼を開けると、視界に映ったのは見覚えのある脱衣所の天井だった。
俺は裸で体を拭かぬまま温泉の床に寝転がっていたらしい。
外を見ると朝日のせいで空が白んできて――
「……って、寒ッ!? なんでこんなところで寝てるんだ!?」
せめて湯船の中で寝てたらこんな寒い思いはしなかったのに、こんなところで寝てたら風邪引くだろ!
全身を襲う嫌な寒気と、脱衣所の冷たい床の硬い感触で、微睡みから急激に覚醒した俺は両肩を抱えて体を振るわせ、心当たりを思い出そうとして。
「あ……ああああああああーーっ!!」
俺の脳の奥底に眠っていた直前の記憶が怒涛のように押し寄せた。
そうだ、俺は混浴の浴場でウォルバクさんと遭遇して、そこで魔王軍をやめて一緒に帰ろうって説得して……
それで、拒絶された挙げ句に彼女の『スリープ』の魔法を喰らって昏倒させられたんだ!
「全裸の男をこんな冷え切った脱衣所の床に寝せて放置して立ち去るとか、正気かあのアマ!? 万が一俺が湯冷めして重度の風邪でもひいたらどうするつもりだ! 魔王軍幹部だか邪神だか知らんが、アフターケアの概念が欠落しすぎだろ!」
大体、もし倒れた弾みに湯船にドボンしてそのまま窒息死してたらどう責任取るつもり……あ、だからか。
湯船で寝たら溺死するかもしれないから床に寝せておこうってことか……なるほどなるほど。
「じゃ、ねえんだよ。死んだらアクアが蘇生してくれるからいいが、風邪とか引いたらアクアでも治せないらしいんだぞ! さすがは魔王軍幹部、やることが汚――ヘクションっ!!」
……
どうしてウォルバクさんは魔王軍に肩入れしているのか。
それと同じくらい俺たちと戦いたくないという気持ちもあるのにどうしてなのか。
そして、魔法なんて便利なもので怪我は治せるのに、感染症はポーションでしか治せないのか。
そもそも、俺がお風呂で水死体になってたらアクアに鼻で笑われるだろうとか。
そんなことより一先ず寒いんで風呂に入ることにした。
「あ゛あ…………沁みるわぁ゛…………」
やっぱり風呂は心の洗濯だ。
入浴とは、体を心から温めてくれる、日本人の遺伝子に染みついている魂なのだ。
胸の奥にずんと重いしこりが沈んでいたが、浄化されていくのを感じる。
「しっかし、ウォルバクさん……本当に俺たちの敵になっちまったのか……?」
あんなに優しくて、俺たちの拠点で楽しそうに過ごしていたお姉さんだったのに。
俺がどれだけ言葉を重ねて、安全な匿い方まで提案したっていうのに、ウォルバクさんは最後まで首を縦に振らなかった。
『私は、魔王軍幹部として戦わなきゃならない理由がある』……か。
あの寂しげで、だけどどこか覚悟を決めたようなウォルバクさんの瞳が脳裏から離れない。
俺の体がようやく温まってきて、そう思案していたその時――
ガラリ、と脱衣所の扉が開く音が響いた。
「――っ!?」
俺は思わず立ち上がった。
宿の主人は俺たち以外に客はいないと言っていたが、現にウォルバクさんがいたのだから、他の誰かが入ってきてもおかしくない。
期待すべきは頭が愉快な俺の仲間以外だが……
もし仲間だとしても、相手が腹筋クルセイダーや狂犬女神ならいい。
彼奴らなら見てくれだけなら大人だし、腹筋の方はいつぞやのように喜んで背中を流してくれるだろうし、駄女神の方でも別にマスコットに欲情するわけない。
だが、魔法使い連中だった場合どうなる。
齢14になったばかりのロリとの混浴はまずい。
常識的な紅魔族の場合ならデメリットに見合うだけのメリットがあるが、爆裂魔の場合特にメリットがない――とは言わないが、不名誉な名前で呼ばれる可能性が高い。
しかも最悪魔法でカズマさんがカズマちゃんになる可能性が高い。
だが待て。
ここは混浴だし、俺が先にいる分にはあいつらが勝手に入ってきただけで、俺は何も悪くないじゃないか。
むしろ俺はさっきまで風邪をひきかけてたし、今上がれば湯冷めして本当に体調が悪くなる。
この旅を続けるにはリーダーとして体調を崩すわけにはいかない。
そうだ、俺はここで堂々と風呂に入ってればいいんだ!
ひたひた、と控えめな足音が脱衣所に響く。
薄目をほんの数ミリだけ開けて様子を覗うと、そこに立っていたのは――
「ふぅ……朝一番の温泉とは、なかなか風流なものです……ね…………」
「よう」
「な、なぁ……!?」
「どうしたんだよ。ほら、寒いだろう、早く入れよ」
そこにいたのは、華奢な身体に白い浴用タオルを巻き付けためぐみんだった。
めぐみんはわなわなと震えて、ストッパーがない胸からタオルがずれないように押さえつけながら、俺を指さした。
「ど、どうしたんだよじゃありませんよ! なぜこんな時間にカズマがいるのですか!」
「なんでって、そりゃ温泉があったら入るだろ」
「そうじゃないですよ! どうしていつも寝坊助なあなたが今日に限って早起きしてるのですか!」
「人の生活リムズにケチつけんなよ。俺だって早寝したら早起きくらいする。それとも何か、俺が先に入っていたのに気づかず入ってきたのか?」
「うっ……まさかカズマが起きてるとは思わず……」
顔を赤くしながら、めぐみんは目をそらした。
脳内で何かが弾けた。
さっきまでウォルバクさんに不意打ちで昏倒させられた怒りも、敵対することへの切なさも、すべてが彼方へと吹き飛んでいく。
ありがとうございますウォルバクさん!
あんたが俺をここに放置してくれたおかげで、俺は今、人生で三本の指に入るレベルのご褒美イベントに遭遇することができています!
邪神なんて滅相もない、ただの慈愛に満ちた女神様だ!
俺は心の中でウォルバクさんに盛大な感謝の祈りを捧げつつ、めぐみんの無防備なタオル姿を視覚に焼き付けようとしたのだが。
「しかし、普段からアレなカズマですし、深夜から待ち伏せしてこのような破廉恥な真似をしてると考える方が……」
「か、勝手な想像して変なこと言うんじゃない!」
「本当ですか?」
「ウン、ホントウダヨ?」
「カタコトじゃないですか! やはり疚しい理由があって待ち伏せて――」
「違う! 違うんだめぐみん! これには深い理由が! 実はさっき、ここにウォルバクさんがいたんだよ!」
俺の口から出た予想外の名前に、めぐみんの叫び声がピタリと止まった。
指の隙間からこちらを覗き見るめぐみんの瞳に、明らかな動揺の色が走り抜ける。
「……遺言はそれでいいですか?」
「本当なんだって!!」
「本当に、お姉さんが……ここに、ですか?」
「……そうだ。俺が夜中に風呂に入ったら偶然ウォルバクさんがいてな……色々話して説得しようとしたんだが、最終的に『スリープ』の魔法を喰らわされてな。それでついさっき、めぐみんが戸を開ける音で目を覚ましたところだったんだ」
おおよそ真実だ。
もちろん、「途中で意識が戻ったけど、めぐみんが脱ぎ始めたのに気づいて待ち伏せていた」という極めて致命的な真実については、全力で脳内のゴミ箱へとシュートしておいた。
めぐみんは、タオル一枚の姿であることも忘れて、じっと俺の顔を見つめていた。
「なんて曇のない清らかな瞳をして!? う、嘘はついていなさそうですが……しかしカズマ、お姉さんが本当にこの宿に……? にわかには信じられないのです」
「本当だ。こんなところでしょうもない嘘ついてどうするんだよ」
「カズマは武勇伝とかでしょうもない誇張を平気でするタイプなので――」
「お姉さんが居たって言うのは誇張も何もしようがないだろ。ほら、あいつが使ってた甘い感じの匂いとか、まだ風呂場に残ってるかもしれないぞ! ほら、微かに香ってこないか!?」
「わ、わかりました、カズマのことを信じましょう。疑ってすみませんでした――」
俺の真剣な表情から嘘偽りがないことを感じ取ったのか、それともお姉さん好きなめぐみんがウォルバクさんの香りを感じとったのか、俺の疑惑は晴れたらしい。
……なのにどうして俺のことを変態を見るような目で見るのだろうか、解せぬ。
「それで、お姉さんは……何と言っていたのですか? なぜこんなところにいて、なぜカズマに魔法をかけて去っていったのですか?」
めぐみんは、タオル一枚で身体の前を隠していることすら頭から抜け落ちた様子で、一歩、また一歩とお湯の中、足を滑らせ俺に詰め寄ってきた。
湯気を含んだタオルが微かに揺れ、めぐみんの整った顔立ちが目の前に迫る。
「カズマ、教えてください」
「め、めぐみんさん。ちょっと近いといいますか――」
「今はそんなことどうでもいいのです! どうしてお姉さんがここにいたのか――」
ほぼ裸のめぐみんに詰め寄られ、俺の脳内で猛烈な葛藤が渦巻き始めた。
冷静になれ佐藤和真。
今、めぐみんは本気でウォルバクさんのことを心配し、その真相を知りたがっている。
ウォルバクさんは明確に「最前線に来たら魔王軍幹部として戦わなければならない」と言っていた。
めぐみんと話すことは何もないと切なく言い残して去っていったんだ。
その事実を、今ここで、こんな状況でめぐみんに突きつけていいのか?
めぐみんがどれだけウォルバクさんを慕っていたか知っている。
ウォルバクさんが敵として立ちはだかるという現実は、めぐみんにとってあまりにも酷なはずだ。
真面目に、真摯に、言葉を選んで伝えるべきなんじゃないか?
……いや、しかしだ!
目の前には、薄手のタオル一枚を身に纏い、上目遣いで俺を真剣に見つめてくるめぐみんがいるという事実。
湯気でしっとりと濡れた黒髪、細い肩、呼吸に合わせてかすかに上下する胸元……。
男として、この状況で欲望を一切差し挟まずに真面目な話だけをするなんてことが可能なのか!?
否、断じて否だ!
少なくとも俺という凡夫には到底不可能な芸芸当だ!
くっ……!
真面目な話をするべきなのか、それともこの千載一遇のシチュエーションに乗じて欲望を優先するべきなのか……!?
「カズマ? 何をブツブツと独り言を言っているのですか? 早く教えてください、お姉さんは――」
「あーーーもう! そもそも寒いんだよ!!」
俺の頭の中で、葛藤と欲望と罪悪感と寒さが複雑にこんがらがって、ついに思考回路が完全にショートした。
「全裸の俺と、タオル一枚のめぐみん。この状態でシリアスな話なんてできるかってんだ!」
「あの、いざそう状況を言われると少し恥ずかしさがこみ上げてくるのですが」
「寒さで歯の根が合わなくなってきたし、脳みそがパニックでどうにかなりそうだ! というわけで風呂に入ろう!」
「は、はい!?」
混乱が極致に達した俺は、ひとつの素晴らしい折衷案に辿り着いた。
少なくとも、今の俺はそれが最適だと思った。
「いいかめぐみん! とりあえずここは寒すぎるし、だからといって脱衣所も寒い! 一回湯船に入って、体を温めて落ち着いてから話そう!」
「な、何を言っているのですかカズマ!? なぜ私とカズマが一緒に風呂に入らなければならないのですか!?」
「風邪引いたらどうすんだ。回復魔法じゃ風邪は治んないんだぞ。これからウォルバクさんを追いかけるにしても、体調管理は重要だろう、そうに決まってる!」
「た、確かにそうですね……いや、でもしかし……」
「いいから来いって! 温まらないと冷静な判断ができないんだよ!」
「ちょお!? や、やめてくださいカズマ! 引っ張らないでください! タオルが、タオルが脱げ――入ります! 入るので――入ると言ってるでしょう!? や、やめ、ヤメローーっ!」
決して下心からではない!
いや、下心がゼロと言えば嘘になるが、8割は混乱と寒さのせいだ!
とにかく温泉に入れば万事解決するはずなんだ!
と、そのとき――強い衝撃が頬のあたりに。
その衝撃で俺の身体は水切りのように温泉の上を数回バウンドし、やがて沈んだ。
「カズマさん、最低……」
「まったくよ。朝から何やってるのよこの引きニートは。罰として今日の朝食のソーセージは私が二本食べるわね」
「ふぅ……間一髪だったな、めぐみん。怪我はなかったか? ……安心しろ、このクズは私が湯底に沈めておく」
視界が暗転する直前、俺の耳に届いたのは、浴槽の縁から俺を見下ろす三人の冷酷な声。
弁明の言葉は泡となって湯の中に消え去り、俺の意識はそのままプツリと断絶した。
浮力によってぷかぷかと湯船の表面を漂う俺の体は、まるで温泉に浮かぶ哀れな藻屑そのものだったという。
「カズマさん……」
「……はい」
「…………その、こんなしょうもないことで死なないでください」
「いや、これには深いわけが――!!」
このすば!!
最近忙しいので投稿頻度が減りそうです。原作小説1巻分を1章として、どこまで書こうかという…
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第6章(現在の章)
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第7章
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第8章
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リメイクしてテンポよく進める