フィギュアスケートというスポーツ、あるいは芸術がある。光を反射する冷たい銀盤の上で靴の底についたたった二つのブレードを頼りに冷たい氷の上を滑走し、跳んで、最終的な点数を競い合う競技、らしい。ちなみに今のは俺の目の前にいる同級生からの熱心な説明を俺なりに解釈したものである。
放課後、帰ろうと席を立つ前にと耳に骨伝導の無線イヤホンをかけて自作の音楽を再生、いい出来だという軽い自画自賛を10秒ほどではたと気づく。イヤホンじゃなくてスマホから音鳴ってるじゃねえか、と。
慌ててポケットの中で景気よくなり続けるスマホを取り出して音楽を止めようとする。けど、その手は止まる。周りのクラスメイト達はよくあるよなあ見たいな感じで教室を出ていくけど、俺は物理的に止められた手と、止めてきた相手を交互に見るしかない。
しん、と打ち込みのバイオリンの最後の音が消えたのを見計らって掴まれた手とは逆の手でようやく鳴り響いていた曲を止めて、俺の手を握っている相手を見る。振り払うこともできなくはなかったんだけど……あまりにも、あまりにも鬼気迫る表情で一音も逃すまいと耳をそばだてていたから何も言えなかった。しかも、相手が相手だったから。
きれいな茶色の髪の毛、おでこの右上で編み上げている髪型、まあるい瞳に整った顔立ち……名前は結束いのりさんだったっけ。まるでクラスの最上位層にいるみたいな紹介をしてしまったけど実際はそうじゃない。どちらかといえば目立たないようにしているイメージだしクラスの子たちもうっすら「できない子」扱いしている女の子だ。
「どうした?結束さん?おーい」
「……この曲……はわっ!?あわわわ……」
「え、なになに?」
「だ、だめ、聞かないと……この曲、なんていうの?」
「名前?ないよ。俺が作った俺しか聞かない俺の曲だもん。番号はふってあるけど」
さっきまでのまるで獣みたいな顔つきから一転していきなりものすごく慌てだした。その姿にいつもの結束さんだ、と謎の安心感を覚えるけどクラスメイトと話したりしているところを見たことないから急に話しかけてきたのにはすごくびっくりした。
「作った、の?」
「そうだよ。俺将来音楽で食べてくって決めてるから。確かにお気に入りの一つだけど……それで、何か用?」
「す、すごい……あ、あの……フィギュアスケートって、知ってる……?」
ここで話は冒頭に戻る。すっかり誰もいなくなった教室の中でフィギュアスケートについて知らないと話した俺に対して結束さんは熱弁してくれた。好きなんだなあ、というのがよくわかる説明で俺は所々脳内でこういうことなんだろうと補完しながら聞き終えたわけなんだけど……。
「オッケー、結束さんがフィギュアスケートが大好きなのはわかった。それとこれ、なんか関係あるの?」
「……2ヶ月後に大会に出るんだ。その時のプログラム……えっと、演技で今の曲、つかいたいな、って」
「……マジでいってるのそれ?」
「う、うん!マジ!」
結束さんがフィギュアスケートの選手だった、のはまあやっててもおかしくない熱量だったのでいいとしても演技で俺の曲を使いたいっていうのは度肝を抜かれた。だって一回しか聞いていないわけなんだから、いきなりそれで演技しようっていうのはおかしな話だ。
でも、千載一遇のチャンスではある。俺は将来音楽で生活すると決めている。作曲家の父さんのように、バイオリニストの母さんのように。つまり、これはお仕事の依頼ってことになる……俺の中では。でも、俺が作った曲でいいのかっていうのは不安になるところだ。俺は、プロじゃないから。
「俺さ、フィギュアスケート全然知らないんだ。だから、結束さんが俺の曲で演技したいって言ってくれても正直ピンと来てない」
「じゃ、じゃあ……だめ?」
「いや、だめじゃない……というか詳しい話が聞きたい。例えば俺の曲が大会のルール違反だったとかじゃだめでしょ?結束さんより詳しい人……例えば先生とか、いる?」
「いる!司先生っていうの!」
「じゃあ聞きに行こう」
「へ?」
「へ?」
「初めまして、えーと、あけ?……ごほん。司先生でいいですか?」
「えーと、いのりさん……彼、どなた?あ、司先生でいいよ!全然!」
「その……かくかくしかじか……」
「なるほど……ええっ!?君が音楽を作ってるのかい!?すごいじゃないか!」
え、えらい誉めてくれるなこの人……まだ聞かせてもないのに。どこ行けば会える?と結束さんに尋ねるとなんかいつもの教室とは打って変わってテンションが上がった結束さんに名古屋のスケートリンクに案内されて、そこにいた金髪のものすごくおっきい男の人を紹介された。
胸元にある名札の名字が読めなくてやむなく下の名前で呼ばせていただいたが、なんともあっさり許してくれる寛大な人のようだ。結束さんが演技で俺の曲を使いたいという話をするとものすごくオーバーに驚いてくれて、なんだかいい気分になっちゃう。全くよくないんだけど、なんかうれしい。
「初めまして司先生、俺は
「明浦路司です。ルクス東山FSCアシスタントコーチをやっています。早速なんだけどいのりさんが使ってみたいって言っている音楽を聞かせてもらってもいいかな?」
「……実は家族以外に聞かれるの初めてで……あんまり期待しないでほしいんですけど……どうぞ」
前置きに前置きを重ねて俺はスマホからさっき結束さんに聞かれた音楽を再生する。バイオリンの音色から始まり、フルート、ピッコロと重なってアコギのリズムが吹き抜けていくように鳴る、そんな感じの曲だ。イメージは、春から夏に変わりかけている合間の風。全部打ち込みだけど、父さんに完成でいいだろうとはじめて言われた曲だ。
「………………」
「あの~……?」
「はっ!?いや、ごめん!思わず聞き入ったというか……これでいのりさんがプログラムを踊っている姿があまりにも鮮明に浮かんだものだから……」
「そうなんですよ!さっき学校で聞いたときこれだっ!ってピカッってきたんです!だから……おもわず……」
「連れてきてしまったわけだね」
「連れてきてもらいました」
なるほどなるほど、と頷いている司先生とスマホの再生を止める。大興奮で腕をぶんぶん振るっていた結束さんは俺と司先生の視線を受けてしりすぼみに声が小さくなり真っ赤になってしまった。ここに来る前から思っていたんだけど、結束さんってこんなに可愛い子だったんだな。
いつものクラスだと目がずっと下を向いていて、話すと目が合うんだけどどこかこう、弱い感じの印象だった。声もか細くて先生にあてられても大声で返事するわけでもなくあたふたして慌てて結局間違えて余計に沈んでいくとか、そんな感じ。
それが、このスケートリンクに着た途端に生き生きとしだした。瞳は電球なんか目じゃないほどキラキラと輝いて、背がシャンと伸びて、元気なんかいつもの何十倍って感じだ。よっぽどフィギュアスケートが好きなのだろう。
「それでなんですが、この曲を使っていただくことは全くもって問題ないんですけど、俺フィギュアスケートのルールも何も知らないんですよ。何分以内、とか、これ使っちゃダメ、とかあったら編曲もしないといけないので教えてほしいんですけど」
「えっ!?そんなあっさり!?ご両親とかにお話とか……」
「あとで言えばいいです。父さん母さん二人とも音楽家なので仕事をもらえたとでも言えば多分喜んでくれると思いますし」
「そうだったの!?」
「いのりさん、知らなかったのね」
むしろ知らないほうが普通だと思う。俺は別に母みたいにヴァイオリン一本みたいな楽器で行きたいわけじゃないくて、父のように曲を作りたいと思っているんだ。ピアノやギターとかは弾けるだけで弾きこなせるわけじゃないし、作った曲も演奏じゃなく専ら打ち込み。
どっかの楽器コンクールで金賞をとった、とかもないから学校で言ってない以上知らないのが当たり前だと思う。よく遊んでる友達には伝えてるけどね、言いふらしてないだけ。
「というわけで音源は明日にでもお渡しします。お金とかもいりません。ただ、音楽家の見習いの見習いだとしても妥協はしないつもりなので音源をいじくる必要があれば絶対に連絡をください」
「そんなトントン拍子に……いいのかい?」
「むしろ俺の作品でいいのかとは内心ものすごく思ってます!習作でタイトルもないのに!」
「そんな元気よく言い切る!?」
言い切るよ!言い切りますよ!ただ、音楽は聴いてもらわなければならない。たとえひどい失敗作だとしてもその音楽が好きだ、いいんだという人に聞くなとは口が裂けても言えないのだ。だから、求められた以上習作であろうとも出さなくちゃいけない、それが音楽を仕事にするということだって父さんが言ってた。
「それで、せっかくここまで来たので一つ俺からもお願いしたいんですが……」
「え!?なにかな!?やっぱりお金!?そこらへんはクラブの、いや俺のお財布と相談して」
「いやそうじゃなくて!ここに入るのにお小遣いも消費しましたし、俺はフィギュアスケートを知らないと言いました。なので、フィギュアスケートがどういうものなのかを教えてほしいんです。具体的には……」
「具体的には?」
「結束さんが滑ってジャンプする所見せてください」
「えっ!?ええ~~~~~~~っ!?」
いきなり自分に話が飛んだ結束さんが大声で驚く、今日何度目かの大声に珍しさを感じなくなったんだけど周りは違ったみたいで周りにいた人たちの視線が集まって学校の時のように俯いてしまう。
「なんか難しいとかあればいいよ。音源自体は明日渡すから。個人的に自分の曲を使う人がどんなことするのかって知りたいだけ」
「い、いや!やる、やります!見てて律動くん!」
「おお!よく言ったねいのりさん!じゃあシューズ履いてリンクに行こうか!せっかくだし少しレッスンしよう!」
はい!と返事をした結束さんはあわてて持ってきていたバッグからスケートシューズを取り出して履いた。司先生も同じく。カバーを外された銀色の刃の薄さにこれであのうえで滑るのかと少し背筋がゾワッとした。スゲーなー、と思わず素がでてしまいそうになる。
「じゃあ、フォアクロスから始めよう。足を曲げて手を意識して」
はいっという結束さんの声とともにシャァッと音をたてて結束さんが姿勢をキープして両足を入れ替えつつ滑り出した。俺はそれに、聞き惚れた。見惚れたんじゃない、聞き惚れたんだ。その、スケート靴についた刃が氷を滑る音のあまりの美しさに。
カツン、カツン、と細かく刃がぶつかる音もそこから際限なく伸びるロングトーンのような長い音も。イメージが固まる。結束さんがスケート靴を動かすたびになる音が様々な色の音符となって結束さんの体に重なった五線譜に配置されていく。まさに一つの音楽のような光景だった。そんな狂ったものが見えてるのは俺だけみたいだけど。
面白い、面白いぞ。音が違う、当たり前だけどどの滑り方も音が違う、それでいてすべてに捨てどころがない!全部が全部音楽でいうサビのメインをはれる音だ!こんな音を鳴らせる同級生が俺の曲を使って滑るって!?俺の曲でいいのか!?もっといいものはたくさんあるんだぞ!?
「じゃあ、次は一回転のトウループをやってみよう!」
「はいっ!」
トウループ?と俺が首を傾げた途端、シャアッ!とひときわいい音とともに助走をつけた結束さんが踏み切り、刃のつま先を氷にたたきつけるようにして宙を舞った。横に一回転して後ろ向きの片足立ちで着地した結束さんの周りの音符がひときわ輝いたように見える。
手に持ったスマホを握り壊してしまいそうだ。父さんはこの曲を完成と言った。確かに完成したんだ。
こんな美しい音に、いまのこの曲を重ねたら……くすんでしまう。結束さんのシューズが滑る音がただの濁音に、コケコッコーと鳴く鶏の鳴き声に変わってしまう。だめだ、許せない。これを使ったら、大会には絶対に勝てない。
「どうだったかな!?うまくできたと思うんだけど……」
「結束さん、一つ聞きたい。大会まであとどれくらい?」
「え?あと……2か月ないくらい」
「司先生、結束さん……3日ください。3日で今の習作を完成品に持っていきます。多分、今の音源の100倍よくして渡せます」
いきなりの俺の言葉に結束さんは目を白黒とさせ……司先生も面食らったように目を白黒とさせている。さすがは先生と生徒、よく似てる。
主人公
小熊律動
音楽家の両親のもとに生まれた作曲家志望の少年。音を視界にイメージすることができる共感覚の持ち主。実は結束さんとは小学校1年生からずっと同じクラスだが話したことはない、男女差である。美しい音に目がなく、今回のフィギュアスケート観戦で無事脳を焼かれる。個人で出した音の違いを聞き分けられる変態。