次の瞬間、呉秀は硬いガラスのような壁に体を押し付けられていた。
いや、押し付けられているのではなかった。頬と壁のあいだにも、ぬるいものが入り込んでいる。彼は、粘性のある透明な液体で満たされた、巨大な円筒形の容器──試験管の中にいた。
周りには液体しかなく、そのなかに浮いているだけなのに、身動き一つ取れなかった。
呉秀は息をしていた。ダマされているように。
胸がふくらみ、しぼむ。そのたびに喉の奥を、どろりとしたものが通り抜けた。彼は金魚のように口をぱくぱくさせ、試験管の液体を吐き出し、飲み、それをますます体の中へと浸透させていた。
息を止めようとした。胸は勝手にふくらんだ。
(出して……出してくれ……!)
声を出そうとしても、液体は喉の気管から声帯にまで満ちきっており、くぐもった
あのSコーヒーが脳裏によぎった。
いいや、あれを百万倍は非道くした代物だ。飲みたくもないものを飲むのに、胃まで落ちていってくれない。鼻の奥にも、喉にも、胸にも、同じものが詰まっている。
腹部の熱や痛みさえ、今はどこにあるのか分からなかった。そこへ手をやることもできない。いつも腹を押さえていた手は、体の横にだらりと下がり、指の一本も役に立たなかった。
脳の奥深くを、脳幹を綿棒で押さえられているような感覚があった。風邪で高熱を出しているのを、薬で無理矢理ゴマカしているような、あれの一億倍は非道くイヤな感覚だった。
それなのに、意識はたたき起こされていた。目の裏だけが乾いているように張り詰め、まぶたを閉じても、眠る方へと逃げられなかった。
そして、ガラス管の向こう側。
黒い無機質な空間に、それは白目を如実にして、浮遊していた。
巨大な、一つの眼球だった。
幼稚園児ほどの大きさがあった。眼球だけなのに、どこか楕円をしていて、それだけで生きていける未知の生命力をみなぎらせていた。
その瞳が、呉秀を見ていた。
見たことのある形だった。
地下聖堂で、まぶたの裏に浮かび上がった、あの形。円たちの重なり合った集合体と、それが作る細長い六弁の花たち──フラワー・オブ・ライフの模様だった。
その中央に、穴がまっくらに空いていた。
(な、ん……だ……こ、れ……)
呉秀はもがこうとした。体は動かなかった。彼自身には全身をよじったつもりでも、目の前を漂う小さな塵一つ、動かなかった。
巨大な眼球は、ただじっと見ていた。
助けを求める相手が、それしかいなかった。
(出して……おえぇ……出……し……!)
瞳が動いた。
呉秀から少しずれたところへと、その視線が向いた。何を見たのかは分からなかった。呉秀には首を巡らすことさえできない。
眼球は、その視線だけで何かを操作した。
突然、ガラスの向こうが歪んだ。
目を閉じたのではなかった。それなのに、まばたきのあいだに別の景色が入り込んできた。
教室だった。
机と椅子が並んでいた。黒板があった。窓の外には空があり、その窓際の、前から数えていつものところに、呉秀の机があった。
妙に綺麗だった。
廊下側の窓ガラスには罅一つなく、扉にも、壁にも、弾痕がなかった。床に散っていたガラスの粉さえ、綺麗に掃き清められていた。
「呉秀くん、大丈夫?」
京屋ツバキが、目の前に立っていた。
「私が分かる? ここ、学校の教室よ。あなた、立ったままぼんやりしてるのは、いつものことだけど……大丈夫なのかしら。大丈夫? 心配しているのよ?」
呉秀は京屋を見つめた。声が出なかった。
京屋は、いつもの制服姿だった。呉秀の学ランと違って、着ているところを滅多に見せない、学園の制服だった。襟元までぴしりと整え、髪の乱れもなく、彼の目を見て微笑んでいた。
「でも、私がそばにいるから、もう安心して?」
その声があまりに近いので、呉秀は一歩、後ずさった。
後ずさることができた。
床が靴の下にあった。手が動いた。彼は自分の腹を押さえた。
何もなかった。
張っていない。熱くもない。喉元へと何もせり上がってこない。腹の奥で、いつもそこに居座っていたものが、空っぽに無くなっていた。
呉秀は腹へと指を食い込ませた。赤いスウェットが皺になり、その下にはいつもの肉のない腹があった。それなのに。
「なァ……な、なんだ……」
「呉秀くん?」
「はァ?! なんだ、なんなんだこれッツ!?」
声が出た。むせもしなかった。
大声を出したあとで、吐き気が追いついてこない。息を吸い直すと、それは何にもつかえずに胸へと入った。
京屋が彼の手を取った。
「大丈夫よ。ほら、もう苦しくないでしょう?」
「ちがう……! きょ、京屋さん、あれは……
「ここは教室よ。私たちの教室。呉秀くん、落ち着いて?」
京屋は微笑んでいた。
呉秀が腕を引いても、その手を放さなかった。握る力が強いのではなかった。京屋の指のあいだから彼の手を抜こうとすると、抜けるはずの隙間がいつまでもなく、手のひら同士がぴたりと合わさっていた。
「お腹も、もう大丈夫でしょう?」
呉秀は彼女の顔を見た。
京屋は、目を弓なりに細めていた。唇の端を同じ高さに持ち上げ、頬をなめらかにして、まるで写真に写ったまま喋っているようだった。
「大丈夫よ、呉秀くん。もう苦しくないでしょう?」
呉秀は悲鳴を上げた。
声変わりの途中で喉がぶち壊れたような、裏返った声だった。それでも京屋の顔は変わらなかった。
彼は、捕まっていない方の手で京屋の肩を押した。押したつもりだった。京屋がすうっと後ろへ下がった。手が離れた。
呉秀は教室から飛び出した。
廊下には誰もいなかった。
彼は走った。どっちへ走ればいいのかも分からなかったが、少なくとも教室からは離れられる。
「呉秀くん、寂しかったのね?」
背後から京屋の声がした。
「ごめんなさい?」
廊下に生徒たちがあふれかえった。
いつの間にか、すぐ前にも立っていた。男子が、女子が、どこかで見たことのある顔が。みんな呉秀へと笑いかけていた。
呉秀はその一人を突き飛ばした。相手はよろめきもせず、ただ横へとずれた。そこを通り抜け、廊下の果てなら誰もいないはずだと願って、走った。
「助けて!! 助けて!! 母さん!!! 母さァん!!!」
叫んでしまってから、それどころではなくなった。
廊下の先に、栄倉ミヤビが立っていた。
シスター服を着ていた。
その足元には小鳥も、カエルも、ウサギもいなかった。彼女だけが両手をそろえ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
呉秀は彼女を突き飛ばす気で走った。
だが、いつになってもたどり着かなかった。
廊下が延びているのか。走っている気になっているだけなのか。靴音はしていた。走るたびに学ランの裾がもつれ、足に当たっていた。それなのに栄倉は、ずっと同じ大きさで、目の前にいた。
呉秀は立ち止まった。
息切れ一つ、していなかった。
栄倉が一歩ずつ、しっかりと近づいてきた。
彼女は、呉秀の手を取った。
「呉秀さん、大丈夫でしたか? ここ、変な世界ですよね。落ち着いて、一緒に抜け出しましょう?」
呉秀は首を振った。
「お話、聞かせてください。お話、しませんか? 私、お母さんにも、会わせてさし上げますよ?」
首を振り続けた。
彼女の手から自分の手を引き抜こうとして、抜けないのを感じた。手のひらが、ぴたりと合わさっていた。
その背後から、声がした。
「エヘンエヘン……。青一郎、このクルった夢の世界で、私を、君が、自分から思い出してくれるなんて、幸甚きわまりないね」
呉秀は動きを止めた。
「私は君の母親ではないのだがね。どうやらここには、お節介な人たちがずいぶんいるようで。そこで、差し出がましいマネをするようだけれども、本物の私に会いたくはないのかい。思い出しておいてイヤとはいわせない。さっさと帰ってくることだね」
手が自由になっていた。
栄倉がいなくなっていた。廊下にあふれていた生徒たちも、一人残らず消えていた。
「目を覚ましたまえ。地に足着けて話そうじゃないか……もっとも、本物の私に足はないけどね。なっはっはっは」
呉秀は振り返った。
少女が立っていた。
小柄で、長い金髪で、細い碧眼をしていた。口元へと両手を当て、ほくそ笑んでいた。
雲暮コヨだった。
「あ……ああ……」
呉秀は、顔がくしゃくしゃになるのを止められなかった。
自分に呆れた。母親にすがりついておきながら、雲暮のことを思い出すなんて。僕は雲暮に母性を見いだしているということだろうか。そんなことが本人に知れたら、何を言われるか分かったものではない。
雲暮は、彼の顔を見上げ、首を傾けた。
「ふむ。自分で目覚められないならば、仕方がない。つれていってやろうじゃないか。さあ、私の手を取ってくれ。一緒にいってやろう」
「ああ……ありがとう。雲暮」
呉秀は、その手を取った。
ともに歩み出した。
廊下が、いつの間にか校門の前になっていた。
いつまでたっても、そうだった。
呉秀は雲暮と一緒にいた。手をつないで歩いていた。校門の前を歩いていた。いつまでも安心して歩いていた。
腹の中からこみ上げてくるものもなく、いつまでも歩いていた。
京屋に謝らなくてはならない、と思った。
栄倉にも、謝らなくてはならない。あんなに優しくしてくれたのに、なぜ突き飛ばそうとしたのだろう。
雲暮の手は、ぴたりと彼の手に合わさっていた。
校門の外に、人影が見えた。
首のない呉秀青一郎が、立っていた。