首がないだけなのだ。
着ている学ランは、呉秀のものと同じだった。
赤いスウェットも、灰色のジーンズも、くたびれた防水スニーカーも、同じだった。その少年は両手で腹を押さえ、首のないまま、校門の外に立っていた。
呉秀は足を止めようとした。
雲暮は歩いていた。
呉秀も歩いていた。手をつないだまま、同じところを、いつまでも歩いていた。
「雲暮……」
少女は振り向かなかった。
「雲暮、あれ……僕だ。あそこに……」
「大丈夫だよ、青一郎」
彼女は微笑んでいた。
口元に浮かんでいた、あのほくそ笑みのままだった。
「もう苦しくないだろう?」
呉秀は、その手を放そうとした。
指を開こうとした。自分の指がどこにあるのか、分からなかった。手をつないでいる感覚だけが、ぴたりとそこにあった。
首のない少年が、校門から入り込んできた。
歩くたびに学ランの裾が揺れた。片方の靴紐がほどけ、足元を引きずっていた。あれでは踏んで転ぶ、と呉秀は思った。
首の断面は血の赤で満たされていた。その赤いところが、呼吸をするように、ぽこ、ぽこ、と泡立った。
腹が青く光っていた。
両手で押さえている、その指のあいだから、青が漏れていた。
少年が近づいてきた。
呉秀よりも背が高かった。いいや、呉秀は彼を見上げていた。あの少年と同じ背丈のはずなのに、その首のない体を、下から見上げていた。
呉秀は自分の足を見ようとした。
首を曲げられなかった。
足どころか、胸も、肩も、何も見えなかった。
雲暮は、すぐ横で微笑んでいた。
その手が、呉秀の頬に添えられていた。
「さあ、一緒にいこう」
少年が、腹から両手を離した。
その両手を、呉秀へと伸ばした。
雲暮の手は、放してくれなかった。
少年の指が、呉秀の両耳の下へと食い込んだ。親指が頬を押し、残りの指が後頭部へと回り込んだ。
彼自身の手だった。指の付け根の毛を剃った、あの手だった。
ぐい、と持ち上げられた。
校門が下がった。
雲暮の顔が下がった。
その微笑みだけが、どこまでも、呉秀の目を追ってきた。
瞬間、彼の意識は強引に引き戻された。
ガラスだった。
目の前には巨大な試験管の壁があり、満たされた液体があり、その向こう側には、あの眼があった。
呉秀は口を開けた。液体を吸い込んだ。
胸がふくらみ、しぼんだ。喉が、鼻の奥が、甘塩っぱいもので満たされていた。
腹が苦しかった。
戻ってきてしまった。
呉秀は雲暮を探した。
目だけで、ガラスの向こうを探した。黒い空間には、何もなかった。誰もいなかった。あの少女の金の髪も、シロツメクサの髪飾りも、何もなかった。
眼が、彼を見つめていた。
そのブラックホールのような瞳孔が、微かに揺らめいた。
ガラス越しでも分かるほど、眼球の表面が生々しく張り詰め、その白目が、ぐに、とくびれた。
瞳が二つになった。
呉秀は見ていた。
大きな眼球の真ん中にあった瞳が左右へと離れ、そのあいだに白い肉が盛り上がり、眼球そのものが真ん中から引き絞られていった。
ちぎれた。
二つの眼が、横並びに浮かんでいた。
その二つが、今度は上下にくびれた。
四つになった。
四つともに、あの花模様の虹彩があった。
四つともに、まっくらな穴が空いていた。
四つともが呉秀を見ていた。そのすべてが、また、くびれた。
(やめ……)
まるで受精卵が細胞分裂するようだった。
眼は分かれ、増え、互いの白目を押し合いながら、桑の実のような一つの塊になっていった。その粒の一つ一つに瞳があり、すべてが別々にぎょろぎょろ動いた。
それらが、呉秀の顔へと向いた。
彼の腹へと向いた。
動かない両手を、足を、口の中を、見ようとしていた。
興味津々だった。
すべての瞳が輝いていた。
呉秀は、腹の中から吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
吐こうとした。液体が口から出ただけだった。それを胸が、また、吸い込んだ。
誰も手をつないでくれなかった。
プチリ、なにかがちぎれた。
(──あー、あああああああー。あああー。あー──)
呉秀の頭の中が冷え切っているのにボコボコ沸騰して泡だち頭蓋骨の内側の殻へとぽこぽこ音を立ててはじけてボコボコ。ぽこぽこ。
ボコボコ、ぽこぽこ。ボコボコぽこぽこ。ぽこぽこボコボコ。ボコボコぽこぽこ、ぼこぼこぽこぽこ、ぼこぼこぽこぽこ。ぼこぼこぼこぽこぽこぽこ。。。。ぼこぽこぼこぽこぼこぽこぼぽこ。。。。。。。ぼこぼこぼこぽこぽこぽこぼこぼこぼこ。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。……
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
ミツバチのうなるような音が、試験管を激しく振動させた。
眼の塊が動いた。
いくつもの瞳が、いくつもの違う方向へと向いた。ガラスに走った細い亀裂を、呉秀の腹を、彼の顔を、同時に見ていた。
呉秀の輪郭がぶれた。
液体の中で、学ランの黒と、腹の青とが、二重になった。重なり直したかと思えば、今度はわずかにずれた。
ガラスの亀裂が伸びた。
次の瞬間、音がやんだ。
試験管の中には、液体だけが残っていた。
眼は、空になった容器を見ていた。
そのいくつかが、容器の裏側へと回り込んだ。別のいくつかが下を向き、また別のものが上を見た。
呉秀青一郎は、どこにもいなかった。
眼はすべての瞳を見開かせ、あろうことか、らしくもなく、自分の目で──観測機器を使わずに、UFOの外を見た。
地球があった。
青い球体へと白い棺型の構造物が突き刺さり、はるかな昔からそのままに、宇宙へとそびえていた。
その大きな白い構造物は、ここからでも一目で分かった。
だが、探している小さな少年は、宇宙空間のどこにも見当たらなかった。
*
キセノンは、都市の中心へと進もうとしていた。
まだ崩れていない建物があった。その向こうにも、さらに建物があった。窓には明かりがあり、道路には車が詰まり、そのあいだを小さな人影が走っていた。
キセノンの二つの首が、それぞれ別の方へと伸びた。
その四つの目に、新たな獲物たちが映った。
そして、一歩を踏み出そうとしたときだった。
眼前に、それがいた。
音もなく。
衝撃もなく。
すっと。
まるで、ずっと前からそこにそうしているのが当たり前だったかのように、巨大な怪獣が立っていた。
太い二本の足で、大地に立っていた。
頭には、太古の恐竜を思わせるドーム状の隆起があった。だが、その丸いところには、人の脳のような皺が、深く複雑に刻み込まれていた。
太々しい尾が背後へと伸び、その先には厳つい腫瘤があった。
全身が、隆々と、黒い。
その目は、固く閉じられていた。
黒い怪獣は、眠っているかのように、キセノンの前へと仁王立ちしていた。
破壊された都市を背にするキセノンと、いまだ無事な都市を背にする、その怪獣とが、向き合っていた。
黒い怪獣には、腕が四本あった。
左右に二本ずつ、上下に生えていた。その四本ともが、胸の前へと曲げられていた。
下の二本が手のひらを上へと向け、その上から、もう二本が、上下の手が合わせ、胸の前で固く閉じられていた。
キセノンの二つの首が、大きく持ち上がった。
二つの口が開き、黒い怪獣へと雄叫びを浴びせた。
黒い怪獣は、目を開かなかった。