黒い怪獣の現れる前、呉秀が空へ──UFOへと連れ去られた、そのとき。
地上にて。
栄倉ミヤビは、彼の靴の裏を見上げていた。
くたびれたスニーカーが、白い光の中でもがいていた。その向こうで学ランの裾がひるがえり、呉秀の顔が、みるみる遠くなっていった。
「呉秀さん──っ!」
声を張り上げた。彼がこちらを向いたかどうか、もう分からなかった。
隣で、京屋が何か言っていた。
「あ……! なにあれは、ゆ、ユーフォー……。なんで、呉秀くんだけ……」
栄倉は、その手を掴んだ。
京屋は動かなかった。顔を空へ向けたまま、手だけを栄倉に引かれていた。
頭上で、怪獣の首が動いた。
呉秀を引き上げている光を、二つの頭が追っていた。栄倉たちの方を見ていなかった。
「京屋さん、走って!」
栄倉はもう一度、強く引いた。
京屋の足が、ようやく動いた。
最初の一歩はつまずきかけた。栄倉はその手を放さず、二人分の体を引っ張るつもりで、隠し通路の暗がりへと駆け込んだ。
頭上の光が消えた。
栄倉は振り返らなかった。
光が消えたのを、足元に戻った暗さで知った。呉秀がどうなったのか、それを確かめるために振り返れば、足が止まってしまうと思った。
狭い入り口へと、背後から人々が押し寄せてきた。
靴音が重なった。誰かの肩が栄倉の背中へとぶつかり、京屋が壁に手をついた。前へ進もうにも、人がいた。地下聖堂へ戻ったところで、あそこには巨大な腕が落ちている。それでも、その方へ行くしかなかった。
入り口の外で、悲鳴がした。
一つの声が、途中で途切れた。
次に響いたのは、硬いものが砕ける音だった。栄倉は京屋の手を握り直した。握り直した指が、汗で滑った。
通路の天井から、土が降ってきた。
「伏せて!」
誰が叫んだのか分からなかった。
栄倉は京屋の腕を引き、自分も膝を折った。その頭上で岩が割れた。
星が見えた。
さっきまで天井のあったところに、夜空が広がっていた。
遅れて風が押し寄せた。土と小石が顔へと叩きつけられ、栄倉は目をつぶった。体が横へと転がり、京屋の手が、指先だけになった。
放してはいけない。
彼女は両手で、その手を掴み直した。
誰かが栄倉の背を乗り越えた。すぐ近くで大きなものが落ち、地面が跳ねた。京屋が声を上げた。栄倉の頬にも、石の角が掠った。
耳の奥が、きいん、と鳴っていた。
栄倉は目を開けた。
通路が、なくなっていた。
いや、床も壁も残っていた。その上だけが、山肌ごと剥ぎ取られていた。地下へと続くはずの暗がりは、星空の下にさらされた細長い溝になっていた。
その溝に、人が倒れていた。動いている人もいた。動いていたところへと、岩が落ちた人もいた。
栄倉たちは入り口のすぐ脇まで押し戻されていた。
背後には広場があった。草木と、崩れかけた祭壇。その先には、逃げ込めそうな木々があった。
そのすべてへと、影が差した。
怪獣の頭が、降りてきた。
ワニのような長い口だった。
地面へと近づくにつれ、その歯の一本一本が、栄倉の体ほどもあるのが分かった。口の端から糸を引く赤黒いものが垂れ、熱い息が、土埃を地面へと押しつけた。
もう一つの頭も、少し離れたところから近づいていた。
栄倉は立ち上がった。
京屋の手を放した。
「待って……」
自分でも、誰へと言ったのか分からなかった。
動物たちが、話を聞いてくれることがあった。こちらを怖がっているものも、傷ついて噛みつこうとするものも、何を嫌がっているのか、何を欲しがっているのか、それが伝わってくることがあった。
この怪獣にも、それがあるはずだった。
栄倉は、迫る目を見つめた。
青い光が、彼女の体へと滲んだ。
その瞬間、腹が減った。
栄倉は息を止めた。
自分の腹ではなかった。どこまでも大きな、満たされようのない空っぽが、彼女の内側へと流れ込んできた。
怒っていた。
何かを求めていた。それが何なのか、栄倉には分からなかった。ただ、目の前にあるものでは足りない。食べても、食べても、まだ足りない。
青いものが欲しかった。
この小さな、目の前で光っているものも。
栄倉の視界が、ぐりんと回った。
右と左が別々になった。夜空と地面が同時にひっくり返り、膝が抜けた。
背後から、腕が回ってきた。
「栄倉さん……! ちょっと、なに、なにしてるの……!」
京屋の声だった。
栄倉は返事をしようとした。口が開いた。舌が、何を言えばよいのか分からないまま動いた。
京屋が彼女を抱え、後ずさった。
靴の踵が何かに引っかかった。二人の体が傾き、栄倉の片膝が地面を擦った。それでも京屋は放さなかった。
もう何にも掠わせないと言わんばかりに、栄倉の体へと腕を巻きつけていた。
その肩越しに、菩薩が見えた。
蔦の絡んだ、一対の石像だった。
隠し通路の口を挟み、外へと向いて立っていた。片方が輪を掲げ、もう片方も、その手に丸いものを捧げ持っていた。
京屋が、そちらへと足を引きずった。
怪獣の口が開いた。
その歯に、派手な色の布が引っかかっていた。
アロハシャツだった。
「あ、ああ……」
京屋の喉から声が漏れた。
栄倉を抱える腕が、いっそう強くなった。
「助かるわ」
京屋が言った。
石像の足元へと倒れ込み、栄倉も、その腕の中から膝をついた。京屋は石の台座へと手を伸ばした。指先が蔦を掴み、葉を何枚もむしり取った。
「栄倉、もう助かるわ、助かるわよ、栄倉、私、たすかるわ、菩薩さま、守護者さま、助けてくれるわ、しなない、しなないの、わたしたちしなないの!!!」
アハアハアハアハアハアハアハアハ……。
栄倉は、その笑い声を聞いたことがあった。
地下聖堂で、神父様の腕が落ちてきたあとにも、京屋はそう笑っていた。
今、その顔は何も笑っていなかった。
目を見開き、頬を冷えきらせ、口だけを大きく開いていた。地面に座り込んだまま、栄倉の袖を、片手でいつまでも握っていた。
栄倉は這い寄った。
その頭を引き寄せ、自分の膝へとのせた。京屋は逆らわなかった。笑い声だけが、まだ、喉から出ていた。
頭上で、怪獣の息が止まった。
栄倉は顔を上げた。
長い口が、そこにあった。だが、それ以上、近づいてこなかった。
空腹は、まだ伝わってきていた。
怒りも、まだあった。その大きさに触れないよう、栄倉は必死に自分の意識を引き戻していた。
それでも分かった。
その怒りが、何かに触れるたび、鈍く揺らいでいた。
怪獣の目が、菩薩を見ていた。
月を掲げる、その石像を。
月輪は、青と空の色をしていた。
もう一体が持つ日輪には、青と火の色があった。
栄倉は思い出した。
神父様が言っていた。
薬師如来には守人がいる。だから祈るときには、その守人の真言も唱えるのだと。
京屋の頭を抱いたまま、栄倉は唇を動かした。
「オン・センダラ・ハラバヤ・ソワカ」
声が掠れた。
京屋の笑い声に埋もれそうになった。それでも、続きを唱えた。
「オン・ソリヤ・ハラバヤ・ソワカ」
月輪が、青く光った。
栄倉は、その光が自分の指へと差すのを見た。京屋の黒髪が、青く照らされていた。
反対側から、赤い光が重なった。
月光菩薩は目から青い光を涙のように流し、日光菩薩はその顔を無念そうに真っ赤にさせて、涙をのんだ。彼らのもつ日輪と月輪が、赤く青く輝いているのだ。
怪獣と、対峙していた。
怪獣の頭が跳ね上がった。
二つの首が、互いにもつれるほど激しくうねった。怒りが、空腹が、栄倉の中から遠ざかった。代わりに、一瞬だけ、ひどく静かなものが触れた。
怪獣はそれを振り払うように、吠えた。
翼が広がった。
栄倉は京屋を抱き込み、石像の足元へと体を縮めた。
風が広場を剥いでいった。草がちぎれ、石が転がり、祭壇の上に積もっていた土が、夜空へと巻き上がった。
その風の向こうへ、キセノンが飛び去った。
まだ明かりの残る都市へ。
学園のある方へ。
栄倉は、すぐには顔を上げられなかった。
腕の中で、京屋が息を吸った。
笑い声が途切れた。もう一度、吸った。今度は喉がひくつき、鼻から、潰れたような音が出た。
「……栄倉」
栄倉は、彼女の背へと手を当てた。
「ええ」
「栄倉……」
「ここにいます」
京屋が、栄倉の胸元へと顔を押しつけた。
両手が背中へと回り、服を握った。さっきまで笑っていた口から、子供がぐずるような、言葉にならない声が漏れ始めた。
栄倉はその背を抱き留めながら、ようやく、都市の方を見た。
キセノンが地上へと降りていた。
崩れた街の向こう、まだ壊れていない建物たちの前へと、その巨体を下ろしていた。
その行く手に、黒いものが立っていた。
さっきまでは、なかった。
栄倉は瞬きをした。
それでも、そこにいた。
キセノンの二つの首が持ち上がり、その黒いものへと吠えかかった。
栄倉の腕の中で、京屋の肩がびくりと跳ねた。
栄倉は、彼女を抱く腕に力を込めた。