駐在事務所の明かりは薄藍に沈み、紙とインクの匂いだけがやけに濃く感じられた。区画地図の上に、Chariotが赤いインクで印を付ける。そこだけが血痕のように滲み、見る者の神経をささくれの様に刺す。
「ダムストリートの一〇九番、二十時。集会か何かだろうね」
Outcastが暗号帳の頁を閉じ、手短に要点だけを口にする。
「ズレが無ければ、30分前には始まっている所か」
「ああ。我々が今これに気付いたという事は、駐屯軍はもっと早く察知している筈だよ」
「……穏当に済めばいいが。オリバー、その机をこっちに寄せてくれ。フレッドはもう一枚……もう少し縮尺の大きい地図を」
即座に引っ張り出された別の地図を机に敷き、Chariotのペンが幾つかの道を同様になぞった。移動都市の外郭からターラー人地区に向かって、地を這う蛇のように捻じくれた十余本の道筋がガリガリと刻まれていく。
「仮に外部から集団が侵入しターラー人たちと合流するのなら、使用出来るルートはこの辺りになる。他は増加する人員を制御しながら進行するには猥雑だ」
「大通りに沿う形か」
「最終的にはそうだ。内部に入り込めば入り込むほどそうさぜるを得ない」
オリバーの相槌に対し、いつも通りの無表情でペン先が地区を囲うように巡らされた道路を薙ぐ。
「逆に路地を使って、これらのルートに当たらないようこの道路に向かえば、避難は比較的簡単に済む」
「軍用の搬入口から入り込まれた場合は?」
「そんな事態が起こるならどう足掻こうがこの街は陥落する、考慮するだけ無駄だ」
ロドスの対応は常に利益の追求と理念の貫徹であり、昨年起こったような紛争の解決は副次的なものに過ぎない。言外にそう言い捨ててから、Chariotはふと場都合の悪そうな顔をした。数秒の間虚空を見つめてから、何かを払うようにかぶりを振る。
「どうした?」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
「ジェニーの事か?」
「何故そうなる」
図星だった。既に見限った古巣とは言え、仮にも現役の兵士の前で散々『信用出来ない』という旨の発言を繰り返した事が記憶に新しい(実際彼女を帰らせてから十五分程度しか経過していない)が、あからさまに配慮に欠けていなかっただろうか。
「まあ、彼女が事情を知っているから仕方ないとは言え、仮にも兵士を我々の業務に巻き込みかけたのは良くなかったね。確かに」
「……面目無い、反省している」
Outcastの指摘は尤もだった。状況の緊迫感に呑まれたとはいえ、まだ何も起きていない段階での判断としては、あまりに性急だった。時間は刻一刻と過ぎていくが、それが必ずしも味方をするとは限らない――そうした当たり前の事実を、Chariotは己の判断から逆照射されたように思えた。
その時だった。ドアが勢いよく開き、冷えた夜風を引き連れた影が一人、事務所に飛び込む。
「シュレッダー、戻ったか」
「ああ、だが、きな臭い事になってきた」
強張った声に、事務所の空気が一瞬にして張り詰める。続こうとする言葉を千切る悲鳴が窓の外から耳に届き、事務所の外に微かに見えたのは、夜の帳を照らして空へと舞い上がる小さな火の手だった。
「駐屯軍にターラー人地区が囲まれてる。完全な包囲態勢だ、いつもの小競り合いとは訳が違う」
「……オリバー」
「分かってる。……現時刻を以てロドスはヒロック群における通常業務全てを停止する。フレッド、ウィルに再度連絡を頼む」
「了解しました!」
「シュレッダーはそのまま報告、済んだら少し休め。ChariotとOutcastは装備の点検を、混乱が広がるようなら……」
オリバーがグローブ越しの指で机をタップする。地図の上で地区外輪をなぞった線は僅か数秒でそれが意味する所を変えていた。避難路として示していた筈のそれは、シュレッダーが報告に挙げていく封鎖予定ラインと皮肉なほどに重なり、鼠返しめいた障壁として映る。
「状況把握の為、地区に入り込んで貰う」
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身体を締め上げるように取り付けられたベルトと、背に圧し掛かる金属塊の重みが神経を尖らせる。目深に被り込んだフードの奥で眇められ憤慨に燃えるChariotの双眸を覗き込むのは、煉瓦壁に凭れ掛かっていたOutcastだった。テンガロンハットの
「盾まで持っていくのかい?」
「既に火が上がっている、有るに越した事は無い」
確認のように見えて、その裏にある意図は明確だった。コートに隠して腰に佩いた長剣とは違い、背にしがみ付いた大盾は____アッシュグレーの布に覆われているとはいえ____異様なほどに物々しいシルエットを象っている。
「懸念は俺にもあるが、既に天秤にかけた」
「……そうか。それなら私から言う事は無い」
『業務』の主目的は連絡が途絶えた
これだけの行動を起こした以上、街の緊張は限りなく破局に近付くだろう。それでもChariotがその盾を固持するのは、ある意味に於いて駐屯軍を信頼しているから。
(複数の地区に跨っての大規模な集団行動なら、まず間違いなく必ず目的を達成するつもりで行われている筈だ。それなら、俺になど構う暇は無い。まして駐屯軍とは言えヴィクトリアの正規軍、どれ程粗暴な末端であろうと、作戦行動の最中に難癖を付けるような真似だけは)
前傾姿勢での疾駆。耳元に蟠る風音に混ざり、有機物が火に爆ぜるパーカッション、悲鳴怒号の混声コーラス。その全てが、重く鋭く砥がれていく神経を逆撫でする。今は聞かない、聞き届けてはやれない。
「ウィル……何処に行った」
横切る街に、ロドス職員に特有の黒と青のツートンカラーは見当たらない。すわ入れ違いか、或いはOutcastが既に……否、であれば既に連絡が入る。別行動を始めてから既に相応の時間が経過、焦りとコーラスだけがその存在感を大きく膨らませていた。