「貴様ら何を出歩いている!当面の間集会は禁止すると通達した筈だぞ!」
兵士の口からいの一番に怒号が飛ぶ。ここ数日で規制が強められたとは聞いていたが、そもそも全く出歩かずに生活をするなど、慢性的に物資が欠乏する可能性に襲われている彼らには不可能だ。それ以前に、彼らは集会などしていない。当然、彼に対する返答は同じような怒号だった。
「此処は俺達の街だ!お前らの方こそさっさと帰れ!」
「大した用もない癖に!」
街角から、或いは窓越しに痛罵を浴びせられた兵士の顔が益々歪んでいく。何事か怒号を重ねようとした彼のもとに投げ付けられるのは、言葉だけでは無かった。腐りかけた果物や野菜くずが投げ付けられ、鉄色の制服を汚していく。
「貴様ら、この……‶ヴィクトリアスラング‶!ターラーのクズどもが!」
悪臭と屈辱に耐え兼ねたのか、兵士がホルスターからクロスボウを抜き出して構えた。狩猟用・競技用に流通するものとは違う、高い整備性と貫徹力を両立した軍用モデルに特有の無骨な殺意。飛び交う野菜が怯んだように勢いを失う。マウントレールに取り付けられた加速装置で膨らんだ造形から吐き出される矢は、補強されていない住居の壁など簡単に貫いてしまうという事を住民たちは知っているからだ。
あの軍兵の態度を横暴だと非難するのは簡単だ。彼の背景と事情を全て切り捨てて(或いは無視して)、『彼は邪悪であるが故に横暴なのだ』と信じ込めばいい。長く続いた、或いは生まれついての苦境で眼が曇れば、それが出来てしまう。同僚の姿を見かねたのか兵士のもとへ駆け出していくバグパイプの背中を眺めながら、Chariotの思考は静かに、しかし抗えぬ強さで過去へと滑り込んでいた。
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ペニンシュラ群南端。名も無き農村。彼の原点は、その外れにある小さな農園にある。
生まれ育った村は、五十人にも満たぬ住民が互いを家族のように支え合う場所だった。舗装されていない土の道、麦穂と風の音だけが静寂を破る。父は村の夜を守る自警団の隊長であり、昼は仲間と共に畑を耕した。母はキャラバンに織物を卸し、作業の傍ら古い詩を語り聞かせてくれた。貪欲と勇敢を冠する二頭の赤き龍の誓い、丘に駆け上がる獅子の群れ、訪れる冬と民に残った疑問。寝物語に母が語ってくれた物語は、今もChariotの胸中にある。
Chariot──レックス・クロウは、その静かな日常の中で、自分が『ヴィーヴル』だと信じて疑わなかった、疑うきっかけさえ無かった。その時はまだ、母の背に隠された翼も炎も、誰にも明かされたことはなかったが故に。
ある晩、父は村の若者を連れ、駐屯軍の新兵と共に夜警に出たまま帰らなかった。翌朝、村の外れで焼かれた死体の群れを見つけたのは村で誰よりも速く駆ける事が出来たレックスであり、カジミエーシュからの移民だという父親の愛刀は美しい刃紋を歪ませ、獣皮の焼ける臭いを残して中程から叩き割られていた。民も兵士も隔てなく積み重なった黒い塊となった光景を見て初めて殺意というものを知った事を、今も鮮明に覚えている。
母は泣かなかった。葬儀を終えても、ただ夜通しかまどの火を絶やさず見つめていた。
駐屯していた小隊長は言った、この事態はこの村全体の血筋に起因する事だと。
「兵士は武器を抜いていなかった、お前も見てきただろう」
「ああ、逆に父さん達は武器を抜いていた、アレは本来兵士だけを狙って奇襲したんだと思う」
「……すまん」
「いい。正直、僕はターラー人がどうとか、そういうのは分からない。母さんですら子供たちに言わなかった事なんだから、知らない方が良いと思ってたんだろ」
村人の半数程がターラー人だというこの村で、駐屯軍も含めて良好な関係を保っている事は奇跡に近いことなのだと退役間近の軍人はレックスに言い聞かせた。村の外では絶えず対立と理不尽が蔓延り、今回のような事件を起こそうとするターラー人の集団もいるのだと。彼らは苦痛と屈辱を糧にして確かに牙を研いでいるのだと。
老いた軍人は部下を殺した者を恨んではいなかった、兵士とはこういうものだと言って悲しんでいた。ただ、そう割り切れる人物ばかりではないという事は、幼いレックスにも容易に理解出来た。彼の話を聞いたからではないが、砕けた父の遺刀を短刀に打直した頃には、レックスが抱いた殺意は決意を燃やす薪に変わっていた。
彼の決定事項はただ一つ、『士官になる』というものだった。母親はそれを拒まなかった。否、拒まなかったどころか、どこか安堵したように彼を送り出した。
「レックス、これは向こうに着いてから開けなさい」
ロンディニウムに発つ日に母から渡された手紙を読んだ最初の感情は困惑。そして、次に浮かんだのは、遠く離れても変わらぬ両親の思慮に対する、深い感謝だった。それから数年は、まだ彼が抱えた炎は燃えていた。成績を競い合った旧友のループスは、決して彼の決意を笑わず、同時に彼は無知であったから、彼は今まさに兵士のクロスボウを下げさせたヴィーヴルのように、
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苛立たし気な兵士の声が遠ざかり、現在に意識が引き戻される。既に兵士はクロスボウを腰に戻していて、その背中だけが視界に映る。代わりに兵士を止めに入ったバグパイプが続けて野菜を投げ付けられ、丁度クロムオレンジの髪にニンジンのヘタを絡ませた所だった。
この地区の住民にとっては、例えそれが自分たちに向けられた武器を取り下げさせてくれた勇気ある人物であっても、彼女がヴィクトリア軍の制服を(バグパイプの衣服には大胆なアレンジが施されていたが)身に纏っていれば敵意と憎悪を向けるに足るのだ。
「そこの人、こっちだよ!」
野菜くず塗れの姿を見かねてChariotが助けに入るよりも先に、聞き覚えのある銀鈴の声が響いた。Chariotからでは姿は見えないが、路地の陰から覗く金糸の毛先には見覚えがあった。驚愕と安堵を半々に、ほぼ無抵抗に投擲を受けるバグパイプの背を押して路地裏に駆け込む。
「気付いてくれて良かった……って、Chariot、どうして君が?」
「巡回中に通りかかった。助かった、ジェーン」
「はあ~……、ベトベトになったべ……。結局ケリー大尉も見失うし、はァ……」
「……とにかく、先に綺麗にしようか。じっとして、今取ってあげる」
バグパイプの身体に付着した汚物をハンカチで払うジェーンは、普段見る略式の制服ではなく、至って普通の衣服に袖を通していた。当然と言えば当然である、駐屯軍の顔たる儀仗兵でも、制服姿で此処の周辺に赴いていては先ほどまでの兵士二人と同じような目に遭うのは容易に想像出来る。
「バグパイプ、彼らを刺激しないように言った理由が分かったか」
「うん、これじゃ幾ら着替えがあっても足りないや」
「この辺りの事情を知らないって事は、新しく派遣されてきた人?」
「そんな感じ、うちはロンディニウムから来たんだ」
「ロンディニウム!いいなあ……!私、まだ一度もロンディニウムに行った事無いんだよね。ヒロック群よりずっと大きな街なんだろうな……」
首都の名を聞いて目を輝かせた友人を制する代わりに大きく咳払いを一つ、捲し立てた事を恥じてか微かに頬を染めたジェニーを一瞬見やってからChariotが続ける。
「まあ、何だ。此処で調べ事があるなら、まずは着替えてくる所から始めた方がいい」
「分かった。ホルンたい……んん、仲間にも伝えておく」
言い淀んだのは、ジェーンの姿に戸惑ったからか、それとも別の何かか。いずれにせよ、バグパイプの口調にはまだ幾ばくかの緊張が残っていた。それでも路地裏に漂っていた空気は、先ほどまでの怒号と投擲が嘘のように、ひとまずの静寂を取り戻している。
ジェーンと協力して汚物を九割方落として、バグパイプは一つ息を吐いて壁にもたれた。ほとんど一言も発さず、二人と路地の入口で視線を往復させていたChariotも、ゆっくりと息を整える。
通りからは、またあのスラング混じりの訛った囁きと、窓枠の揺れる音が届いていた。だが、投石と怒鳴り声が響いていた頃と比べれば、それは波が引いたあとのような、遠く湿ったざわめきに過ぎない。時折風に乗って野菜の腐臭が鼻を掠める。路地の奥で、痩せた雲獣がごみ袋を漁っている音がした。
ふと、バグパイプが小さく尋ねた。
「ねえ、Chariot。この辺りの住民とうちらの仲間って、いつもこんな感じ?」
「それは彼女の方が詳しいだろう、此処の儀仗兵だ」
そうなんだ?とバグパイプに視線を移され、ジェーンは面食らったように瞠目した。数秒の沈黙の後、少し所在なさげに口を開く。
「え、あー、私はあんまり、詳しくは聞かされてないけど、うーん……。少し前までは小競り合いというか、言い合いになるくらいで、間違っても武器を向けたりはしなかった筈。最近は何だか緊迫してるみたいで、それに、兵士を狙った襲撃事件だって何度か」
「……まさか、本当に『亡霊部隊』が……? でも……おかしい、前は兵卒をターゲットにする事なんて殆ど無かった筈……」
その声音には、疑念と戸惑いが綯い交ぜになっていた。誰に話すでもなく、独り言のように放たれたそれに、Chariotとジェーンは眉を僅かに顰めた。彼女はすぐに気付き、慌てて取り繕うように笑みを浮かべる。
「亡霊部隊、って……何かのコードネーム?」
「あっ、ごめんごめん。……気にしないで」
ジェーンが問うと、バグパイプは苦笑まじりに首を振った。
「そういえば、さっきの兵士がここの人に『ターラーのクズ』って」
「あー!ストップ、待って待って!そんな事言ったら駄目、また野菜まみれになっちゃうよ!」
今度は眉を顰める程度では済まなかった。ジェーンが慌てて制止を掛けると、バグパイプは「ありゃ……ごめん、分かったよ」と素直に従い、側頭の角を掻く。話題がこれ以上広がらないように、意図的に迂闊な事を口走ったのかも知れない。
それでも、Chariotの胸に残る感覚は消えない。あの呟きには現実の重みがあった。彼が情報を集める中でも『亡霊のような』襲撃者の符号は幾つかまばらに、しかし決して無視出来ないディテールを持って存在していたが故に。その名が、本当に実在の何かを指すのだとしたら、彼が提唱し、集積した資料を通してOutcastにも共有した危惧は、想定するよりもずっと早く、この街に忍び寄っているのかも知れない。
「えっと、それで…ここの人達って、ヴィクトリア人じゃないの?」
「勿論ヴィクトリア人だよ」
「ええ、どういう事だべ……」
「彼らも、無論ヴィクトリアの人間だ。だが一部の人間は俺達を敢えてそう呼ぶ。詳しい事は、今度時間があれば話そう。それかロンディニウムに戻ってから歴史の教科書でも読み返すと良い」
街の中心から、広場の時計が時を知らせる音が微かに響いた。風が吹き抜け、ジェーンの金糸のような髪が揺れる。黄昏の空は灰色に染まり始めており、月の気配が影法師が横たわる地面からじわじわと立ち上ってくる。腐敗臭は風に浚われていったが、代わりにじっとりと湿った空気が重く滞留し始めていた。日が落ちる。闇が来る。揺れる窓枠が一際大きくぎしぎしと喘いだ。
____『ダブリン』、亡霊の名が、何度もChariotの脳裏に過る。暴風はすぐそこまで迫っているのではないか?そんな疑問を、一人の竜は振り払えずにいた。
【Chariotの印】
黒鉄の刃を備えた小さな曲刀。僅かな赤みを帯びた反射光は、枕元に置くと悪夢を祓うのだという。