十七区____かつては穏やかな住民街だったのであろうその一帯も、今は褪せた色彩を滲ませるばかりだった。午後の陽射しの中に、鉄扉の錆と乾いた石塀のにおいが溶け込み、瓦礫の隙間には労働者たちが落としたタバコの吸い殻がうず高く積まれている。
Chariotはローナンの自宅前で足を止めた。灰色の門扉には小さな赤い手形が複数、塗料で描かれている。ターラー人の子どもたちが残した反抗の印か、それとも何かの合図か。無意識に眉をひそめながら、彼は扉をノックした。
間もなく、扉の向こうから覗くようにしてローナンが現れる。先日より幾らか和らいだ表情だった。だがその目の奥にある純粋な感情だけは、変わらず爛々と燃えている。
「来てくれたか、レックス。中で話そう」
重い扉の軋みが、町の囁きとChariotを隔てる。家の中は思いのほか静かで、整頓され、窓からの光を取り込む室内には数人の若い男たちが屯していた。皆が声を潜めて囁きながら、何かを記した紙を囲んでいた。ローナンが振り返り、軽く彼らに合図する。
「気にしないでくれ、仲間だ」
Chariotは警戒を隠さず、その視線で部屋の空気を測った。青年たちは一様に真っ直ぐ彼を見つめ返してきたが、敵意はなかった。ただ、一点の熱を持つ視線。それはローナンのものと同じ、ささくれた木肌を指でなぞるような感覚を想起させてくる。
「お前が地元の人間でなければ、慈善事業で此処で働いてる訳じゃない事も分かってる。でも……俺たちはお前の事を、もう少し『違う立場』だと信じたいんだ」
ローナンの言葉が静かに部屋に落ちる。その響きが、今朝Outcastが告げた忠告と、ジェーンの揺れる声をリフレインさせた。
『君はその判断を過つほど、もう青くないと信じているよ』
『私はさ……君を頼ってるよ。きっと前から』
記憶が皮膚のすぐ下で疼く。Chariotは一瞬だけ目を閉じ、短く息を吐いた。
「俺が君達の為にしてやれる事は何も無い」
その言葉は肯定でも拒絶でもなく、明確な宣言。ただ、相手の熱を否定せず、自身の立場を守るための、Chariotなりの誠意だった。室内の空気が僅かに揺れる。青年の内一人が紙を畳む音がした。薄暗い室内では記されている内容までは見とめられなかったものの、凡そその紙面が何の為にあるものなのかは見当が付く。
「見せる前で良かったな、ローナン」
「待てよ、まだ話を切り出しても無い」
一人の青年を手で制して振り返ると、ローナンは続けた。
「何も兵士共と正面きって戦って欲しいなんて言わない、ただ案内を頼まれて欲しいだけだ。お前は……確かトランスポーターだろ?」
ローナンの言葉には取り繕ったような気配は無く、ただ純粋にChariotの職務と立場を知った上で、それでも力を貸すだろうと踏んでいる。だが、Chariotはその言葉にすぐには応じず、ただ無言で彼を見つめ返した。
「……違う」
そう一言、低く応じる。
「俺はトランスポーターである前に、ロドス・アイランド製薬の職員だ。俺の職責は協定の通りに薬を届ける事にあり、それは関わる全ての者の利益の為にある」
語調こそ普段通りのそれだったが、その声音には如何ともしがたい堅さが表れていた。それは、誰かに命令されたから動くのではないという彼自身の姿勢の現れでもあった。
「君達が、或いは案内を受ける輩が何をしようとしているか、まだ俺は何も聞いていないし、無理に聞き出そうとも思わない。だが、仮にそれが街や、俺の仲間を危険に晒す火種になるなら……案内一つであっても、関わる訳にはいかない」
ローナンが小さく口を開いたが、反論は言葉にならなかった。その沈黙のなかで、Chariotは続ける。
「無論君達を糾弾するつもりも無いが、その行いが俺や俺の友人に危害を及ぼすなら、俺は止めざるを得ない」
言葉が落ちると同時に、部屋の空気が確かに変わった。青年たちの視線が微かに揺れる、落胆と憤りの気配。青年のひとりが立ち上がった。椅子が軋む音がやけに耳につく。怒りを露わにするわけでもなく、ましてや威嚇的な態度を取るでもない。ただ、視線だけが明確に拒絶の色を滲ませていた。
「つまり、そういうことか」
その一言に、他の青年たちも表情を固くする。無言のまま視線をChariotから外そうとせず、それでも誰一人、口汚く罵ることはしなかった。ただ、そこにははっきりとした『線』が引かれていた。
「期待しすぎた俺たちが馬鹿だったってことだな」
苦笑を交えながら呟いたのは、ローナンだった。怒りというよりも、どこか諦念を滲ませた声音で。Chariotはそれに答えず、じっと彼の言葉を受け止めるように沈黙を守る。
「……レックス、お前の言うことは妥当だよ。きっと正しいんだろう。でもな」
そう言って、ローナンは少しだけ身を乗り出した。その視線の熱は変わらず、だがどこか焦点が合っていない。今ここではなく、遠い何かを見つめているような眼差しだった。
「俺達が自分の為に行動しなかったら、誰が俺達を助けてくれるって言うんだ?」
誰に向けたものでもない、言い聞かせるような言葉。だがそれがChariotの胸の奥に、静かに沈殿していく。
「出ていってくれ」
短く、感情のない声だった。ローナンはそれ以上何も言わず、部屋の隅へと視線を戻した。青年たちは沈黙のまま、誰もChariotを引き止めることはなかった。
扉に向かい、Chariotは一度だけ立ち止まった。振り返らない。視線も声も残さない。けれど、扉を開ける手にわずかに力がこもる。自分の選択が、今眼前で苦境にある、近しいルーツを持つ市民を切り捨てる事を意味すると彼は理解していた。それでも、彼の意志は今ある苦痛を取り除く為に、新たな苦痛を呼び込む事を良しとしなかった。
重い扉が軋み、外の光が差し込む。Chariotの影が路地に溶け、やがてその姿は遠ざかっていった。
路地に出ると、風が頬を撫でた。鉄と埃の匂いを含んだそれは、先ほどの室内に停滞した熱気を洗い流してくれているようにも思えた。Chariotは足を止め、石畳の影を一つ見つめた。それはやけに重く粘ついて、故郷の冷たい泥めいている。
自らの対応が適切であったのか自問は絶えなかったが、答えは出なかった。ローナンたちの視線は、怒りや失望ではなく、ただ諦観に満ちていた。信じた末に拒まれた者が持つ、あの重たい沈黙。あれを受け止めるには、自分の両手はまだ余りに小さく、未熟だった。
一概に扱える正しさなど無い。ローナンの言葉は、彼らが直面する理不尽に対する怒りだ。彼らの行動は、それらに対して尊厳と生命を守る為の反抗に他ならない。対する兵士はどうか?個々人の態度は確かに糾弾されるべきだろう、同時に彼らの危惧も状況を鑑みれば当然の帰結でもある。とどのつまりゼロサムゲームの様相だった。市民と兵士、ターラー人とヴィクトリア市民の利益は容易に相反する。
そう考えていたから、手を差し伸べるのではなく、線を引き踏み止まる選択をした。それが「間違いでない」と言い切れる程自信家でなくとも。だが、自分の中の誰か――かつて師と呼んだ男の背中を、少しだけなぞるようにして、彼は迷いながらも歩を進めることを選んだ。
(思考を止めるな、最善を模索し続けろ)
短く息を吐き、腰に提げた剣に手を伸ばす。
「誰だ」
背中越しに背後に投げかけた声に返答は無い。ただぎらぎらとした、剣呑な敵意だけが迸っていた。風が止む。次の瞬間、石畳を蹴る音が響いた。振り返りざまに、Chariotは一歩下がって身を沈める。刹那、腕を振りかぶって突っ込んできた男の手に握られていた鉄パイプが、風切り音を鳴らして空を切った。
間髪入れず脇から飛び出した男の手には、薄明を裂く鈍い反射光。抜き放った剣の腹で打ち据えれば、くぐもった呻きと共にそれは弾け飛んだ。舗装路に落ちたのは、薄く錆のこびり付いたバタフライナイフ。
「ローナンの仲間か」
「応える義理は無い!」
聞き覚えのない声だった、或いは聴きなれたつもりの囁きに紛れていたものか。口元を覆面で隠した青年――いや、青年と呼ぶにも未熟な目つき。だが、その手に握られたパイプの振りかざし方に迷いはなかった。
「お前が何を考えているのかなんて知らない。だが俺たちは、お前が兵士と話しているのを見たぞ……!」
振り下ろされるパイプを刃の峰で受け止め、Chariotは半身をずらして力を流す。そこへ、もう一人____三人目が飛び込んでくる。
作業用グローブを嵌めた拳の、作法も理合もあったものではないテレフォンパンチ。今度は迎撃するには至らなかった、そうするまでもなく、剣尖を鼻先に突きつければ、三人目はそれを避けようとして……脚をもつれさせて斜に倒れ込んだ。対処は容易、殺傷すら容易いだろう。
「やめろ、君達と事を構えるつもりはない」
「いつも薬を持って来ているのはお前だろ!俺たちに言い寄って何をする気だ!」
取り付く島もない怒鳴り声と共にパイプが振るわれる。肩に担いでの大振りを再び鎬で弾き返して地面を蹴り、罅割れた壁を背負った。二人目は逆手にナイフを拾い上げ、転んでいた三人目は拳を構え直し、鉄パイプの少年はその先をChariotに向けていた。
「もう俺たちはお前らの思い通りになんてならない……!あの人達が、『ダブリン』がターラー人を救ってくれるんだ!お前たちなんて……!」
「……」
殆ど悲鳴のような叫びを鬨の声に代えた彼らの武器が間合に入るよりも先に、Chariotの剣、正確にはその鍔元に埋め込まれた源石が鋭い光を放った。構造変形系及び転化変換系の併用アーツにより、グリップに仕込まれたアルミニウムが粒子へと分解され、刃に剥き出しの鉄芯は大気中の酸素と化合していく。
「なんだ……アーツか!?」
「構うかよ、やっちまえ!」
剣尖が指揮棒のように円を描き、それに従って粒子が刃を伝い……、次の瞬間には、眩い火焔が噴き上がった。
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火焔が静まり、再び路地に風が戻った時には、あたりには焦げた繊維と煤の匂いだけが残されていた。少年たちの前からChariotは姿を消している。テルミットの光で視界を僅かばかり潰し、その間に路地裏に滑り込んでいた。本来武装として使用するには、エネルギーを制御し刃に纏わせ続ける必要があるが、今日に限ってはそれを手放して火焔を放出するだけに止めており、つまるところ、アレには威嚇以上の効力は存在しない。
剣を収め、短く息を吐く。掌にかいた汗が冷たかった。
視界の隅に、飛び散ったバタフライナイフが転がっている。拾い上げようとはしなかった。代わりに、ふと路地の出口に目を向ける。そこには誰もいない。ただ、瓦礫の陰で息を潜めていた気配だけが、まだ周囲の空気に残っていた。
(……聞き覚えのない声だった)
或いは、これまで巡回の途中ですれ違った誰か、薬を手渡してきた誰か、名も知らない少年少女のうちの一人だったかもしれない。Chariotはその可能性を、意識の中で否応なく拾い上げてしまっていた。 見逃していたのだ。この街の片隅で、静かに澱んでいた怒りも、焦りも、絶望も。知っているつもりでいただけだ。
『ダブリン』という名を出した者がいた。ローナンたちが明言を避けていた名前。亡霊のような符号の群れが、もはや影ではなく手の届くところに来ているのだと、Chariotは初めて実感をもって理解した。
この街の緊張は、臨界点に近づいている。
風が吹く。剣先に残る煤を一拭いしながら、思考を続ける。何も変えられなかったのかもしれない。だが見過ごしてきたものを、今度は見逃さない。それだけは、自分に誓える気がした。いずれ、もっと取り返しのつかない火が、街のどこかで上がる。それを誰が止めるのか。その問いだけが、彼の背を押していた。