疎遠になってた元ガキ大将のムチムチポニテ幼馴染との青春を高校生活から書き直す   作:サニキ リオ

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第315話 この現実を生きていく

 ゴンドラの金属がかすかに軋む音が耳に落ちてくる。

 朝日がまだ昇りきらないビルの外壁を、俺はゴム手袋越しの手でゆっくりと触れる。

 ガラス清掃員として働き始めて、もう何年になるだろう。

 高校を卒業してすぐ就職して、転々として、結局ここに行き着いた。

 

 朝の空気は凍えるほど冷たいのに、額には汗が滲んでいた。

 ずっと寝不足が続いている。夜勤のバイトを掛け持ちしているせいで、頭は常にぼんやりしている。

 昨日も三時間しか寝ていない。

 

「……はぁ」

 

 屋上でロープ作業の準備をしていると、ふいに意識が飛びかけた。

 

「やべ――」

 

 次の瞬間、視界がふわりと跳ね、重力に引きずり落とされる感覚だけが鮮明だった。

 地面まで落ちたわけじゃない。屋上の看板上から屋上に落ちただけ。

 それでも、全身を打ち付けた俺が意識を失うのには十分な高さだった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 不思議な夢を見た。

 それは高校時代の夢。実際の高校時代とは違い、通っていた高校は違うし、俺が仲良くなっていた連中も知らない顔ばかりだった。

 

 それに……喧嘩中の妻、藍梨と高校生のときに出会っていた。

 

 藍梨と出会ったのは二十歳を過ぎてからだ。

 居酒屋でおっさんに絡まれている店員の藍梨を助けたことがきっかけだったから、文化祭でナンパされているところを助けたのが出会いなのは微妙にリアルだった。

 

 しかし、楽しい夢の時間はいつまでも続かなかった。

 仲間たちとMVを作り上げ、それを見て感動していたタイミングで意識が覚醒しはじめる。

 

「あー……もうちょっと夢見てたかったなぁ」

 

 目を開けると、薬品の匂いが鼻を刺した。

 白い天井。機械の電子音。

 どう見ても灰色の現実だった。

 

「パパ?」

 

 小さな声。

 視線を横に向けると、娘の月那(るな)がいた。

 小さな手で布団をぎゅっと掴んで、泣きそうな顔で俺を見ている。

 

「月那……泣くなよ。パパは大丈夫だ」

 

 笑おうとしたが、足が痛んで顔が歪む。

 

「だって、パパ……高いところから落ちたって……!」

 

 ぽろぽろ涙をこぼす娘に、胸がぎゅっと締めつけられた。

 守らなきゃいけない存在にこんな顔をさせてしまった。

 この子だけは、絶対に不幸にしたくないのに。

 

「ごめんな、月那」

 

 そっと頭を撫でる。

 月那は小さく頷き、涙を拭った。

 そのとき、ノックの音がして扉が少し開く。

 

「あの」

 

 顔を覗かせたのは、喧嘩して実家に帰っていた妻の藍梨だった。

 

「その、あなた……怪我は大丈夫?」

「この通り。しばらく仕事は休みだな」

 

 まあ、うちのガラス清掃会社は保険やその辺に関しては手厚い。

 社員は業務方で死んだ魚の目をしていたりするが、バイトは好待遇だったりする。

 

「一応、月那の塾の送迎は姉ちゃんに頼んでるけど、しばらくは一人にしちゃうだろうな」

「ママ。まだ帰ってこないの?」

「うっ……」

 

 泣きそうな顔をする月那に、藍梨はバツの悪そうな表情を浮かべる。

 

「俺としても姉ちゃんに頼りすぎるのはよくないと思うし、月那を一人にするわけにもいかないと思う。だから、すまん。納得できないかもしれないが、帰ってきてくれないか」

 

 身体が動かないから頭を下げられないが、心からの言葉を藍梨へと伝える。

 

「正直、一人で家族を養うこともできない安月給のフリーターで申し訳ないとは思っている。それでも、俺は藍梨や月那と一緒に生きていきたい――それが今の俺にとって、一番やりたいことなんだ」

「隆盛君……」

 

 藍梨はしばらく黙っていたが、肩の力を抜いて笑顔を浮かべた。

 

「あのねぇ。今の時代夫婦共働きが当たり前だから」

「へ?」

「変なとこでプライド高いんだよね、隆盛君。別に私も働いてるし……まあ、家事はもうちょっと手伝ってほしいけど」

 

 つい先日、もう限界という様子で出て行ったとは思えないくらい穏やかな表情だった。藍梨も俺たちと距離を置いたことで冷静になれたということなのだろうか。

 

「月那。心配かけてごめんね。ママ、今日から帰るから」

「ホント!?」

「本当よ。パパが治ったら一緒に遊園地いこっか」

「うん!」

 

 とにもかくにも、妻が戻ってきてくれるという事実に、俺は胸を撫で下ろした。

 

「あっ、そういえば、さっきお義姉さんと会ったよ」

「姉ちゃんと?」

「リリちゃん、パパが寝てる間に来てたよ」

 

 首を傾げていると、月那が説明してくれる。

 なんだ。姉ちゃん来てたのか。

 

「喪服来てたけど、誰か亡くなったの?」

「あー、あれだ。前に会社の部下が亡くなったって行ってたから、墓参りだろ」

 

 定期的に愚痴られてたからな。

 田中って社員だっけか。

 姉ちゃんは、最後までその社員を見捨てなかった。

 何度失敗しても、向き合って、教え続けていた。

 

 だからこそ、その社員が亡くなったと聞いたとき、姉ちゃんは誰にも見られない場所で泣いていたのかもしれない。

 

 夢の中で見た、高校生の俺。

 仲間と何かを作り、未来へ向かって走っていた俺。

 

 もし、あのとき違う道を選んでいたら。

 

 そんな考えが頭をよぎったが、すぐに振り払う。

 今は、ここだ。

 この現実で、生きていくしかない。

 

 病室の窓の外では、冬の空が静かに広がっていた。

 

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