塹壕帰りの迷宮潜り   作:バショウ科バショウ属

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 ただいま、諸君(生還)


溢流する闇
迷宮事変Ⅰ


 イヌはだめだ。食べられるから。

 ネコはだめだ。耳が良いから。

 ネズミを1番食ってくれたのは、ムカデだった。

 世話がいらないし、何より騒がしくない。

 

 ――差出人不明『塹壕の小さき隣人』より抜粋。

 

※

 

 ネズミは嫌いだ。

 すばしっこいし、汚いし、美味くない。

 何より人間を喰う。

 肉の腐った酸っぱい臭いが充満する塹壕で、転がる死体の傍を動き回る小さな影。

 飛び回るハエの羽音はうるさいが、まだ許せる。

 まるで塹壕の主のように我が物顔で走り回り、食糧どころか人間まで齧るネズミは殺したくなる。

 齧るだけに飽き足らず、病気までうつしてくるから救いようがない。

 今も私の足元を通り抜けていき、かさかさと不快な音を鳴らす。

 

 空を引き裂く重低音――遅れて大地が爆ぜる音。

 

 音というより空気の壁が殴りつけてくる感覚だ。

 ウェストベルクの土を耕すシュトラール軍の準備砲撃、つまり地獄の始まり。

 降り注ぐ鉄の雨が大地を震わす。

 着弾と同時に揺れる塹壕では、土嚢や敷板の上を乾いた土が跳ね回る。

 

「くそくそくそ…!」

「当たるな当たるな」

 

 聞き飽きてしまった悪態と祈りの言葉。

 それを唱える隣人は知らない顔ばかり。

 顔を覚えるのが無駄だと気づくのに1年近く掛かった。

 敷板に転がされた一等兵の死体にネズミが群がり、指先から骨に変えていく。

 持ってる相棒(トレンチガン)で吹き飛ばせたら、さぞ気分が良いだろうな。

 そんなことを考えながら、薄汚いスカベンジャーどもを眺める。

 

 どしん、と震える視界――音が死ぬ。

 

 至近に落ちた砲弾は、あらゆるものを凶器に変える。

 空気は熱と圧力を伴い、四散する破片と土は弾丸のよう。

 ヘルメットから数センチ上を吹き抜けていく死。

 土が降り注いだ塹壕の中には、新鮮な死体が1つ2つ増えている。

 

 ふと、齧りかけの死体を見下ろす――眼窩近くのネズミが小刻みに痙攣していた。

 

 原因は、空っぽの眼窩から伸びる1本の紐。

 いや、蟲だ。

 神経毒で動けなくなったネズミを黙々と食むウェストベルク名物の塹壕百足(トレンチ・ピード)。

 シラミを思い出して毛嫌いする兵士も多いが、私は嫌いじゃない。

 ネズミを1匹でも減らしてくれるなら蟲だろうと歓迎してやる。

 

「着弾がずれた!」

 

 回復した聴覚が頭上を越えていく砲弾の飛翔音を捉える。

 最近のシュトラール軍は同じ場所を1日中撃ってこない。

 どれだけ土を耕しても機関銃も鉄条網も破壊できないと学習したのだ。

 

「ジャガイモ野郎が来るぞ!」

「第2中隊、構え!」

 

 だから、衝撃から立ち直る前に肉弾戦を仕掛けてくる。

 塹壕百足の一人観察会は終わり。

 相棒の放熱板を軽く撫で、こびりついた土を落とす。

 さぁ、仕事の時間だ。

 

※

 

 最悪の夢から目覚めたら、自由がなかった。

 まるで大蛇に巻き付かれてるみたいだ。

 だが、右肩に押し当てられた柔らかな感触は爬虫類にはない。

 硬い床から臭うのは香水、見上げた天井は飾り気のないタイル張り。

 ここが塹壕でもなければ底無迷宮でもない証だ。

 

「すぅ……んぁ……」

 

 耳元で聞こえる安らかな寝息。

 ガキみたいに高い体温がシャツ越しに伝わってくる。

 見るまでもなく、私を拘束しているのは――

 

「あぇりぁ……」

 

 底無迷宮で拾った異形の娘だ。

 口元から涎を垂らし、幸せそうに寝息を立てている。

 微かに漂う石鹸の香りは、風呂に突っ込んだ時の残り香だ。

 ベッドに寝かせたはずだが、いつ床に降りてきた?

 

「起きろ」

「んぅ……」

 

 もごもごと口を動かし、鋭い犬歯が一瞬覗く。

 それでも覚醒には至らず、私を抱き締めたまま動かない。

 散々酷使した相棒(トレンチガン)の分解整備をしたいのだが。

 

「リリ」

 

 名前を呼んだ瞬間、頭上の触角が動いた。

 さては起きてるな?

 

「やっ!」

 

 身体を捩った瞬間、4本の腕と長い尻(・)尾(・)に力が入る。

 大百足(ドレッドノート)そっくりの尻尾に締め上げられ、みしっと骨の軋む音がした。

 

 折られる――いや、その前に窒息する。

 

 小柄な体躯を呪う。

 脂肪の塊に顔を埋めて喜べる感性を、今の私は持ち合わせていない。

 とにかく酸素を求め、異形娘の胸から逃れんと格闘する。

 

「リリ、放せっ」

 

 胸の谷間から顔を出して一言命じれば、ようやく拘束が緩む。

 危うく窒息死するところだった。

 ここまで息が上がったのは、塹壕でシュトラール兵に絞殺されかけた以来だ。

 

「あえりあ?」

 

 息も絶え絶えな私を見つめ、不思議そうに首を傾げるリリ。

 悪意がないのは分かってる。

 怒ったところで仕方ない。

 溜息を飲み込んで、ぼさぼさの頭を撫で回してやる――

 

「アメリア姉さま、起きてる?」

 

 この声は、バルバラだ。

 ドアを控えめに叩く音からは思い遣りが感じられた。

 上体を起こすと触角に頬を軽く叩かれるが、もう甘やかさない。

 

「…おはよう、バルバラ」

 

 声を投げかけると軽やかにドアが開かれ、するりと入り込む金髪碧眼の少女。

 纏った白いナイトガウンから花の優しい香りが漂う。

 

「おはよう、アメリア姉さ……リリちゃん!?」

 

 私の腰に抱き着く異形娘を捉え、青い瞳が見開かれる。

 驚くのも無理はないが、まだデイジー亭は眠っている時間だ。

 声量を下げるようジェスチャーで示すと、バルバラは慌てて口を押さえた。

 

「ベッドに寝かせたはずじゃ…?」

「私もそう記憶してるよ」

 

 昨夜、風呂で船を漕いでいたリリを確かにベッドへ放り込んだ。

 それがどうしてか、掛けたはずのブランケットを跳ね飛ばし、私の隣に転がっている。

 寝相が悪いどころの話じゃない。

 

「んぁ?」

 

 呑気に目を擦っていた異形娘は、入口で硬直しているバルバラに目を向ける。

 しばし見つめ合う両者。

 腰を抱く力が強まり、リリは犬歯を見せて得意げに笑う。

 

「むふぅ」

「むむ……」

 

 口を引き結び、小さく唸るバルバラ。

 何を張り合っているんだ、この2人は。

 

 昨日、顔を合わせたばかりで――いや、排他的になられるより良いか。

 

 地上の常識では測れない代物を多く目にする新興迷宮都市の住人は、異物に対して比(・)較(・)的(・)寛容だ。

 だが、リリの容姿は少しばかり異様に映ったらしい。

 バルバラを除くデイジー亭の娼婦から露骨に距離を取られている。

 

「バルバラ」

「な、なに?」

 

 名前を呼ばれたバルバラは目を瞬かせ、慌てて私に向き直る。

 不満げな顔から一転、ぱっと明るくなる表情。

 忙しいが、それもまた微笑ましい。

 客だけでなく娼婦から人気が高いのも頷ける。

 

「今日は休みだったと思うけど、どうしてここに?」

 

 だからこそ、ここに来るべきじゃない。

 得体の知れない異形娘を連れ込んだ私と関わっていたら、何を言われるか分かったものじゃない。

 できれば、遠ざけておきたかった。

 

「えっと……覚えてない?」

 

 私の問いを受け、微かに表情を曇らせるバルバラ。

 

 何か約束を交わした――まさか、たった一晩で忘れたのか?

 

 おめでたい頭だよ、まったく。

 胸中で膨らむ罪悪感に蓋をして、昨夜の記憶を辿る。

 女将と今後について話した後、後始末を行い、気絶するように寝た。

 それまでに私は何を話した?

 

「今日はリリちゃんの服とか色々揃えに行くって」

 

 後ろ手でドアを閉めたバルバラは、そう言って床に視線を落とす。

 

「それは……」

 

 たしかに私はリリの被服一式を買い揃えると言った。

 だが、それは女将のマドリーンに対してだ。

 

「アメリア姉さまを手伝いたいの」

 

 私が言葉を続けるより先に、バルバラは力強い口調で言い切る。

 窓から射し込む朝日が宝石みたいな青い瞳を輝かせ、意思の強さを伝えてくる。

 正直言って、その申し出はありがたい。

 私は所詮軍人で軍服以外のことは、まるで分からないのだ。

 

「本当に良いの?」

 

 だが、月に1日しかない休日をろ(・)く(・)で(・)な(・)し(・)と過ごさせるのか?

 

「私のやりたいことだから」

 

 バルバラは指輪の着けた右手を胸に当て、静かに目を閉じる。

 

 縛るために与えたんじゃない――喉元まで上がってきた言葉を飲み込む。

 

 無責任な言葉で他人の善意を踏み躙るな。

 そんな権利、私にはない。

 

「…分かったよ」

 

 観念したように溜息を吐き、降参の意を示すため両手を上げる。

 ここで必要なのは、思考の転換だ。

 

「お願いしようかな」

「アメリア姉さま…!」

 

 たった一言で、花が咲くような笑みが返ってくる。

 奥歯を噛み締めることで罪悪感を誤魔化す。

 

「ありがと! 朝食の準備してくるね!」

 

 満面の笑みを浮かべたバルバラは蜂蜜色の髪を靡かせ、来た時よりも軽やかな足取りで立ち去る。

 正当な報酬を渡しているのだから、これを利用しない手はない。

 娼婦の少女を私事に付(・)き(・)合(・)わ(・)せ(・)て(・)い(・)る(・)。

 そういうことにすれば、バルバラは被害者だ。

 

「さて……」

 

 小鳥の囀りが聞こえる室内を見回し、それから腰に抱き着いた異形娘を見下ろす。

 

「ひとまず格好を何とかしないとな」

 

 まだ寝ぼけているリリは一糸纏わぬ姿で、白い肌を晒している。

 最初は嫌がっていた即席のポンチョも、いざ脱がせようとすると抵抗した。

 その結果、縫い合わせの甘かったポンチョは破れ、着せられるものがない。

 どうしたものか。

 

「むふぅ?」

 

 他人事みたいな顔するなよ、お前のことだぞ。

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