ウェストベルクは酷い、とにかく酷い場所だった。
それがどうだ。
見渡す限り泥と水と死体しかなかった荒野が、たった2年で文明的な街になっている!
まるで魔法みたいじゃないか?
――ラッセル・ロドニー二等兵の手記より抜粋。
※
どうかしている。
きっと気が触れてしまったんだろう。
1メートルを進む間に100人の命が消し飛ぶ戦場で。
そうでなければ、前世の――しかも東洋人の男だった記憶など蘇るものか。
本当にどうかしている。
しているのだが、その記憶のおかげで今日まで生き長らえているのも事実。
戦場における基本知識やトラップ射撃の技能は有用だった。
ただ倫理観の高さだけが雑音のようで鬱陶しい。
「どうしたの、アメリア姉さま?」
視界の端で蜂蜜色の髪が揺れ、取留のない思考を中断する。
真っ二つに割ったフライドエッグから目を上げると、宝石みたいな青い目とかち合う。
「なんでもないよ」
花柄の模様に彩られた大部屋に私の声が響く。
質素な造りのテーブルや椅子が並べられているが、周囲に人影はない。
ここは新興迷宮都市の一角にある娼館――デイジー亭の食堂だ。
表通りの喧騒が窓から漏れ聞こえるが、朝の娼館を支配するのは静寂。
言葉を交えているのは、私と目の前の少女くらいだ。
「あと、バルバラ……私は姉様じゃないって」
「姉さまは姉さまだよ!」
白いナイトガウンにエプロンという格好の少女――バルバラは元気いっぱいに答えた。
「読み書きを教えてくれる人なんてアメリア姉さまくらいだから!」
花が咲くような笑みが眩しい。
ここが娼館である以上、無邪気に笑っているバルバラも娼婦だ。
学校に通えない貧困層の出身で、綺麗な服と美味しい食事に憧れた少女の1人――
「新聞は読めるようになった?」
心の片隅から同情を蹴り出す。
そんな傲慢が許されるのは、バルバラの人生全てを買い取れる奴だけだ。
少なくとも私じゃない。
「うーん、まだ難しいかも」
テーブルの隅に置かれた新聞を見遣り、困ったように微笑むバルバラ。
続けることに意味がある、そんな安っぽい言葉ごとフライドエッグを頬張って咀嚼する。
やっぱり卵は塩だけでも美味い。
「あ、アメリア姉さま!」
「んぅ?」
両手を合わせて目を輝かせるバルバラに、視線だけで言葉の先を促す。
齧った黒パンが思ったよりも硬かった。
歯が折れそう。
「これ、ほんとに貰っていいの?」
そっと開かれた白い掌には、見覚えのある銀の輝きがあった。
「あぁ……うん」
昨日の探索で回収した指輪の1つ。
ただの結婚指輪だが、持ち主を判別できる名は無し。
回収を断られ、どう処分しようか悩んでいた戦争遺品だ。
「別に捨ててもいいよ」
「捨てないよ!」
テーブルから身を乗り出したバルバラは食い気味に否定してくる。
心意気は嬉しいが、その大事そうに握っている指輪は拾い物だ。
「ただ、その……いつも貰ってばかりだから」
「気にしなくていいのに」
「姉さま、お客さんの誰よりもプレゼント多いよ…?」
おずおずと椅子に戻り、ばつが悪そうにするバルバラ。
「朝食を作ってもらってるからね。正当な報酬…あむ」
黒パンを千切り、オニオンスープに突っ込んでから口に運ぶ。
娼婦は商売道具のドレスや化粧品に給金を使わされ、ほとんど手元に残らない。
だから、女将に叱られない範疇で日用品をバルバラに買い与えていた。
「それくらい――」
「大事なことだよ」
女将にも文句は言わせない。
デイジー亭の娼婦は午前11時に起こされるが、バルバラは午前8時に起きている。
朝食を出すために、貴重な睡眠時間を削っているのだ。
「でも、姉さまは悪いお客さんを追い払ってくれてるし」
青い目が椅子の横に立てかけた
娼館に来る客の多くが迷宮に潜る
だから、軍が管理していない娼館は私みたいな番犬を雇う。
「それがデイジー亭に置いてもらえる条件だからね」
対価は、個室一つと風呂の入浴権。
雨風を凌げる場所で休める上、風呂にも入れるなんて破格の条件だ。
文句のつけようがない。
オニオンスープが冷めないうちに飲み干し、朝食を残さず平らげる。
うん、程よい満腹感だ。
「だから、気にせず貰っておくこと」
空になった食器をテーブルの脇に寄せ、バルバラの鼻先に指を突きつける。
これくらい欲張ったところで罰は当たらないだろう。
「うん……分かった」
「素直でよろしい」
ぎゅっと胸元で抱くバルバラは見るからに嬉しそうだった。
それほどの価値があるとは思えないが、野暮は言うまい。
尻尾があれば振っていそうな少女を横目に席を立つ。
「姉さまは今日も迷宮?」
「もちろん」
食うために潜る、食うために殺す。
それが今の私。
椅子に掛けたランタンとガスマスクバッグを取り、手早く身に着ける。
どちらも迷宮を潜る上での必需品だ。
「開店までには戻るから」
「いつも通りだね」
デイジー亭の開店は午後6時以降、それまでに引き上げる。
ハバーサックを背負ってからヘルメットを被り、最後にトレンチガンを持つ。
ずっしりと重く、ウォールナット製の銃床が手によく馴染む。
「いってらっしゃい、アメリア姉さま!」
ふわりと白のナイトガウンが揺れ、微かに花の香りが漂う。
傍らに立ったバルバラをヘルメットの下から見上げる。
栄養失調気味だった私より健やかに育っていると実感できて、この身長差は嫌いじゃない。
「行ってくるよ」
いつも見送ってくれる少女に、いつも通りの挨拶を返す。
私は、この生活が気に入っている。
※
まるで女の泣き声みたいな風切り音が響く。
私の眼前には、直径200メートルという大穴が口を開けている。
ブリタニア海軍の巡洋戦艦がすっぽり収まるスケールだ。
誰も辿り着いたことがない穴底は霧と闇で二重で隠され、地上から見通すことはできない。
このウェストベルク迷宮が底無迷宮と呼ばれる所以の一つだ。
「こいつを見てくれ、マーカス!」
「ほぅ、こりゃ
「おい、早く退けろ! こっちには負傷者がいるんだぞ!」
「あ、あぁ……モルヒネを……」
大穴の側壁に沿って設けられた階段は本日も同業者で大混雑中。
成功した者、失敗した者、その区別なく必ず通らなければならない道だ。
その床板には、すっかり血と硝煙の臭いが染み付いている。
「伍長、今日も
混雑が解消されるまで土嚢に腰掛けていると横合いから声をかけられた。
私を伍長と呼ぶ人間は、そう多くない。
視界の端に入るベージュ色の生地は、ブリタニア軍の制服のもの。
「ライオネル少尉」
塹壕を一緒に這いずり回った
その鋭い眼光は古巣のノーフォーク連隊にいた頃から変わらない。
「……そっちの方が気楽なので」
「気楽か」
無責任な言葉を吐けば、少尉の頭上で狐そっくりの耳が揺れる。
獣人種――初めて見た時は驚いたが、さすがに見慣れた。
黒色人種や黄色人種と同じだ。
差別も区別もあるくらいには、ありふれている。
「そんなことを言えるのは伍長くらいだろうな」
そう言って苦笑するライオネル少尉は、大穴の西側を管理するブリタニア軍の士官だ。
同業者ではない。
だから、迷宮に単身挑んで帰ってこないバカを掃いて捨てるほど見ている。
「買い被りですよ」
明日は我が身だ。
これまで上手く行っていただけで、今日が命日かもしれない。
「上手くやれると言う者に限って帰ってこない。帰ってきても二度はない」
運び出される負傷者を眺めながら、少尉は淡々と語る。
「次の挑戦者へ送る言葉はあるかな、伍長?」
単独で潜るような奴は得てして人の話を聞かない。
そんなことは少尉も分かってる。
これは、ただの世間話だ。
「コンビーフ缶をお守りにするといいですよ」
抱えていた相棒を脇に置き、ハバーサックを軽く叩いてみせる。
「まさか、いつも携行してるのか?」
逆に携行しない理由が?
たんぱく質にビタミンB、鉄分も摂れる上、美味いのだ。
紙袋のビスケットと違って缶詰だから毒ガスが染み込んで泣くこともない。
闇市で軍の放出品を見かけたら必ず買う。
「まぁ……ビスケットやマカノッチーより断然良いな」
「マカノッチーも加熱すれば、まだ食えますよ」
「正気か、伍長」
鋭さを増す眼光に思わず吹き出しそうになった。
少尉の言いたいことは分かる。
マカノッチーは牛肉、ジャガイモ、豆、その他野菜を詰め込んだシチューの缶詰で、とにかく不味い。
そして、酷い悪臭がする。
本来は30分ほど湯煎するらしいが、それが簡単にできない戦場では最悪の代物だった。
「あのシュトラール軍ですらマカノッチーは粗悪なゴミと言っているんだぞ」
「おがくずパンと良い勝負だろうに」
「それは……そうだな、うん」
なんとも言えない表情を浮かべる少尉と揃って東へ視線を投げる。
大穴の東側を管理しているのは、飯が不味いシュトラール軍。
かつての敵も今や底無迷宮と相対する
この迷宮は富以外も吐き出す――竜だったり、蟲だったり。
それを迎え撃つため、大穴を囲む陣地には機関銃が備え付けられ、野砲が青空を睨んでいる。
実に物々しい風景だ。
立っている歩哨は退屈そうにタバコを吹かしているが。
「さて、そろそろ行きます」
いい塩梅に肩から力が抜けたところで、土嚢から腰を上げる。
階段近くの人影は疎らで、押し潰される心配はなさそうだった。
次の団体が来る前に潜るとしよう。
「……これは独り言なんだが」
相棒を肩に担いだところで、不意にライオネル少尉が口を開いた。
迷宮の出入口を管理する軍は耳が早い。
そして――
「スカベンジャーが5番坑道に出たらしい」
独り言に礼は不要だ。
後日、ブリタニア軍にウイスキー1本が誤配されるかもしれないが。
「健闘を祈る」
突撃前によく聞いた声へ片手を振って応じる。
もう敬礼はしない。
耳障りな軋み音のする階段を下り、大穴側壁に開かれた横穴まで向かう。
「スカベンジャー、ね」
久しぶりに聞いたが、つくづく腐肉食動物に失礼だな。
それより的確な呼び方がある。
――
作者「息抜きたのし~!」