毒ガスでも殺すことはできなかった。
死体で埋まった塹壕の中で生きていたんだ。
俺たちの喉元に銃剣を突き立てるために!
あいつは人間じゃない。
悪魔、ウェストベルクの赤い悪魔だ!
――差出人不明『私は悪魔を見た』より抜粋。
※
正午の太陽を浴びると、やはり人間の生存圏は地上なのだと実感する。
一歩踏み込めば、床板の軋む音が心なしか大きく聞こえた。
万が一抜けようものなら、底無迷宮の大穴へ真っ逆さま。
今日は少し欲張ったかもしれない。
「本当にいいんですか…?」
後ろに視線を投げれば、不安に揺れる琥珀色の目とかち合う。
「その……これ、僕が持ち帰っていいんですか?」
血痕が残る戦利品へ不安そうに視線を落とすアルフ。
目一杯詰め込んだハバーサックにガスマスクバッグ、改造銃1丁が戦利品だ。
それだけあれば、しばらくは生活に困らないだろう。
「迷宮で腐らせるより拾った方が有用だからな」
私の背負うハバーサックにも戦利品が詰まっている。
勲章、腕時計、認識票、それから悪名高いマカノッチー。
誰も彼も死体になれば宝箱――底無迷宮では当たり前だ。
無価値な死体から価値ある物を剥ぎ、利用する。
今日の連中も欲をかかなければ、もう少し利用する側でいられただろうに。
「でも……」
しかし、アルフは釈然としない様子だった。
何が不満なのやら。
足を止めれば、床板が一際大きな音を立てて軋む。
「どうして僕を――」
「殺さないのかって?」
微かに息を呑む声が聞こえた。
ろくに食事も与えられず、丸腰で迷宮に潜らされた黒毛の獣人種。
殺して何の得がある?
「…死にたいなら私の見えないところで死んでくれ」
気に入らない悪党は殺すが、それ以外は徒労だ。
塹壕の中で嫌というほど殺したのだから、少しくらい選り好みしたっていいだろう。
話は終わりだ。
泥の靴跡が残る階段に足を掛け、大穴の側壁を上る。
とっとと昼餉にありつきたい。
「伍長、今日の仕事は終わりか」
元上官がライフルマン2人を引き連れ、地上で待っていた。
わざわざ出迎えてくれるとは、件のスカベンジャーは中々の問題児だったらしい。
「手早く片付きました」
鋭い眼光に軽く手を振って応じ、それからハバーサックに突っ込む。
目当ての物を渡して早々に退散しよう。
「これを」
引っ張り出したアルミ製の板切れが陽を浴びて輝く。
風に揺られる6人分の認識票は、まだ鉄の臭いがする。
「ふむ……」
それを受け取るライオネル少尉の手は、相変わらず小綺麗だった。
とても男の手とは思えない。
認識票の名前を確認した少尉は、ぴくりと狐耳を傾ける。
「手を焼いたのではないか、伍長」
「いえ、特には」
チェスター班くらいの実力なら死闘は免れないが、あの程度では話にならない。
踏んできた場数が違う。
「脱走兵にしては骨のある連中と聞いていたが」
脱走兵という単語には触れず、肩を竦めるだけにしておく。
面倒事はごめんだ。
「せめてライフルを持つべきでしたね」
アルフが持っている戦利品の1つを流し見る。
ライフルの銃身を切り詰めた改造銃は使い勝手が悪い。
精度も速射性も劣悪で、隠し持てるから犯罪者に好まれているだけ。
迷宮は接近戦になりやすいが、それでも得物は選べよ。
「なるほど」
少尉は脇に抱えていた軍帽を被り、鋭い眼光を私の
「それで……そちらの少年は?」
かちり、とライフルの安全装置が回される音。
警戒を通り越して敵意を肌で感じる。
脱走兵が問題を起こしたとなれば、さすがのブリタニア軍も重い腰を上げるか。
だが――
「道中でコボルトに襲われてた
銃の扱いも知らないガキが脱走兵に見えるのか?
「ほう」
2人のライフルマンは露骨に眉を顰めたが、ライオネル少尉は眉一つ動かさなかった。
頭上から降り注ぐ陽光で、じりじりと焼ける肌。
そして、足元から漂う乾いた泥の臭い。
「…そうか」
にわかに張り詰めていた空気が霧散する。
鋭い眼光を封じるように目を閉じ、ゆっくりと背を向ける少尉。
「ご苦労だったな、伍長」
「いえ」
ありがたい労いの言葉を残し、そのまま立ち去っていく。
報酬は受取済――ハバーサック一杯の戦利品に、ブリタニア軍からの信用だ。
特に後者は新興迷宮都市で役に立つ。
大きな問題がなければ、今回みたいに融通を利かせてくれる。
いちいち詰所に行かなくていい。
「アルフ」
「はいっ」
それはそれとして、釘は刺しておく。
トレンチガンから銃剣を取り外し、凍りついていたアルフの鼻先に突きつける。
「長生きしたいなら、
迷宮に潜る他人の事情に興味なんてない。
ただ、こうやって恩着せがましい偽善者の真似事をしないと前世の雑音が喧しいのだ。
倫理観なんて紙屑以下だって分かってるだろうに。
――必死に頷くアルフに免じて今日は許そう。
同業者は話を聞かない奴が圧倒的多数だ。
運が良ければ長生きできるだろうさ。
腰から下げた鞘に銃剣を差し込んで、闇市の方角へと足を向ける。
「あ、アメリアさん!」
言いたいことは言ったから振り返らない。
ブリタニア軍の陣地を囲むバラック街より先、新興迷宮都市だけを見据える。
「ありがとうございました!」
もう会うこともあるまいよ。
適当に手を振り返して、今日の昼餉に思いを馳せる。
※
そこはブリタニア軍ウェールズ師団の管轄区域、ウェストベルク迷宮の出入口。
年齢や性別、人種や宗教、まるで共通項のない者たちが集う混沌の坩堝だ。
今日も血と硝煙の臭いが染みついた
「少尉、彼女は何者なんですか?」
そんな日常風景を横目に、精悍な顔立ちの新任軍曹は上官へ問いかけた。
監視哨に響く声を拾って揺れる狐耳。
しかし、ウェールズ出身の獣人種である少尉は振り返らない。
「脱走兵とはいえ、激戦を潜り抜けてきたANZAC軍団の――」
「ラッセル軍曹は初対面だったか」
新任軍曹の言葉を遮り、ライオネル・ファーロウ少尉は乾いた笑みを零す。
「…ウェストベルクでは有名人だったんだがね」
ヘルメットの下から赤毛と碧眼を覗かせる短躯の女、脱走兵6名を撃ち殺した
「この新興迷宮都市で、でありますか?」
新任軍曹の言葉を耳にして、首を横に振る少尉。
遠き日々を懐かしむように目を細め、胸ポケットに手を伸ばす。
「まだ高地だった頃さ」
ライオネルは2年という歳月を経て、あの地獄と決別した。
ゆえに昔話として休憩の片手間に消費できる。
取り出したタバコ缶から1本抜き、口に咥える。
「聞いたことはないか?」
マッチの火が瞬き、揺蕩う白。
しばしの空白、それから吐息を漏らすように言葉を紡ぐ。
「鮮血のアメリア」
鼻腔を刺す粗悪なタバコの臭いに混じる鉄の臭い。
立ち上る紫煙が日焼けしたテントに当たって渦を巻く。
「ウェストベルクの赤い悪魔…!」
ウェストベルク高地の攻防戦においてシュトラール兵が最も恐れたと言われるブリタニア兵。
騎士道の死んだ戦場にて語られる
「プロパガンダだとばかり……」
「事実だよ。ANZAC軍団なんて可愛いものさ」
これまで幾度と聞いた常套句をライオネルは一蹴した。
紫煙を吸い込めば、タバコの先端が赤々と輝く。
「アメリア・クロウリー伍長――初陣で8人、終戦までに143人のシュトラール兵を殺したウェストベルク高地の英雄」
肺の濁った空気を吐き出し、かつての部下について淡々と語る。
近いようで遠い、そんな疎外感を醸す語り口。
直径200メートルの大穴を見下ろす目は、遥か彼方の闇を映していた。
「いや……英雄ではないか」
「英雄ではない?」
ライオネルが失笑と共に漏らした言葉に、ラッセルは首を傾げる。
個人であれば驚異的な戦果であり、それは英雄と呼ぶに値するだろう。
何故、否定するのか。
「死に損なったのさ」
指に挟んだタバコを弾けば、土嚢に当たって火の粉が舞う。
戦争が終わった時、英雄とは輝きを失うものだ。
功績は罪過に、賞賛は忌避に変わる。
英雄は死なねばならない――戦場で。
そうでなければ現世を彷徨う亡霊となってしまう。
アメリア・クロウリーのように。
「不憫な女だよ」
そう吐き捨て、ライオネルは爪先でタバコを潰す。
重苦しい空気を残したまま、2人のブリタニア兵は監視哨を後にする。
飽きるまで続けるゾ(失踪宣言)