迷宮の掘出物Ⅰ
香水は苦手だ。
デイジー亭での仕事は塹壕の中に比べれば天国みたいなものだが、この臭いだけは慣れない。
これまで女を飾る存在とは長らく無縁だった。
香水の臭いが染み付いたカーテンの陰から店内を見回す。
ここはサロン――娼婦と客が高い酒を飲んで、雑談する場所だ。
ブルジョワ丸出しな装飾過多、ぴかぴかの内装で目に痛い。
綺麗に着飾った娼婦たちは、ここで上客を取るのが仕事だ。
そして、私の仕事は頭と金の足りない客を蹴り出すこと。
「よぉ、アメリア」
聞き覚えのある優男の声が耳に届く。
このサロンで私に声を掛ける物好きは限られる。
どうしようもない
「私は娼婦じゃないぞ、チェスター」
「当たり前だろ……
半眼で私を睨むチェスターは、見慣れたカーキ色の野戦服を着ていない。
少しばかり気取った私服姿、つまり
ほいほいと用心棒の待機場所に来るなよ。
「そもそも、お前が娼婦だとしても守備範囲外だから心配するな」
「少女嗜好者が何か言ってる」
チェスターが頻繁に指名するバルバラは20歳未満だ。
倫理観が紙屑以下の時勢に年齢なんて些細な問題だが、胸を張って言うことじゃない。
「歳じゃねぇんだよ、アメリア。女の魅力を磨いてから出直しな」
そう言ってチェスターは鼻で笑ってくる。
女の魅力なんて心底どうでもいいが、好き放題言わせておくのも面白くない。
腰から下げた銃剣に手を乗せる。
「その高い鼻、もう少し削ったら男前になるよ」
「待て待て、冗談だよ。お可愛いですよ、お嬢さん」
「口も縫った方がいいか」
両手を挙げて降参の意を示すチェスターに近寄り、その腹を銃剣の柄で小突く。
なんてことはない、ただの戯れ合い。
これで娼婦も客も興味を失って、私たちをサロンの風景と見做す。
「それで……愛しのバルバラを差し置いて、何か用?」
ようやく本題に移れるわけだ。
両手を下げた優男の目から軽薄さが抜け、乾き切った兵士の目に戻る。
身長差も相まって一気に威圧感が増す。
「ANZACの脱走兵を殺ったらしいな」
驚くことはない。
迷宮に潜る
しかし――昨日、殺した連中がANZAC出身だったとは。
激戦地に投入されたブリタニア自治領軍の精鋭という話だが、大したことはなかったな。
いや、ガキを餌にするような連中を代表扱いするのは失礼か。
「ただのスカベンジャーだよ」
「なら、それでもいい」
ANZACであることは重要じゃない、と。
チェスターに話を続けるよう視線で促す。
「そいつらを飼ってた連中が、お前のことを血眼になって探してる」
ブリタニア軍の検問を潜り抜ける手引きをした連中がいるのは確信していた。
しかし、そこまでペットにご執心とは思わなかった。
「飼い主は?」
「レッドキャズムだ」
ストリートギャングか。
新興迷宮都市と呼ばれるウェストベルクは連合軍の管理下にあるが、人と物が無秩序に溢れ返っている。
その混沌に乗じて入り込んだのが、犯罪者集団やら反社会的勢力だ。
中でもレッドキャズムは崖っぷちの一派だったはず。
「ほぼ死に体の連中だが、お前の一撃が
「長くないな」
「ああ」
脱走兵でも場末のストリートギャングには貴重な戦力。
大人しく番犬をさせておけば、殺されることもなかったろうに。
明日にでもレッドキャズムは路地裏の染みに変わるだろう。
「明日くらい大人しくしてたらどうだ?」
立派な絨毯の敷かれた床を指差し、やんわりと忠告してくるチェスター。
商売敵の
面倒事を避けるならチェスターの案は正しいが――
「明日の昼餉にありつけない」
「蓄えてるコンビーフ缶は飾りか、おい」
食い扶持を稼げるのに、わざわざ非常食を食うバカはいない。
生きるために食う。
その過程で場末のストリートギャングに殺されるなら、そこまでの話だ。
「はぁ……忠告はしたぞ」
「感謝いたします、お客様」
渋面のチェスターに仰々しく頭を下げ、カーテンの陰からサロンを覗く。
すると、真っ白なテーブルに座る金髪碧眼の少女と目が合った。
ぱっと華の咲くような笑みを浮かべ、小さく手を振ってくる。
「愛しのバルバラが待ってるぞ」
「おっと、こうしちゃいられない」
チェスターはシャツの襟を正し、バルバラの待つテーブルへ足を向けた。
なぜ、そこまで夢中になれるのか。
前世の記憶を辿っても風俗に関する知識が乏しい私には、一生分かることはないだろう。
「またな」
「ああ」
そう言い残し、颯爽と立ち去るチェスターを見送る。
私も仕事に戻るとしよう。
娼館の夜は、まだ明けない。
※
朝の風が吹き込む。
開かれた裏口のドアからは表通りの喧騒が聞こえる。
まだ娼婦たちは寝入っている朝方、彼女は迷宮へと向かう。
洗面器みたいなヘルメットに、カーキ色の軍服を纏い、トレンチガン1丁を携えて。
「いってらっしゃい、アメリア姉さま!」
彼女の名は、アメリア・クロウリー。
底無迷宮に潜る探索者であり、デイジー亭の用心棒である元ブリタニア軍人。
「今日も――」
「開店までに帰る、だよね!」
溌剌としたバルバラの返事に、微かに口元を緩めるアメリア。
目の下の隈は消えず、魅力的とは言い難い不器用な微笑み。
だが、それはバルバラにしか見せない
「行ってくるよ、バルバラ」
裏口から路地の陰へ消える背中は、あまりに華奢。
抱き締めたら折れてしまうのではないかと不安になる。
とても軍人とは思えない。
適当にコボルトを転がして、迷宮の宝を拾って帰る――さも簡単そうに彼女は言う。
しかし、バルバラは知っている。
死と欲望に底が無い迷宮は踏み入った者の命を容易く奪ってしまうことを。
「……無事に帰ってきてね」
金髪碧眼の少女は胸元で手を組み、名も知らぬ神に無事を祈る。
それが日課となってから半年が過ぎようとしていた。
不安を悟らせまいと無邪気に振る舞っているが、こうして1人になると溢れ出してしまう。
そんな彼女の背後から床板の軋む音が響く。
「バルバラ」
名を呼ぶのは、廊下の壁に背を預ける細身の女。
豊かな黒髪が目を引く彼女こそデイジー亭を切り盛りする女将――マドリーン・リースだ。
裏口を睨む三白眼には、ささくれた感情が見え隠れする。
朝方の彼女は不機嫌なことが多い。
「終わったなら部屋に戻りな」
「はい」
触らぬ神に祟りなし。
仕事中でも滅多に聞かない乱暴な声を聞き、バルバラは大人しく従う。
高級娼婦であっても女将に逆らっては生きていけない。
「まったく、朝食だけは食っていくなんてね……忌々しい」
しかし、マドリーンが何気なく漏らした呟きがバルバラの足を止める。
娼館の用心棒として雇っていながら――そういう問題ではない。
命の恩人を、憧れの女性を、悪く言われて聞き流せるほどバルバラは大人ではなかった。
「アメリア姉さまは良い人だよ、ママ」
胸に灯った小さな義憤に従い、少女は口を開く。
大戦の勃発によって女性は社会進出を果たしたが、多くの者は貧困と差別に喘いでいる。
そんな時勢、一人の娼婦を殴り殺そうとした軍人崩れを打ち倒すアメリアの姿は輝いて見えた。
強く、聡く、優しい、憧れの存在だった。
「良い人、ねぇ」
小生意気な娼婦を見下ろす三白眼が細められる。
まるで獲物を睨む肉食獣のようだ。
廊下に静寂が満ち、微かに緊張の色を帯びる空気――
「……いいかい、バルバラ」
長い溜息の後、腕を組んだマドリーンは薄汚れた天井を見上げる。
その声には怒りも嘲りもなく、ただ諭すような落ち着いた響きだけがあった。
「あれは、ただの亡霊さね」
「……生きてるのに?」
女将の言葉が額面通りでないと理解しているが、それでもバルバラは首を傾げざるを得なかった。
手入れされていない赤髪や目の下の隈は不健康に映るが、朝食をリスのように口へ詰め込む様は生き生きとしている。
それは、彼女なりに生を謳歌しているようにしか見えない。
「死に損ないを生きてるとは言わないよ」
マドリーンは不愉快そうに吐き捨てる。
遥か遠く、今も帰らぬ誰かを目で追いながら。
パンプキン・シザーズを読みながら書いてる(隙自語)