#1:翌日──6月20日 15時過ぎ 高々等学校・保安部・文書課室にて
足場黝美はその日、an introvertな気分だった。
だからというわけでもないが、(いや、やはりそのせいかもしれないのだが、)足場はこの日、ひとりで、『保安部』の部室、そのうちの一室にいた。
なにが今日、俺の気持ちをこんなにも、のったりとした暗さに満たさせているのだろう?
机の上に一個だけ、薬莢があった。足場は座って、ぼうっとしながら、机の上から薬莢をつまみ上げた。足場の指先が、マイクロサイズの黄金カップのような薬莢、その曇り一つない金地に、べったり指紋をつけた。
短小な、チビな、薬莢だ。
保安課の彼女、豊田がつかう、獲物を狩るのにつかう、スレンダーでくびれがある、ライフルのための薬莢じゃない。
拳銃のための、リボルバーのための、自分を守るための薬莢。
それしか能のない、小さな、寸胴な、一つの、薬莢。
それが、足場ののつまみ上げた指の先で、自分ひとりで、
足場は訳もなく、ちびた薬莢を持ち直した。
彼の、少年の若い指の脂が、物言わぬ薬莢の金色を、白い輪状にさらにさらに汚していく。
薬莢の裏側を見た。裏の中央にある、丸い円をした部分。発射薬に火をつけて射ちだすための、丸い
その傷一つないはずの、薄いくせに敏感な金の素肌へと、力強く一つの
使用済みの、血の匂いを仄かにさせる、それ。
昨日の夜、あれだけ疲れ切ったのに、俺はあまり、寝れなかった。
足場は、煙草を吸いたくなってきた。部屋には足場以外に生徒はいない。バックの前の方に入れてあるシガレット・ケースのなかに、ザ・ピースがまだ何本か入れてある。しかしこれは足場のとっておきだった。
足場は、ベットで少女をよこに寝かせ、ただ単に抱きしめながらこのタバコを吸うのが、人生というもののデカダンス、あるいは享楽の、そのうちの粋のひとつだと思っている。しかし、そのための煙草にするには、ザ・ピースは完成しすぎていた。
それに、まだ足場は少年であった。セックスと喫煙と飲酒をフルにやるには、何もかもが敏感すぎる。
足場にとって煙草を吸うのは、あくまでも悦楽のためだった。そうして足場黝美は、この楽しみのために、今この時、保安部の部室で一服したくなるのを気にしないようにすることができる、その程度を備えていた。
足場が座っている席は、この部屋、何人かの机が中央で島を作っている部屋において、そんな島の端っこの机のものだった。足場はこの机の上に、保安部の書式が印刷された──報告文書と銘打たれている──用紙を、広げていた。
机の上に棚などは置かれておらず、あくまでも平たい机上をしていた。
そして机の角っこのほうへと、たとえばインク瓶が置かれていて、これは扇形を横向きに立体化し幅を持たせ、その真上に刻印入りの黒いキャップを設けているものだった。そうしてBlue-Black inkとラベリングされたこれの横に、このインクを呑ませた黒軸の万年筆があった。
この万年筆はその後尾が円筒状に断たれた形状をしていて、この部分を捻るように回すことで、万年筆のなかのインクの吸引のためのメカニズムを動かせる。
ペン先をインク瓶の中に浸して、万年筆のスタイリッシュな尾っぽをねじってメカニズムを動かすことで、インク瓶の中では鮮やかな青みがかっているインクを、万年筆の軸の中へと吸い上げ、ため込ませるのだった。
このドイツ製の万年筆は、値段が高校生相応とは(高々生だとしても)いいがたいもので、事実、足場がこの部屋、保安部では『文書課』、つまりAdministrative Coordination Divisuionへと、配属された時、その時に支給されたものだった。
足場も、初めはこれがいわば餌付けみたいなものかと思ったものだった、が、この部署で紙を裁くばかりの日々を送っているうちに、万年筆という代物が内実伴ったゆえんのブツであったのだと思い知らされることになった。
とにかく、書く。書きまくるのだ。しかも、手書きで。
文書課などという部署がわざわざ作られている、あまつさえには、文書課の生徒たち一人一人に一本、数万円の万年筆を買い与えるほどには、予算という金をいただいているというのも、訳があるのだ。
文書課。それは保安部という組織が、その存在の意義ゆえに有せざるを得ない課だった。
保安部。それは高々等学校の生徒会、会長自らが直轄する部活であり、委員会であり、≪理想都市≫──
この、部と名前についた集まりは、しかし実際には高々等学校どころか≪理想都市≫においても、歴然として警察組織の一つと見なされている。だというのにまだ十代後半ほどの高々生たちが運営するこの(やはり)部活は、悪名と勇名というのを比類させてやまなかった。
足場がかつて八大島に行った時に、テレビのニュースや、ティーンのための雑誌において、保安部はよく取り上げられていたものだった。
前者では保安部の悪名を大人が声高に議論して、後者ではその勇名を少年少女がまことしやかに語らっていた。その雑誌の記事を書いていたのは≪理想都市≫の高校生たちで、そうだからこそ足場や、足場のいた中学校のクラスメイト達はこの雑誌を好んだものだった。
しかしその雑誌では、たとえば、死亡への宣誓書というもの、そうしてこれを保安部にいる高々生、足場と同じ学校の生徒である彼らが署名しているのだということは、一切といっていいほど、扱われていなかった。
テレビのニュースのほうでは、高々生が羅刹を殺したという話題や、手違いで市井の人々へと「加害的な行為」を働いたというのは大人たちの口から発せられていたものの、高々生と死という二つの事柄を結びつけるような言葉は、南城が知る限り、聞きもしなかった。
くわえて金──保安部の“部員”たちが賞金をその懐に収めているという、そんな話も、なんら出てこなかった。
しかし、『文書課』にいる足場には、こうした話……賞金だの、死だのという、いかにも勇ましい話とは、無関係だった。
そうして保安部の部員たちは文書課、この課のことを、銃や刀というものとは縁のない、縁を持つのはまこと普遍的な学生らしく紙とペンに鉛筆という、「高々生らしくない」のがこの文書課という役割とみなしていた。
こんなわけで、文書課というのは保安部の中でも、いわば日陰者のように扱われていた。
文書課の仕事、それは(最終的には)手書きであらゆる文書を作成すること、それ以外のなんでもなかった。もちろん文書と名前が付く課なのであるから、書類仕事についてはなんだってこなす。
しかしそれだけのために、課の生徒全員へと万年筆を(同じ万年筆のシリーズ、その中からではあるが、それでも、シリーズの中で型番ごと、それぞれ大きさが異なる万年筆があるのを、)そのうちから生徒おのおのの手にあったサイズの万年筆を、わざわざ試し書きまでさせて選ばせるわけではない。
なにせ、このサイズの万年筆がよいとなったら、それは課の予算の中から金を出して買い与えられるのだ。
つまり文書課においては、こうした万年筆こそが、「高々生らしい」保安部部員らの銃・刀、そんな代物と同じ扱いをされているのだった。
そう扱われるほど、万年筆というものがどれほど大量筆記に適しているのか、足場はこの文書課に配属されてからの数か月、嫌になるのが一周回って楽しくなってくるほど、思い知らされることになった。
文書課の本領、それは書類の「手書き化」──いわば写経じみた、しかし書くものが経典でなく、ありとあらゆる保安部関連書類であるだけの、それであった。
このデジタル全盛期そのものな≪理想都市≫の、その一大学園である高々等学校、その金看板である保安部、この末席を仮にも有する課であるというのに、なぜそんな手書きなどという前時代的なことを本領としなければならないのか。それは文書課の部員たちがつかうインクこそが一大理由を占めていた。
『ブルーブラックインク(水性染料インク)
ブルーブラックインクとは、日光や湿気によって褐色しない上、耐水性も高く、永久保存の記録に最適、とその優秀性はインクの中でも秀でています、また固まると水では落ちない、という性質もあります。
筆記当初も滲みや紙の裏抜けが少ない独特の特徴があり、当初は公文書などの長期保存用インクとして発売されていました』
『第一鉄イオンが酸化して第二鉄イオンになり黒色沈殿を生じる酸化作用を利用しており、』『ブルーブラックインクは「青みがかった黒色」であるとか、「黒みがかった青色」であるなどの色目のことではなく、筆記当初はブルーですが、年月の経過と共に染料の青い色の部分が退光した為、その後の混合している鉄の黒い部分のみが紙面に固着して残存していることでブラックになるという、長期保存性を維持している機能を指しています。(──プラチナ万年筆ホームページ「インクの豆知識」より抜粋)』
こんな鉄を含んだインクによって、人の手ずから筆記なされること、それこそが大事なのだった。こうされることで保安部の書類というのは、ありふれたコピー印刷の書類のように、羅刹女の異能によってたやすく
たとえ、書類を書いた者の筆跡をまねて文書を改ざんしたとしても、ブルーブラック・インクは経過した時間に応じた度合いで、その色を青から黒へと変化させるから、新しく改ざんされた部分だけ、そのインクの色を明らかに異なったものにさせる。この色の差異が、文書の改ざんを顕著なものにする。こうして、文書の改ざんを露見させることができるのだった。
しかし文書課がこうした、保安部という羅刹・羅刹女にかかわる組織だからこそ、せざるを得ないその作業をする課である……にもかかわらず、また保安部員たちがその「部活動」を努めるうえで、報告書の作成やら備品の使用申請書やらで、かならず関わらなければならない課であるというのに、文書課は「コピー機」などと呼ばれて久しいのだった。
足場はそんな「コピー機」になるというのも、悪い気はしなかった。そんな役目でも、保安部の立派な役職である。こなせば手当はもらえるのだ。鉄火場に出ることなく、高々等学校のなかの人間関係だけで、金を(もちろん羅刹討伐の賞金などよりかは、ささやかだが)確かに金を、手に入れられるのだ。悪い話とは思えなかった。
あの日、フェンシング部の見学で試合を見に行った日、体育館で生徒会長に(そうして生徒会長のお付きの
が、足場はたとえいい話でないからと言って、それだけで話をフイにするほど、血気盛んではなかった。それに生徒会長からの声掛けを一蹴してしまうのは、さすがに憚られた。生徒会長から目をかけてもらった
使えるものは何でも使う。足場は生徒会長と話したとき、あの時に、その場で「裏方の仕事でも結構なので、保安部の全体を見渡せるような仕事をやりたい」と、そう言ってのけた自分自身を褒めてやりたくなる。「まず保安部の事情に通じてみたいんです。むしろ裏方の仕事、コツコツやるような仕事をこなしたい。それで高学年になった時、保安部の第一線を支えられるようになりたいんです」
我ながら、なかなか殊勝な理由である。足場は今でも、自分一人きりで、得意げに頷く。まあ、これを聞いた生徒会長は、やや驚いた、そうして困ったような笑みを浮かべたが。だが足場の理由を無下にもできなかったのだろう。生徒会長である彼につき従っていたうちで、一人の男子生徒を呼び寄せた。男子生徒は足場たちの話を聞いていたらしい。(あとで知ったが、彼は生徒会の庶務であり、保安部の人事の元締めだった。)
彼は足場のほうへと向いて、面白げに口をおちょぼにして微笑み、それから、こう言ってきた。
「足場くん? そんなら丁度、人手不足な課がある。文書課だ。んで、この課は君の言うところ、……保安部の事情通とか、なるには絶好だよ。報告書を書くのが役目だが、保安部についての森羅万象の報告書を書くため、三千世界の十人十色へと『取材』……聞き込みを、しに行かなくちゃいけない。だから保安部のほぼすべての部署と付き合うことになるし、保安部のほぼ全般のお仕事について、知れる。だが、こんな大立ち回りにくわえて、報告書を書くとなれば一日中でもペンを動かしっぱ、机と紙に七転八倒。……そんな役目。危険手当なんかもなし。どうだ、行きたい?」
行きたいと言ったわけだ、それで。それだからこそ。足場にとって、机と紙にかじりついている日常というのは、なんら足場の今までの高校生活と変わらないように思えたのだ。足場は、がり勉だった。それに、本の虫でもある。
こんなわけだから、6月20日の今日も、足場は、文書課のその部屋で報告書を書いていた。彼が課に配属されて早々、先輩からどこに座りたいのか聞かれ、端の席がいいと言ったらそれで許された、そんな端っこの机にいた。