旧版 黄昏に駆ける~ロシア系年上高身長美人お姉さんの経営するバーに迷い込んだら,亡命するのにユーラシア大陸横断することになった件について~   作:オリエント急行

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日本脱出編 第十話:アレクセイ

ボリスさんとイリーナの誕生日を祝った後,僕は帰途についた。

途中でイリーナが預かったクラッカーをもらう事を忘れたが,あれもプレゼントの一部として,受け取ってもらったことにした。

帰る途中,思い出すのはイリーナがプレゼントを受け取ったときの,少し色付いた,綿あめのようにふわりと軽くなった顔で嚙み締めるみたいにグローブの感触を確かめる光景——

ボリスさんの計らいとでも言うべきか,イリーナと連絡先を交換し,出かける約束をもらったこと——

イリーナみたいな,普段では絶対に巡りで合うことが出来ない,大人の女性と一緒にデートと言っても差し支えない約束をしたことは,僕の心をギュッと力強く,息が出来なくなってしまう手前まで締め付けたような気がした。

——イリーナ相手に,どんなデートプランなら喜んでもらえるんだろ…

家の玄関に着く前まで僕はずっとそんなことを考えていた。

 

家に入ってからも,余韻は消えず,満たされたまま食事,風呂,歯磨きといった身支度をした。

それらを終えると,3階にある自室に上がって,布団に潜り込んだ。しばらくすると僕の意識が,ずーっと夜に溶けた。

 

 

 

「…んんっ⁉」

驚きで目を見開く。何かが口元を強く圧迫した。口だけじゃない。手足もだ。呼吸が苦しい。けれど暗闇の中,何も見えない。少し圧迫が緩んだ。息を吸うチャンスを逃すまいと吸い込む。

次の瞬間,頭がぐるりと揺れて,視界が暗くなった。

————ガタンッ

物音で,目を覚ました。ぼんやりとした視界が徐々に輪郭を取り戻す。すると——

目の前に3人の男がいた。

そのうちの一人には,身に覚えがあった。

「お目覚めか,お姫様。」

前にバーの帰りで会った,アレクセイさんだった。

「アレクセイさん…?何が…」

頭の整理が追い付かない。なぜ彼がここにいるのか。本能的に体を動かそうとする。けれど——動かない。

見てみると,手足が椅子に紐みたいなもので縛られている。もう少し力を籠めるが,動かない。かなり強く縛れていて,徐々に痛みが伝わる。痛みからか,頭が強制的に働いた。僕は2階にあるベイウィンドウで拘束されているようだった。

「君は本当に,我々の望む方向に動いてくれた。最後,以外はね。」

アレクセイさんが,僕の問いかけに応えず,少しわざとらしい演説じみた口調で話し,椅子を取ってきて,僕と対面するように座った。

「大丈夫かな?手はきつくないかな?」

今度は声色を優しくして聞いてくる。まるで訳分からない。けれど,一つはっきりとしたことがある。僕をこうして拘束した張本人,それはきっとアレクセイだ。

「……外してください。」

懇願するわけでもなく,命令するでもない。感情を押し殺して言う。

「もちろんだとも!君が私の”お願い”を一つ,聞いてくれるなら,すぐにでも外してやろうじゃないか。」

手を広げなら言う。

「けれど——問題は君自身だ。”согласна”してくれるかどうかで,決まる。」

「…同意って意味ですか?」

「そうだ。よく勉強しているな。イリーナのおかげかな。」

イリーナの名前を聞いて思わず押し黙ってしまう。アレクセイは,イリーナとどんな関係なのか。前は”元同僚”と言っていたはず——

「私の”お願い”はただ一つ——」

彼は懐に手を入れる。そして取り出したのは——

——⁉

拳銃だった。

「そのイリーナを殺してもらいたい。君の手でね。」

手にした拳銃を僕の膝にのせてくる。ずっしとした,エアガンとは違う重みのあるそれは僕に,現実感を与える。

これは本物の拳銃。これを使って,イリーナを殺せと。

体が身震いする。動けないと分かっていても,動こうとしてしまう。

「なんで……」

「ん?」

「なんでイリーナを殺すんですか⁉あなたは,あなたたちはいったい何者なんですか⁉」

恐怖を和らげたいのか,押さえていた感情を爆発させてしまう。

「そう怖がらなくてもいい。少し落ち着け。水でも飲むか?」

僕の荒げた声を物ともせず,泰然と構えている。その姿勢が帰って,自分を冷静にさせる。

「……結構です。」

「そうか。なぁ祐一君。私はね,人が何かをするには理由が必要だと思っているんだ。イリーナの事を知りたくないか?知れば…それが君が動く理由になる。」

顔を少し近づけてくる。知りたくないとわけではない。ただ,それが殺す理由になるのは……

「……」

「おや,知りたくないのか?」

「……知りたいです。」

結局答えてしまった。アレクセイの沈黙から逃れたかったのか,それとも少しでも時間が伸びてくれればと思ったのか。

アレクセイは近づけた顔を離して,僕の膝に置いた銃を取って立ち上がる。

「…イリーナ・ニコラエヴナ・ヴォルコワ。やつの本名だ。」

アレクセイは続けた。

「彼女は実に優秀なやつだった。チェチェンでも,シリアでも,リビアでもラングレーの連中との闘いでも忠実に働いてくれた。だがある任務で——突然すべてを裏切った。土壇場で同志を容赦なく裏撃ち殺した。私の肩にも一発刻んでくれたよ。ほら。」

アレクセイは自分の左肩をとんとんと軽く指さす。

「ターゲットを逃がし,待機していた同胞を次々と殺していった。だが——最後には橋の上で対峙した。打ち合いの末,彼女は撃たれ,橋から濁流へと落ちた。」

次々と語られる驚愕の事実。

イリーナがニュースで見るような紛争地で活動していたと誰が想像できるだろうか。

しかし今ので少しわかったことがある。イリーナと今家にいる人たち,彼らはきっとどこかの国の特殊部隊か何か。国は恐らく,ロシア。

「……死んだ、はずだった。だが奴は生きていた。姿を隠し、こんな国の片隅でバーなんぞ開いて、のうのうと生きていたんだ!」

アレクセイの声に、わずかに怒りの熱が混じる。静かだが、確かに燃えている。それを感じるたび,身を反らしたくなる。

「奴は,イリーナは私を,同胞を,そして祖国を裏切ったんだ。私はね、祐一君。裏切りを、許せない性分なんだ。自分が信じたものに牙を剥かれるのが……何よりも、許せない。」

「……だから、僕に殺させようとしたのですか? あれから違和感を感じたのも──」

「そうだ。まさか感づいていたとは思わなかったがね」

点と点が線でつながった気がした。

初めて店を訪れたときから感じていた違和感。なぜ僕を使ってイリーナを殺そうとするのか。そして──イリーナの正体。

アレクセイは静かに椅子に再び腰を下ろす。

「イリーナに一番近い“他人”。今の彼女が心を許し、距離を縮めているのは──君しかいない。君なら近づける。銃を向けることができる。

君がやれば、“裏切り”は“裏切り”で報いられる。そして私は、ようやく彼女から自由になれる」

『彼女から自由になれる』。

その言葉から、アレクセイに潜んでいる何かを感じてしまった。

「イリーナは裏切り者だ。あいつのせいで多くの仲間が死んだ。それでも──君には、足りないか?」

「………」

「……そういえば君は、就活に苦労しているな。私の“お願い”を達成したら、うちの国に来い。一生遊んで暮らせるだけの環境を用意する。

これで充分だろう? さあ、私は君に十分すぎる理由を与えた。──次は君が、私に答えを与える番だ」

「……断ります」

口から出た言葉は、自分でも驚くほど静かだった。

でも、それは迷いじゃない。心の底から出た、僕自身の答えだった。

アレクセイの顔から、一瞬だけ笑みが消える。代わりに現れたのは、無表情。

……それが逆に、恐ろしかった。

「……断る?」

「僕は……イリーナを殺せません。たとえ彼女がどんな過去を持っていても、誰かにとって“裏切り者”だったとしても……僕にとっては、違います」

「……そうか、そうか、断るか……断るのかッ!!」

何かに取り憑かれたかのように、ぶつぶつと呟きながらアレクセイが立ち上がった。

そのとき、突然——

——バチンッ‼

強烈な平手打ちが頬を打ち抜いた。

「うっ‼」

頭が揺れ、視界がぐらりと傾く。

口の中に鉄の味が広がった。

痛みと、何より“人としての線を越えた何か”に触れた衝撃に、思わず息を呑む。

「なぜだ! なぜお前までも、あいつの味方をする!」

アレクセイの声は怒鳴り声でも叫び声でもない。

煮えたぎるような狂気が、言葉の奥底から漏れ出していた。

「奴は裏切ったんだ! 同胞を! 祖国を! そして──私をだッ!!

私はお前に理由を与えた! 殺すに足るだけの理由をッ! それでも……お前までも、私を裏切るのかッ!」

その目に宿っているのは、怒りではなかった。

執着だった。粘つくような、呪いにも似た感情。

それが、鋭く空気を引き裂いていた。

「……もういい。今日ですべてを、私の手で終わらせてやる。Прикончи его.(こいつを始末しろ)」

アレクセイが背後の男にロシア語で命じる。

男が無言で動き出す。手には、ビニール袋のようなものが握られていた。

その形を見ただけで、直感的にわかった。

──殺す気だ。

必死に身をたじろがせ、拘束を解こうと力を込める。けれど、まったく動かない。

悔しさと恐怖で、視界がにじむ。涙が自然とこぼれていた。

男が僕の後ろに回り込んだ、その瞬間だった。

「Ааааааа‼(うわぁぁぁぁ‼)」

男の絶叫が家中に響き渡った。

直後、何かが鈍い音を立てて床に崩れ落ちる。

「Что за чёрт?!(なんだ⁉)」

アレクセイが声のする方へ顔を向け、目を細める。

「Кукла потом. Пошли!(“人形”は後だ。行くぞ!)」

短く何かを言い放つと、アレクセイはもう一人の部下とともに足早にリビングを出て行った。

——いったい、何が起こったんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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