緑深き森を抜け、光が差し込む一角に泉はあった。
そこは古くから「神々と繋がる場所」とされる祈りの場――女神像が佇む聖なる泉。その水面は鏡のように澄みわたり、さざ波ひとつ立たない。
一行は静かにその前に佇んでいた。護衛として配置されたリンク、リーバル、そして不本意ながら連れてこられたヒューラ。彼女は泉の周囲にある岩場に座り、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んでいた。
その中心で、ゼルダ姫はひざまずき、両手を胸元に添えて祈りを捧げていた。
だが。
(……集中、できない……)
ゼルダの意識は定まらず、呼吸が微かに乱れていた。祈りの言葉は口を突いて出ても、心はどこか、今なお現実に縛られている。
――トライフォース。
ヒューラの翼に浮かび上がった紋章。それは神話の中だけのものだと思っていた。だが確かに、自らの目で見た。あの「力」の三角形だけが光を放っていた。
(なぜ、ヒューラに……? 私ではなく?)
そんな疑問が頭を巡り、祈りどころではなかった。
一方その頃、ヒューラは翼を閉じたまま岩の上に座り、ゼルダを見ていた。
泉の冷たい水の中に、膝まで浸かりながら祈りを続けるゼルダ。
その姿に、ヒューラは小さく口を開いた。
「……よく、そんな冷たい水に入ってられるよね……体調、壊したらどうすんだろうね……」
小さなつぶやきだったが、隣にいたリーバルが聞き逃すはずもなかった。
「彼女は、自らの使命に殉じているんだ。君には到底理解できないだろうがね。」
「そうだね、理解できないよ。私はそんな風に、誰かの期待とか責任とか、抱え込めるほどお人好しじゃない。」
ぴしゃりと返したヒューラは、それ以上リーバルを見ず、視線を自分の右翼へと落とした。
(……これ、何だったんだろう……)
右の翼には、まだ微かに光の残滓が残っているような気がした。あのときの輝き――スッパと対峙し、力のトライフォースが顕現した瞬間のことを思い返す。
「……どうして、私なんかに。」
ぼそっと零れた言葉は、自分自身への問いだった。
彼女は自分が誰なのかも、どこから来たのかも思い出せない。ただ、“再生の唄”を歌い、“弓”と“剣”の技を知っていた。それだけだ。
そして今、神の力とも呼ばれるものが、自分の中に宿っている。
(そんなの、私は望んでないのに……)
ごくり、と喉を鳴らしながら翼に触れると、肌に微かにぬるい感覚が残っていた。光は消えていたが、何かがそこに「いる」のだと、本能で分かった。
リーバルは少し離れた岩の上から、そんな彼女の様子を静かに見ていた。普段の挑発的な言動とは裏腹に、その表情にはある種の複雑さがにじんでいた。
(……君は、本当に何者なんだ?)
ゼルダの方に目を移すと、彼女は未だ泉の中央で祈りを続けていたが、その肩はわずかに震えていた。
リーバルはその揺れを、冷気のせいだとは思わなかった。
――彼女もまた、答えを求めている。
神の力とは何か、なぜ自分に宿らないのか、なぜ他の誰かに与えられるのか。
その「なぜ」は、ヒューラにも、ゼルダにも、そしてリーバル自身にも重くのしかかっていた。
リンクだけが、その中で静かに剣の手入れをしながら、何も語らずに座っていた。
(……表情のない男って、得よね)
ヒューラは軽く鼻で笑った。
帰り支度のために泉を後にする直前、ゼルダは一歩踏み出し、ヒューラのもとへと歩み寄った。
「ヒューラさん、ひとつ、お聞きしてもいいですか?」
ヒューラは振り返らずに空を見つめたまま返す。
「内容によるけど。」
ゼルダは少しだけ言葉を選ぶように口を開いた。
「先日の戦いで、あなたの翼に“力のトライフォース”が現れました。その時……何を思っていたのですか?」
その言葉に、ヒューラの瞳がわずかに細められた。
しばらくの沈黙の後、ヒューラは翼に触れながらぽつりと呟くように言った。
「あの時……“負けたくない”って気持ちでいっぱいだった。それだけよ。」
ゼルダは静かに目を見開く。
「誰かのため、ではなく?」
ヒューラは肩をすくめ、少しだけ笑ってみせた。
「姫様って、何でもかんでも“誰かのため”じゃないと納得しないの? 自分のためでもいいじゃない。……でも、まあ、強いて言うなら――」
振り返り、ゼルダと正面から向き合う。
「誰かを守りたいって気持ちで動けばいいんじゃないの? 姫様なら、さ。」
ゼルダは言葉を失ったように目を伏せた。
だがその瞳には、どこか光が宿り始めていた。
泉からの帰り道、午後の光が差し込む林道を一行は進んでいた。
ヒューラは先頭に立ち、翼を軽く広げながら警戒する。リンクはゼルダのすぐ隣に歩き、リーバルは空から上空を監視していた。
その時――木々が不自然に揺れた。
「……また来たわね。」
ヒューラが呟くと同時に、茂みの中から赤装束の一団が現れた。
「はっはっはっはっは!待たせたな、お前ら!」
堂々たる声と共に現れたのは、肥えた腹を突き出した、異様な存在感の男。
「俺様こそ、イーガ団・統領、コーガ様である!」
「……また面倒臭そうなのが出てきたわね。」
ヒューラが呆れたように言うと、その背後からスッパが姿を現した。
「前回は惜しかったでござるな。だが今度は違う。」
「言われなくても!」
ヒューラはすでに剣を抜き、スッパへ向かって突進する。
斬撃、受け流し、回避、反撃。前回の戦いとは違い、ヒューラの動きには切れと力が宿っていた。
(力が、身体中からあふれてくる……!)
スッパの二刀に怯むことなく応戦し、数合のうちに互角以上の戦いを見せる。
「ほう、以前とはまるで別人でござるな……!」
スッパは押し込まれながらも、鋭く反撃する。が、ヒューラは軽やかに飛び上がり、翼の力で方向を切り替えると、鋭く蹴りを入れて距離を取った。
「今日の私は、ちょっと違うのよ!」
だがその時、下っ端に囲まれていたリンクに危機が訪れる。四方からの連携攻撃が迫り、回避が間に合わない――。
「リンク!!」
ゼルダの声が林に響く。
その瞬間だった。
ゼルダの右手が、まばゆい光に包まれた。
「――ッ!?」
聖なる光が四散し、リンクに迫るイーガ団を弾き飛ばす。
光の中心、ゼルダの右手の甲には、トライフォースの紋章――知恵と勇気の二つが輝いていた。
「姫様……!」
「ゼルダ……!」
一同が目を見張る中、ヒューラだけが目を細めてゼルダの手を見つめていた。
スッパはその光景を見て、驚きと恐怖に表情を歪める。
「ま、まさか……あの姫にも、トライフォースが……!」
「コーガ様、退きましょう! 今日は情報だけで充分ですぞ!」
「うむ、今は撤退とする! 退けーい!」
コーガの号令と共に、イーガ団は煙幕を張って林の奥へと消えていった。
沈黙の後、ただ風だけが草を揺らす。
やがて、ヒューラが口を開いた。
「……やるじゃん、姫様。」
ゼルダは自らの手を見つめながら、言葉を紡いだ。
「……私にも、あったんですね。トライフォースの力が。」
リーバルが空から降りてくる。
「知恵と勇気の二つ……残る一つは“力”。君がそれを持ってるなら、三つ全てが揃ったということか……。」
「……でも。」
ゼルダはぽつりと呟いた。
「……このこと、父上にどう説明すれば……?」
ヒューラは目を丸くする。
「は?」
ゼルダは微笑みながらも、どこか困ったように言った。
「貴女のことです。ヒューラさん。ハイラルの血を引かぬ者に、神の力が宿った……これは前例がないことです。きっと父⋯いえ、王は困惑するでしょう。」
「……そりゃ、私も困惑してるからおあいこじゃない?」
そう言って笑うヒューラを見て、ゼルダは初めて心からの笑みを返した。
リンクは無言のまま、ゼルダとヒューラを交互に見て、わずかに頷いた。