空を舞い歌う者   作:ラン乱

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渓谷に巣くうもの

朝露が薄く張った地面を踏みしめながら、ヒューラは北の渓谷を目指して飛んでいた。

 

空はまだ薄い藍色を残し、太陽は山の稜線の向こうに姿を見せかけているところだった。冷たい風が翼の下をすり抜け、眠気を吹き飛ばしてくれる。

 

「……ふあ、さすがに早すぎたかな……」

 

昨夜、リトの村の長老から聞いた“見慣れない魔物の影”。ヒューラはそれが気になっていた。

 

(何もいなきゃ、それはそれで平和ってこと)

 

軽く羽ばたきながら、山の尾根を越えた先――霧がかった渓谷の上空に差し掛かる。

 

「……ここら辺だと思うけど……」

 

木々がまばらに茂る岩場に着地し、弓を手にしながら慎重にあたりを探る。

 

渓谷は湿った空気が立ち込め、ひんやりとした気配が肌にまとわりつくようだった。

 

――カサ…カサ…

 

風とは異なる音。ヒューラはすぐに弓を構え、低く身を屈める。

 

視界の先、倒木の向こうに何かがいる。

 

徐々に現れたその姿に、ヒューラの眉がピクリと動いた。

 

「……モリブリン?」

 

だが、その様子が明らかに“普通”ではなかった。

 

肌は青黒く、異様に膨張した血管が身体中に浮き上がり、目は真っ赤に染まっている。体からは紫がかった靄のようなものが、ゆらゆらと立ち昇っていた。

 

(……あれ、本当にモリブリン?)

 

それでもヒューラは迷わなかった。

 

「見た目がどうであれ、魔物に違いない……!」

 

ヒューラは弓に矢をつがえ、空中から低く滑空しながら狙いを定める。

放たれた一矢――脳天を正確に貫く。

 

「よし……これで――」

 

しかし次の瞬間、異常が起きた。

 

“メリッ”と、骨の軋む音が聞こえたかと思うと――

 

ズルッ……と首が180度、ありえない角度で回転し、赤く濁った目がこちらを睨んできた。

 

「……はっ!?」

 

ぞくりと背筋が凍る。

 

間違いない、確かに矢は急所を貫いた。それなのに、奴は倒れるどころか、異様に歪んだ動きでこちらへと近づいてくる。

 

(まずい……!)

 

ヒューラはすぐさま翼を広げて飛び上がり、距離を取る。

 

「だったら、これならどうだっ!」

 

次の瞬間、矢筒から爆弾矢を取り出し、狙いを定めて放つ。

 

ゴッ――!!

 

着弾と共に爆風が岩場を吹き飛ばす。火花が舞い上がり、白煙が立ち込める。

 

ヒューラは空中で呼吸を整えながら、煙の先を凝視した。

 

「……仕留めた?」

 

だが、答えはすぐに出た。

 

轟音と共に、煙の中から猛然と現れる青黒い巨体。

皮膚は焼け爛れているのに、叫び声ひとつ上げない。

 

「……嘘でしょ……」

 

モリブリンは地面を踏み砕きながら暴れ回る。その動きに痛みや恐怖の気配はなく、ただ“反応”として暴力を振るっているかのようだった。

 

「……こいつ……痛覚が、ないの……!?」

 

感情も、意思もない。ただ敵を見つけては破壊する機械のような存在。

 

ヒューラは空中で姿勢を整え、剣を抜いた。

 

「やるしかない……!」

 

風を裂いて一気に急降下。モリブリンの肩に着地し、間髪入れず剣を突き立てる。

 

――ザンッ!

 

皮膚を裂き、血が飛び散る。しかし奴は声を上げることもなく、逆に肩を跳ね上げてヒューラを振り払おうとする。

 

「っ……甘い!」

 

その動きを読んで空中で回避し、モリブリンの背後へと滑り込む。

 

再度、剣を振るう。腕、脇腹、膝の裏――細かく、正確に、急所を狙って切り刻んでいく。

 

「動きが……重い……でも、しぶとい!」

 

何度切り込んでも、反応が薄い。まるで“生きている”という感覚そのものが希薄なのだ。

 

「だったら……動けなくなるまで、細かく潰してやる!」

 

ヒューラは息を吐き、意識を研ぎ澄ませる。

刃に集中し、呼吸と動きの一体化を図る。

 

モリブリンの巨腕が振り上がる。風を切る音と同時に、ヒューラはすり抜け、逆に腕の内側を切り裂いた。

 

バランスを崩したモリブリンの膝を蹴り、足場を奪う。

倒れ込んだ瞬間、首筋へ深々と剣を突き立てた。

 

「――ッ!!」

 

ジジジ……と、紫の靄が身体から離れ、やがて風に溶けるように消えていった。

 

しばらくして、モリブリンの巨体が地面に崩れ落ちる。

 

ヒューラは肩で息をしながら、その場に膝をついた。

 

「……なんだったの、今の」

 

確かにモリブリンだった。だが、今まで戦ってきたどんな個体とも違った。

 

あれは“厄災”に蝕まれていた――そうとしか思えない。

 

「普通じゃない……普通じゃなかった……」

 

右の翼が一瞬だけ、かすかに光った気がした。

 

ヒューラはそれに気づかず、ただ自らの鼓動を静めるように、空を見上げた。

 

空には、朝日が顔を出し始めていた。

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