月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第一話 「転生」

――――ふと、目を覚ました。

 

 

だが目を覚ましたのかどうかすら分からない。ただその光景に、世界に飲み込まれる。

 

無。何もない、漆黒の底。どこまでも深く、底など無いかのように深い闇。

 

自らのカタチも見えない。どうしてこんなところにいて、どうしてこんなにも落ち着いていられるのか。

 

それはきっと知っていたから。ここが何なのか。当然だ。数えきれないほどこの道をたどってきたのだから。慣れ親しんだ道。今更驚くことも、嘆くこともないない。なのに、それなのにただ怖かった。

 

例え幾万回繰り返そうとも、この世界に慣れることなどあり得ない。あってはならない。

 

何故ならここは人にとっての禁忌。人ならざる者であっても耐えられない、生きているのなら避けることができないもの。

 

『死』という絶対的な恐怖。

 

体を動かすことも、声を上げることもできないまま、ただ待ち続ける。この無限地獄にも似た螺旋から抜け出すこと。そんな叶うことのないユメを――――

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

知らず声が漏れてしまう。無意識な行動。だがそれを責めることができる者などいないだろう。ただ声の主は呆然とした様子で辺りを見渡している。まるで今まさに生まれた赤子のような有様。だが今の彼にとってはまさにその言葉が相応しかった。

 

 

(ここは……どこだ……? 俺は……?)

 

 

ただ彼は混乱することしかできない。全く自分の状況が理解できない。目覚めたばかりの体のだるさと朦朧とする意識の中でも、今の自分が異常な状況に直面していることは明らか。混濁する意識を何とか振り切りながら彼はただ辺りを見渡す。

 

白い壁と白いベッド。無機質を思わせるどこか冷たさを感じさせる部屋。どこかの病室なのだろうと、そう容易に判断できる一室。そのベッドの上に彼は横になっていた。何故こんなところに。そんな疑問すら吹き飛んでしまうほどの異常が彼の視界に現れていた。

 

 

「――――っ!?」

 

 

ただ彼は息を飲む。声を上げることも、その場から逃げ出すこともできない程の恐怖だけが身体を支配する。

 

それは『線』だった。まるで子供の落書きのような無造作な、意味を持たない黒い線。ひび割れのように無数の線が彼の視界に溢れている。そこに例外はなかった。

 

白い壁にも、天井にも、ベッドにも。ありとあらゆる場所に線は奔っている。ただ彼は混乱しながら視線を泳がせる。ただその線が描かれていない場所を探すために。

 

だがどこにもそんな場所はない。線からは逃れられないのだと告げるかのように。視界には、世界には黒い線が満ちている。

 

 

「っ!! 誰か、誰かいないのか!? 誰か――――」

 

 

悪夢の中にいるような悪寒に襲われながら救いを求めるようにただ叫ぶ。誰でもいいから助けてくれ。ここから連れ出してくれ。黒い線が何なのか分からない。だが本能で悟っていた。知識として知らぬ間に識っていた。ソレがよくないものであることを。そこから逃れるために手を伸ばそうとした瞬間に、目に入る。

 

 

まるで蛇が這うかのように自らの手に黒い線が纏わりついている光景が。

 

 

世界だけでなく、自分にも逃げ場ないのだと証明するもの。手だけでなく、体中全てに線が見える。その感覚に、現実に嘔吐してしまいそうな吐き気を必死に抑えながらようやく彼は気づく。本当なら何よりも早く気づかなければならなかった異常。今見える線よりも遥かに恐ろしい、信じられない事態。

 

 

「何だ……これ……?」

 

 

自分の物ではない、知らない子供の体。自分が自分ではなくなってしまっている。悪夢ですらない、お伽噺。それが彼が生まれた瞬間だった――――

 

 

 

「……君。……き君。聞こえているかい?」

 

 

眼鏡をし、白衣を身に纏った医師がどこか怪訝そうに少年に向かって話しかける。だが少年はまるで医師の声が聞こえていないかのように反応をみせない。声を発することすらない。ただどこか虚ろな目でここではないどこかを見ているかのように呆然としている。そんな姿を目の当たりにし、溜息を吐きそうになりながらも医師は普段通りを装いつつ話しかける。

 

 

「遠野志貴君、体の調子はどうかな? 痛いところはもうないかい?」

 

 

『遠野志貴』

 

 

それが目の前のベッドに座っている少年の名前。一週間前に交通事故によって大怪我を負い、入院してきた患者であり今のこの病院における問題児、頭痛の種だった。命を落としていてもおかしくない大怪我からの回復。だが奇跡的に命を取り留め意識を取り戻したまではよかったがそれからが問題だった。

 

『記憶喪失』

 

自分は遠野志貴ではない。それが意識を取り戻し、初めて少年が口にした言葉だった。

 

それまで混乱しながらも、医師達の言葉に聞き入っていた少年は遠野志貴という自らの名前を呼ばれた瞬間、まるでこの世の終わりのように青ざめ、言葉を失ってしまった。その後は取り乱したように興奮し、暴れる少年を取り押さえることに医師達は悪戦苦闘する羽目になった。事故による一時的な記憶喪失、もしくは心的外傷。幼い子供であればそうなっても仕方がないと、周りの大人たちは結論付けた。目に見えるという黒い線の話も誰も信じることはない。事故による障害、後遺症だとするのは当然の流れ。

 

 

「…………」

 

 

だがある時から、少年、遠野志貴は全く言葉を発することがなくなった。それまで必死に、鬼気迫った様子で妄言を叫んでいたにもかかわらず。まるで言葉を忘れてしまったかのよう。今はただ意志がない人形のように部屋に閉じこもり、虚ろな目と表情で日々を過ごしているだけ。カウンセラーも対応しているが結果は同じ。暴れまわっていた当初の様子がまるで嘘だったかのように、遠野志貴は自らの世界に閉じこもってしまっている。医師は隣にいた看護師に目配せするも、看護師もまたお手上げたとばかりに首を振るだけ。医師は根負けしたように一言二言残しながら病室を後にする。

 

彼らには知る由もない。少年が一体何に囚われているのか。その眼に映るものと内にある苦悩が何なのかを。

 

 

 

「…………ふぅ」

 

 

何度目か分からない溜息を吐きながら、自分以外誰もいない病室で彼はただ自分の物とは思えない小さな子供の手を見つめ続ける。間違いなく自分の意志で動く、自分の体の一部。にもかかわらずまるで現実感が湧かない。分かるのはこの手が、足が、体が、全てが自分の物ではないということだけ。

 

 

(やっぱり……夢、じゃないんだな……)

 

 

眼を閉じ、手で顔を覆いながらただその事実に苦悩する。涙すら出ない。そんな物はとうに枯れ果てた。初めて目を覚ましたあの日からただ泣き続けていたのだから。

 

目が覚めたら別人になっていた。そんな笑い話にもならないような事態。もしそれが笑い話であってくれたならどんなに救われたか。夢であってくれたらよかったか。

 

記憶喪失という病院の判断。それは間違いであり、正解でもある。事実、自分には記憶がない。

 

自分の名前も、過去も、記憶も、全てが思い出せない。まるで全てが初めからなかったかのように空っぽな伽藍の洞。分かるのは今の自分の体が本来の自分の物ではない、という確信だけ。

 

転生、憑依。そういった言葉でしか表せないような人智を超えた事象。だが初めからそんなことを認められるほど自分は耄碌してはいなかった。病院が言うように自分が遠野志貴であることを忘れてしまっているだけというのが最も自然なもの。しかし自分は明らかに子供とは思えない思考回路を持っていた。およそ小学生ができるようなものではない物の考え方が、対応が自分にはできる。事実、その一部を見た医師達も驚いていた。本来の遠野志貴ではあり得ない行動。加えてもう一つのあり得ない事象がそれを決定づけていた。

 

『未来知識』

 

正確には未来に起こるであろう遠野志貴に関連した事象が、自分にはあった。医師から遠野志貴の名を聞いた瞬間、まるで洪水のように頭の中にあり得ない知識が、記憶が溢れだして来た。その痛みによって悶絶することによって数日は動けなくなってしまうほどの異常事態。その最中に自分が知るはずのない情報が叩き込まれていく。

 

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』 『シエル』 『遠野秋葉』 『翡翠』 『琥珀』

 

 

遠野志貴がこれから出会うであろう女性達。同時に大きな運命を共にするであろう者達。もし遠野秋葉、翡翠、琥珀の三人だけであったならまだ自分が遠野志貴である可能性を捨てることはできなかっただろう。だがアルクェイド・ブリュンスタッドとシエルは明らかに違う。今の子供の遠野志貴が出会うことも、知ることもないはずの存在なのだから。

 

まるで神の視点を与えられたかのような記憶が、知識が自分に生まれて行く。あり得る、あり得たかもしれない未来の情報。自分ではない、この体の本当の持ち主である遠野志貴が歩んでいたであろう可能性。

 

 

『真祖』 『死徒』 『吸血鬼』 『混血』 『退魔』 『教会』 『魔術』 『超能力』

 

 

常人なら知り得ない世界の裏側。日常ではない非日常。常識を外れた未知。その全てが自分の内に刻まれていく。まるで異世界に紛れこんでしまったような錯覚。同時に恐怖が全てを支配する。

 

もしこれらが全て真実ならば、『遠野志貴』になってしまった自分もまたこれらと向きあわなくてはならないのか、と。

 

あり得ない。できるわけがない。知識か、経験か、記憶か、未来予知か。自分には与り知らないことだが本当にこの知識が真実ならば遠野志貴は死地に向かっているようなものだ。

 

様々な因縁が、因果が遠野志貴には絡みついている。文字通り、毒蛇に体中を縛られているような状況。事実、知識の中の遠野志貴ですら何度も死ぬ姿がある。理不尽に、容赦なく、救いなく命を奪われてしまう可能性。幸福な結末に至るために乗り越えなくてはならない壁は遥かに高い。本物の遠野志貴ですらそうなのだ。偽物の、どこの誰かも分からない、自分の名前すらも思い出せない自分がなにかできるはずもない。もし至れたとしても、遠野志貴の体は永くはない。人並みの時間を生きることができる可能性は皆無だった。

 

その現実に、ただ絶望し、怒り狂い暴れまわった。幸い小さな子供の体であったおかげで大事には至らなかったが自暴自棄にならざるを得なかった。まるで知らない世界に一人放り込まれてしまった孤独感。何故自分がこんな目に合わなければならないのか。何故自分なのか。理不尽な状況への行き場のない怒り。本当のことを伝えようとしても誰一人信じてくれない現実。その全てを呪いながら、それでも世界が変わることはなく自分はただあきらめるしかなかった。

 

後はただ病室に閉じこもる日々。布団にもぐりこみ、ただ固く目を閉じ眠りを求めた。

 

目が覚めればきっと元の自分に、元のあるべき場所に戻っているはず。そう、これはただの夢。悪夢なのだと。そう自分に言い聞かせた。

 

だがいつまでたっても目覚めはこなかった。世界が変わることも、記憶が戻ることもなかった。

 

ただ目を覚まし、世界に満ちた『死の線』と向きあうことで逃れようのない現実を突きつけられるだけ。知識を得た自分にはこの目に映る線が死であることが理解できていた。

 

 

『直死の魔眼』

 

 

モノの死が見えてしまう眼。どんな物にも生まれた瞬間に存在する死を捉える異能。世界に二つとないであろう忌むべき力。二度死に直面し、浄眼と呼ばれる特別な眼を元々持っていた遠野志貴だからこそ持ち得たものによってただ自分は苦しめられていた。

 

モノの死を見るということがどういうことか、身を以って知ることによって。

 

 

「……っ! くそ……!」

 

 

収まらない頭痛に顔を歪め、頭を抱えるしかない。どんなに眼を逸らしても、死の線を避けることはできない。人間はもちろん、建物、衣服、自分の体に至るまで全てに死が見える。その気配に、空気によって吐き気がする。見ているだけで頭がおかしくなりそうな不吉さが満ちている。何故本物の遠野志貴はこれに耐えることができたのか。死に触れていた分、耐性があったのか。それとも自分に耐性がなさすぎるだけなのか。知識と照らし合わせても明らかに自分は直死の魔眼に耐性がなさすぎる。体が同じでも、やはり自分は遠野志貴ではない、という確かな証明であると同時にこのままでは正気を失ってしまいかねないことを意味していた。

 

その結果が今の有様。固く眼を閉じ、布団から出ないことで己が身を守るという矛盾。端から見れば逃避以外の何者でもない自己保存。だがそれ以外に手段はなかった。そのまま眼を開け続けていれば遠からず自分は壊れてしまう。かといって眼を閉じたまま病院を動きまわることなどできはしない。

 

未来の心配どころではない。今どう生き残るか、それこそが今の自分にとっての死活問題。自分が誰であるかも、何故遠野志貴の体になってしまったかもそれに比べれば些細な事象。今はただこの眼をどうするか――――

 

 

「…………あ」

 

 

まるで希望が生まれたかのように声を漏らし、眼を見開く。何故今までそんなことにきづかなかったのか、自分を罵倒したい程、今の彼は呆然としていた。

 

突然の出来事の連続。混乱。信じられない出来事と体の不調。度重なる苦難によって彼はあまりにも単純な解決策を取れずにいた。遠野志貴にとっては当たり前であるが故に、知識を得ていてもすぐに思い浮かぶことができなかった始まりの出来事。

 

 

『蒼崎青子』

 

 

世界に五人しかいない魔法使いの一人であり、遠野志貴にとっては一生を決めるほどに重要な影響を与えた女性。志貴にとっては先生と呼ぶほどの恩人であり師。だがもう一つ、志貴にとって大きな出来事が彼女によってもたらされていた。

 

 

(そうだ……! 本当に俺が遠野志貴になったのなら、あの人に会えば『魔眼殺し』をもらえるかもしれない……!)

 

 

『魔眼殺し』

 

 

その名の通り、魔眼を抑えることができる眼鏡。それを遠野志貴は蒼崎青子から譲られていた。正確には魔眼殺しを持っていたのは青子の姉である蒼崎橙子の持ち物であったのだが無理やり奪って行ったという曰くつきの代物。だがそんなことは今はどうでもよかった。ただ重要なこと。それは魔眼殺しがあれば死の線を見ずに済むということ。今の彼にとって何よりも優先しなければならない問題だった。

 

 

まるで思考に応えるように青子と魔眼殺しの知識を引き出した後、少年は弾けるように動き出した。病院であることも、今の自分が病人であることも、子供の体であることも少年の頭にはなかった。

 

頭痛に耐え、眼を細めながらただ走る。がむしゃらに、途中看護師の制止の声や、通行人にぶつかったが全て無視した。ただ足元にある死の線に触れないように、それでも全速力で。

 

 

「ハアッ……ハアッ……!!」

 

 

息が上がる。体が悲鳴を上げる。目覚めてからほとんどまともに動かしていなかったツケがここで祟ってくる。それでも今の少年には確かな意志があった。瞳には光がある。絶望と死しか映していなかった眼には確かな希望が垣間見える。

 

知識を頼りに、ようやくそこに辿り着く。全てを見張らせるような大きな丘。どこまでも続くような草原と、自由な風に包まれた遠野志貴にとっての始まりの場所。

 

 

「ここで……いいんだよな……?」

 

 

荒れる呼吸を整える暇もなく、少年はそのままその場に倒れ込むように横になる。体は鉛のように重くしばらくは動きそうにない。何とか息が元に戻ってきたのを確かめながら少年はただ仰向けになりながら空を見上げる。

 

 

雲ひとつない、どこまでも済んだ蒼。

 

 

目が覚めてから、初めて普通の景色を目にした。そう少年は感じていた。今までの死に満ちた世界の裏側ではない。真っ青な世界。今なら分かる。遠野志貴がこの空に希望を見い出した理由が。もしこの空にまで線が見えれば、もう生きてはいけないだろうと。

 

 

少年はただ空を見上げながら魔法使いを待ち続ける。この空と同じように、青の名を冠した女性の訪れを。

 

 

ただ時間が流れて行く。知らず空はもう赤さを超え、漆黒に染まりつつある。太陽は沈み、代わりにあるのは月だけ。その美しさに目を奪われながらも少年は仕方なくその場を後にする。

 

 

いくら知識があるとしても、今日青子が来るかは分からない。明日か、その次か。だが希望はなくなってはいない。また明日もここに来ればいい。今の自分にはいくらでも時間があるのだから。

 

 

少年は待ち続ける。始まりの丘の上で。遠野志貴にとって救いである魔法使いの到来を。だが少年は気づいていなかった。魔法使いは遠野志貴にとっての救いであるということを。ならば自分にとってはどうなのか。

 

 

――――次の日も、少年はただ待ち続ける。

 

 

少年は知らない。考えようとはしなかった。自分が錯乱していた、病室に籠っていた間に魔法使いがこの丘を訪れていた可能性を。

 

 

――――その次の日も、少年はただ待ち続ける。

 

 

自分が『遠野志貴』ではない、という本当の意味を。

 

無情に時間は、日々は過ぎて行く。魔法使いはこの物語には現れない。何故ならこれは『遠野志貴』の物語ではないのだから。

 

 

――――少年は知る。これが『遠野志貴』ではなく、自分の物語であることを。

 

 

『月姫』ではない、紛い物の物語の幕が今上がろうとしていた――――

 

 

 

 


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