月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第九話 「姉妹」

――――暗闇。

 

 

何も見えない、黒の世界。昼なのか、夜なのか。起きているのか、寝ているのかも分からない。

 

だがようやく気づく。これが夢だと。何故なら、感覚がない。自分の意志で身体が動かない。まるでカメラで誰かの視点を視ているようだ。誰か、ではない。自分の姿を、自分で視ている。人形を操るように、他人事のように視ている、自分。

 

人形の自分の意識が、伝わってくる。ここがどこなのか。一度だけ踏み入れたことがある場所であり、彼女と初めて出会った場所。

 

自分と彼女は今、そこに閉じ込められている。いや、閉じこもっている。それ以外に、自分達に選択肢はなかった。だが希望はどこにもない。そんなことは、自分が誰よりも分かってる。知っている。だからこれはいつものこと。変わることのない、死の螺旋。

 

もう、全てがどうでもよかった。探し求めていた自分が、ようやく見つかった。

 

自分の正体が、ただの代替であり、帳尻合わせでしかないという、笑い話。何の意味もない、ただの無意味な空の容れ物。

 

だからもう、いい。いいはずなのに、彼女はいつもと変わらぬ声で話しかけてくる。目の前に死が迫っているのに、いつもと変わらぬ姿で。

 

 

 

「――――わたし、あなたにフクシュウするために八年間、生きてきたんです」

 

 

 

彼女は独白する。告白する。何の感情も感じられない声色で。彼女は自分への呪いを口にする。

 

 

まるで犯人が自供するように、聞いてもいないのに、彼女は全てを明かす。

 

 

壊れかけている人形の、哀れな末路。どっちが人形で、どっちが人間だったのか。そもそも、始まりは何だったのか。

 

 

分かるのはただ一つだけ。自分はきっと、この時の光景を忘れはしない。摩耗し、自分が誰か分からなくなっても。

 

 

地獄に落ちようとも、鮮明に思い出すことができるだろう――――

 

 

 

 

 

「…………ん」

 

 

ゆっくりと、意識が戻ってくる。血が巡り、身体が覚醒する。だが身体とは対照的に、まだ頭ははっきりしない。いつも通りのことだが、ふと気づく。そういえば、ここのところは毎日夢を見ているはずなのに、その夢が何であったのか覚えていない。夢なんて、そんな物なのかもしれないが。

 

 

(……何だ、俺、泣いてるのか……?)

 

 

ゆっくり身体を起こしながら、自分が泣いていることに気づく。もっとも涙は頬を伝うことなく、マスクを濡らしているだけ。知らず、あくびでもしてしまったのだろうか。何にせよ、早く起きなければ。今日も遅れてしまえば遠野秋葉に、正確には琥珀に何を言われるか――――

 

 

「――――おはようございます、志貴さま」

 

 

考える前に、自分の思考は止まってしまった。

 

 

「え?」

 

 

ただ呆然とするしかない。その声は間違いなく琥珀の物だ。しかし、決定的に何かが違う。当たり前だ。理由は分からないが、間違いなく今、自分の目の前にいるのは琥珀ではない。

 

 

「翡翠……?」

「はい。お目覚めですか、志貴さま?」

 

 

翡翠だった。間違いなく、翡翠だった。だからこそ意味が分からない。何でこんなところに翡翠がいるのか。もしかしてまだ自分は夢の中にいるのか。

 

 

「……いや、まだ寝ぼけてるみたいだ。なんでちょっと顔をつねってくれるか。それで眼が覚めるかもしれない」

「……お断りします。そういったことは姉さんに頼めば、喜んでしてくださるかと」

 

 

目覚めて一発目、渾身のギャグも翡翠には全く通じない。琥珀なら間違いなく悪ノリしてくれるのだが翡翠には高度すぎたかもしれない。いや、低いのは自分と琥珀の方なのかもしれないが。

 

 

「ごほんっ! 悪い……とりあえずおはよう、翡翠」

「はい。おはようございます、志貴さま」

 

 

気を取り直して挨拶すると変わらず律義に翡翠は返してくれる。まさにメイドの鑑のような姿。同じ双子とは思えないほど琥珀とは対照的な対応に顔を引きつらせるしかない。

 

 

「えっと……うん。色々聞きたいことがあるんだけど、そうだな……まず、何で翡翠はここにいるんだ?」

「志貴さまを起こすためです。もう朝食はできていますので」

「そうじゃなくて……そういえば琥珀さんは? 俺を起こすのは琥珀さんの仕事だったはずだろ」

「そうなのですが……秋葉様のご命令でして。私が、志貴さまを起こすようにと」

「秋葉が? どうして……」

 

 

至極当然の疑問を口にするも翡翠はどこか歯切れが悪そうに吐露する。冷静な翡翠にしては珍しい反応。一体何があったのか。琥珀がここに来れないような事情があるのか。そんな中、ふと思い出す。

 

 

「そうか。昨日、琥珀さん掃除で調度品を壊しまくったからな。その罰ってことか?」

 

 

昨日の琥珀の迷惑行為を。それは朝食後のこと。琥珀がどこか楽しげに自分の部屋にやってきた時から始まった。

 

 

『さあ、志貴さん。お部屋を掃除しますから少し外でお待ちいただけますか?』

 

 

そんな宣言と共に琥珀は目を輝かせながら(恐らく)掃除道具らしきものを手に動きだした。自分は呆気に取られながらも一応止めようとした。何故なら琥珀が掃除が苦手であることを識っていたから。しかし、琥珀は全く聞く耳を持たない。曰く、主人の部屋を掃除するのは付き人の役目だと。本当にそう思っているのか、単に掃除がしたかったのかは分からないが自分はそれを止めることはできなかった。自分の部屋にはほとんど物がない。いくら掃除が苦手と言っても問題はないだろうと……思ってしまった。

 

 

――――端的に言うと、それは破壊行為だった。断じて、掃除などではない。

 

 

何故ベッド以外に大したものがないはずの部屋から破壊音が響いているのか。何故部屋の掃除をしているはずなのに、廊下から何かが割れる音がするのか。目が見えない自分はそのままその場に立ち尽くすしかない。

 

結局その破壊行為は翡翠が異常を聞きつけてやってくるまで続くこととなった。こんなにも、目が見えないことが怖かったのは久しぶりだった。

 

 

「……いえ、そういうわけではないのですが。ただ志貴さま、その話は姉さんの前ではしないで頂けると助かります。あれでも、かなり落ち込んでいましたから」

「そうか……分かった」

 

 

本当に琥珀のことを心配しているのか、それとも掃除の手間を増やされたことを根に持っているのか。恐らく後者だろうと勝手に解釈しながら昨日の出来事はタブーとなった。もっとも、自分にとってはからかうネタが一つ増えただけなのだが。

 

 

「志貴さま、こちらがお着替えです」

「……ありがとな。じゃあ着替えてから、食堂まで行くから先に行っててくれ」

 

 

翡翠から着替えを受け取りながら、結局自分は洗濯一つ一人ではできないことに改めて気づき、情けなくなる。同時にいつもそれをしてくれていた有間の家族に対しても。今頃、どうしているのだろうか。都古は、ちゃんと学校に行っているだろうか。怒っているだろうか。それとも泣いているのだろうか。

 

 

「…………志貴さま」

「……? どうしたんだ? 着替えるから出て行ってほしいんだけど。それとも琥珀さんみたいに手伝ってくれる気なのか?」

「っ!? いえ、失礼します……!」

 

 

それまでの冷静沈着さからは想像できない程狼狽しながら、必死にそれを誤魔化しながら翡翠はそのまま部屋を後にする。その姿にからかいすぎたかと思いながらも、かつての都古の姿が重なり知らず笑ってしまう。そんな自分の姿に何か思う所があったのか

 

 

「……それでは、お部屋の外でお待ちしています」

 

 

と、若干不機嫌そうな言葉を残しながら翡翠は去っていく。一人で行ける、と反論する間もない早業。

 

 

「…………やっぱり姉妹、なんだな」

 

 

この頑なさ、もとい頑固さはやはり姉妹なのだなと再認識しながらもできるだけ速やかに着替えにいそしむのだった――――

 

 

 

 

「おはようございます、兄さん。今日は早く起きれたようですね」

 

 

翡翠に食堂に案内され、ドアを開けた瞬間、そんな容赦のない洗礼が待っていた。もはや語るまでもない。その声色と視えなくとも感じる存在感。遠野秋葉がテーブルから挨拶と言う名の嫌味を口にする。完全に自業自得なので反論できないが、そこまで怒ることはないのではないかと思ってしまう。もしかしたら、彼女なりの遠野志貴への愛情表現なのかもしれないが。

 

 

「……おはよう、秋葉。今日も早いんだな」

「兄さんが遅いだけです。ですが、どうやら今日の様子を見る限りやはり考え直した方がいいかもしれないわね、琥珀」

「……? 何の話だ」

 

 

秋葉の小言に関しては既にあきらめているため甘んじて受けるとしても何故そこで琥珀の名前が出てくるのか。隣にいる翡翠も黙りこんだまま。仕方なく事情を秋葉に尋ねようとするも

 

 

「志貴さん! どうしてそんなに早く起きてこられたんですか!?」

「……は?」

 

 

そんな訳の分からない琥珀の怒りでかき消されてしまった。だが意味が分からない。何で早く起きて怒られなければならないのか。しかし琥珀は本当に怒っているようだ。いや、怒っているというよりは悔しがっていると言った方が正しいのかもしれない。

 

 

 

「何で早く起きてきたのに怒られなきゃいけないんだ。何か問題でもあるのか?」

「大ありです! 何でよりにもよって翡翠ちゃんが起こしに行った途端起きるんですか!? わたしが何度起こしに行ったと思ってるんです!?」

 

 

必死さと涙目になっているのが分かる程に琥珀は狼狽している。そこでようやく事情を察する。どうやら今日翡翠が自分を起こしに来たのは、琥珀が自分を起こすのに時間がかかるからであったらしいことに。しかし翡翠がそんなことを自分から言い出すことは考えにくい。なら答えは一つ。

 

 

「賭けは私の勝ちね、琥珀。兄さんが起きてこないのはやはりあなたの起こし方が悪いからだと」

「そ、そんなことはありません! 秋葉様は志貴さんの寝起きの悪さを知らないからそんなことを仰るんです。耳を引っ張っても、頬を叩いても全然反応してくださらないんですから! ひ、翡翠ちゃん……どうやって志貴さんを起こしたんですか!?」

「特に何もしてはいません。普通に起きて頂いただけです」

 

 

そんな自分の寝起きの悪さをおもちゃにされている事態に辟易とするしかない。元をただせば自分のせいでもあるが、ここまでされては呆れもする。触らぬ神に祟りなし。そのまま静かに着席しようとするも

 

 

「これではやはり、翡翠を兄さんの付き人にした方がいいかもしれないわね」

「そ、そんなことはありません。た、確かに起こすのは翡翠ちゃんの方が上手いかもしれませんけど……それ以外のことならわたしの方が上手くできます! ね、志貴さん?」

「どうかな。少なくとも掃除は翡翠の方が上手いと思うけど」

「っ! そ、それは……うぅ……翡翠ちゃん……」

「……姉さん、落ち着いて。秋葉さまと志貴さまも本気で仰っているわけではありません」

「あら、私は本気よ。あなたが昨日壊した調度品がいくらするか、知らないわけではないでしょう、琥珀?」

 

 

止めとも言える秋葉の言葉によって割烹着の悪魔は敗北する。ここまであの琥珀が手玉に取られるとは、恐るべきは遠野家当主と言ったところ。もっとも付き人云々の話は冗談なのだろうが。珍しいものが見れたと思う反面、安堵していた。これで自分の寝起きの話は有耶無耶にできると。だが

 

 

「では兄さん。これからはきちんと起きてくださる、ということでいいですね」

 

 

甘くはなかった。自分と琥珀。主従揃って、朝から秋葉に言いくるめられることで今日の朝は始まったのだった――――

 

 

 

「ではお先に失礼します、兄さん」

 

 

こちらが朝食を終えると同時に秋葉は飲んでいた紅茶のカップを置きながら立ち上がる。どうやら学校に行く時間らしい。同時に自分にとっては息が詰まる時間から解放される瞬間。見えないとはいえ、ずっと自分が食事する様子を見られているのは健康に宜しくない。加えて相手が目の前の少女であればなおのこと。色々な意味で、自分は遠野秋葉とは正面から向き合えない。

 

 

「……いってらっしゃい。気をつけてな」

「はい。兄さんもせっかく早起きしたのですから学校に遅れないようにしてくださいね」

「……ああ」

「……? 翡翠、出るわ。車の準備を」

「分かりました、秋葉様」

 

 

学校という言葉に一瞬、息を飲むも何とか誤魔化す。秋葉もそんな自分の姿を疑問に思いながらも足早に去っていく。既に準備していたのか、当然のように翡翠もその後に続く。静けさが食堂を支配する。後には溜息を吐く自分と

 

 

「大丈夫ですよ、志貴さん。休学のことは秋葉様にはバレていませんから♪」

 

 

嬉しそうに自分に耳打ちしてくる割烹着の悪魔だけ。既に先程までの落ち込んでいた様子は微塵も残っていない。自らの天敵がいなくなったことで調子を取り戻してしまったらしい。ずっとあのままでよかったというのに。

 

 

「そうか。安心したよ。約束した次の日にバラされてたらどうしようかと思ったところだ」

「そんなことしませんよ。わたし、約束はちゃんと守りますから。ですから志貴さんも約束を守ってくださいね」

「約束?」

「はい。今日、お買い物に付き合っていただく約束です。もしかしてもう忘れてしまっていたんですか?」

「いや、そんなことはないんだが……俺が付いて行っても邪魔になるだけだろ」

 

 

とりあえず休学が遠野秋葉にバレていないことに安堵するのも束の間。琥珀の言葉に首をかしげてしまう。昨日の約束。その意味が計れない。自分と買い物に行くことに何の意味があると言うのか。自分の付き添いをしながら買い物をするのははっきり言えば面倒にしかならないというのに。

 

 

「いえいえ、そんなことはありませんよ。一人よりも二人の方が楽しいですし。翡翠ちゃんはお屋敷から出れないので、志貴さんと一緒に行きたいとずっと思ってたんですよ」

 

 

そんな自分の疑念も何のその。いつかの公園でのやり取りのように淀みなく返されてしまう。抗う術はない。そもそも断る理由もない。休学で時間はあるのだから。唯一の懸念が吸血姫との接触だがそう都合よく出会うはずもない。昼である以上吸血鬼や死者も出てこない。何よりも、約束なのだから守るのは当然。

 

 

「分かった……じゃあ、付き合うよ」

「はい。それじゃあわたしは片付けと準備があるので、お部屋で待ってて下さいな。少ししたらお迎えにいきますね」

 

 

ポンと、両手を合わせ喜びを表現した後、慣れた手つきで自分を食堂から廊下の手すりまで誘導してくれる。後は手すりがあるため部屋までは自力で辿り着ける。勝手知ったるといったところ。

 

 

だがふと、気づく。そういえば、自分は生き延びるために動いていたはず。なのに何故、こんなにも落ち着いているのか。こんなにも、違和感がないのか。

 

 

(色々考えすぎて、感覚がマヒしてきたのかもな……)

 

 

言葉にできない感覚を覚えながらも、ゆっくりと今の自分の部屋へと歩みを進めるのだった――――

 

 

 

 

「ま、こんなもんか……」

 

 

着替えを済まし、靴を履き直し、とりあえず出かける準備を整える。もっとも、準備する程のことでもないのだが、一応琥珀という付き添いがいる以上だらしない恰好はできない。目が見えない自分と一緒にいればその分周囲からの視線の晒されるのだから。最低限、見えないからこそ自分の身なりには気を配るのが自分の習慣だった。

 

持って行くのは小さな鞄だけ。財布に身分証、緊急時の連絡先が示されたメモ。目以外にも自分には眩暈や貧血といった問題がある。外出する際には最悪、その場で倒れてしまう場合もあるので必需品だ。後は自分にとってのもう一つの手足である杖を手にするだけ。しかし、少し考えた後手を伸ばすのを留まった。一人で出かけるなら必須だが、今回は琥珀と一緒だ。なら、杖は必要ない。逆に持っている方が邪魔かもしれない。

 

ふと、気づく。そういえばこの屋敷に来てから杖を使うことがほとんどなくなっていることに。いや、違う。彼女が、琥珀が近くにいることが当たり前になっている。そのことに、違和感を覚えなくなっている自分がいる。そのことに、危機感を覚えている自分がいる。

 

 

そう、まるで――――

 

 

「――――失礼します、志貴様。宜しいでしょうか」

「っ! ひ、翡翠か……?」

「はい。昨日の洗濯ものをお持ちしました。お邪魔してもよろしいでしょうか」

「ああ、どうぞ」

 

 

控えめなノックと、静かな声にも関わらず知らず声が上ずってしまった。とりあえず、別に疾しいことはしていないと自分に言い聞かせながら翡翠を招き入れる。

 

 

「悪いな、秋葉の付き人なのに俺の世話までさせちまって……」

「いえ、お気になさらないでください。志貴様もわたしの主人であることは変わりませんので」

 

 

淀みない流れで、洗濯ものをしまっているである翡翠にお礼を口にするも翡翠は全く気にした風はない。そう、気にしているのは自分の方かもしれない。計ったことではないとはいえ、結果的に彼女を騙していることには変わらないのだから。彼女の主人は遠野志貴。自分はただその恩恵を掠め取っているだけ。

 

 

「……志貴様? どうかされましたか?」

「いや、何でもない……ちょっとぼーっとしてただけだ」

 

 

どうやら思ったよりも考え込んでいたらしい。自分の悪い癖。考え事をすると周りの声が聞こえなくなる。アイマスクをしているせいで、余計にその姿は奇妙に映るらしい。

 

 

「そういえば……ちょっとこれから琥珀さんと出かけてくる。だからいなくなっても心配しないでくれ」

 

 

空気を変える意味でそう翡翠に告げる。以前、自分が一人で屋敷を歩いていたせいで彼女に心配をかけてしまったことがあったから。だがいつまでたっても翡翠から返事がない。

 

 

「翡翠……? どうかしたのか……?」

「……志貴様、少し、お聞きしてもよろしいでしょうか……?」

 

 

意を決したように翡翠は自分に向かって話しかけてくる。どこか言いづらそうな、遠慮気味な雰囲気がある。そういえば彼女の方から話題を振ってくるのは初めてかもしれない。いつもは琥珀と一緒であるため、二人きりになることも珍しいのだが。

 

しかし、何となく察する。彼女が何を聞きたがっているのか。それは

 

 

「志貴様は……いつから、目が悪くなられたのでしょうか?」

 

 

ここにくるまでの、自分のこと。正確には八年前から遠野志貴が、どう変わったのかということ。遠野秋葉や琥珀は断片的ではあるが有間の家での訪問で自分の事情を知っているが、翡翠はまだ知らない。もしかしたら、又聞きで知っているかもしれないが自分で聞いてみたかったのだろう。秋葉の送迎をしたにもかかわらず、こんなに急いでやってきたことも琥珀がいない間に二人きりで話してみたかったからなのかもしれない。

 

 

「目は……事故から目が覚めてからかな。でも目が見えないってわけじゃない。ただ、長い間、目を開けることができないんだ」

「そう、ですか……」

 

 

言葉を選びながら、いつかした説明を繰り返す。嘘は言っていない。ただ、魔眼のことは隠しながら。言ったところでどうにかなる問題ではなく、信じてもらえる類の話でもない。目が悪いと言うのは確かなのだから。ただ本当に視力が悪い方がどんなによかったか。死の線もぼやけて見えた方がどれだけ救われただろう。だが視力は常人よりも優れている程。はっきりと、死が見えてしまう。

 

 

「志貴様……一つ、お願いしても宜しいですか? もし、難しければ構いませんので……」

「お願い……?」

 

 

先程以上に恐縮しているであろう翡翠の態度に疑問を抱きながらも、今自分を支配しているのは全く別の感覚だった。でもそれが何なのか分からない。でも、自分はこれを知っている。これと、似たことを、自分はいつか言われたことがある。あれは、何だったか―――

 

 

「はい。わたしを、その眼で見て頂けませんか……? 一瞬でも構いませんので……」

 

『はい。もう一度、その眼でわたしを見ていただけますか。あの時のように目を逸らさずに』

 

 

翡翠の言葉に、誰かの言葉が重なって聞こえた気がした。

 

 

「――――」

 

 

言葉が出ない。もし、アイマスクをしていなければ間違いなく自分は目を見開いたまま固まっているのだろう。幻聴なのかもしれない。でも、どこかで似た言葉を、お願いをされたことがある。それが誰で、いつだったのかが、思い出せない。分からない。何で―――

 

 

「……すいません、志貴様。御無理を言ってしまい……」

「……いや、大丈夫だ。一瞬なら、開けても問題ない」

 

 

固まっている自分の姿に断られてしまったと思ったのか翡翠は意気消沈している。何とか気を取り直しながら、気を引き締めながらマスクを取る。翡翠の気持ちは察せる。八年前から成長した自分を、遠野志貴に見てほしいという願い。それを断る理由はない。遠野秋葉と琥珀を見ていながら、彼女だけ見ないなど。ただの詭弁だが、これで少しでも、彼女が納得してくれるなら。

 

 

目を開け、翡翠を視界に収める。他の全ては意識から外す。死の線も、点も、できるだけ無視する。

 

 

そこには識っている通りの彼女の姿があった。メイド服という時代錯誤な恰好をしているにも関わらず、全く違和感がない存在。同時にどこか感情を感じさせない無表情な、人形のような顔立ち。知らず、それが少し不安そうに見えるのは気のせいだろうか。

 

 

だがその姿に自分はいつかの彼女の姿を思い浮かべていた。もうはっきりとは思いだせない。八年前のはずなのに、何故かそこだけがノイズがかかっているかのよう。

 

 

生気のない瞳。ただそこにいるだけの洋装をした、人形のような姿。もし彼女があのまま成長すれば、こうなっていたのでは。そう思えるような姿を、翡翠はしていた。

 

 

「……志貴様?」

「悪い、ちょっと久しぶりに目を開けたからびっくりしただけだ……」

 

 

どこか人形のようにこちらを見つめていた翡翠に気づき、そのまま誤魔化すように目を閉じる。気の利いた台詞も思い浮かばない。そもそも、自分は初めて彼女の姿を見たのだから。大きくなった、成長した、綺麗になった。そんな当たり前の言葉も、口にはできない。

 

 

「志貴様は……本当に八年前の事故から前のことは覚えてらっしゃらないですか?」

「……ああ。すまない。だから、昔のことは何も話すことができない。多分、これからも……」

 

 

自分が黙りこんでしまった理由を察したのだろう。翡翠は記憶喪失のことを尋ねてくる。翡翠にとっては目よりもこちらの方が辛いだろう。彼女が閉じこもっていた遠野志貴を救ったことも、共に遊んだことも自分は識っている。でも、だからこそ自分にはそれを口にする資格はない。その時はきっと、永遠にない。

 

 

「……でしたら志貴様。わたしと八年前、事故の後に屋敷でお会いしたことも覚えてらっしゃいませんか?」

 

 

そんな自分の思考を知ってか知らずか、翡翠はよく分からない質問をしてくる。八年前の事故の後に、自分と会ったことを覚えているか、と。

 

 

「……いや、覚えてない、な。琥珀さんとなら会ったことがあるんだけど……」

 

 

記憶を探りながらも、やはり翡翠と会った記憶はない。八年前、一度だけ屋敷帰った時に会ったのは琥珀だけ。遠野秋葉にも、翡翠にもあったことはないはず。だが確証は持てない。その頃の記憶は酷く曖昧だ。もしかしたら、どこかですれ違ったのかもしれない。こちらが気づいていないだけで、翡翠からは見えていたのかもしれない。

 

 

ただ、やはりおかしい。自分は確かに物覚えが良い方ではないが、何故八年前の記憶だけがこんなにも曖昧なのか。まるでそこだけに霧がかかっているかのよう。そう、思い出すことができない程に、そこには何か自分にとって大切な何かが――――

 

 

「―――いえ、構いません。志貴様。我儘を聞いて下さってありがとうございました」

 

 

困惑している自分を見かねたのか、翡翠は目が見えなくても分かる程丁寧にお辞儀をしながら礼を述べてくる。思わず引いてしまうほど。やはり身体のことを抜きしても、自分は翡翠のことは苦手であるらしい。やはり、琥珀と姉妹であることは確からしい。もっとも、琥珀よりはまだ違う意味で接しやすいかもしれないが。

 

 

「こっちこそありがとな。これからも世話になる。一カ月ほどになるけど、宜しくな、翡翠」

 

 

気を取り直しながら、偽りない本心で告げる。どんな理由が、事情があるにせよ彼女にはお世話になるのだから。願わくば、何事もなく一カ月後に同じようにお礼が言えることを。

 

 

「はい。それでは失礼したします、志貴様。お気をつけて」

 

 

外出に配慮した言葉を残しながら翡翠は静かに去っていく。同時にこれからの琥珀との買い物のことを思い出し、溜息を吐くしかないのだった――――

 

 

 

 

 

コツコツと、淀みないリズムで靴音を立てながら翡翠は屋敷の廊下を歩いている。秋葉の付き人である彼女の仕事は学校の送迎が主となる。それが終わった今、後は屋敷の管理へと移行する。今までは屋敷の清掃などを担当していたが、それに加え遠野家の事務方の仕事も担当となっている。これまでは琥珀が行っていた物だが、その一部を翡翠も請け負うことになっている。琥珀が志貴の付き人になるため。慣れない仕事ではあるが、翡翠は全くそれを感じさせることなく行っている。志貴の付き人になれない自分ができる、唯一のこと。そんな中

 

 

「あ、翡翠ちゃん! いいところで会いました。秋葉様のお送りは終わった?」

「はい。姉さんはもう厨房の片づけは終わったの?」

「もちろん! それはそうと、これからわたしは志貴さんとお出かけするのでお屋敷のこと宜しくね」

「志貴さまと……昨日の約束ね。姉さん、あまり志貴さまを困らせるようなことは」

「分かってます。心配いりませんよ翡翠ちゃん」

 

 

クスクスと笑いながら、琥珀は上機嫌なのを隠し切れていない。端から見れば、いつも楽しそうにしている琥珀ではあるがそのことが翡翠には分かる。琥珀が、自らの姉がどこか浮足立っていることを。確かに昨日からそれはあった。だが、今はそれを遥かに超えている。あれから何かあったのか。気にはなるが、翡翠はそれを口にすることはない。琥珀が楽しそうにしている姿は彼女にとっては何よりも望んでいるものなのだから。

 

 

だがすれ違う際に、ふと気づく。それは琥珀の容姿。服装はいつもと変わらない着物姿。だがその顔が、雰囲気が違う。翡翠でなくとも、秋葉でもあっても気づくであろう、女性としての違い。

 

 

化粧。わずかではあるが、姉が化粧をしている。いつもはすることのないものを。それを、綺麗だと感じた。容姿では自分と姉は全く同じ。双子であるが故のこと。しかし、それでも今の琥珀はいつもよりも綺麗に見えた。

 

 

「――――姉さん」

 

 

知らず、呼んでいた。それは単純な指摘。どうして化粧をしているのか。そんなことをしても、彼には見てもらえないのに。彼には、見ることができないのに。どうして――――

 

 

「……? どうしたの、翡翠ちゃん? 何かお仕事で分からないことがあった?」

「ううん。姉さんも気をつけて。志貴さまのことも」

「もう、心配症ですね翡翠ちゃん。お姉さんに任せなさい。お留守番、少しの間お願いね」

 

 

言葉を飲みこみながら、翡翠はそのまま琥珀を送り出す。それは察したから。

 

 

彼に見えないから化粧をしない、のではない。彼に見えないからこそ、だからこそ、姉は無意識にそんな行動を取っている。その理由が、自分には分かる。

 

 

琥珀が演じているのは、八年前の『翡翠』なのだから。

 

 

翡翠はただ願う。

 

 

願わくば、自らの姉が、演じることない『自分』を取り戻してくれることを――――

 

 

 


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