月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第十話 「開眼」

平日の昼下がり。だというのに往来には人が賑わっている。老夫婦に親子連れ。働き盛りの人々はきっと必死に働いているだろうに、それ以外の人々は呑気にこの青空の下で各々に楽しんでいる。

 

青空、というのもただの憶測。瞼の裏からでも何となく晴れていることは分かる。身体に降り注ぐ日の温かさと空気からも、きっと間違いない。絶好の行楽日和。そういったことにあまり興味がない自分でも浮足立ってしまうような状況で、今の自分の心はその通りにはいかなかった。何故なら

 

 

「……? どうかしました、志貴さん?」

 

 

自分の隣には、いつもと変わらず楽しそうにしている琥珀色の瞳をした少女がいるのだから。

 

 

「……いや、ただ何で俺、こんなところにいるんだろうなって思っただけだ」

「はあ、何ででしょうね。もしかしたら、陽気に当てられてしまってるんじゃありません? お屋敷に来られてからはずっとお部屋におられましたから」

「誰のせいでそのお屋敷に戻ることになったと思ってるんだ?」

「え? わたしはただ、志貴さんに戻ってきてほしいなと思っただけですよ?」

 

 

こちらの嫌味も何のその。むしろ楽しげに琥珀はくすくすと笑いながら受け流す。もはやあきらめるしかない。口で彼女を負かすことは自分にはできないだろう。恐らく遠野秋葉もそれは同じ。故に自分はそのままどこへ向かっているのか分からずも手を引かれ続けるしかない。まるでおもちゃのようだ、と思ってしまうのも仕方ない。

 

 

「……琥珀さん、だからそんなに引っ張らないでくれ。あと近い。暑苦しい」

「くすくす……いいじゃないですか。この方がお連れしやすいんですから。もしかして志貴さん、恥ずかしいんですか?」

 

 

こちらの本心を見抜かれてしまったのか、それともわざとしているのか。琥珀はますます自分の腕を抱え込み、歩いて行く。彼女からすれば自分を誘導してくれているだけなのだが、やはり自分としてはそうも言っていられない。元々必要以上に援助の際には接触してくるきらいがあったが、今回は特にそれが顕著だ。外出だからなのか、それともそれ以外に何かあるのか。どちらにせよ、自分にとっては変わらない。

 

 

「……ああ、恥ずかしい。着物姿の女の子に付き添われながら往来を歩いてるんだからな。恥ずかしくもなる」

「あ、酷いです志貴さん! 着物姿のどこがいけないんですか?」

「どこがいいのか教えてくれ。割烹着なんて古臭い物を着てるのは琥珀さんの趣味なんだろう? おかげで周りからは注目されっぱなしじゃないか」

「う……志貴さん、どうしてそんなことが分かるんですか」

「当たり前だ。ただでさえ俺一人でも目立つのに、そこに割烹着の誰かさんが加わればちょっとした見物だし」

 

 

目を開けていない自分には気づかれていないと思っていたのか、琥珀は少しばつが悪そうな態度を見せている。目が見えない自分と、それを誘導する着物姿の琥珀。端から見れば珍しいことこの上ない組み合わせだろう。きっと自分が逆の立場なら思わず振り返ってしまうほど。これが自分が彼女と外出したくなかった理由。目が見えない自分は視線にさらされることはないが、彼女は避けられない。だが

 

 

「いえいえ、構いませんよ。むしろ見せつけてもいいくらいです。志貴さん、周りの人たちからはわたし達はどんな関係に見えると思います?」

「さあ……怪しい割烹着の女の子に連れ去られるアイマスクをした男か?」

「ち、違います! 何でわたしだけ怪しいって言葉がつくんですか!? カップルですカップル。ほら、腕を組んで歩いている男女なんですから当然でしょう?」

「冗談は着物だけにしてくれ。目が見えない彼氏に大荷物を持たせて、半日連れ回す彼女なんて御免だ」

 

 

楽しげに腕に力を込めようとしてくる琥珀に冷めた視線を向けながら、改めて反対側の手に持っている荷物を持ち直す。そこには半日の強制連行という名の買い物の成果がある。特別腕力に自信があるわけではないが、この買い物袋の量には参るしかない。気を抜くとそのまま身体が傾いてしまいかねない。

 

 

「あ、もしかして先程から機嫌が悪いのはそのせいですか。ダメですよ志貴さん。男の子なんですからちゃんと荷物はお持ちいただかないと」

「……確か、誰かさんは俺の付き人だったと思うんだが気のせいか。荷物を持ってもらうことはあったけど、持たされるのは初めてだよ」

「ふふっ、志貴さん甘やかされていたんですね。でも残念でした。わたしは志貴さんをご案内する役目がありますから。翡翠ちゃんなら持ってくれるかもしれませんよ」

「翡翠にそんなことさせるわけないだろ。持たせるのは琥珀さんだけだ」

「ど、どういうことですか? 朝も思いましたけど、志貴さん翡翠ちゃんに優しくないですか。というよりわたしにだけ厳しいです。やっぱり志貴さん、わたしのことが嫌いなんですね……」

 

 

どこか芝居がかったノリで悲しんでいる琥珀を無視してそのまま進みたいところだがあいにく腕は組まれたまま。そもそも杖を持ってきていない自分は一人では動けない。やはり杖を持って来た方が良かったのではと後悔するもどうしようもない。

 

 

「それで……この後はどうするんだ。こうなったらとことん付き合うさ」

 

 

一度大きく深呼吸をした後、隣にいる自らの付き人に告げる。これではどちらが付き人なのか分かったものではない。だが約束は約束。半分以上脅しだったような気もするがもはやどうでもいい。約束は、守らなければ。

 

 

「ありがとうございます、志貴さん。でももうお買い物は済んでしまいましたし……そうですね、ちょっと休憩しましょうか。近くに公園があるんです」

 

 

その言葉を待っていましたとばかりに、花が咲くような声で琥珀は自分を誘う。どうやら、琥珀は最初からその気だったらしい。休憩という言葉から自分を気遣ったものであることも分かる。表に出さないようにしていたつもりだが、疲労しているのに気付かれてしまったようだ。目が見えない自分にとって見知らぬ場所を長時間移動するのは思ったよりも体力を使うこと。加えて隣に琥珀がいること。認めたくはないが、まるで恋人のように寄り添ってくる彼女の動作と熱に知らず精神的も堪えてしまっていたのかもしれない。

 

だが決してそれを口に出すことなく、琥珀に導かれながら自分はいつかと同じように公園へと足を踏み入れるのだった――――

 

 

 

 

「お待たせしました、志貴さん。お茶でよかったんですよね?」

「ああ、ありがとう。助かる」

 

 

ひとまずベンチに腰を落ちつけた後、琥珀が買ってきてくれたお茶に口をつける。その冷たさで身体が潤って行くのを感じるほど自分は疲れていたらしい。そんな中、ふと手に先程まで運んでいた買い物袋が触れる。

 

 

「そういえば……結局これは何なんだ? 食料品みたいだけど」

 

 

もう何度目になるか分からない問いを琥珀に向ける。大きなスーパーの袋が三つ分はあるだろうか。手触りや重さから食料品であることは察しがつくのだが、どうしてこんなに買い込んでいるのか分からない。しかも何度聞いても琥珀は教えてはくれない。まるでプレゼントを隠している親のよう。

 

 

「そうですね……じゃあちょっと早いけどバラしちゃいます。これは今日の夜、歓迎会の料理に使う食材なんです」

 

 

少し迷うような気配を見せながらも一瞬。それともこれまで琥珀も言いたくて仕方なかったのか、我慢できないように明かす。きっと手を合わせながら微笑んでいるのだろうと分かる程、琥珀は上機嫌だった。

 

 

「歓迎会……?」

「はい。志貴さんの歓迎会です。まだきちんとできていませんでしたし。あ、安心してください。秋葉様の許可はもうもらっているので」

 

 

そんな聞いてもいないことを琥珀は得意げに口にする。どうやら琥珀的には悪巧みに当たるものらしい。もっとも彼女の行動で悪巧みでないものがあるのかどうか、はなはだ疑問だが。ただ分かることは

 

 

「そうか……じゃあ俺は自分の歓迎会の材料を自分で運んでたってわけか」

「あはは……そういうことになりますねー。お疲れさまでした、志貴さん」

 

 

自分は自分の歓迎会のために動かされていたということ。呆れてものも言えない。道化以外の何物でもない。しかもその首謀者は全く悪びれていない。むしろ楽しげですらある。

 

本当に根はいらずらっ子らしい。もしそれだけならどんなによかったか。救われるか。自分のためではない、遠野志貴のための歓迎会。分かっていても、やはり堪える。もう八年も前から、分かっていたことなのに。

 

 

「……でも、ならなおさら俺が付いてくることなかったんじゃないか? 余計な手間だったろ」

「そんなことありませんよ。荷物を持っていただきたかったのは本当ですし、それにわたし、あなたとお話したいことがたくさんあったんですから」

 

 

知らず、否定的な言葉を口にしてしまうも琥珀は全く動じることはない。淀みなく、心地いい響きを返してくれる。だが不思議な違和感がある。前にも一度、同じようなやりとりをどこかでしたことがあるような、そんな感覚。だが思い出せない。それがいつだったのか。そもそもそんなことが本当にあったのか――――

 

 

「――――志貴さん、」

 

 

だがそんな思考を絶ち切るように琥珀が自分へと話しかけてくる。しかし、その雰囲気は先程までとは違う。こちらをからかうような、いつもの空気がない。その理由を聞くよりも早く

 

 

「向こうに、金髪の女性が――――」

 

 

自分の体は反射に近い反応でその場から飛びのいていた。

 

 

「――――っ!?」

 

 

声も出ない。否、出すことができない。そんな余分なことをする余裕など今の自分には残されてはいない。ただあるのはいかにこの場を離脱するか。その一点のみ。

 

 

しかし、思考が定まらない。まさか本当に、そんなことが。何故よりもよって今日、ここで。だが考えている暇はない。どうする。逃げ出すか。どっちに。どうやって。このままでは走ることもできない。そもそも彼女かどうかも分からない。アイマスクを取って確認。あり得ない。彼女を視界に入れればその瞬間に、この体は反応してしまうかもしれない。なら逃げ出すしか、だがこのままではあまりにも不自然。彼女に不信を持たれてしまうかもしれない。ならこのままやり過ごすべきか。だがそれは賭けだ。視界に収めなくとも、気配に反応してしまう可能性はゼロではない。そもそもここには琥珀がいる、なら、何とかして彼女だけでもこの場から――――

 

 

恐らくこの身体に目覚めてから、一番頭を回転させ、思考した瞬間。だがそれは

 

 

「…………ふふっ」

 

 

そんな、聞きなれた割烹着の悪魔の笑いによって無意味となった。

 

 

「――――おい」

「いえ、すいません。あまりに志貴さんが反応してくださらないものですからちょっとイタズラしたつもりだったんですけど……」

「――――」

「でもびっくりしました。志貴さん、いきなり立ち上がったと思ったらそのまま動かなくなっちゃうんですから。そんなにその金髪の女性が怖いんですか?」

 

 

本当にびっくりしているのか、それとも自分の反応が面白かったのか。全く悪びれることなく悪魔は笑いを隠し切れていない。対して自分はまるで馬鹿のようにその場に立ち尽くしたまま。もはや言葉はない。怒ってしかるべきところだがもうそれすらもどうでもいい。間違いなく寿命が縮んだ瞬間。走馬灯という貴重な体験をまさかこんな茶番ですることになるなど。

 

 

「……いや、怖いのは君だ。まだアルクェイドの方がマシかもしれない」

「え? 何ですか志貴さん?」

「何でもない。ただもう一度同じことをしたらクビだ。秋葉に頼んで翡翠を付き人にしてもらう。いいな」

「わ、分かりました……もうしませんよ」

 

 

冗談でなく、本気で自分が言ってることを悟ったのか琥珀は苦笑いをしている。少し言いすぎたかもしれないが、いい薬になるだろう。とにもかくにも何事もなく済んだことに安堵するしかない。同時に理解する。やはり、自分は外出するべきではないと。万が一でも、憂いはなくしておかなければ。後悔しても、遅いのだから。

 

 

「ごほんっ、では志貴さん。聞かせていただけますか? さっきのお話です」

「話……? 何のことだ?」

「はあ……本当に聞こえていらっしゃらなかったんですか。有間の家で、事故から八年間どんな生活をされていたかです」

「ああ……そのことか。悪い、考え事してて全く聞いてなかった」

「もう……志貴さん。その癖直した方が良いですよ。マスクをしているせいで、志貴さんが聞いてくださっているかどうか分かりにくいんですから」

 

 

まるで姉のように琥珀は自分を叱ってくる。どうやら自分は知らない間に何かを考え込んでいたらしい。だがその間の意識がない。ここのところ、そんなことが増えてきた気がする。気づけば時間が経っているような感覚。なにはともあれ、琥珀の質問に答えることにする。事故に会う前ではなく、後のことなら答えることはできるのだから。

 

 

「別に……特に変わったことはないな。今と同じように、迷惑かけながら生きてきただけだけど……」

「そうなんですか? でもとても仲が良いように見えましたけど……特に都古ちゃんには懐かれていたじゃないですか」

「それは……まあ、そうか。でも最初からそうじゃなかったんだ。俺が、初めて有間の家に行ったときは、確か……」

 

 

口にしながら、言葉にしながら自分で次第に思い出す。もう当たり前すぎて、慣れ親しんだ有間での生活。家族との関係。でもそれは、初めからそうではなかったのだと。

 

 

――――端的に言って、八年前に有間の家に訪れた自分は異常な子供だった。

 

 

もう今となってはあやふやだが、話によると自分は全く喋らない子供だったらしい。喋らないだけではない。全く表情を変えない。感情を見せることのない存在。

 

きっと、遠野の家から勘当されたからだろうとおばさん達は思っていたようだがそれは違う。遠野の家など自分にとってはどうでもよかった。むしろあそこから出られて感謝している程。だから喋らないのは、笑わないのは、泣かないのは、怒らないのはただそうする理由がなかっただけ。

 

だってそうだ。喋っても意味はない。誰も、自分の言葉を聞いてはくれない。信じてくれない。自分自身ですら信じられない言葉を、誰かが信じてくれるはずもない。

 

喜怒哀楽も同じ。そんな無駄なことをする意味が、分からなかった。きっとその全てを、自分はあの病院に置いてきてしまったのだろう。それとも、目に映る死の世界が、何かを麻痺させたのか。

 

唯一の例外が、屋敷で会った洋装の少女だけ。何故、あの時自分が喋ったのか。感情を見せたのかは分からない。何にせよ自分は有間の家に引き取られてから、半年以上喋らなかったらしい。

 

どこか他人事のようにそれを覚えている自分がいる。人形である自分を見つめている、もう一人の自分。

 

起きて、食べて、また寝る。そんな生活の繰り返し。自分の部屋をもらったものの、そこから出ることはない。自らの殻に閉じこもる日々。唯一自分の意志で行っていたのが目を閉じ続けること。生きている実感が持てない自分でも、目を開けていることは嫌だったらしい。それとも、目を開けていることすら面倒だったのか。

 

それでも有間の両親は自分を親身に心配してくれた。声をかけ、手を差し伸べてくれた。でも分からなかった。どうして自分にそんなことをするのか。頭では分かっていた。識っていた。でも理解できない。そんなことに何の意味があるのか。だって無意味だ。無駄だ。そんな無駄なことをする意味が分からない。自分の子供ではないのに、そんなことをする意味が分からない。

 

単純な話。自分がない自分には、意味がなかった。人形である自分には、理由がなければ生きていけない。ゼンマイがなければ、人形は動けない。人間の振りも、できない。

 

だから、きっとゼンマイが切れてすぐに自分は動かなくなるんだな、と思っていた。

 

 

ただそんな中で、一つだけ、意味が分からないものがあった。

 

 

有間都古。

 

 

有間家の長女であり、遠野志貴のもう一人の妹。八年前はまだ小学生にもなっていない、小さな子供。

 

都古は突然家にやってきた自分を怖がることもなく、近寄って来た。たどたどしい言葉で、まだ自身の足取りすらおぼつかない姿で。そんな少女を、自分はただ物を見るように見つめていた。言葉を交わすことも、触れあうこともない。ただ同じ空間にいるから。それだけの理由。

 

そんな必要はない。自分は識っている。ならわざわざ接する必要もない。自分は全てを理解している。これから出会う人々のことを。知識として識っている。ならそんな無駄なことをすることもない。

 

今となっては、理解できない思考。何故自分がそんなことを考えていたのか。そもそもそれが自分だったのかすらあやふやだが、当時の自分は本気そんなことを考えていたらしい。いや、考えてすらない。計算式のように、ただ単純作業でそうしていただけ。

 

それからも自分は都古と接することはなかった。にもかかわらず、都古は変わらず自分へと話しかけてくる。部屋へとやってくる。自分に無視されている、相手にされていないことを気づいていないのか。それとも、ただ自分の部屋で遊びたいだけなのか。毎日毎日、飽きもせず自分へと接してくる。子供だからなのか、それとも他に理由があったのか。自分には都古の行動の理由が分からなかった。知識で識っているのに、分からない。知らない誰か。思えば、この頃から自分は壊れてしまったのかもしれない。一度壊れた機械を直した時に、何かが変わってしまったように。

 

 

きっかけは何だったのか。それは、確か泣き声だった。自分の部屋の外から聞こえてくる誰かの泣き声。何もしない。それが自分の在り方。だってそれは無駄なこと。余分なこと。なのに、その時の自分は違っていた。

 

 

理由も意味も分からない。なのに勝手に身体が動いていた。ゼンマイを巻かれた人形のように、人間の振りをするように。それでも自分は自らの手で扉を開けた。

 

 

それが自分が妹と初めて接した瞬間。そして今の自分を形作るものだった――――

 

 

 

 

 

「……悪いな。あんまり面白い話もなさそうだ。せいぜい都古に振り回されてたって事ぐらいしか」

 

 

思い返しながらも、とても誰かに言えるような真っ当な話ではないため切り捨てる。こんな話をしても琥珀には理解できないだろう。他でもない自分自身ですら理解できていないんだから。かといって琥珀に聞き返すこともできない。彼女がこの八年間どうしていたかなど聞くまでもない。いや、聞きたくなかったのかもしれない。だが

 

 

「――――あなたは、笑えるようになったんですね」

 

 

琥珀はどこか驚いているような、呆然とした雰囲気でそんな言葉を口にした。

 

 

そんな琥珀の言葉でようやく気づく。どうやら知らず、自分は笑っていたらしい。もしかしたら昔の自分を思い出して情けなくなったのかもしれない。

 

 

「笑えるようにって……俺、結構顔に出やすいと思うんだけど」

「いいえ、あなたは遠野の家に来てから、一度も笑っていません。わたしは一度も、あなたが笑っているのを見たことがありませんでした」

 

 

どこか大げさな琥珀の言葉に頭を捻るしかない。そういえば、確かに自分は遠野の家に行ってから笑っていなかったかもしれない。笑っていても、顔に出ていなかったのかもしれない。唯一思い出せるのが、翡翠をからかった時だがあの時は都古を思い出して笑っていたのだから違うかもしれない。

 

そもそも自分が笑っているかどうかなんて分からない。そんな意味がないこと、意識するまでもないのだから。だからこそ

 

 

「それを言うなら、俺も君が笑ってるのを――――」

 

 

見たことがない、と。出かけた言葉を寸でのところで飲み込む。何故そうしたのか分からない。そもそも自分が目を開けていないからなのか。それとも、彼女の感情が読み取れないからなのか。

 

 

「…………志貴さん?」

「いや、何でもない。そろそろ行こうか。あまり遅くなると学校をサボってるのが秋葉にばれるかもしれないし……」

 

 

これ以上この話題を続けたくない一心で、強引に立ち上がる。もしかしたら、それは嫉妬だったのかもしれない。八年前から、少女達に思ってもらえる遠野志貴への。白いリボンを贈ってもらえた、彼への。

 

 

「それに歓迎会のごちそう、期待してもいいんだろ? これだけ働いたんだからな」

 

 

ただ今は忘れよう。きっとそれが正しい。これまでと変わらないように、自分は自分なりに彼女達と接するしかないのだから。だがきっと少しだが、前に進んでいる。

 

 

何故なら自分は手を差し出していた。これまで、彼女に引かれるだけだったその手を。無意識に。だがはっきりと。まるで、八年前、扉を開けた時のように。

 

 

「――――はい。腕によりをかけて作りますね」

 

 

琥珀もまた、一瞬呆気に取られながらもその手を取る。わずかだが、いつもよりその手を強く握りながら――――

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

大きく息を吐きながらベッドに横になったまま天井を見上げる。何も見えないのは変わらないが、こうしているのが一番楽だった。今は屋敷につき、自分の部屋で休憩しているところ。琥珀の姿はない。きっと厨房で料理しているのだろう。あの量から考えるにきっと食べきれない料理ができるに違いない。

 

 

(自分の部屋……か。少しは、慣れてきたってことか……)

 

 

全く知らない部屋だったにも関わらず、わずかだが愛着ができたのか。それとも慣れてきたのか。今はもう最初ほど違和感を覚えない。自分の順能力の高さを誇るべきか、自分の鈍感さに呆れるべきか。とにもかくにもここでの生活にも慣れてきた。後は、ただ嵐が過ぎ去ってくれるのを願うだけ。

 

 

そう、あの赤いセカイを、死をどう乗り越えるか――――

 

 

「――――え?」

 

 

知らず、そんな声が出た。自分の思考に、自分が驚いている。そもそも、今自分は何を考えていたのか。それを意識するよりも早く

 

 

頭が割れるような、頭痛が襲いかかってきた――――

 

 

「――――っ!?」

 

 

瞬間、声にならない叫びを上げる。もはや反射だった。何も考える間もなく、体が動く、跳ね起きる。秒にも満たない間に、無数の思考が巡って行く。その全てを振り切りながら、ただ手で口を押さ耐える。しかし、無駄なことだった。

 

 

「うっ……!! うあ……あぁ……!!」

 

 

蹲り、ただ息を吐くように全てを吐きだす。胃にある全てを吐きだしながらもまだ足りないと。止まることのない嘔吐感。内蔵すらも必要ない、と言わんばかりにただ全てを吐き出す。呼吸もできない。する必要もない。今はただ、吐き出したかった。

 

 

目からは涙が、鼻からは鼻水が、口からは唾液が。その全てで顔はぐちゃぐちゃだった。まるでイヌのよう。できるのはただえづきながら、この頭痛と嘔吐感がなくなる時を待つことだけ。

 

 

「ハアッ……!! ハアッ……!!」

 

 

肩で息をし、口と胸を手で押さえながらようやく呼吸する。一体どれだけの時間、そうしていたのか分からない。ただ分かるのは、自分が生きているということだけ。だがそれが何よりも嬉しかった。苦しみよりも、ただそのことが愛おしい。だって自分はさっき――――

 

 

「―――っ!!」

 

 

呼吸することも忘れ、手を伸ばす。そこには自分の両目がある。ただ違うのは、そこにあり得ない熱があったこと。

 

 

「がっ……ああ……!!」

 

 

うめき声を上げながら、ただ目を覆う。アイマスクの上からでも目がつぶれてしまうのではないかと程の力で目を覆う。ただ熱かった。まるで、目が焼けているかのように熱い。このままでは、眼球が溶けてしまうのではないかと思う程に、目が痛い。先程の頭痛と嘔吐感すら可愛く思えるほどに。ただ痛みすら、どうでもよくなる。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。気が触れてしまったのかもしれない。何故なら

 

 

目を閉じているはずなのに、瞼の裏から死の線が見えた気がしたから――――

 

 

「ひっ……!?」

 

 

悲鳴とともにマスクを投げ捨て、目を開く。もはやそこに思考はなかった。さっき見えたものを否定したくて、目を開く。そこには変わらない、八年前と同じ死の世界がある。そうであったなら、どんなによかったか。

 

 

「何だ……これ……?」

 

 

それは線と点だった。見慣れた、そして逃げ続けてきた死の証。だがその数が、おかしい。その太さがおかしい。まるで世界が終焉に向かっているかのように、その数が増えている。その深さが増している。

 

天井に、壁に、床に線ではない物が、見える。点が、ぼやけているが点が見える。あり得ない。点が見えるのは人間だけ。生きている者だけ。物の死を、自分は理解できないはず。なのに、どうして点が見える。魔眼が強まっているのか。だがあり得ない。

 

自分はずっと目を閉じていた。魔眼が強くなる道理がない。そもそも昨日、翡翠を見た時にはこんなことはなかった。たった一日で、こんなことになるなんて有るわけがない。なのに――――

 

 

「志貴さん、お待たせしました。歓迎会の準備ができましたよ」

 

 

そんな中、いつものように心地いい、気に障る声と共に琥珀がやってくる。その姿を、自分は視界に収めてしまった。有間の家で見た時よりも多くの、深い死が彼女の体に纏わりついている光景。しかし、それだけではない。頭痛と共に、あり得ない物が頭に浮かぶ。

 

 

 

 

『――――志貴さん、わたし、あの時と変わってますか?』

 

 

微笑みながら少女は問う。八年前の、洋装した少女の姿が脳裏に浮かぶ。生気のない、虚ろな目をした儚げな姿。だが今は違う。目には光が、笑みには見る者を癒すような温かさがある。もし八年越しの再会なら、双子の別人だと思ってしまうほどに彼女は変わっている。だが

 

 

『――――変わってない。君は、八年前と全く変わってない』

 

 

全く間をおかず、思慮することなく。ただ単純に、心からの本音を自分は吐露した。

それはきっと彼女だけでなく、自分にも向けた言葉。

 

 

 

 

『嬉しいです……実は、ちょっと翡翠ちゃんが、羨ましかったんです。だから……』

 

彼女はその眼に涙を流しながら笑う。いつもと同じように、それでも救われたと。涙の色は透明ではなく、深紅。人形ではない、人間である証。そんな当たり前のことに気づきながら、それでも彼女は変わらない。いや、違う。変わらないのは――――

 

 

 

 

「……っ!? 志貴さん、どうかされたんですか!?」

 

 

目を見開き、驚愕しながら琥珀は悲鳴のような声を上げる。そこでようやく自分の姿に気づく。衣服は乱れ、ベッドには嘔吐物。加えて顔は涙や唾液でぐちゃぐちゃ。とても普通ではない。加えて外出によって自分が疲労したことを知っているからこそすぐさま自分の身を案じ、駆け寄ってくる。

 

 

どこか他人事のようにそんな琥珀の姿を視界に収める。先程思い出した記憶が何なのか。そして、自分はどこかで同じような光景を目にしている。ベッドに嘔吐した自分と自分に近づいてくる誰か。変わらないのは、その死の線と、点、だ、け――――

 

 

「――――触るなっ!!」

「きゃっ!?」

 

 

電光石火のような速さと激しさ。間一髪のところで目を閉じ、そのまま力任せに自分に触れようとした琥珀を突き飛ばす。そこに容赦も遠慮もない。ただ無造作に男性の力を振るわれた琥珀は悲鳴とともに床に転んでしまう。しかし今の自分にあるのは安堵感だけだった。

 

 

(あ、危なかった……!! もし、あのまま気づくのが遅かったら……!!)

 

 

背筋が凍る。息が止まる。今の自分は、目を開けている。そのことに気づくのが一瞬遅れた。もしあのまま琥珀が自分に触れてくればどうなるか。いや、自分が琥珀に触れてしまえばどうなるか。死の線と点。それに触れてしまえば、人間はひとたまりもない。例外なく線によって体が崩れ、点によって体は死滅する。それが自分が目を閉じているもう一つの理由。自分が死ぬことでなく、触れた相手を壊してしまうこと。目を閉じなければ自分は他人と触れあうことすらできない。長く目を閉じていたせいで、そんな当たり前のことを忘れかけてしまっていた。

 

 

いや、違う。自分は思い出しただけ。あの時も、同じように都古を――――

 

 

「……っ! こ、琥珀さん? だ、大丈夫か……!?」

 

 

一瞬の思考停止の後、目をしっかりと閉じながら琥珀へと手を伸ばす。だがその手が届いているのかすら分からない。あるのは罪悪感だけ。自分の身を案じた琥珀を力づくで払ってしまったのだから。

 

 

「いいえ、大丈夫ですよ志貴さん。志貴さんこそお身体は大丈夫ですか?」

 

 

だが琥珀は全く動じることなく、いつもと同じように答えを返してくる。それが、異常だった。つい先ほど、理不尽な暴力を振るわれたと言うのにそこには全く怒りも悲しみもない。普段通りの彼女がいるだけ。自分を案じてくれる言葉は真実なのだろう。だがそれ以上に彼女自身の反応がただ、怖かった。

 

 

ただ思った。まるで、人形のようだ、と――――

 

 

そのままただ、琥珀と見つめ合う。分からない。一体何が起こっているのか。自分は気が触れてしまったのだろうか。自分が、何なのか、分からない。そんな中

 

 

「――――志貴さん、その眼、は」

 

 

琥珀は何かに魅入られるように言葉を漏らす。だが一体何を言っているのか。確かに自分が目を開けていることは珍しい。でも、そんなに驚く理由がどこに――――

 

 

そのまま、吸い込まれるように部屋にある鏡へと視線を向ける。目を開けようとはしない自分には無用であった調度品。だがそれが、今の自分の姿をはっきりと映し出す。

 

 

何年振りか分からない自分の姿。自分の死の線と点。だが、何よりも違うこと。それは

 

 

 

自らの両眼が、蒼く光っていることだけ。

 

 

 

 

ここに日常は終わりを告げる。代わりに新たな刻が刻まれる。

 

 

人間の振りをしている人形と、人形の振りをしている人間。

 

 

そのどちらが正しいのか、間違っているのか。

 

 

その答えが出る時が今、ようやく訪れようとしていた――――

 

 

 


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