月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第十二話 「琥珀」

―――いつからだろう。目を開けなくなったのは。

 

 

――――いつからだろう。耳を塞いだのは。

 

 

――――いつからだろう。言葉を発さなくなったのは。

 

 

 

 

ただイタかった。体が、心が。でも、我慢するしかなかった。だってわたしは、お姉さんだから。だから、妹を守らないといけない。翡翠ちゃんを守れるのは、わたしだけなんだから。

 

怒ることも、泣くこともできない。そんなことをすれば、もっとイタくなる。もっとイタイことを、される。何もしないで、いるしかない。

 

でもイタイ。イタイのは、なくならない。初めは逃げようと考えていた。このお化け屋敷みたいな牢獄から。大きな怪物から。でもそんなことできなかった。できるのは、ただ文字を書くことだけ。

 

タスケテ。

 

それだけ。四文字の、それでもわたしの心。誰かが、きっとタスケテくれる。そんなことを信じて、ただノートに書き続ける。もう、自分が何を考えているのか分からなくなるほどに。機械のように、人形のように。

 

でも何も変わらなかった。何度目が覚めても、世界は変わらない。イタイのも、なくならない。なら、人形になるしかない。

 

 

認めた瞬間、痛みが無くなって行く。消え去っていく。

 

 

体は脈打つのを止め。

 

血管は一本ずつチューブになって。

 

血液は蒸気のように消え去って。

 

心臓もなにもかも、形だけの細工に、なる。

 

 

これで、イタくない。もう、我慢しなくていい。だって人形なんだから。どんなにぶたれても、酷いことをされても。わたしじゃないんだからイタくない。

 

外で遊んでいる翡翠ちゃんも、秋葉様も、志貴様も。それを見る自分も。

 

なのに、忘れられない。どうしても、思い出してしまう。あの時の彼の姿と、言葉を。

 

自分以上に何もなくて、今にも壊れてしまいそうな人形。

 

彼なのに、彼ではない誰か。

 

ただ待ち続ける。あの時の約束の答えを。彼が正しかったのか。それともわたしが正しかったのか。

 

 

八年間、ただずっと――――そのどちらの答えを、自分が望んでいるのか分からぬまま。

 

 

 

 

 

フクシュウ。

 

 

それが、今のわたしの行動理念。理由は、特にない。ただ、人間だったらそうするだろうな、と思っただけ。あんなに酷いことをされたんだから、きっとそうするはず。それに、わたしにはゼンマイが必要だった。

 

だってそうだ。わたしは人形なんだから、ゼンマイがないと動けない。生きていけない。だからそれをゼンマイにしよう。別に、わたしは誰かを恨んではいない。槙久様も、四季様も。それを選んだのは、ただそれ以外になかったから。

 

ただ一つだけ、意味が分からないものがあった。いつも、広場からわたしを見上げてくる男の子。でもそれも、なくなった。なら、もうそれしかない。

 

そもそもわたしには、誰かを恨む、ということが分からない。それがどんなことなのかも。

 

 

 

 

彼が誰であるかは、わたしには分からなかった。彼自身、それが分かっていないかもしれないのだから当たり前だ。ただ一つ分かるのは、彼が遠野志貴ではないということだけ。

 

八年前のあの時、小さかったわたしでもそれだけは分かった。彼が自分でそう口にしたからではない。人形のわたしから見ても、彼は人間ではなく、人形だったから。きっとそうなんだろうと。

 

そんな彼が今、八年ぶりに遠野の屋敷へと戻ってきていた。付き人であるわたしは、彼を起こすために部屋へと向かっている。もう目を閉じていても歩ける程に慣れてしまった廊下を歩きながら。なのに、その歩幅が違うのは何故だろう。速さが違うのは何故だろう。人形の自分が、ズレることなんてないはずなのに。

 

 

そう、自分はただ動いてきた。機械のように、人形のように。ただ目的を果たすために。

 

 

四季様を懐柔し、槙久様を殺させ、秋葉様に血を与え、準備を重ねてきた。こんなただの少女の言葉に、みんな簡単に踊らされている。わたしが何となくこうなったらいいな、と思う方向に全てが流れていく。わたしはただ笑っているだけ。それ以外に自分がどんな顔をすればいいのか分からない。知らない。ただ笑っているのだから、わたしはきっと嬉しいんだろう。

 

ただ一つ、問題があった。本当なら、このまま四季様と秋葉様を殺し合せて、生き残った方を志貴様に処理してもらう手筈だった。でもそれはできない。志貴様はもういないのだから。彼にはきっと、それはできない。だから、彼に戻ってきてもらう必要はなかった。無駄な、意味がないこと。なのに自分は彼を説得して、屋敷へと連れ出した。

 

初めて、自分が何をしているのか分からなかった。彼は、わたしのゼンマイの役には立たない。確かに志貴様の身体は持っているかもしれない。でも、彼は志貴様ではない。秋葉様も、翡翠ちゃんもそのことは知らない。わたしだけが知っている。

 

 

思えば、その瞬間から、わたしは壊れてしまっていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

「おはようございます、志貴さん。起きてらっしゃいますか?」

 

 

ノックをしながら中にいるである彼に挨拶する。付き人としての初めての仕事。朝、主人の起床を手伝うこと。もっとも彼はそんなことはしなくていいと言ったのだけれど、無理にさせてもらっている。その方が何となく楽しそうだったから――――では、ない。そう、違う。わたしは『翡翠』なんだから。志貴様を慕うのは当たり前で

 

 

「……? 志貴さん、まだ寝てらっしゃるんですか?」

 

 

いつまでたっても返事がないことに気づき、先程よりも大きなノックと声で挑むも返事はない。もしかしたら中には誰もいないのではないかと思うほどに、静寂だけが残る。その後、何度も挑戦するも結果は同じ。このままでは埒が明かない。初日から彼を起こせなかったとなれば秋葉様に何を言われるか分からない。何よりも、このまま引き下がるのは嫌だった。

 

 

「志貴さん……失礼しますよ……?」

 

 

まるで盗みに入るように、何故か小声で挨拶しながら部屋へと入る。幸いにも鍵はかかっていないので問題なく侵入できた。そこには、ベッドと最低限の調度品しかない殺風景な光景が広がっていた。新しい主が住んでいるはずなのに、驚いてしまうほど彼の私物は少なかった。曰く、生活する上で邪魔だかららしいのだがそれにしても度が過ぎるのではと思ってしまうほど。知らず、息を殺し、足音を消しながらゆっくりとベッドへと近づく。

 

 

「…………志貴さん?」

 

 

そこには彼がいた。遠野志貴の姿をした、知らない誰か。自分だけが知っている、誰か。ただ何の反応も見せず、この部屋の主は寝息を立てている。微動だにしない。微かに、胸が上下しているだけ。もしそれなければ、本当に生きているのかを疑ってしまうほどに彼の眠りは深かった。

 

どうやら自分の声も、気配も全く意に介していないらしいことに知らず溜息を吐く。一体何のためにここまで気を遣っていたのか、と呆れてしまう。だが同時にある名案を、悪巧みを思いつく。

 

 

「志貴さん……起きられないなら、無理やり起こしちゃいますよ?」

 

 

眠っている彼を無理やり起すという悪戯。知らずクスクスと笑ってしまう。それによって起こる結末と彼の反応。きっと見物に違いない。でも自業自得だろう。これだけ起こそうとしても起きないのだから、後は実力行使しかない。

 

まるで鬼ごっこをするように、わたしはこそこそと彼へと近づいて行く。鬼ごっこなんてしたことはなかったけれど、きっとこんな感じなんだろうと思いながら。そのままベッドへと乗り出し、彼を正面から見据える。誰かが見れば、きっとわたしが彼に覆いかぶさっているように見えるかもしれない。

 

だが、それでも彼は目覚めない。こんなに目と鼻の先にいるのに、自分に気づかない。

 

 

「…………む」

 

 

知らず、唸ってしまう。何だろう。何故か、腹がたった。腹がたったような気がした。よく分からない感情。彼は変わらず寝息をたてている。アイマスクをしながら寝ているのでもしかしたら寝ているふりをしているのかと疑ったが間違いない。彼は間違いなく眠っている。自分がこんなにも四苦八苦しているのに。

 

なら後はどうやって驚かす、ではなく起こすか。手を動かしながらさらに近づいて行く。くすぐってやろうか。それとも耳を引っ張ってやろうか。それとも鼻をつまんでやろうか。でもそんな考えは

 

 

彼の安らかな寝顔を見つめているうちにいつの間にかなくなってしまった。

 

 

「――――」

 

 

ただその顔に魅入られる。もしかしたらこのまま目覚めないのではと思ってしまうほどに静かな、深い眠り。息を吹きかければ、消えてしまうのではないかと思うほどに、儚い何か。蜃気楼のような存在。

 

 

知らず、自分の顔が彼の顔に近づいていることに気づく。少しずつ、距離を詰めるように。目と鼻の先に、互いの顔がある。視線が、彼の唇へと注がれる。何でそんなことをしているのか、分からない。もしかしたら、昔どこかで読んだ童話の真似をしているかもしれない。もし、それをして彼が起きたらどうなるだろう。起きなければ、どうなるだろう。自分は、どっちを望んでいるのだろう。

 

 

定まらない、熱に浮かされるように衝動に身を任せようとした瞬間

 

 

「ん…………」

 

 

彼が目覚めようとしていることで、自分の動きは止まった。

 

 

「っ!?」

 

 

そこで声を漏らさなかったのは奇跡に近かった。唇が触れる寸前であったこともあり、慌てながら、それでも音を立てることなくベッドから離れる。幸いにも彼はまだ完全に目覚めていない。そのまま気配を消したまま部屋を後にする。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

ドアにもたれかかりながら息を吐く。そこでようやく、わざわざ部屋の外にまで逃げる必要がなかったことに気づく。自分が何をしているのか、よく分からない。だが知らず、指で自分の唇に触れる。触れてはいないが、彼の熱がそこにあるかのように。

 

 

だがいつまでもそのままではいられない。わたしは演じなければ。わたしは、人形なのだから。

 

 

「失礼しますよ……あ、ようやく起きられたんですね。おはようございます、志貴さん」

 

 

いつもと変わらない、わたしはワタシの声で挨拶しながら彼の部屋に入る。付き人として主人を起こすために。何食わぬ顔で。まるで初めてこの部屋に入るように。

 

 

それでも、身体に残る熱っぽさは、しばらく消えることはなかった――――

 

 

 

 

 

次の日の朝も、わたしは彼の部屋にいた。変わらず、彼は静かに眠り続けている。自分はただ、そんな彼の姿を少し離れた所から見つめている。

 

昨日と違うのは、ノックも挨拶もせずに部屋に入ったこと。きっと、それをしても彼が起きないのは分かり切っていたから。でももしかしたら、わたしは彼を起こしたくなかったのかもしれない。

 

そのまま何をするでもなく、ただ時間が流れる。ゆっくりと、どこか心地いい時間。知らず、そのまま自分も眠りに就いてしまうような穏やかさ。

 

昨日のように、彼に近づこうとしないのは何故なのか。わたしには分からない。ただ、今の関係を壊したくないと、わたしは思って―――そんなはずはない、と気づく。

 

 

だって、わたしは彼に――するために――――

 

 

気づきかけた答えに蓋をしながら、部屋を去る。ただ逃げ出すように。それに気づいてはいけない。そうなったら、きっとわたしは、人形でいられなくなるから――――

 

 

 

 

 

厨房で作業しながら、ちらりと食堂の様子を盗み見る。そこには彼と、対面するように座りながら食事している秋葉様の姿がある。秋葉様はいつも変わらないようにしているが、やはりどこか浮足立っている。対して彼は、それに気づいているのだろうか。ただ、居心地が悪そうにしている。

 

その理由が、わたしには分かる。彼がきっと、罪悪感に苛まれているのだろうと。秋葉様を、翡翠ちゃんを騙していることに。もしかしたら、わたしもそこに含まれているのかもしれない。でも、それは口にはできない。それを知っていながらわたしは、彼をここへ連れて来たのだから。ただ、その理由だけがまだ――――

 

 

「――――姉さん、何か手伝うことはある?」

「翡翠ちゃん? もう仕事はいいの?」

「ええ。秋葉様の送迎の準備はもうできたわ」

 

 

いつの間にか翡翠ちゃんが傍までやってきていた。自分の代わりに秋葉様の付き人をさせてしまっているがもうすっかり板についている。本当なら、志貴様の付き人になりたいだろうに全くそんな素振りを見せることはない。もっとも、どちらがいいのかは分からない。志貴様はもう、いないのだから。

 

 

「流石翡翠ちゃんですね。でも大丈夫。もうこっちも終わりましたから」

 

 

昼食の準備を終えたまま改めて翡翠ちゃんと向かい合う。双子なため、わたし達は容姿も同じ。なのに、決定的に何かが違う。いつからそうだったのかは分からない。もしかしたら、昔とは何も変わっていないのかもしれない。

 

 

「そういえば、朝、志貴さんはどうでした? 中々起きてくださらなかったでしょう?」

 

 

自分の意味のない思考を断ち切るように翡翠ちゃんへと話しかける。話題は朝と同じ。翡翠ちゃんが彼を起こした時のこと。秋葉様の命令で今朝は途中から翡翠ちゃんが起こしに行くことになった。もっとも彼を起こそうとしなかったわたしのせいではあるのだが、やはり翡翠ちゃんが起こしに行ってすぐに起きたのは悔しい。そんなからかい半分の嫌味。

 

 

「ええ。でも起きられてからはすぐだったわ。ただ……」

 

 

でも翡翠ちゃんはどこか不機嫌そうにしている。その理由が分からない。

 

 

「何かあったの……?」

「ううん。ただ笑われてしまったのが、少し恥ずかしかっただけ……」

 

 

翡翠ちゃんは思い出したのか、少し顔を赤くしている。どうやら自分が狼狽したところを彼に見られたため恥ずかしがっているらしい。付き人として完璧な自分を見せたかったからなのだろう。でも今はそんな翡翠ちゃんの姿すら、目には映っていなかった。あるのは

 

 

「志貴さんが……笑っていたんですか?」

 

 

彼が笑っていた。その一点だけ。

 

 

「……? そうだけど、どうかしたの、姉さん?」

 

 

不思議そうに翡翠ちゃんが話しかけてくる。でも、不思議なのは、驚いているのはわたしの方。

 

彼が笑っているのを一度も、わたしは見たことがなかった。八年前とは、別人のように変わっていた彼。でも、有間の家で再会してから一度も笑っているところだけは見たことがなかった。まるで、自分はここでは笑ってはいけないのだと決めているかのように。

 

わたしは笑っている。でも彼は笑っていない。内と外で、違っているのかもしれない。自分は笑顔を作ることができるけど、自分が笑っているのかは分からない。彼はどうなのだろうか。

 

でも、何故か胸がざわついた。わたしはまだ見たことがないのに、翡翠ちゃんは見ている。翡翠ちゃんには見せてくれるのに、わたしには見せてくれていない。なら――――

 

 

「……ううん、何でも。さあ、翡翠ちゃんそろそろ動きましょうか。秋葉様達もお食事が済まれたようですし」

 

 

急かすように二人で厨房を離れ、それぞれの主人の元に向かう。自分と彼はこれから買い物に出かけ、翡翠ちゃんは秋葉様の送迎がある。なら、できる。

 

彼が部屋に戻り、翡翠ちゃんが秋葉様をお送りしているのを確認した後、すぐさま自室に戻り着物を脱ぎ捨てる。代わりに、袖を通すことのないはずの物に手を伸ばす。

 

メイド服。妹が身につけているものであり、同時に自分と妹を見分けるためのもの。一瞬の間の後、それを身につける。身も心も、翡翠に為り切る。

 

着物ではなくメイド服を。カラーコンタクトによって琥珀の瞳ではなく、翡翠の瞳に。髪にリボンではなくカチューシャを。

 

姿見の鏡の前には、見間違うことなく『翡翠』がいた。秋葉様ですら、気づかないであろう。その姿で彼の元へと向かう。本当なら、姿を偽る必要はなかった。彼は目を開けないのだから。なら声を変えるだけでいい。でも、そうする必要があった。

 

翡翠ちゃんには笑顔を見せてくれた。なら、わたしも翡翠ちゃんの振りをすれば見せてくれるかもしれない。そんな子供みたいな理由。

 

本当は確かめたいこともあったけど、その時のわたしはそのことしか頭にはなかった。迷っている暇はない。早くしなければ翡翠ちゃんが戻ってきてしまう。その前に――――

 

 

 

「――――失礼します、志貴様。宜しいでしょうか」

 

 

わたしは、『翡翠』を演じながら彼の前に出た。

 

 

知らず、緊張していた。彼は、目ではなく耳で生活している。視るのではなく聴くことで。だから声だけで気づかれてしまうのではないかと。

 

だから細心の注意を払いながら演じた。一部のブレもない、完璧な『翡翠』

 

本物なのに、偽物である矛盾。演じているうちに、わたしが琥珀だったのか、翡翠だったのか分からなくなりそう。

 

その甲斐(せい)もあり、彼はわたしが琥珀であることに気づかなかった。気づいて、くれなかった。

 

何を思っているんだろう。気づいてほしくなかったはずなのに、どうして。どうして悲しんでいるわたしがいるのか。

 

当たり障りのない会話をしながらも、本題に入ることにする。いつまでもこのままでは、翡翠ちゃんに見つかってしまう。いつまでも、このままで、いたくない。

 

 

「志貴様……一つ、お願いしても宜しいですか? もし、難しければ構いませんので……」

「お願い……?」

 

 

呆気に取られている彼を見ながらも、その先を口にする。自分が確かめたいことの前に、彼にそれをしてほしい。

 

 

「はい。わたしを、その眼で見て頂けませんか……? 一瞬でも構いませんので……」

 

 

『翡翠』の姿をしている自分を見てほしい、という願い。

 

 

本当なら、琥珀のわたしを見てほしかった。見てほしいと言いたかった。でも、わたしは有間の家で見られた時に、目を逸らされてしまった。それが、悲しかった。悲しいなんて、思うはずないのに、そんな気がした。

 

 

彼は戸惑いながらも、翡翠を見てくれた。彼はわたしを見ていない。でも、何故か嬉しかった。悲しかった。声で気づかないのに、見て気づくはずがないのに。ココロのどこかで、期待していたわたしがいた。

 

 

「志貴様は……本当に八年前の事故から前のことは覚えてらっしゃらないですか?」

 

 

だから、機械のように用意していた質問を口にする。確認作業。それをするために、わたしはここに来た。もうお膳立てはできている。本当は、彼の笑顔が見てみたかったが、そんな時間はない。なら、一番知りたいことを。

 

 

「……でしたら志貴様。わたしと八年前、事故の後に屋敷でお会いしたことも覚えてらっしゃいませんか?」

 

 

八年前、わたしと会ったことを彼が覚えているかどうか。ただそれだけ。あの日の約束を、覚えているのかどうか。いや、それはまだいい。それでも自分と会ったことを覚えていてほしいと。

 

でも同時に、気づいてほしくはなかった。今のわたしは『翡翠』の姿をしている。わざわざその姿を見せてもいる。もし、八年ぶりの再会なら『翡翠』があの時会った洋装の少女だと、誰しもが思うだろう。なのに、そんなズルをわたしはしている。きっと、気づいてほしかったのだろう。ならない、と分かっていながらも。

 

 

「……いや、覚えてない、な」

 

 

一体どれだけの時間が経ったのか分からない静寂の後、彼は口にする。覚えていないと。一番あり得る、当たり前の答え。八年前のことなんて、きっと覚えている方がおかしい。小さな子供であればなおさら。おかしいのは、そんなことをみっともなく覚えている、わたし。

 

 

勝手に期待して、勝手に失望する。まるで人間のような――――

 

 

 

「――――琥珀さんとなら会ったことがあるんだけど」

 

 

瞬間、息を飲んだ。身体が勝手に動くのを、生まれて初めて体験した。今、彼が何と言ったのか分からない。理解できない。言葉にできない感情が胸を支配する。ただ分かること、それは

 

 

彼が、八年前のことを覚えていると言うことだけ。

 

 

いや、それだけではない。彼は、気づいてくれた。『翡翠』の自分をさっき見ながらも、八年前の少女が琥珀であると。入れ替わっても誰も気づかないくらい、見た目も、性格も変わった自分が、『琥珀』であると、彼は知っていてくれた。

 

 

「――――」

 

 

知らず、温かい物が頬を伝う。わたしはそれが涙なのだと気づいたのは、部屋を後にしてからだった。

 

 

ただ自分が笑っていることだけは分かった。いつかと同じように、手で触れて分かる。わたしは今、笑っている。でもやめないと。今のわたしは『翡翠』なのだから。笑ってはいけない。なのに、できない。わたしが、わたしではないみたいに。

 

 

必死に、自分を抑えながら彼の前から離れる。気づかれただろうか。変ではなかっただろうか。でも今は、ただ胸が高鳴るのを抑えられない。分からない。どうして、こんなに―――のか。

 

 

もう、自分が『翡翠』を演じていることも忘れたまま、わたしは自分の部屋へと戻って行く。その足取りが、身体が軽かったのは、きっと着物よりも翡翠の服が軽かったからなのだろう――――

 

 

 

 

 

それから、買い物という名目で彼を外に連れ出した。荷物を持ってほしいと言うのも嘘ではないが、一緒に外出してみたかった。『翡翠』は『遠野志貴』と恋がしたかった。だからわたしもそうしているだけ。

 

 

でも、おかしい。どうして、こんなに楽しいのか。嬉しいのか。

 

 

わたしは知っている。彼が『遠野志貴』ではないのだと。なのに、どうしてこんなことをしているのか。

 

 

その答えを遠ざけながら、わたしは彼の笑顔を初めて目にする。これまでの八年間を思い出しているうちに、彼は自然に笑みを浮かべていた。きっと、そうできるほどに彼の八年間は意味があったのだろう。

 

 

「――――あなたは、笑えるようになったんですね」

 

 

ただそう、言葉が漏れた。心からの本音。

 

 

『あなた』

 

 

遠野志貴ではない彼を、呼ぶ時のわたしの呼び方。彼の本当の名前は分からない。本当ならわたしがそのことを知っていることを口にしたかった。でもできなかった。

 

それをすれば壊れてしまう。彼は、遠野志貴を演じているからわたし達と繋がっている。もしそれがなければ、彼はきっといなくなる。だから、わたしは知らないふりをしている。演じている。人形になっている。

 

 

「それを言うなら、俺も君が笑ってるのを――――」

 

 

彼が何かを口にしかけて止めてしまう。きっと、止めたのはわたしと同じ理由。先の言葉を口にすれば、何かが壊れてしまうから。

 

 

そんなことをしなくて、いずれ壊れてしまうのは変わらないのに――――

 

 

「それに歓迎会のごちそう、期待してもいいんだろ? これだけ働いたんだからな」

 

 

それなのに彼は手を差し出してくる。どこか照れくさそうに。わたしは呆気に取られてしまう。だってそれは初めてだったから。

 

 

彼の方から、わたしに触れようとしてくれたのは。

 

 

「――――はい。腕によりをかけて作りますね」

 

 

いつもと同じように笑いながらわたしはその手を握る。少しだけ、いつもより強く力を込めながら。

 

 

 

思えば、彼と触れあったのはこれが最後だったかもしれない。

 

 

こんな日常が続くはずがないと思っていたのに。それでも思わずにはいられなかった。

 

 

蒼い双眼。

 

彼がその眼を晒してから、全てが壊れていった。彼は部屋から出ることができなくなり、少しずつ変わっていった。

 

頭痛と吐き気によって苦しむ彼。それをどこか他人事のように見つめているわたしがいる。だってそうだ。わたしは、そのために、これまで生きて来たのだから。

 

彼は、壊れて行く。違う。戻って行く。

 

いつかの姿が思い浮かぶ。八年前、会った男の子。その瞳。

 

そこには何も映ってはいなかった。生気を感じさせない、虚ろな眼。本当に自分を見ているのかどうかすら疑わしい瞳。ただ思った。

 

 

――――まるで、人形のようだ、と。

 

 

そんな彼の姿に目を奪われながらも、わたしは伝える。演じながら、有間の家からの電報を。有間都古がいなくなってしまったことを。

 

 

瞬間、何も映していなかった彼に瞳に光が灯る。わずかな、それでも確かな意志。まだ彼の中に、人間が残っているのだと。

 

 

同時に彼女は予感した。確信に似た直感であり、未来。

 

 

きっと、もうすぐ『彼』がいなくなるだろうという、結末を――――

 

 

 


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