月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第十四話 「月世界」

――――ふと、目を覚ました。

 

 

辺りには何もない。自分が横になっていたベッドだけ。それ以外は何もない、殺風景な部屋。ただ寝るためだけの、それ以外の用途のない場所。

 

 

そのまま無造作に立ち上がる。同時に、自らの性能を確認する。全て、異常なし。衝動はあるが、抑えきれないレベルではない。自らの役目を果たすために、ただそれだけのためにこの身はある。

 

それがわたしが作られた理由であり、存在理由。それ以外の物はいらない。

 

だってそれは無駄なこと。それはきっと、身体を鈍らせる。だから切り捨てる、洗い流す。

 

眠りすら、作業でしかない。夢など見ない。寝ている間に見るのは瞼の裏だけ。そも眠る必要すら自分にはない。体力の回復は純粋な時間経過だけでいい。

 

自らの両手を見つめながら、悟る。これが、最後の機会。もう、次はない。明確な事実。だからこそ、これまでと変わらずわたしは繰り返す。ただ、そう在り続ける。

 

死者を狩り、城を見つけ出し、蛇を滅する。ただそれだけ。三日もあれば、終わるであろう作業。今まで十数回、繰り返して来たこと。

 

ふと、空を見上げる。そこには変わることないわたしがいる。千年前から変わることのない、月。

 

その明りに照らされながら、部屋を後にする。その先にあるものは変わらない。今までと同じ繰り返し。それでも、もう次はない最後の刻。それでも、彼女は変わらない。

 

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』は舞台に上がる。最後の舞台へ。その先に何があるか、未だに知らぬまま――――

 

 

 

 

厳かさを感じさせる食堂。本来なら中央にある大きなテーブルで大人数で食事をするはずの場所。しかし今は、一人の少女が静かにその場を支配していた。

 

遠野秋葉。

 

遠野家の長女であり現当主。学生の身でありながら既に彼女は完成している。所作も、振る舞いも、誰しもが当主足ると認めざるを得ない。窓から差し込んでくる朝日が彼女の長い髪を照らし出し、どこか幻想的な光景を作り出している。まるで、髪が朱くなっているかのように。

 

だが、完璧である彼女にも今はわずかな陰りが見える。その表情には確かな憂いが浮かぶ。

 

 

「――――琥珀。今日も兄さんは体調が優れないの?」

 

 

一度、食後の紅茶に口にした後、視線を向けながら秋葉は問う。それを証明するように、秋葉の前には本来いるはずである人物がいない。あるのは無人の椅子だけ。

 

遠野志貴。遠野秋葉の兄であり、普段であれば朝食を共にするはずの存在。彼が家に戻ってきてから一週間近く経つが、結局朝食を共にできたのは数回。彼が朝に弱い、というのも大きな理由だが、何よりも最近は体調が優れていないのが原因。秋葉自身も何度かお見舞いに行ったが兄の不調は明らかだった。元々、彼は貧血、眩暈持ちでもある。しかし、このままずっと続くようなら何か手を打たなければならない。秋葉は、誰よりも兄の体が常人とは違うことを理解しているのだから。

 

 

「はい。まだ起きるのは難しそうです。でも、昨日よりは良くなっていると思いますよ。あと数日は安静にしているのがよいかと」

 

 

琥珀はいつもと変わらぬ笑みを浮かべながら秋葉へと答える。秋葉はそんな琥珀の姿に一度目をやりながらも目を閉じる。琥珀は遠野志貴の付き人であると同時に、その体調管理も任されている。事実、薬剤師の資格も持っており、秋葉自身の体調管理も一任している。だからこそ、一瞬秋葉は迷う。このまま、琥珀に任せていいのかと。琥珀が、兄に危害を加えるとは考えにくい。あるとすれば、自分に対して、遠野の家に対してだろう。琥珀がそれを望むなら、構わない。彼女には、その資格があるのだから。

 

 

「そう……一度、顔を見に行ってもいいかしら。昨日は結局一度も顔を見ることができなかったのだけれど」

「そうですね……ですが、おやめになった方がよろしいかと。志貴さんも、弱っているところは秋葉様には見られたくないと仰っていましたし。今朝はよく眠られていますから、そっとして差し上げた方がいいと思います」

「……分かったわ。琥珀、兄さんのこと宜しくね」

「はい。お任せ下さい、秋葉様」

 

 

一度、兄の姿を見ておきたい衝動にかられるも、琥珀の言葉で思いとどまる。誰であっても、床に伏せている姿は見られたくないものだ。事実、おととい目にした兄の姿は痛々しいものだった。明らかに、自分がその場に行くことで余計な負担をかけてしまうと悟ってしまうほどに。なら、もう少し体調が戻ってからの方がいいだろう。自分では、兄の苦痛を和らげることはできないのだから。だがもし、兄の体調不良が―――によるものなのだとしたら――――

 

 

「じゃあそろそろ行くわ。翡翠、用意を」

「はい。秋葉様」

 

 

全ての憂いを振り払うように、優雅にその場に立ち上がりながら遠野秋葉は食堂を後にし、学校へと向かう。食堂の入口で控えていた翡翠も、流れるように後についていく。いつもと変わらない朝の風景。違うのは、新しくやってきた、戻ってきた少年の姿がないことだけだった――――

 

 

朝食の後片付けを済ませ、琥珀はそのまま何をするでなく立ち尽くしていた。知らず、今は主がいない、彼の席の前にいるだけ。

 

つい最近まで、彼はここで食事をしていた。きっと彼にとっては苦痛以外の何者でもなかったであろう秋葉様との会食。それでも楽しかった。困った顔をしながらも、秋葉様の嫌味と言う名の好意に晒され、わたしのからかいにも応えてくれていた。でもそれが今はもう遠い昔のことのよう。

 

 

「志貴さん…………」

 

 

どうして、こんなことになってしまったんだろう。何が間違っていたのか。そもそも自分は何をしたかったのか。何故こんな気持ちになるのか。彼が苦しんでいる姿。動くことができず、昔に戻って行く彼の姿。それは、自分が望んでいた物。わたしのフクシュウだったはず。なのに、どうして――――

 

 

「――――姉さん、何をしているの?」

「翡翠ちゃん……?」

 

 

いつの間に戻ってきていたのか。翡翠ちゃんの声でようやく現実に引き戻される。振り向けば、いつもと変わらない無表情でありながらも、わずかに不安そうな色を隠し切れていない妹の姿。きっとそれがわたしと翡翠ちゃんの違い。わたしが演じる『翡翠』では、無表情はできても、その上に感情を重ねることはできない。

 

 

「ごめんね、ちょっとぼーっとしてたみたい。翡翠ちゃんはこれからお掃除ですか? ならわたしは志貴さんの看病に」

 

 

すぐさまいつも通りの自分を取り戻し、そう誤魔化そうとするも

 

 

「……姉さん、やっぱり志貴さまはまだ戻られてないのね」

 

 

そんなわたしの嘘を簡単に、翡翠ちゃんに見破られてしまった。

 

 

「……翡翠ちゃん、知ってたんですか?」

「ええ。昨夜、有間の家から電話があった後に、志貴さまがお屋敷を出て行くのを見たから。朝、お部屋にいらっしゃらなかったのも」

「そうですか。じゃあ秋葉様も……?」

「秋葉様は御存知ないわ。でも、いつまでもは誤魔化せない。それは姉さんが一番分かってるでしょう?」

 

 

翡翠ちゃんの言葉は全て正しい。どれをとっても反論できないもの。でも何だがおかしい。いくら慌てていたといっても、こんなに簡単にバレてしまうほど、わたしは分かりやすくなかったはず。いつものわたしなら、こんなに動揺しないはず。まるでそう、これではまるで。わたしは、まだ彼が帰ってきていないことを認めたくないかのよう。

 

 

「志貴さまは、都古さまを探しに行かれたんでしょう? なのにどうして……都古さまはまだ見つかってないの?」

「ううん、都古ちゃんはきちんと家に戻ってこられたって連絡があったの。志貴さんも、一緒だったって」

 

 

琥珀は語る。事の顛末を。彼がマスクをせず、ナイフを手にして屋敷を飛び出した後、しばらくして有間の家から再び連絡があった。彼が都古ちゃんを見つけ、家に送り届けてくれたと。そのまま彼は、帰って行ったと。わたしは安堵するしかなかった。どうやって都古ちゃんを見つけたのかは分からない。どうしてナイフを持って行ったのかも分からない。でも構わない。彼が戻ってきてくれるなら構わないと。

 

 

しかし、どんなに待っても彼は戻ってこなかった。今に至るまで。

 

 

「志貴さまは、有間の家に戻られたんじゃないの……?」

「わたしもそう思ったんですけど、やっぱり違うみたい……あの人がどこに行ったのか、わたしには、分からない……」

 

 

分からない。それが、今の私。彼が何を考えていたのか。どこに行ってしまったのか。そもそも彼が本当にいたのかすら、曖昧だ。

 

だって仕方ない。わたしは、わたしのことですら分からない。ちゃんとゼンマイの通りに動いてきたはずなのに、いつの間にかズレてしまっている。フクシュウのために動いていたはずなのに、彼がいなくなって、初めてそのことを思い出した。

 

一体いつからだったのか。始まりは何だったのか。分かるのはただ一つ。わたしはもう、その答えを得る機会を永久に失ってしまったと言うことだけ。

 

ふと、その手に触れる。

 

真っ白なリボン。わたしが彼に贈った約束。八年ぶりに、自分の元に戻ってきた物。なのに、何の意味も持たない繋がり。

 

彼はこれを八年間持っていてくれた。でも、それを返してはくれなかった。リボンを手にしながらも、それを置いたままいなくなってしまった。きっとそれが彼の答え。彼は、人間にはなれなかった。当たり前だ。人形が、人間になることなんてできるわけがないのに。それでも彼はそうなりたかった。なれると思いたかった。

 

ならわたしはどうだろう。わたしは、彼がどうなるのを望んでいたのだろう。彼に、人間になってほしかったのか。それとも、わたしと同じ人形になってほしかったのか。

 

 

「――――姉さん」

 

 

不意に、翡翠ちゃんの声が聞こえる。またぼーっとしてしまっていたらしい。これでは、まるで彼のようだ。考え事すると周りの声が聞こえなくなる悪い癖。でもわたしは、そんな彼の癖が嫌いではなかった。だって、その間、わたしは彼の姿を―――

 

 

「……? どうしたの、翡翠ちゃん?」

 

 

琥珀は何かに言葉を失っている翡翠の姿に首をかしげるしかない。彼女は気づかない。自分が、その瞳から涙を流していることを。いつかと同じように。本人が気づかぬまま。透明な涙が、頬を伝っている。変わらぬ、いつもの笑みを浮かべながら。それでしか、自らの感情を表現できないかのように。笑いながら、泣いている姉の姿。

 

 

「――――姉さんは、どうしたいの?」

「……え?」

 

 

それを前にして、翡翠は問いかける。今まで決して問うことのなかったもの。いつからだったのか、自分と入れ替わるように誰かを演じてきた姉。それが、壊れようとしている。あるべき姿に、戻ろうとしている。それがいいことなのか、悪いことなのか翡翠には分からない。あるのはただ一つだけ。

 

 

「『琥珀』である姉さんは……どうしたいの?」

 

 

『翡翠』ではない『琥珀』としての姉はどうしたいのか。ただそれだけ。

 

 

八年前から止まってしまっている時間を、どうするのか。

 

 

「わたし、は…………」

 

 

琥珀はその問いに対する答えを持たない。まだ、持っていない。それを知っていながらも、翡翠は突きつける。これを逃せばきっと、姉は二度と自分を取り戻せないと分かっているから。

 

 

そのまま静かに翡翠は去っていく。もうそれ以上言葉は必要ないと告げるかのように。自らの感情を抑えたまま。

 

 

後には知らず、涙を流したままの少女だけが残されるのだった――――

 

 

 

 

 

「いや、すまないね。本当ならもっと静かな所で打ち合わせがしたかったんだが」

 

 

頭を掻きながら、初老を感じさせる男性は罰が悪そうにそう謝罪する。本当に慌てているのか、身につけているスーツも乱れている。お世辞にも、教職として模範と言える姿ではないが、男性はまごうことなく教師だった。その証拠に辺りはせわしくなく多くの教員が行ったり来たり。職員室、しかも授業の合間であることもあり、ちょっとした戦場だった。

 

 

「いえ、お気になさらずに。お忙しいのに無理を言ってお邪魔させてもらっているのはわたしの方ですから」

 

 

そんな教師をねぎらうように、少女は笑顔を見せる。眼鏡をしていることも相まって、どこか見る人に安心感を与える朗らかさ。制服姿であっても、優れたプロポーションは隠し切れていない。間違いなく、男であれば見惚れない者はいないであろう美女。

 

 

「そう言ってもらえると助かるよ。シエル君」

 

 

シエル。それが彼女の名前。およそ日本で聞くことはないであろう名前でありながらも、教師は全く気にすることはない。気にすることができない。

 

 

「だが珍しいよ。留学生で日本に来てるのに、ボランティアでうちにまで来るなんてね」

「そうですね。でもわたし、ずっと興味があったんです。目が見えない学生さんがどんなふうに勉強されているか。少しでも、お手伝いができればいいなと」

 

 

シエルは微笑みながら、教師へと視線を向ける。眼鏡の奥の瞳と、教師の瞳が交差する。それによって、シエルは異物ではなくなる。何の違和感もなく、この場に溶け込むことができる。

 

『暗示』

 

それが彼女が行っている異能。瞳から相手へ直接働きかける代物。それによって、この職員室にいる全ての人は彼女に疑問を抱かない。明らかに日本人ではない容姿も、名前も。当たり前にこととして処理される。例え転校生と偽ってもばれることはないが、あえて留学生としたのはここが普通の学校ではなく、目が不自由な人達が通う学校であったから。いくら暗示が優れていようと、目が見えている自分がそこに紛れるのは大きな違和感を覚えられかねない。加えて、学生は目が見えない人達。彼女の暗示は通用しない以上、留学生のボランティアとするのが無難だと彼女は判断した。

 

 

(とりあえず問題はなし……死者も、魔術的な痕跡も今のところは感じられない……後は……)

 

 

シエルは思考を巡らせる。既に校内の案内は済み、施設の確認はできている。結果は白。ここが、蛇の根城である可能性は極めて低い。だが、それだけでは何の意味もない。まだ、確認しなければならない最も重要なことがある。それは

 

 

(遠野志貴……この辺りで最も大きな家柄であり、異能を持つ一族。その長男。奴なら、間違いなく彼か、彼に近しい者に降りるはず……)

 

 

この学校の生徒である、遠野志貴に接触すること。それがシエルの真の目的。自らの怨敵である蛇が転生した可能性が高い人物。裕福であり、資質があることが蛇が転生体を選ぶ条件。彼以上に適切な候補はない。妹もいるようだが、蛇は男性体の方を好む。蛇自身が男性であることもその理由。

 

だが不用意に接触すれば取り逃がしてしまう可能性も高い。その名の通り、蛇のようにロアは用心深い。加えて城で戦うようなことになれば、いかに自分でも分が悪い。そのため今回は彼が蛇であるか否か。それを確かめることこそが優先課題。そのために準備をし、彼のクラスに関われるよう手配した。後は―――

 

 

「ああ、そういえば……一つ謝らなければいかんな。すまんな、シエル君。君の相手を遠野にしてもらうつもりだったんだが、遠野は数日前から急に休学してしまってね」

「休学、ですか……? 何でまた……」

 

 

思わず声を上げてしまいそうになりながらも何とか平静を保ち問いかける。何故ならあまりにも出来すぎている。自分が接触しようとした最中の休学。偶然で片づけるにしては明らかに度を越している。まるで、自分がここに来ることを予見していたかのような――――

 

 

「いや、私も詳しいことは分からんが……何でも家庭の事情らしい。元々身体が弱い所もあったから、そっちが本当の理由かもしれんな」

「そうですか……確か彼は今は、有間という家に預けられているはずでしたね」

「ああ、そうだったな。何でも遠野の家からは勘当されて……ん? 何で、私はこんなことを話してるんだ……?」

「いえ、何でもありませんよ。ただちょっと、彼のことが気になっただけですから」

 

 

不用意に遠野志貴のことを探ろうとしたからか、わずかに暗示に隙ができかけたがすぐに修正する。何にせよ、このままここにいても何の益もない。方針を切り替えなければ。有間の家か、遠野の家か。どちらにせよ接触の方法を考えなければならない。そう思考を切り替えようとした時

 

 

「そういえば……シエル君。その遠野から君宛の手紙を預かっているぞ。これだ」

 

 

教師が、思い出したかのように机の上に置いてあった一つの封筒を渡してくる。真新しさから、つい最近出された物だと分かる程。

 

 

「遠野君から……ですか? わたし宛に……?」

「そうだ。今朝、学校のポストに投函されていてな。君へ渡してほしいとメモが張られていたんだが……君と遠野は知り合いだったのか?」

「……はい。すいません。言いそびれちゃってました。他には何か預かってますか?」

「いいや、これだけだ。確かに渡したからな」

 

 

そのまま教師の手から封筒を預かる。同時にそれに何か仕掛けがないか看破する。結果は何もなし。魔術的な仕掛けも、物理的な危険もない。それでも警戒を怠ることなく封筒を破る。当然だ。まるで自分がここに来ることを予見していたかのような振る舞い。まだ自分は彼と接触すらしていないのに、どうやって。だがそんな疑問はさらに深まることになる。

 

 

「…………」

「どうしたんだ。何か変なことでも書いてあったのか?」

「いえ、何でも。ありがとうございました、お手間を取らせてしまって」

「おいおい、もう帰るのか? 遠野はいないが、他にも学生は」

「すいません。わたし、用事を思い出しちゃったんです。このお詫びはまた必ず。失礼します、先生」

 

 

頭を下げながらシエルは職員室を後にする。まるで、初めから存在しなかったように教師も、ほかの教師達も動き出す。もう、誰も彼女を覚えている者はいない。

 

残っているのは破かれた封筒だけ。その中身は彼女の手の中にある。その内容も単純明快なもの。

 

 

『今夜、十二時、指定シタ場所デ君ヲ待ツ』

 

 

まるで機械が書いたかのように、無機質な逢引の誘い。

 

 

その意味を知らず、彼女はただ誘われるがままに学校から姿を消すのだった――――

 

 

 

 

 

――――ふと、目を覚ました。

 

辺りには何もない。自分が横になっていたベッドだけ。それ以外は何もない、殺風景な部屋。ただ寝るためだけの、それ以外の用途のない場所。

 

あるのは無造作に散乱している買い物袋の山。食料品と飲料水。

 

そのまま機械的に立ち上がる。同時に、自らの性能を確認する。全て、異常なし。眠気はあるが、抑えきれないレベルではない。原因は机に転がっている睡眠薬。朝服用し、夜目覚める。それが最善。身体が覚えている。目覚まし時計のように、どれだけ飲めば、いつ目覚めるかなど考えるまでもない。そもそも、これがなければ自分は、眠ることができない。目を閉じていても、自分は眠りに就くことができない。何故なら―――

 

 

無駄な思考を切り捨てながら、目を閉じる。もう、マスクは必要ない。ただ目を閉じるだけ。今はまだ、目を覆う物はない。あれ以外で、眼を覆ったとしても意味はない。だが問題ない。あと数日なら、持ちこたえれる。

 

自らの役目を果たすために、ただそれだけのためにこの身はある。

 

それが俺が生まれた理由であり、存在理由。それ以外の物はいらない。

 

だってそれは無駄なこと。それはきっと、身体を鈍らせる。だから切り捨てる、洗い流す。

 

眠りすら、作業でしかない。夢など見ない。寝ている間に見るのは記録だけ。

 

自らの両手を見つめながら、悟る。これが、最後の機会。もう、次はない。明確な事実。だからこそ、これまでと変わらず俺は繰り返す。ただ、そう在り続ける。

 

死者を狩り、城を見つけ出し、蛇を滅する。ただそれだけ。ただそれだけのことができず、繰り返して来た。もう、何度目なのか。きっと、数えるだけ無駄だろう。

 

ふと、空を見上げる。そこには変わることない月がある。いつか、魔法使いを待ちわびて、見上げていた月。あれから、どんなに摩耗しても変わることのない、一。

 

その明りに照らされながら、部屋を後にする。その先にあるものは変わらない。今までと同じ繰り返し。それでも、もう次はない最後の刻。それでも、彼は変わらない。

 

 

『遠野志貴』は舞台に上がる。最後の舞台へ。その先にあるのが、死であることを知りながら――――

 

 

 


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