月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第十五話 「確信」

日は落ち、時刻は間もなく零時。日付が変わらんとしている。それでも街からは光が消えることはない。繁華街には未だ、人々が行き交い賑わっている。電気という光があれば、時間など無意味だと示すように。かつて夜は月と星だけが頼りだったというのに、もう誰一人空を見上げることもない。

 

だが、そんな賑やかな繁華街から離れた路地の一角に月と星の光だけを浴びながら佇んでいる人影があった。

 

場所はビルの屋上。言うまでもなく部外者の立ち入りなど許可されていない。しかしその人影は当然のごとくその場に留まり、風によって纏っている服がたなびく。法衣と呼ばれる聖教者の正装であり、彼女にとっては自らの役割を果たす時に身につけるもの。

 

シエル。

 

埋葬機関の七位であり、吸血鬼を滅する代行者。そこに昼間、学校で見せていたような朗らかさ、甘さは微塵もない。眼鏡もなく、あるのは鋭い眼光だけ。その名の通り、神の教えを代行するためだけの存在。それが今の彼女の裏の姿だった。

 

 

(もうすぐ約束の時間……場所も指定の場所で間違いはない。でも分からない……一体何の目的があるのか……)

 

 

改めて、屋上から指定の場所とその周辺を見渡す。普通なら屋上からであること、深夜であることから視認することなどできないが、彼女にとっては違う。魔術による視覚の強化によって例え離れた場所、暗闇であってもシエルは見通すことができる。その瞳で見渡すものの収穫はなし。未だに何の異常も人影も見えない。もしかすれば誘き出されただけなのではと思考するもシエルにはただその場で待つことしかできない。

 

 

(遠野志貴……やはり、彼がロアの転生先なのか……それとも……)

 

 

シエルが待っている、警戒しているのは遠野志貴と呼ばれる少年。自らが怨敵としているロアの転生先である可能性がある存在。しかしそれだけではなく、彼によってもたらされた一通の手紙がその元凶だった。

 

 

(少なくとも、彼がわたしのことを知っているのは間違いない。何にせよ、接触する必要がある……)

 

 

自分が潜入しようとした先で、まるでそれを予期していたかのように手紙を残す。明らかにこちらの素性を知った上での行動。間違いなく一般人ではありえない。当然手紙に書かれた時刻と場所でそのまま待つような愚策は行わない。どう考えても罠である可能性が高い。そのためあらかじめ約束の時間よりも早く指定の場所を確認している。結果は白。魔術的な要素も、物理的な危険も見られない。本当に自分と接触したいだけなのか、それともただ単に自分をかく乱したいだけなのか。どちらにせよ監視するしかない。今は指定場所が視認できる離れたビルの屋上に待機している。

 

そしてついに時間が訪れる。手紙にあった深夜十二時。日が変わる瞬間。知らず緊張が走る。いかなる状況にも対応できる心構えと共に眼を凝らした瞬間、それは現れた。

 

初老の男性。端から見れば少し疲れたサラリーマン。だがシエルから見れば違っていた。

 

 

(――――死者。ということはやはり)

 

 

死者。吸血鬼に血を吸われ、殺された人間であり、今はロアに血を運ぶだけの操り人形。その挙動と離れた場所からでも感じられる異臭によってシエルは瞬時にその手に己が武器を握りしめる。黒鍵と呼ばれる細剣。埋葬機関の中でも『弓』と呼ばれるほど飛び道具を得意とする彼女が愛用する武器。それを構えながらもシエルは確信していた。やはり罠だったのだと。自分を誘き出し、死者に襲わせる作戦だったのだと。

 

だが逆にこれではっきりとした。間違いなく遠野志貴がロア。死者だけをよこしたのか、それとも本人もどこかに潜んでいるのかまでは分からないがこのまま死者を放置することはあり得ない。例え罠だとしても、それを食い破り相手の喉元まで食らいつくだけ。

 

瞬間、彼女は風になった。響くのはブーツによる反響音だけ。ビルの屋上から他のビルへとまるでピンボールのようにシエルは駆ける。目的地までの最短距離。さながら空を駆けるように瞬く間に両者の距離は縮まっていく。死者は未だに気づいていない。後は先を取り、反撃も逃走も許さぬまま黒鍵で滅するのみ。シエルがその手に力を込めんとした瞬間、あり得ない第三者が姿を見せた。それは

 

 

(あれは――――遠野、志貴?)

 

 

遠野志貴。写真で確認しただけで直接見たことはないが、間違いなく遠野志貴だった。ジャケットにジーンズというラフな格好。だが問題はそこではない。何故今、このタイミングで現れたのか。死者と共に自分を襲うつもりだったのか。だがそれにしては様子がおかしい。遠野志貴はまるで迷うことなく、一歩一歩死者に向かって近づいて行く。ただそれだけ。にも関わらずシエルは踵を返し、その場に留まった。悪寒、直感。そういった類の忌避感。

 

ただ歩いているだけにも関わらず、それは異常だった。歩幅も、リズムも、その全てが均等に整えられた動作。人間味が全く感じられない不気味さ。まるで遠隔操作されている機械人形のような無機質さが遠野志貴の所作にはあった。

 

だがそのリズムが変わる。それは襲撃だった。遠野志貴を視認した瞬間、死者はまるで生贄を見つけたかのように遠野志貴に襲いかかって行く。同時にシエルの思考は一瞬遅れてしまう。当たり前だ。死者が親であるロアに襲いかかることはない。なら遠野志貴はロアではないことになる。考えにくいが、遠野志貴は吸血鬼ではない一般人である可能性がある。それすらも計算に入れて演技している可能性もあるがもはや迷っている暇はない。優先すべきは死者を滅することだけ。しかしそんな彼女の思考は

 

 

――――遠野志貴がその手に得物を持ち、両目を開いた瞬間に止まってしまった。

 

 

それはナイフだった。何の変哲もない、飛び出し式の短刀。なのにそれを手にした瞬間、何かが変わったかのように彼の動きが変化する。その蒼い双眼が晒された瞬間、それは始まった。

 

 

作業。そう形容するしかない程にそれは単調で、一瞬だった。先に動いたはずの死者の両腕が一閃で斬り落とされる。まるで最初からそうであったように、ロボットの腕が取れてしまうように容易くナイフによって解体される。その工程に、死者は気づくことすらできない。ただバランスを崩し、勢いを殺せぬまま無様に遠野志貴の横を転げ落ちんとする。

 

 

だがそれすら遠野志貴は許さない。物を見るような冷たい視線でそれを一瞥した後、振り向きざまにそのナイフを死者の背中に突き立てる。ただそれだけ。死者はみっともなく地に堕ち、そのまま音もなく消滅する。何も残すことはなく、塵となり、無と環える。

 

 

あまりにも自然であるがゆえに、不自然。それが死者が、数秒の間に為す術もなく解体される作業の全てだった――――

 

 

 

 

「――――」

 

 

シエルはその光景をただ眺めていることしかできなかった。言葉もない。理解できない光景に思考が空白になるも一瞬。すぐさま我を取り戻し、現状を把握する。死者は消え去った。いや殺された。他でもない遠野志貴によって。なら彼はロアではないのか。なら何者なのか。自分と同じ、裏の人間か。聖堂教会ではない。なら魔術協会の人間か。だが先の戦闘で魔術は使われていなかった。魔力も全く感知できない。だが問題はそこではない。接触か、撤退か。単純な二択。だがそれは

 

 

「―――っ!」

 

 

遠野志貴の眼と自らの眼があった瞬間に決まった。まだ自分の姿は晒していないにも関わらず、遠野志貴は顔を上げ、自分を見つめている。そう見えるだけかもしれない。しかしシエルは確信していた。間違いなく少年が自分を見ていると。その蒼い双眼に射抜かれているだけで、知らず寒気がする。得も知れない感覚。それを前にして、退くことなどシエルには許されなかった。

 

迷うことなく、風のように舞いながらシエルは遠野志貴の前に姿を現す。月明かりと、纏っている法衣のはためきはどこか幻想的ですらある。しかし、そんな姿を見ながらも遠野志貴は微動だにしない。ただシエルを見つめているだけ。

 

静寂。音のない暗闇だけが辺りを支配する。互いに月明かりだけがわずかな頼り。にも関わらず両者とも曇りなく互いを認識する。

 

 

「――――あなたが、遠野志貴ですか?」

 

 

均衡を破ったのはシエル。その表情にはまったく油断がない。先程死者を前にしていた時よりもその鋭さは増している。間違いなく、死者よりも目の前の少年の方が危険であるのは明白。その証拠に、シエルは遠野志貴との間に大きく距離を取っている。およそ遠野志貴の間合いの二倍。戦闘も撤退もできる距離。手には変わらず黒鍵がある。誰が見ても一触即発の場面。にも関わらず

 

 

「――――さあ、俺にも、分からない」

「……え?」

 

 

全く緊張を見せることもなく、抑揚のない機械のように遠野志貴は応える。そんな予想もしていなかった言葉と、雰囲気にシエルは間抜けな声を上げてしまう。何故なら彼の言葉には全く偽りがなかったから。そう悟ってしまうほどに遠野志貴の言葉には無駄がない。シエルの疑問に対する答えというよりも、独白に近い何か。

 

 

「――――とにかく、ここじゃ話しにくい。近くに公園がある。そこで話そう、シエルさん」

 

 

そんなシエルの胸中など気にする素振りもなく、何故か眼を閉じたまま遠野志貴は歩き出す。無防備に背中を晒したまま。シエルは呆気にとられ、その場に立ち尽くすしかない。当たり前だ。武器を構えている相手がいるのに背中を見せるなど自殺行為。だが遠野志貴は全く気にしていない。まるでシエルは自分にとって敵ではないと確信しているかのよう。加えてその呼び方。変わらずどこか感情に乏しい声でありながらもシエルの名を呼ぶ時にはわずかな違いがあった。慣れ、とでも言うべきもの。

 

 

「――――そうか。なら預けておく。納得したら返してくれ」

 

 

自分の後に付いてこないシエルに気づいたのか遠野志貴は振り返り、眼を閉じたままその手にあるナイフを無造作にシエルの前に投げ渡す。いや、投げ捨てるといった方が良いかもしれない。どうやらシエルが付いてこないのは、武器を持ったままだから警戒されていると思ったらしい。シエルはもはや言葉もなく、呆然と投げ渡されたナイフを手に取るしかない。無論、仕掛けや罠がないかも確認した上で。結果は何もなし。ただのナイフでしかない。こんなナイフで何故死者が殺せたのか、そもそも自分の武器をまるで愛着もなく、あろうことか赤の他人に渡すなど常軌を逸している。加えて自分が付いて行かないのがそのせいだと勘違いする理解不能な思考回路。

 

 

(これは……どうやら思ったよりも厄介なことになりそうですね……)

 

 

内心、溜息を吐きながら、それでも警戒を解くことなくシエルはブーツの音を奏でながら、全てが理解できない一人の少年の後ろを付いて行くのだった――――

 

 

 

 

人気のない公園。深夜零時を回ったせいか、電灯もわずかしか光っていない場所で二人は向かい合っていた。だが先程とは少し状況が異なる。それは遠野志貴がベンチに座っているのに対し、シエルは変わらず立っているということ。両者の距離は先の路地裏と変わらず開いたまま。

 

 

「……座らないのか、シエルさん?」

「……ええ、お気になさらずに。初めて会った男性と隣り合わせで座りながら喋る趣味はありませんので」

 

 

シエルは若干の呆れと苛立ちをみせながら遠野志貴の誘いを断る。そもそも先程までいつ戦闘になってもおかしくない空気を放っていた自分と本気で遠野志貴は隣で座りながら喋る気だったらしい。しかも何故かそのことを全く理解していない。まるで何かが噛み合っていないような、自分だけが空回りしているような感覚。本当に先程死者を一瞬で始末した少年と同一人物か疑わしくなるほど。

 

 

「とりあえず、自己紹介をしておきます。わたしはシエル。埋葬機関……吸血鬼を狩る組織の一員です。もっともあなたはもう知っているかもしれませんが」

「ああ、知ってる。俺は……遠野志貴だ。シエルさんもそれは知ってるだろ」

「はい。ですが肝心なことを答えてもらっていません。あなたは何者ですか。本当に、遠野志貴なんですか?」

 

 

いつまでもこのままでは埒が明かない。加えて相手のペースに乗せられる前にシエルは先手を取る。最も聞きたいこと。目の前の少年が何者であるか。ロアなのか。それとも別の組織の人間か。何故自分を知っているのか。どうやって死者を滅したのか。挙げればきりがない疑問の山。その全てを込めた質問は

 

 

「…………」

 

 

まるで何も聞こえていないかのように遠野志貴が黙りこんでしまうことで終わりを告げた。

 

 

「……聞こえていないんですか。あなたが一体何者なのか聞いているんです。それとも、答える気がないということですか」

「いや……そうじゃないんだが。なあ、シエルさん。俺、何を話してないんだっけ? 何から話せばいい?」

「……? 何を話していないか、ですか……?」

 

 

遠野志貴の理解できない言葉に、シエルは眉をひそめるしかない。どうやら答える気はあるようなのだが、要領を得ていないらしい。もしかしたら、何か精神的な疾患があるのでは思ってしまうほどに言動に一貫性がない。

 

 

「どうしても、初めは上手く話せないんだ……なんで、そっちから一つ一つ質問してくれると助かる。心配しなくても嘘はつかない。つく必要もない」

「……嘘をつかない、ですか。詐欺師の常套手段ですね。そんなことを言われてわたしが信じるとでも思っているんですか」

「いや……まあ、切り札はあるし。本当はシエルさんの暗示が効けばよかったんだけど、俺には暗示が効かないらしいんだ」

「暗示が……効かない?」

「ああ。何なら試してくれてもいい。効けばその方が手間が省けるんだが……」

 

 

遠野志貴はそのままつぶっていた瞼を開き眼をシエルへと向ける。シエルはそんな彼の行動に戸惑ってしまう。自分が暗示を使えることを知っているのはまだいい。だがあまつさえそれを使うように催促してくるなど意味が分からない。逆に魔眼で何かしてくる気かとも思ったがそんな気配もない。それどころか本当に暗示が効いてくれた方がいいと言わんばかり。ここまでされては試さないわけにもいかずシエルはそのまま遠野志貴の眼を捉えながら暗示をかける。難しいものではない、自分の質問に正直に答えるようにするためのもの。

 

だが知らずその眼に魅入られる。蒼い光を放つ瞳。十中八九、魔眼であることは明白。何の魔眼かは分からないが魔術師としてシエルは最高位にも匹敵する。加えて不死でもある。リスクは承知の上で暗示をかけるも、結果はなし。より強い暗示をかけるも、遠野志貴には何の反応も見られない。

 

 

(これは……もう既に暗示にかかっている? しかも、これは……)

 

 

シエルは悟る。遠野志貴に暗示が効かない理由。それは既に彼には暗示がかかっているからなのだと。しかそれは魔術的なものではない。いわば自己暗示に近い物。自己催眼と言い換えてもいい。一体何を自分に刷り込んでいるのか。恐らくは無意識の物。魔術であっても上書きできない程に根が深い故に、それ以上シエルはそこに踏み込むのはあきらめた。それを強引に行えば最悪、彼の人格が壊れてしまうかもしれない。

 

 

「……残念ながら暗示はあなたには意味がないようです」

「……やっぱり効かないか。原因は分からないのか?」

「ええ。それにわたしはあなたのカウンセラーに来たわけではないので」

「そうか。前もそうだったから、仕方ないか……」

 

 

まるで結果を知っていたかのように落胆することもなく遠野志貴は眼を閉じる。それだけではない。そのまま視線を上げ、空を見上げてしまう。もっともそれは最初から同じ。彼は公園に着き、ベンチに座ってからずっと眼を閉じたまま空を見上げている。決してシエルの方を向くことはない。加えて、シエルはずっと気にかかっていることがあった。それは

 

 

「……どうしてあなたは眼を閉じているんですか。それに、眼を閉じているのに何故ここまで歩いてこれたんです」

 

 

眼を閉じているにもかかわらず、どうしてここまで歩いてこれたのか。目を閉じているふりをしていたなら分かるが、そんなことをする意味も分からない。それを聞くことでようやくそのことに気づいたのか

 

 

「――――ああ。この眼、直死の魔眼っていう代物でさ。あまり長い間目を開けてると脳が焼き切れちまうんだ」

 

 

全く気にした風もなく、当然のことを語るように遠野志貴は告白する。シエルは絶句するも、そのまま質問を続けていく。遠野志貴も最初の内は戸惑う、慣れない様子を見せていたが次第に調子を取り戻したのか、事務的にシエルの質問に応えていく。

 

 

そこには全く淀みも間もない。まるで機械のように質問に正確に、淡々と彼は応えていく。同時に先に遠野志貴が口にした嘘はつかないという宣言が恐らくは真実なのだとシエルは半ば確信していた。それほどに彼の言葉は真実であり、同時に常識を超えていた。

 

 

転生。輪廻。直死の魔眼。七夜。遠野。未来知識。蛇。混沌。真祖。『 』抑止力。

 

 

教会であれ協会であれ、聞けば誰もが卒倒するような単語、事象のオンパレード。思わず眩暈がしそうな感覚に襲われながらもシエルはようやく確信していた。遠野志貴、彼がどこか人間離れしている理由を。

 

 

(輪廻……彼の言葉を借りるなら螺旋。世界の修正力と、蛇の『永遠』が混じり合った結果、か……)

 

 

螺旋。それが彼が囚われている輪。『蛇を殺す』という事象を成し遂げなければ乗り越えることができない壁。同時に、遠野志貴の身体がロアと繋がっていることでその永遠にも巻き込まれている。すなわち、蛇が生きているのに蛇が死ぬ矛盾を回避するために彼は巻き戻されている。彼だけが巻き戻されているのか、世界も全て閉じているのかは分からないが結果は変わらない。

 

 

「……あなたは、一体何度繰り返しているんですか?」

 

 

シエルはただ単純に興味からそう尋ねる。深い意味はなかった。ただ、何度繰り返しているのか。何度死んでいるのか。何度生き返っているのか。それが知りたかった。普段の彼女であればあり得ない質問。彼女自身気づかない。何故それを聞いたのか。だがそれは

 

 

「覚えてないな……シエルさんも、何回死んだかは覚えてないだろ?」

 

 

彼の何気ない答えによって明かされる。そう、それは同じだったから。なら、覚えているはずがない。

 

 

もう思い出せない程に摩耗し、それでも忘れることができない地獄の日々。一ヶ月間、殺され続ける悪夢。どんな殺され方をしたか、どれだけ殺されたのか。そんなことは数えるだけ無駄だった。

 

 

ようやくシエルは気づく。初めて彼を見た時の悪寒、忌避感の正体。それが自らの過去、そして未来を彼の姿に見たからなのだと。

 

 

「――――ふぅ、なら仕方ありませんね」

 

 

一人納得しながら、シエルはその手にある黒鍵を仕舞う。同時にそのままゆっくりと彼に近づいて行く。心なしか、警戒の空気も幾分か和らいでいる。それでも彼の隣に腰掛けないのは彼女なりの抵抗なのか、意地か。

 

 

「とりあえずはあなたの話をもう少し聞かせてもらいます。それでいいですね、遠野君?」

 

 

苦労をしょい込むお節介の女性は初めて彼の名を呼ぶ。本当の彼の名ではなくとも、名を呼ぶことに意味があると。彼女もかつての名は捨てている。もう二度と使うことも、呼ばれることもない。

 

 

「ああ、宜しく頼む、シエルさん」

 

 

だが彼は口にする。洗礼された新たな名を。変わらず感情が感じられない声でも、さんづけであるからかどこか親愛を感じさせる呼び方。

 

 

それがシエルと遠野志貴の、最後の螺旋での初対面だった――――

 

 

 

 

「ところで遠野君、わたしが話を信じなかったらどうする気だったんですか?」

 

 

小休止の意味も兼ね、互いに自販機で買った飲み物を口にしている中、シエルはそんな疑問を口にする。確かに遠野志貴の話は真実だろうが、それでも自分が信じるかどうかは分からなかったはず。それともこうなることを彼は知っていたのか。

 

 

「いや、多分大丈夫だってことは分かってたんだ。わざわざ死者を殺すところを見せたのも、前のシエルさんから教えてもらった方法なんだ。実際に戦えるところを見せた方が自分は信じるだろうって」

「なるほど……そういうことですか」

 

 

シエルは納得する。あの時間、あの場所を指定したのは死者が来るのが分かっていたからだったのだと。それを実際に倒すところを見せれば、自分は否応なく彼の異常性を理解せざるを得ない。直死の魔眼というあり得ない魔眼も認めざるを得ない。我ながら、よく考えたものだと。もっとも、彼がここにいるということはその自分がどうなったのかは分からない。それを彼に聞くべきか否か悩んでいると

 

 

「それに、もしそれでも信じてくれなかったらこれを渡せばいいって……」

 

 

思い出したように遠野志貴は元々ベンチの下に用意していたのか一つの袋をシエルに差し出してくる。今度は一体何が飛び出してくるのか。先の死者との戦いよりも自分が信じるであろう物が何なのか。

 

 

だが彼女は悟る。もはや袋を覗くまでもない。匂いだけで、それが何なのか分かる。間違いない。間違えるはずがない。

 

 

カレー。しかもメシアンの持ち帰りメニュー。その辛さも、トッピングも、全てが自分の好みそのまま。

 

 

彼女はその瞬間、遠野志貴の話が間違いなく真実だと、心から確信したのだった――――

 

 

 


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