月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第二十三話 「再逢」

 

――――夢を見る。

 

 

映像を見るように。だがおかしい。わたしは夢など見ない。寝ている間に見るのは瞼の裏だけ。ならきっと、今見ているものは記憶なのだろう。

 

熱を覚えている。誰かが自分を抱えている。触れている。その感触と温かさ。そういえば、そんなことは初めてだった。誰かに触れられたことなどない。触れるのは相手を切り裂く時のみ。

 

分からない。何故そんなどうでもいいことを覚えているのか。感じているのか。でも、何故かいつかの老人の言葉が蘇る。彼は言った。

 

 

――――君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ、と。

 

 

意味を持たない言葉の羅列。未だに理解できないもの。なのに何故――――

 

 

 

 

「…………」

 

 

意識が戻り、身体が動き出す。ゆっくり身体を起こし目を開く。そこには見慣れた光景、自らの部屋が広がっている。特に思い入れなど無い、ただ活動の拠点としているだけのマンションの一室。だが違和感は拭えない。

 

何故自分はここにいるのか。ベッドに横になっているのか。過程が思い出せない。一度目を閉じ、記憶の檻を拾う。覚えているのは、混沌を補足し戦闘になった経緯。その後の蛇の乱入。そこまでは明確。だがその先が霞みががっている。

 

しかし、ようやく気づく。本当なら真っ先に気づかなければならない己の異常。

 

そこにあるはずの左腕が失くなっている、ということ。

 

同時に全てを理解し、行動を起こさんとした瞬間

 

 

「――――目が覚めたか、ブリュンスタッド」

 

 

聞いたことがない声と見たことがある姿をした男が現れる。最初からそこにいたかのように、無駄のない在り方。それが彼女と遠野志貴の何度目かの再会だった――――

 

 

 

 

「目覚めてすぐで悪いが、確認させてくれ。ここまでの経緯は覚えているか?」

 

 

男、遠野志貴は部屋の入り口、ドアの前で立ったままベッドに横になっているアルクェイド・ブリュンスタッドに問いかける。本当ならいつ命のやり取りが始まってもおかしくない状況にも関わらず、遠野志貴は普段と変わらずどこか淡々としている。対して、鏡のようにアルクェイド・ブリュンスタッドもまた微動だにしない。ただ赤い瞳で遠野志貴の姿を捉えているだけ。無機質さでいえば彼女の方が上かもしれない。

 

 

「――――そうか。心配しなくても戦う気はない。武器もないし、左腕は……まあお互い様だがなくなってる。もしお前をどうこうする気があるならとっくにそうしてる」

 

 

全く反応しないアルクェイド・ブリュンスタッドの姿に何か思う所があったのか遠野志貴は右手を上げながら自らに争う意志がないのを明かす。その証拠に彼はドアから一歩もアルクェイド・ブリュンスタッドに近づいていない。不用意に近づけば彼女の警戒を強めるだけだという判断。もっとも武器であるナイフがないのはなくしたからで、争う気がないとうのは今現在の話。つい数時間前には殺そうとしていたのだがあえて遠野志貴は口にすることはない。

 

 

「…………」

「――――そうか、思い出した。喋れない、じゃなく喋らないんだったか。なら仕方ない。こっちで勝手に喋るから聞いててくれ、ブリュンスタッド」

 

 

一向に微動だにせず、言葉を発することないアルクェイド・ブリュンスタッドに首をかしげながらもようやく彼は思い出す。彼女が喋れないのではなく、喋らないということを。処刑人である彼女にとってそれは無駄なこと。なのにそれを忘れてしまっていたのは遠野志貴が未来知識を持っているから。その中の彼女と目の前の彼女は全く一致しない。本当に同一人物なのかと疑うほど。もっともイレギュラーなのは未来知識の方で目の前の彼女の方が本来の姿なのだが、遠野志貴にとってはどうでもいい、些細なこと。

 

遠野志貴はただ淡々と事実を述べて行く。あの公園での出来事からここに至るまでの顛末。主観を交えない客観的な事務報告。かつてシエルにしたようにそこには無駄がない。自らの正体と目的。混沌と蛇の現状。その後のいざこざ。

 

時間にすれば三十分ほど。その間、アルクェイド・ブリュンスタッドはただじっと遠野志貴の説明を聞いている。もしかしたら、聞いてすらいないのかもしれない。本当に白い人形のように、ただ遠野志貴がそこにいるから顔を向けているだけ。

 

話し続けている遠野志貴もそれを気にすることなく続けていく。アルクェイド・ブリュンスタッドが聞いているかどうかも大きな問題はない。彼にとってはこれはアルクェイド・ブリュンスタッドが現状維持を望んでいるかを確認するためのもの。

 

結果は予想通り。少なくともアルクェイド・ブリュンスタッドはすぐに行動を起こす素振りもこちらに危害を加える気配もない。もしそうでなければ遠野志貴はこの部屋に入った時点でアルクェイド・ブリュンスタッドに殺されていただろう。彼自身も半分ほどの確率でそうなることは想定していたのだが博打に勝った形。もっともそう簡単に後れを取るつもりはないが互いに左腕を失い、ナイフもない。加えて消耗しきっている現状では殺されるのは避けられそうにはなかったのだが。

 

 

「――――とりあえず、話はこんなところだ。こっちとしてはしばらくブリュンスタッドには動いてほしくない。もし蛇に見つかれば今度こそ力を奪われかねない。少なくとも、まともに動けるようになるまではここにいてくれ」

 

 

大方の説明を終え、遠野志貴は最も伝えたかったことを告げる。まともに動けるようになるまではここから動かないでほしいということ。

 

既に蛇に力を奪われてしまっているのは事実。その証拠に未だに遠野志貴は直死の魔眼で彼女の死を視ることができる。点についてはほとんど見えなくなりつつあるが、線についてははっきり見える。それでも他の人間や世界に比べれば数は圧倒的に少ないのだが、本来夜には死がないはずの彼女にそれが見えること自体おかしい。弱っていることに加え蛇に力を奪われてしまっているのが原因であることは間違いない。もっともどれぐらいの力を奪われたのかはアルクェイド・ブリュンスタッドが口にしないため分からないが、彼女の消耗を見るに少なくはないと見るべきだと遠野志貴は判断した。

 

その証拠の一つが、失われている彼女の左腕。いくら死の線で切られたといっても彼女なら再生できるはず。十七に分割されても生き返ったほどなのだから。にも関わらずそうしないのは何故か。考えられる理由は二つ。一つが再生するだけの力も残っていないから。だがそこまでの消耗ならもっと死の線が見えてもおかしくない。ならもう一つの理由、蛇に左腕ごと力を奪われてしまっているから。そう考えれば納得がいく。かつてアルクェイド・ブリュンスタッドは姉であり、月触姫と呼ばれるアルトルージュ・ブリュンスタッドに髪を奪われている。それは奪い返さない限り、髪が伸びることもない。同じように、蛇を倒さなければ彼女の左腕も戻らないのかもしれない。

 

もっとも、そんなことを気に掛ける理由も何も遠野志貴にはない。彼女の左腕を奪ったのが蛇でも、切り落としたのは彼なのだから。それでも知らず彼の視線が彼女の左腕があった場所に注がれていると

 

 

「――――?」

 

 

僅かに彼女の瞳に揺らぎが見える。急に黙りこみ、自らの左腕があった部分を見つめている遠野志貴に疑問を抱いたかのように。

 

 

「……それと、俺ともう一人の協力者がここを見張ってる。蛇や混沌が攻めてきても応戦できる。信じる必要もないけど、その点は覚えておいてくれ」

 

 

それを振り切るように遠野志貴は話をまとめる。彼自身、それが何故か分からない。だが自分がおかしくなっていることは分かる。そのきっかけも。ただ一つ、その理由だけが抜け落ちてしまっているだけ。

 

 

「――――ああ、そういえばまだ言ってなかったな。俺は遠野志貴だ」

 

 

そんな中、ふと彼は思い出したように告げる。本来なら一番最初に口にすべきこと。にも関わらずそれを後回しにしてしまうのが彼の彼たる所以。もっとも、アルクェイド・ブリュンスタッドに対して名乗る意味はないと判断していたことも大きいが。そのまま踵を返し部屋を出て行こうとした瞬間

 

 

「…………シ、キ?」

 

 

遠野志貴は、初めて彼女が言葉を発したのを耳にした。

 

 

「…………?」

 

 

振り返り、視線を向けるもアルクェイド・ブリュンスタッドは何の反応も見せない。ただ変わらず赤い瞳で彼の蒼い瞳を捉えているだけ。遠野志貴もまた、何も言葉を発することなく部屋を後にする。ただの聞き違いだろう、と。

 

 

それが遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッドの邂逅の終わりだった――――

 

 

 

 

「――――ふぅ」

 

 

ドアを閉め、マンションの入り口とリビングの間のフローリングで知らず溜息を吐く。どうやら自分は思ったよりも先の状況に緊張していたらしい。いつ死んでもおかしくない状況なのだから当然と言えば当然だが、そんな感覚が残っていたことに驚いていた。もしかしたら、死ではない何かに自分は恐れを抱いていたのかもしれない。だが間違いないのは

 

 

「―――ああ、いたのかシエルさん。何でそんなに怖い顔をしてるんだ。美人が台無しじゃないか」

 

 

いつからそこにいたのか、穴が開くのではないかと思えるほど憤怒の表情で自分を睨んでいる彼女の存在も、自分が緊張している理由の一つだということだけ。

 

 

「それはこっちの台詞です。遠野君、今自分がどんなに危険なことをしているか分かっていますか」

「ああ、分かってる。とりあえず、シエルさんに睨み殺されそうになってるってことは」

「そうですか。残念ながらわたしは睨むだけで相手を殺せる魔眼は持っていないので安心してください。今それがあればと思うほど怒ってはいますけど」

「そうか。で、何でそんなに怒ってるんだ、シエルさん?」

 

 

一応女性に対するお世辞も口にしたはずだが彼女は全く収まらない。それどころか怒りは増すばかり。ここは素直に彼女の言い分に従うしかない。これまでの繰り返しの中で学んだ教訓という名の条件反射。

 

 

「アルクェイド・ブリュンスタッドのことです! 何故彼女と話など……彼女に言葉は通じません。遠野君もそれは知っているはずでしょう!?」

「勿論。何度か殺されたこともあるからそれは知ってる。でも仕方ないだろう。シエルさんに任せたら間違いなく戦闘になるのは目に見えてるんだから」

「それは……否定はしませんが、それでも危険であることは変わりません。真祖といえども彼女は吸血鬼です。殺されなくとも血を吸われることもあり得ます」

「それは多分、ないんじゃないかな。そんなことをするぐらいならブリュンスタッドは死を選ぶと思うんだが……」

 

 

矢継ぎ早に捲し立ててくるシエルに遠野志貴は淡々と応えるしかない。アルクェイド・ブリュンスタッドと対面したのは単にシエルに任せれば上手く行かないだろうと分かっていたから。シエルは個人的にもアルクェイド・ブリュンスタッドと因縁がある。加えて吸血鬼に対しての憎しみも。いくら温和な彼女であっても、直接ではなくとも自分が不死になってしまった原因である彼女を前にしては冷静ではいられない。その結果、遠野志貴がその役をすることになっただけ。

 

 

「……何故遠野君がそこまで彼女に肩入れするのか分かりませんが、これだけ言っておきます。彼女は吸血鬼、決してわたし達と交わることはありません」

「だろうな。俺もブリュンスタッドと分かり合おうなんて無駄なことは考えてない。ただ彼女が状況の大きな要素であることは変わらないってだけだ」

「……そうですね。彼女の様子はどうでしたか。こちらの意図は伝わった様子ですか?」

「いや、分からない。聞いてはいたようだが無反応だったから。何を考えているかはさっぱりだ」

「遠野君も他人のことは言えないと思いますが……とりあえず、敵対する気はないと?」

「多分。そうじゃなかったら今頃このマンションは戦場になってるはずだろ?」

 

 

言外に誰のせいでとは口にせず遠野志貴は口にする。もしあの場でシエルが乱入していればどうなっていたかを突きつける形。思わず息を飲みかけるもシエルは咳払いをしながらそれを誤魔化す。

 

 

「とりあえず、彼女はここに留まるということですね。それをわたし達が見張りながら、蛇と混沌を迎撃する。それで間違いないですね?」

「ああ、当面はそうするしかない。間違いなく蛇と混沌はアルクェイド・ブリュンスタッドを狙ってくる。その前に蛇を殺すことができればいい。これ以上アルクェイド・ブリュンスタッドの力を奪われれば勝ち目はない」

 

 

先程までの冗談は嘘だったように、遠野志貴は機械のように現状を告げる。今はまさにアルクェイド・ブリュンスタッドを巡った争奪戦。それぞれがそれぞれの思惑で彼女を狙っている。同時にそれは遠野志貴、シエルにとっては勝機でありながら大きなリスクでもある。一歩間違えば全てが台無しになりかねない綱渡り。

 

 

「ネロ・カオスはすぐには動くことはないと思う。半分とはいえこの眼で殺したから。ただ、蛇については分からない。あの時追ってこなかったのも気にかかる。ブリュンスタッドの力を奪ったのに動かない理由があるのか……」

「……恐らく、奪ったからこそではないでしょうか」

「奪ったからこそ……?」

「はい。アルクェイド・ブリュンスタッドは最強の真祖。その力は堕ちた魔王ですら狩る程のものです。今代の転生体のポテンシャルは遠野君の話を信じるならそれほど高くない。いわば容量を超えた水を入れた風船のような状態に今のロアはなっているのかもしれません」

 

 

そう考えれば辻褄が合う。あの場で追撃をしかけてこなかったことも。手に入れた力を扱うことができなかったからこそなのだと。加えてもう一つの疑問。それは遠野志貴が告げる三咲町が死都となるタイミング。それは今よりもまだ先。今回は遠野志貴が乱入したことでアルクェイド・ブリュンスタッドは全ての力を奪われずに済んだが、これまではそうではなかったはず。ならそれまでのタイムラグは恐らくロアが奪った力を完全に己が物とするまでにかかった時間だと見ることができる。ならば

 

 

「……ロアが動き出す時は、奪った力を使えるようになってからってことか?」

「恐らく。問題は、それがどれほどの力になるかです。遠野君が見たことがある永遠を完全に取り込んだロア程ではないにしても、とてつもない力を手にすることは間違いありません」

 

 

かつて初代ロアはアルクェイド・ブリュンスタッドからその力の一部を奪い死徒となった。希代の魔術師であった彼の力は凄まじく、諫めに来たアルトルージュ・ブリュンスタッドを退けてしまう程。アルクェイド・ブリュンスタッドもまた教会と協力しそれを殲滅した。

 

ならば今回はどうか。奪った力は恐らく初代の時を遥かに超える。反面、肉体的ポテンシャルは大きく劣るも、奪った力を使えば肉体を作りかえることもできるはず。様々な要素を踏まえても、初代ロアに匹敵する力を今代のロアが手に入れてしまう可能性は否めない。

 

シエルは冷静に分析する。自分と遠野志貴でそのロアに対抗し得るかどうか。結果を知りながらも、まだ希望はある。自分の不死に加えて彼の直死の魔眼があれば僅かではあるが可能性は残されている。最も理想的なのは蛇が脱皮する前に滅することだが最悪の場合を想定しておくことは必須。

 

 

「遠野君、本当に左腕の義手は必要ないんですか。そのままでは満足に戦うことも……」

 

 

それは大きな懸念。遠野志貴は左腕を失っている。奇しくもアルクェイド・ブリュンスタッドと同じ。それによって遠野志貴の戦闘能力が大幅に堕ちてしまうのではないか。

 

 

「いや、大丈夫だ。体の欠損には慣れてるし、もう修正できてる。むしろ左腕でよかった。もし足ならアウトだったし、利き手なら動作がどうしても遅くなるから」

 

 

だがそんな懸念を遠野志貴は払拭する。まるで左腕を失ったことなど大した問題ではないのだと誇示するように。事実、そう彼は思っているのだろう。自分の体ではない、人形の体を扱うように。

 

 

「義手も必要ない。あっても慣れるまでに時間がかかるだろうし、そんな時間はもうない。無駄なことをしている暇はないから」

 

 

義手も同様。付け焼刃の腕など害でしかない。そのせいで動作に問題が生じるなら片腕で十分。それが彼の判断。出会った時から変わらない彼の在り方。だからこそ、シエルは口にする。

 

 

「――――遠野君、どうしてあなたはアルクェイド・ブリュンスタッドを庇ったんですか?」

 

 

これまであえて口にしなかった一番の疑問、違和感。何故アルクェイド・ブリュンスタッドを庇ったのか。あまつさえ自らの左腕を犠牲にしてまで。

 

 

何よりも、何故彼女を殺そうとしないのか――――

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドを匿うことはリスクでしかない。いや、一つ大きなメリットもあり得るがそれは限りなくゼロに近いもの。蛇に奪われることに加え、最悪回復した彼女によって殺されてしまう可能性もある。いわばパンドラの箱。なら、彼女を殺すことがもっとも無駄がない選択肢。なのに何故、それを実行しないのか。無駄を誰よりも嫌っているはずの彼が何故。だが

 

 

「――――分からない。俺も、どうしてあんなことをしたのか、分からない」

 

 

彼自身がそのことに戸惑っている。既に彼は包帯を目に巻いている。故にその表情も伺えない。だがそれでも、彼が何かに戸惑っているのは感じ取れる。だがそんな彼の姿にシエルは直感する。もしかすれば、自分は大きな勘違いをしていたのではないか、と。

 

遠野志貴。彼は生死観が壊れている。それはこれまでのやり取りから明らか。自らの体を人形のように扱うさまも、その精神も常軌を逸している。死を繰り返す螺旋によって摩耗してしまった代償。それは間違いない。

 

だがそれでも、彼はまだ最後の一線を超えていないのかもしれない。

 

奇しくも先日自分が彼に伝えた言葉。彼は自分の死を許容できても、他人の死は許容できていない。そうあってほしいと願ったもの。それが、恐らくは正しかったのだと。

 

彼はまだ壊れ切っていない。自分の目的のために、他人の命を、死を許容できるほどまでには至っていない。まだ、人間に戻ることができる可能性を、僅かであれ持っている。

 

それでも半分。既に自らの命に対する価値観が、執着が無くなってしまっているのは確か。あとはそれを取り戻すことができれば――――

 

 

「でも、おかしいんだ。あの時、あいつの声が聞こえて……そんなこと、有るはずないのに……だって、あいつはもう死んで……」

 

 

気づけば、知らぬ間に彼は顔を手で覆いながら意味不明な言葉を呟いている。理解できない独語。知らず寒気を覚えてしまうな、そんな人形の姿。

 

 

「……遠野君?」

「……いや、何でもない。とにかくシエルさんには蛇の居場所を探し出してほしい。それしか、手はない」

「分かっています。ですが蛇だけ、ですか? 混沌もいつ動き出すか」

「蛇だけだ。混沌は後回しでいい。とにかく、早く――――」

 

 

そんな彼の珍しく感じる必死さに違和感を覚える。確かに蛇の方が脅威度は高い。だがそれでも混沌も後回しにできるものではない。蛇を殺すことだけが彼の至上目的だからなのか。気にはなるものの、これ以上時間をかけるのは得策ではない。

 

 

「……分かりました。とりあえずわたしはあの公園の事後処理と蛇の探索に出ます。遠野君はどうしますか」

「俺はここに残る。まずないと思うけど、すぐにでも襲撃がある可能性もあるから」

「…………数時間ほどで一旦戻ります。それまでは油断をしないように。いいですね」

 

 

彼の返事を待つことなくマンションを後にする。本当なら足を踏み入れるはずのない真祖の拠点。目が覚めた時に彼のホテルや自分の部屋ではアルクェイド・ブリュンスタッドが警戒するかもしれないという理由から彼はここに彼女を運び出した。

 

 

だがそれでも思わずにはいられない。何かが、歯車が狂いかけているのではないか。そんな予感。

 

 

それを振り払いながらシエルは舞う。持ち切れない程の多くの願いを背負いながら――――

 

 

 

 

瞬間、視点が暗転する。気づけば床に倒れていた。どうやら、流石に限界だったらしい。

 

 

「――――ハ、ア」

 

 

みっともなく、息を吐く。吸う。電池が切れたロボットのように、体は言うことを聞かない。痛みはない。それでも、身体が異常を発していることは感じ取れる。身体が鉛のように重い。海月になってしまったように、力が入らない。さっきまで立っていたのが嘘だったかのよう。

 

 

「これは……まずい、な……」

 

 

誰にでもなく、一人言葉を発する。分かり切っていたことなのに直面することでようやく実感する。既に自分が死に体であることを。

 

額と背中には冷や汗が滲んでいる。体はそれに対するように熱を纏っている。頬に触れているフローリングの床の冷たさが心地いい。このまま眠れば、どんなに楽か。

 

だが流石に床に転がったままではまずい。シエルに知られればどうなるかは明白。自分を気にして彼女は満足に動くことができなくなる、その動きに支障が出る。一刻も早く蛇を見つけなければ先はない。

 

残った右腕を杖代わりにしながら体を起こそうとするも叶わない。みっともなく、蛇のように床を這いながら繰り返す。数分か数十分か。ようやく上体を起こし、壁に背中を預ける。これで、何とか誤魔化せるだろう。

 

そのまま顔を上げる。建物に走る死の線。自らの体を穿つ、点。包帯越しでも見える、タイムリミット。いつも見上げている月も、ここからでは見えない。ただ死に触れないようにするしかない。

 

 

「後一度……か」

 

 

それが限界。脳が焼き切れるのが先か。身体が動かなくなるのが先か。どちらにせよ変わらない。自分の目的は一つだけ。ただそのためだけにこの身はある。

 

 

「蛇を殺すことができるなら、構わない」

『彼女を―――ができるなら、構わない』

 

 

矛盾した願いを思い出しながら、遠野志貴は眠るように意識を手放した――――

 

 

 

 

 

白い彼女は立ち上がり、部屋を後にする。足音すらない。音を殺しながら、それでも優雅に彼女はドアを開け、目にする。

 

壁を背にしたまま、床に座り込んでいる人形のようなナニカ。

 

 

「…………」

 

 

彼女、アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま何をするでもなく一歩一歩、遠野志貴に近づいて行く。そこには何もない。道端の石を見るように、そこには感情というものがない。

 

彼女は感じ取る。遠野志貴が意識を失っていることを。恐らくは睡眠状態。だが一見すれば死んでいるのはと思えるほど、その姿は静かだった。もしかしたらもう目が覚めないのではないかと思うほどに。

 

それを見下ろしながら無駄なく美しい彼女の指が爪に変わる。これまで幾多の吸血を葬ってきた断頭台。自らの目的に対する障害を排除するために。

 

目の前の人間が口にしていた情報も得ている。確かに利はある。だが同時に害も。ならば利を取る。不確定要素は、無駄はいらない。洗い流す。その爪を振り上げる。だが同時に疑問が浮かぶ。

 

何故、この人間は自分を殺さなかったのか。それを為し得る異能を持っていたのに。時間があったのに何故。奇しくも今の自分と同じように。

 

彼女は気づかない。そも疑問を抱くという行為こそが、既に本体の彼女であればあり得ないことに。その意味を解することなく、一切の慈悲も容赦もなく爪を振り落とさんとした瞬間

 

 

――――その場には似つかないチャイムの音が、響き渡った。

 

 

「…………」

 

 

爪を止め、そのままアルクェイド・ブリュンスタッドはその音の主がいるであろう玄関へと目を向ける。来訪者。だがこのマンションの階層は全て自分が所有している。加えて自分に目的がなければ立ち入らないような結界、暗示が施されている。一般人ではあり得ない。同時に蛇や混沌であるとは考えにくい。彼らがチャイムを鳴らすなどあり得ない。ならば一体誰か。

 

一切の油断なくアルクェイド・ブリュンスタッドは音もなく玄関へと向かう。そこは既に彼女の間合い。足を踏み入れれば一瞬のうちに首を狩り取れる距離。それを以ってゆっくりとドアを開けるも、アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま僅かに目を見開きながら動きを止める。何故なら、その少女を彼女は知っていたから。

 

 

着物を着た、琥珀色の瞳を持つ少女。

 

 

それがアルクェイド・ブリュンスタッドと琥珀の再逢。そして彼女達の歯車が狂い始めた瞬間だった――――

 

 

 


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