月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第二十五話 「矛盾」

――――ふと、目を覚ました。

 

だが瞼を開くことはない。否、開くことはできない。自分の眼には包帯が巻かれている。例え目を開けたところで視界には何も映らないだろう。何も見えない暗闇。それが目を閉じ、目を封じながら生きてきた自分の世界。もしそれだけであったなら、どれだけ救われるか。

 

 

「…………」

 

 

ゆっくりと体を起こす。体には冷たく硬い床の感触。恐らくはフローリングに横になっていたせいだろう。体の節々に鈍い痛みがある。感じはしないが事実として自らの体の状態を理解する。現状とのその先を。

 

シエルとの共闘関係。蛇の脱皮。混沌との戦闘。アルクェイド・ブリュンスタッドとの接触と確保。同時に左腕の喪失。

 

閉じているはずの視界に死の線が見える。瞼の裏からでも。包帯の下からでも世界の死が見える。壁にも、床にも、自分自身にも。日に日に数が増していく。きっと遠からず点すら見えてくるのだろう。いや、包帯を外せばもうそうなっているのかもしれない。

 

今更な現状を確認しながら、視線をあさっての方向に向けその場を立ち上がる。手元や足元を見るわけにはいかない。死の線や点を触れている体を見ればどうなるか。壁は崩れ、床は抜け落ちるだろう。人であればバラバラの肉片に。だから俺は誰も視界に収めない。自らの体ですら見ることはない。例外は死が見えない空と月と太陽ぐらい。昼間活動しない居間であれば夜空と月だけ。最近はもう一つ、吸血姫というイレギュラーが増えた。とりあえずは彼女の状態を確認しようと動き出さんとした時

 

 

「失礼しますよ……あ、ようやく起きられたんですね。おはようございます、志貴さん」

 

 

そんな懐かしい、聞き慣れた少女の声が自分を出迎えてくれた。

 

 

「――――」

 

 

それに何も答えない。応えることができない。応えることはしてはならない。同時にようやく思い出す。吸血姫だけではない、もう一つの例外がいたことを。だが決して忘れていたわけではない。もう彼女はここにはいないと思っていただけ。正確にはそうなるよう自分は動いていた。

 

『琥珀と会わないこと』

 

それが己の中のルール。どうしてそうなったのか、そうしているのかも曖昧だがそれが人形としての自分の行動理念であり縛り。もしそれを破ってしまえば今までの螺旋で積み上げてきた全てが崩壊してしまうかもしれない。自分が自分でなくなってしまうかもしれない。そんな予感から生まれる行動。

 

だが問題はない。これまでの繰り返しの中でもわずかではあるが琥珀と出会うことはあった。その結果も同じ。琥珀をいないものとして扱うことで彼女はあきらめ去って行った。ならばこそ、自分はもう琥珀はいなくなっていると思っていた。だが

 

 

「……どうしたんですか、志貴さん? まだ寝ぼけてらっしゃいます? もう夜になっちゃってますけど、おはようじゃなくてこんばんはの方が良かったですか?」

 

 

彼女は変わらずそこにいる。どころか昨日見せていたはずの姿すら嘘だったかのように振る舞っている。楽しげに、いつかと同じように自分をからかって遊んでいるような。

 

 

「でも床にそのまま寝るのはいくらなんでもいけません。せめて布団ぐらいは敷いてくださらないと風邪を引いてしまいますよ?」

「…………」

 

 

めっと自分向かってに指を向けているのだろう。年上の姉のように、使用人を演じながら琥珀は自分に向かって話しかけてくる。そのあまりにも予想していなかった態度と状況に言葉もない。あるのはどこかに忘れてしまっていた郷愁のような未練だけ。

 

もう思い出せない程に摩耗した中であっても、覚えている感覚。遠野家で過ごした短くとも意味があった生活。まるでそれが蘇ったような、あり得ない幻想。

 

それを振り払うように包帯に封じられた魔眼をそのまま窓の外へと向ける。包帯、瞼越しでも夜になっていることは分かる。そのまま琥珀から視線を切りただ月を見続ける。これまでと変わらない。人形である自分にそれは変えられない。変えてはいけない。なのに――――

 

 

「……そういえばまだ言ってませんでしたね。わたし、今日から志貴さんとアルクェイドさんのお世話係になったんです。宜しくお願いしますね」

 

 

少しの間の後、心底楽しそうに割烹着の悪魔はそんなヨクワカラナイことを口にした。

 

 

「――――」

 

 

今度こそ、言葉を失った。意味が分からなかった。同時に強烈な既視感に襲われる。いつかどこかで同じように呆気にとられた経験があったと。できるのはただ感情を表に出さず、無視することだけ。しかしそれすらも見越しているかのように彼女はくすくすと笑っている。見えずともその姿が目に浮かぶほどに、その姿はかつての彼女と同じだった。

 

 

「嫌だって言っても無駄ですよ、志貴さん。これはシエルさんも了承されていることですから。アルクェイドさんにもお話はさせてもらってます。返事は……頂けませんでしたけどきっと大丈夫です」

 

 

まるでこちらの思考を読んだように琥珀は事情を明かしていく。どうやらシエルにも話は通っているらしい。いや、通っているからこそなのか。自分が寝ている間にどんなやり取りがあったのかは分からないが、間違いなく自分が想像している方向とは真逆のことをシエルはしてくれたらしい。一般人の琥珀を巻き込む選択を代行者である彼女がするはずがないと、琥珀をあのまま追い払ってくれることを言外に伝えたはずなのにどうしてこんなことになっているのか。

 

 

「そういえば、シエルさんからナイフを預かっていたんです。お返ししておきますね」

 

 

そう言いながら琥珀はその手にナイフを持ちながら自分に差し出してくる。正確には差し出してきているのだろう。視線を向けていない自分には分からないが、気配で彼女が自分に近づいているのは分かる。だがそこまで。琥珀はそれ以上踏み込んでくることはない。自分もそれに応えることはない。互いに手が届きそうなのに、手を伸ばすことはない。それが自分と琥珀の関係。

 

 

「……じゃあここに置いておきますね。危ないので足で踏まないように気をつけてくださいよ?」

 

 

どれだけの時間そうしていたのか。一度息を飲むような気配を見せながら琥珀はそのままナイフを床に置き、その場から離れていく。知らない誰かが見れば、琥珀が一人芝居をしているように見えるであろう状況。昨日再会してから、全く自分を見てくれていないにも関わらず、彼女はそれでも変わらない。もしかしたら演じているだけなのかもしれない。遠野家にいた時のように、自らのフクシュウのために。そのために八年間、彼女は生きてきた。自らを壊した俺にフクシュウするために。なのにそれを忘れて、最期にはその相手を庇って死んでしまった、どうしようもなく愚かな――――いや、本当に愚かなのは――――

 

 

「シエルさんは今、外に出られています。戻ってくるまで絶対に外には出ないように、との伝言です。志貴さん、よっぽど心配されてるんですね」

 

 

笑いながら琥珀はそう告げてくる。どうやらシエルはここにはいないらしい。琥珀だけならば自分はここから離れることができるがアルクェイド・ブリュンスタッドもいる以上、この場を離れることはできない。それを知った上でそんな伝言を残してくるとは恐らく相当おかんむりらしい。それを悟っているからなのか、琥珀は変わらず楽しそうにしている。本当に楽しいのか、演じているのか。螺旋を繰り返している自分でもそれは分からない。分かるのは

 

 

「じゃあわたしは皆さんの食事を用意しますね。その間、志貴さんはアルクェイドさんとお話でもされてて下さいな」

 

 

今のこの状況が、自分にとって喜ばしいものではないという一点だけだった――――

 

 

 

 

そのまま琥珀の言葉に従うように隣の部屋へと足を運ぶ。もっとも琥珀に言われるまでもなく様子を伺う気ではあったのだが。琥珀の姿はない。どうやら本当に食事を用意しているらしい。何かがおかしい。一体シエルは琥珀に何を吹き込んだのか。だがそれを無視し、機械的にドアに前に辿り着く。手にはナイフがある。使うようなことはないだろうが念のため。シエルの言葉に習うわけではないが、自分がどれだけ危険なことをしているかは理解している。

 

 

「邪魔するぞ、ブリュンスタッド」

 

 

ノックと挨拶をしながら部屋へと踏み入る。そんなものは必要ないのかもしれないが形式的なもの。そこには昨日と変わらない部屋の光景。視界が閉じられ、死の線でしか判別できないがそれでも彼女の部屋が殺風景なのは分かる。調度品など必要最低限の物以外は何もない部屋。自分も部屋に物を置かない主義だがそれを加味してもブリュンスタッドの部屋は簡素だった。まるで彼女の在り方が形になったかのよう。

 

 

「…………」

 

 

そこに彼女はいた。変わらずベッドで上半身だけを起こしている。死の線に満ちた世界の中で彼女だけが白い人影のように映る。夜の死期がない彼女だけはこの魔眼を持っていても視界に収めることができる。もっとも今は弱っていることもあり死の線がいくつか見えるが他の人間や建物に比べればないにも等しい。

 

そのまま無言のままブリュンスタッドを見つめる。その死の線の数は昨日よりも明らかに減ってきている。恐らく回復してきているということなのだろう。だがそれは決して喜ばしいだけではない。回復すれば彼女は動き始めるだろう。そうなればここに留めておくこともできない。戦闘になることも充分あり得る。そうなれば今度こそ彼女を殺すしかなくなる。自分にそれができるのか。未だに彼女を殺せなかった理由が分からぬままだというのに。そもそも回復した彼女に勝つことができるのか。シエルの助力があれば違ってくるが力を奪われているとはいえ最強の真祖。曰く処刑人。

 

 

「――――ふぅ」

 

 

溜息を吐きながら無造作にその場に座り込む。視線はブリュンスタッドに向けたまま。彼女を見張る意味もあるがそれ以上に魔眼の負担を考えての判断。本当なら死が見えない相手は脅威でしかないのだが今はその相手を見ることが一番負担が少ないという皮肉。そのままだらしなく座り込んだまま。シエルも琥珀もこの場にはいない。何も偽る必要も演じる必要もない。アルクェイド・ブリュンスタッドは何の反応もすることはない。当たり前だ。それが彼女の在り方なのだから。それなのに

 

 

「…………シキ」

 

 

いつかのように、聞き違いかと思うような声が聞こえた。

 

 

「…………?」

 

 

訝しみながらブリュンスタッドに視線を向けるも何もない。彼女は微動だにしない。気のせいだったのかと思い、そのまま意識を切り替えようとした瞬間

 

 

「――――あなたは、シキ」

 

 

今度こそ間違いなく、アルクェイド・ブリュンスタッドの言葉を自分は初めて耳にした。

 

 

だが理解できない。何故言葉を発さないはずの彼女が。その内容も意味が解せないもの。独り言なのか、それとも自分への質問なのか。声の抑揚からはどちらか判断できない。どこか機械音声のようにたどたどしい。特にシキの部分は顕著。八年以上この境遇で生きてきたがそんな発音で名前を呼ばれたのは初めてだった。

 

 

「……それがどうかしたのか?」

 

 

とりあえずはそう応えるしかない。無視することも考えたがあえてそうした。独り言なら返事をすることはないはず。本当に自分へむけられた言葉なのか確かめるため。だが同時に何かその問いを無視することはできなかった。いつか、誰かに同じ質問をされたことがあったような気がする。あれはいつだったのか――――

 

 

「耳が、聞こえないの?」

「…………は?」

 

 

今度こそ耳を疑うしかない。ここまで唖然としたのはいつ以来だろうか。質問の意味が分からない。何が言いたいのか、聞きたいのか。致命的なレベルで何かが狂っている。歯車がかみ合っていない。

 

 

「……何が言いたいのか分からないが、耳は聞こえてる。眼のことは昨日説明した通りだ」

 

 

とりあえす聞かれたことに返すだけ。魔眼については簡単ではあるが昨日説明済み。もっとも説明を聞いていたかどうかは定かではないが。だが分からない。自分は彼女の言葉に反応した。なのに何故耳が聞こえないことになるのか。

 

 

「泣いていた」

「……泣いていた? 何の話だ?」

 

 

先程以上に意味不明な言葉に首を傾げるしかない。何の脈絡もない、関係性も見えない言葉。思いついた言葉をただ口にしているだけのよう。もはや相手にする意味はないのではないか。そう判断しかけていた思考は

 

 

「コハクは、泣いていた。聞こえていた?」

 

 

彼女の口から琥珀の名が出たことで停止してしまった。

 

 

「……何でそこであいつの話になる」

「分からなかったから。どうして、コハクが泣いていたのか」

「……何で俺にそれを聞く。あいつに直接聞けばいいだろう」

「聞いた。でも教えてくれなかった。分からないって」

 

 

たどたどしくもブリュンスタッドは自分に話しかけてくる。徐々にではあるが、言葉が意味を含みつつある。思考と論理が少しずつではあるが一致しつつあるのだろうか。

 

どうやらブリュンスタッドは琥珀が泣いていた理由が知りたいらしい。何故そんなことに興味が湧いたのかは分からない。そもそも琥珀が泣いていたかどうかも自分は知らない。死の線の世界では、他人の表情など分からないのだから。だがブリュンスタッドの言う通りなら琥珀は泣いていたのだろう。その理由を何故自分に聞くのか。

 

 

「コハクは、シキを見て泣いていた。シキは、何で泣いていないの? コハクは、泣いていたのに」

「――――それ、は」

 

 

ブリュンスタッドにとっては何気ない、当然の疑問だったのだろう。琥珀が自分を見て泣いていたのに、どうして自分は泣いていないのか。子供のような、純粋無垢な問いかけ。

 

だがそれに応えることができない。自分には琥珀が泣いていることが分からなかったから。ただそれだけ。耳が聞こえていないからではなく、ただ単に見えなかったからなのだと。なのにそんな単純な答えが口にできない。

 

 

――――そうだ。俺は泣くことができなかった。彼女は泣いていたのに、泣くことができなかった。涙を流すことが、できなかった。当たり前だ。彼女は人間で、俺は人形だった。ただそれだけ。なのに、それだけがどうしても――――

 

 

『志貴さん……泣いてるんですか。よかったです……約束、守ってくれたんですね』

 

 

あの時の彼女の言葉。寸でのところでナイフを止めてくれたもの。それが何だったのか思い出せない。思い出すことが、怖い。

 

 

「――――シキ?」

「……何でもない。あいつに分からないことが俺に分かるはずないだろ。それよりも、お前はあいつと話したことがあるのか」

「シキが寝ている間。でも、ほとんど話してはいない。ずっとコハクがしゃべっていただけ」

 

 

話題を強引に切り替える。それ以上考えることは時間の無駄。害にしかならない。同時にようやく理解する。どうやらブリュンスタッドは自分が寝ている間琥珀と接触していたらしい。もっとも言葉通りなら接触というよりは琥珀が一方的に喋っていただけのようだが。その光景が容易に目に浮かんでくる。事情を理解しているのかは定かではないが、最強の真祖であり処刑人である今のブリュンスタッドに自ら接触するなど正気の沙汰ではない。恐らくそんなことができるのは琥珀だけだろう。戦闘能力を持たないという点では自分よりもよっぽど常人離れしている。

 

 

「……そうか。だけどどういう風の吹き回しだ。言葉を発するのは無駄なことじゃなかったのか?」

 

 

後回しにしていた疑問をようやく告げる。そう、そもそも彼女と話しているこの状況が既に異常なこと。処刑人であるアルクェイド・ブリュンスタッドにとって言葉を発することなど無駄なことでしかないはず。それなのに何故。

 

 

「…………分からない。ただ、分からなかったから」

 

 

ブリュンスタッドはそう口にするだけ。分からない。分からないことがあったからだと。興味か、疑問か。彼女自身それが何なのか分かっていないらしい。それが何なのか聞こうかとも思ったが止めた。聞いても無駄なことは想像がつく。

 

言葉を発するようになったとしても、目の前のブリュンスタッドは未来知識の彼女とはかけ離れている。十七分割され殺されたことで彼女は言葉を発するようになった。その在り方から外れて行った。なら今の彼女の変化は何が原因だったのか。左腕を切り裂いたことか。それともそれ以前に何かあったのか。

 

 

「シキ、聞いてもいい?」

 

 

そんなことを考えているとブリュンスタッドはそのまま再び疑問を、質問を投げかけてくる。その内容も本当にどうでもいいようなことばかり。

 

何が好きなのか。手に持っているナイフは何なのか。目にしている包帯は何なのか。どうしてここにいるのか。魔眼はどうなっているのか。何度繰り返しているのか。死はどんなものなのか。

 

まるで初めて自転車を乗り始めた子供のように、どこか逸りながらも淡々とアルクェイド・ブリュンスタッドは話しかけてくる。それに自分もまた淡々と応える。一言二言、愛想なんてものはない。ただ面接官の質問に答えるように、機械的に応じているだけ。

 

本当なら無視してもよかったのだがそれはしなかった。それ以外、今やることがなかったのが理由。睡眠は取ったばかり、外に出ることもできない。一応この場にいればアルクェイド・ブリュンスタッドを見張っていることと同義。ならこのままでいいだろうと。だがそれが甘かった。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま一時間近くずっと喋り続けた。いや、放っておけば一日中でも喋り続けるかもしれない。琥珀も未だに現れない。買い物にでも出かけているのか、それとも。琥珀も喋り続け自分のペースを乱してくれるがブリュンスタッドのそれは根本的に違う。彼女には自分をからかう意志も何もない。ただ単純に興味から質問を繰り返しているだけ。生まれたばかりの子供のように、そこには何もない。

 

表情は伺えないがその姿はとても今まで見てきたアルクェイド・ブリュンスタッドとは一致しない。何がそこまで彼女を変えたのか。それともこちらが本当の彼女だったのか。何にせよ、このままずっと質問攻めにされるのも飽きてきたこともあって、こちらから質問することにする。

 

 

「ブリュンスタッド、その左腕は再生することはできないのか?」

 

 

これからのことも見据えて確認したかった事象。左腕は治るのか否か。だが自分にとっては虎の尾を踏むに等しい行為。もし彼女の気を損ねれば、そのまま死に直結しかねない鬼門だった。だが

 

 

「ええ。切り落とされただけなら再生できるけど、ロアに力を奪われてしまっているから。それを取り戻さない限り元には戻らない」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドは全く気にした風もなく淡々と告げる。喋り続けたからなのか、言葉遣いもまた流暢にはなっているがどこか機械的な部分が抜けきっていない。だがそれを差し引いても彼女の反応は自分にとっては予想していないものだった。何故なら

 

 

「……恨んでないのか。俺はお前を殺そうとしたんだぞ」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドには全く自分に対する敵意がなかったから。左腕を切り落としただけではなく、殺そうとした相手が目の前にいるにも変わらず何故気にしていないのか。昨日、彼女の部屋に訪れた時も半分以上の確率で殺し合いになると踏んでいた。なのに昨日を含めてブリュンスタッドには全く敵意が憎しみがない。

 

 

「……何故恨むの? わたしは死んでいない。左腕も結果的には失くしたことであの場を脱せた。それだけ」

 

 

当然のようにアルクェイド・ブリュンスタッドは応える。結果がすべてだと。その過程などどうでもいいと。恨みなどない。あるのは自分の行動において障害となるか否かだけ。そこに感情は含まない。感情を持ち得ない。

 

ただ確信する。間違いなく目の前の彼女は処刑人なのだと。機械のように、人形のように目的を果たすための兵器。なのに何故そんな彼女に言いようのない何かを感じるのか。そんな物はとうの昔に失くしたはずなのに。

 

知らず思い出す。八年前、光を失った瞳で自分に話しかけてきた少女の姿。少女に抱いた己の感情。八つ当たりに近い、子供のような反抗心。嫉妬という名の自己嫌悪であり同族嫌悪。

 

 

「わたしも聞くわ。シキは、わたしのことを恨んでいないの?」

「…………え?」

 

 

だがその答えに至る前に現実に引き戻される。正しくは、彼女の問いに呆気にとられていた。その問いの意味が分からない。何故自分がアルクェイド・ブリュンスタッドに憎しみを抱かなければならないのか。

 

 

「あなたはわたしに何度も殺されたんでしょう? ならどうして、わたしを庇ったりしたの?」

 

 

だがようやく質問の意味を悟る。奇しくもそれはいつかシエルが自分に問いかけた物と同じもの。今までの繰り返しの中で何度もアルクェイド・ブリュンスタッドに殺されているのに憎しみを抱かないのか、と。だが分からない。何故そんなことを気にするのか。当たり前だ。

 

 

「何で俺がお前を恨まなきゃいけないんだ。お前は俺を殺しちゃいないだろ。されてもいないことで誰かを恨む程、俺は暇じゃない」

 

 

目の前の彼女は自分を殺していない。自分を殺したのは別の世界の彼女だ。並行世界か、過去の世界かは分からないが目の前の彼女とは全く関係がない。別人と言ってもいい。まだされてもいないことで誰かを恨むことなどあり得ない。生まれていない命に罪科は問えないように、まだ起こしてもいないことに拘る方がどうかしている。

 

 

だが後者の質問については答えはない。何故庇ったのかは未だに自分にも分からないのだから。奇しくも先のアルクェイド・ブリュンスタッドの答えと同じもの。だが

 

 

「なら、どうしてシキはコハクを無視しているの?」

 

 

全く想定していない、決定的な問いを吸血姫は突きつける。

 

 

「シキの言う通りなら、今のコハクはあなたが知っているコハクじゃない。なのにどうして、そんなことをしているの?」

 

 

そこには何もない。自分を糾弾する意図も、追い詰める意志もない。ただ単純な疑問。だからこそ、応えられない。答えを持てない。まるで断頭台のギロチンを前にしたように、思考が真っ白になる。

 

 

「――――」

 

 

そう、それは真理。なのに自分は矛盾した行動をしている。致命的に、何かを間違えているのに、必死にそれに蓋をしている。それに気づけばきっと自分は人形ではいられなくなってしまう。でもそうなったら耐えられなくなる。そうなったら自分は壊れて――――

 

 

「お二人ともお待たせしました。まだシエルさんが戻っていませんけど、先にお食事にしましょうか」

 

 

いつもと変わらぬ声を響かせながら自らにとって矛盾の塊である少女が部屋へとやってくる。今の自分出来るのはただアルクェイド・ブリュンスタッドを見つめたまま、口を噤むことだけ。

 

 

未だ帰らぬお節介の女性を待ちながら、歯車が噛み合わない三人のいつ壊れてもおかしくない共同生活が始まらんとしていた――――

 

 

 


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