月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第二十六話 「因縁」

 

人気のない、夜のビルの屋上。その柵の上に立っている一つの人影がある。およそ正気とは思えない危険な行為にも関わらず彼女は身じろぎひとつせず、眼下に広がる夜の街を見据えている。

 

 

(……今夜はここまででしょうね)

 

 

法衣を纏った女性、シエルは最後にもう一度辺りを見渡しながらも目を閉じ探索を打ち切る。言うまでもなくこの街にいる二人の吸血鬼を見つけ出すためのもの。蛇と混沌。共に吸血鬼の中でも異端であり、危険な力を持つ怪物。一刻も早く滅しなければどれだけの被害が出るか分からないにも関わらず先の夜の戦闘以来、全くその足取りも気配も感じられない。

 

 

(ネロはともかくとして、ロアの死者も全く見当たらないのは明らかにおかしい。やはり、アルクェイド・ブリュンスタッドの力を奪ったことが影響しているのか……)

 

 

ネロとロアは同じ吸血鬼であっても吸血の方法は大きく異なる。例外なのはネロの方であり、ネロは吸血することなく獣によって人間をそのまま食らうことで体を維持している。対してロアは血を吸った人間を死者とし、その死者達に血を集めさせている。ネロに関しては痕跡が残らないため探索は難しい。そのためシエルは今、ロアの操る死者を探しださんとしているものの全く見つけることができない。これまでの探索でも死者が一人も見つけられないことはなかった。ならば考えられるのは二つ。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドの力を奪ったことで死者を操ることができない状態になっているのか。もしくは死者を使って血を集める必要すらない程になりつつあるのか。

 

 

(どちらにせよ、後手に回るしかなさそうですね……)

 

 

焦る気持ちを抑えながら、冷静にシエルは判断する。こちらから相手を補足する術がない以上、迎え撃つ形で対応するしかない。奇しくも先日、遠野志貴と状況確認した際の結論と同じ。

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』

 

その存在がこの戦局の要となる。蛇と混沌、両者にとっての目標である以上間違いなく彼らは彼女を狙ってくる。ならば彼女を確保している自分と遠野志貴でそれを迎撃する。これ以上なく単純で分かりやすい作戦。だが問題はアルクェイド・ブリュンスタッドが味方ではなく、護衛するべき対象でもないということ。最悪、乱戦になれば自分達も彼女に殺されかねない。どう扱うべきか分からない、いつ炸裂するか分からない爆弾を抱えながら戦うようなもの。

 

 

「……ふぅ、とにかく一旦戻るとしましょうか」

 

 

誰にでもなく独り言をつぶやきながら飛び上がる。もう時刻は午前四時を回ったところ。じきに夜明け。これ以上探索することに意味はない。ひとまず代行者としての時間が終わったにも関わらずシエルには安堵の顔はない。何故ならこれから戻る場所は、ある意味吸血鬼探し以上に厄介な状況に陥っているのだから――――

 

 

 

 

そのままブーツの音を奏でながらあるマンションへと戻ってくる。本当なら真祖の拠点であるこの場所に戻ってくるということ自体あり得ないこと。かといって放置できるほど自分は薄情ではなく、何よりもそんな危険なことは代行者としてもできはしない。フロア一帯を貸し切っているのは不幸中の幸いだろう。これで隣人や一般人がいれば暗示があったとしても誤魔化すのは容易なことではないのだから。

 

そのまま軽くノックした後、ドアを開けたそこには

 

 

「あ、お帰りなさいシエルさん。もうお仕事は終わったんですか?」

 

 

思わず見惚れてしまうような柔らかい笑みを浮かべている少女が自分を出迎えてくれる、あり得ない光景があった。

 

 

「――――」

 

 

そのまま言葉を失ってしまう。目の前の少女、琥珀のあまりにも自然な姿。割烹着という時代錯誤な恰好も相まってまるで自宅に帰って来たのではないかと思えるような空気がある。お帰りなさい、という当たり前の言葉。なのに長い間、忘れてしまっていた感覚。思い出すことは許されない日々。

 

 

「……シエルさん? どうかされたんですか?」

「……いえ、ちょっと考え事をしていただけです。遠野君は中に?」

 

 

ただいま、という何でもない言葉を寸でのところで飲み込みながら話題を切り替える。もしかしたら、そうすることで何かを誤魔化そうとしていたのかもしれないが今はまだいいだろう。

 

 

「はい。シエルさんの伝言をお伝えしたらそのままお部屋で休まれてます。シエルさん、志貴さんに信頼されてるんですね」

「そうでもないと思いますよ。わたしの忠告を無視して色々無茶してくれてますから」

「ふふっ、そうですか。さあ早く上がってください。お食事の準備もできてますから」

 

 

手で口を押さえながらどこか楽しげに笑っている琥珀に誘われながら奥の部屋に通される。その仕草から間違いなく彼女が使用人なのだなと感じ取れる。だがそんな感慨は部屋に入った途端に一気に霧散してしまった。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

そこは異次元空間だった。魔術の類が張り巡らされているのはと思ってしまうほどに言葉にできない空気が部屋に漂っている。それを作り出しているのは二人。

 

一人は遠野志貴。いつも変わらぬ無表情。目に包帯を巻いたまま、椅子が部屋にあるにも関わらず壁を背にし床に座り込んでいる。いつもと違うのは纏っている空気。一言でいえば不機嫌オーラが滲み出ていた。加えて心なしか疲れているような気配もある。これまで短い間だが付き合ってきた中でも見たことがないような有様。

 

もう一人がアルクェイド・ブリュンスタッド。ベッドの上で上半身だけ起こしているところは変わらない。違うのは右手でスプーンを持ち、もくもくと料理を食べているということ。時折コクコクと頷きながら料理を口に運んでいる。その仕草はどこか小動物じみている。およそ普段の彼女からは想像もできないような光景。表情は無表情だがこころなしか純粋さが感じられるほど。

 

そんな二人が互いを見つめ合っている。何が起こったらこんな状況になるのか。

 

 

「琥珀さん、これはいつから……?」

「はい。かれこれ三時間ほどでしょうか……アルクェイドさんがずっと志貴さんとお喋りになってたんですが、途中から志貴さんが喋られなくなりまして。代わりにわたしがアルクェイドさんとお話させていただいていたんです。あ、料理を召しあがられているのはさっきからですよ」

「……そうですか」

 

 

何でもないことのように状況を説明してくれている琥珀に感謝しながらも全く理解できない。まずアルクェイド・ブリュンスタッドが言葉を発するということ自体が本来あり得ないこと。確かに自分がここを出るまで彼女は一言も喋ってはいなかったはず。にも関わらず琥珀の話を信じるならば少なくとも三時間は喋りっぱなしだったのだろう。だからなのか、遠野志貴は疲労しているように見える。いや、呆れているのだろうか。何にせよ彼からしてみれば黙りこんでしまうような状況だった、ということなのだろう。

 

 

「どうですか、アルクェイドさん。お口に合いますか?」

「……分からない。料理を食べたことはないから。普通の食事にあまり意味はない」

「そうですか。アルクェイドさん、吸血鬼でしたもんね。でも食べることはできるんですよね?」

「できる。でもそれは無駄なことだから」

「そんなことはありません。食事というのは栄養を摂る以外にも大事な意味がありますから」

「……?」

「ズバリ、それは誰かと一緒に食事をするということです! 他の誰かと一緒に食事をしながら会話することはとても楽しいですから」

 

 

変わらず一定のペースでもくもくと食事の真似ごとをしているアルクェイド・ブリュンスタッドに向かってどこか楽しげに、諭すように琥珀は喋りかけている。端から見れば妹の面倒を見ている姉といった風。そんな理解できない光景にシエルは言葉を失っているだけ。あのアルクェイド・ブリュンスタッドが言葉を発し、会話をし、人間の食事をしている。何よりも琥珀の態度。琥珀にはアルクェイド・ブリュンスタッドがどんな存在であるかは伝えている。なのに彼女には全く恐れがない。自然体そのもの。何故そんなことができるのか。理解していないだけなのだろうか。それとも理解したうえで演じているのか。

 

 

「そう……でも、シキは食事をしていない」

「そういえばそうですね。これではいけません。志貴さん、少しでも召し上がってくださいね。お身体に障りますよ?」

「…………」

 

 

そのまま視線を遠野志貴に向けてようやく気づく。彼のすぐ傍にも料理が置かれている。全く手つかず。同時に琥珀の言葉にも全く反応を示さない。いや、示そうとしない。

 

 

「シキは何故食事をしないの? 食事を採らなければあなた達人間は生きていけないのに」

「……一日食事をしないぐらいで死んだりはしない」

 

 

だがアルクェイド・ブリュンスタッドの問いかけに対しては応える。これ以上にないほどに分かりやすい、幼稚な行動。予想していたことではあったがここまで徹底しているとは。まるでアルクェイド・ブリュンスタッドを間に挟んで会話をしているかのよう。見ようによっては夫婦喧嘩をしている夫婦が子供を通じてやり取りをしているようにも見える。流石にやりすぎなのではないかと諫めようとした瞬間

 

 

「それに起きてすぐにカレーなんて食べれるわけないだろう」

「何を言ってるんですか遠野君!? そんなことはありません! カレーは一日三食でも何の問題もありません!!」

 

 

条件反射のように机を両手で叩きながら、ただ心からの叫びを上げる。もはや何も取り繕うこともない。その勢いと必死さに遠野志貴だけではなく、琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッドもシエルに釘づけになってしまう。

 

 

「……ごほんっ、とりあえず琥珀さん。わたしにもカレーを一つ頂けますか?」

 

 

一瞬の静寂の後、気を取り直しながらシエルは咳払いと共にそう告げる。先程の出来事など無かったかのような振る舞い。それがようやくシエルが三人が作り出している空間に入りこめた瞬間だった――――

 

 

 

 

「御馳走様でした。美味しかったです。もしかしてわたしがカレーが好きだと言ったから作ってくださったんですか?」

「ええ。志貴さんは何が食べたいか仰ってくれませんし、アルクェイドさんは食事はしないと仰られるものですから。志貴さん、何か軽いものでもお作りしましょうか?」

 

 

琥珀の声は聞こえているはずにも関わらず、変わらず遠野志貴は反応を示さない。無視されている。そんな扱いをされていながらも琥珀は少し困ったような笑みを浮かべているだけ。

 

 

「遠野君、いつまでそんなことを続けるつもりですか? 余計に疲れるだけだと思いますけど」

「……シエルさんには関係ない。それはこっちの台詞だ。確かシエルさんに後を任せた筈なのにどうしてこんなことになってるんだ?」

「さあ、どうしてでしょうか。でもちゃんと聞きましたよ? わたしに任せると。ですからその通りにしただけです」

 

 

遠野志貴が何を言わんとしているかを理解しながらも強引に切り返す。何故琥珀が留まることを許したのか。それが遠野志貴の言い分。確かにそれは正しい。一般人を裏の世界に関わらせることは代行者としては許されることではない。だが琥珀、彼女については事情が異なる。彼女自身がある程度裏の世界の事情に関わっていること、何よりも強引に追い払ったところで彼女はあきらめないであろうことは遠野家で会った時から明らか。加えてこの場所を知られてしまっており、彼女には暗示が通用しない以上どうしようもない。中途半端に放置して巻き込まれる方が危険。なら最初からこの場に留まってもらった方が対処しやすい。何よりも遠野志貴にとっては恐らく彼女がいた方が良い。確信にも似た直感がシエルにはあった。

 

 

「それよりも確かめたいことがあります――――アルクェイド・ブリュンスタッド。貴方はこれからどうするつもりなんですか。言葉を紡いでいるようですが、わたし達と敵対する気はないと?」

 

 

故に問題はもう一つの方。アルクェイド・ブリュンスタッドの処遇。先の琥珀と喋っている光景は少なからずシエルにとって驚きに値するもの。だがその真意は計れない。何をもって琥珀や遠野志貴と会話しているのか。不確定要素の塊であるにも関わらず、これ以上事態を混乱させられるのは流石にまずい。だが

 

 

「――――ええ。今のところは敵対する気はない。シキには見えているようだけど、わたしはまだ回復しきっていない。それが済むまでは動く気はない。でもそれだけ。もし障害になるなら全て排除する。ロアも、貴方達も」

 

 

先程まで見せていた姿とは思えない、感情を感じさせない言葉でアルクェイド・ブリュンスタッドは告げる。宣戦布告だと捉えられかねないもの。間違いなく本心なのだろうと確信できる。すなわちそれはこれまでと変わらないということ。例え言葉を交わすことができるようになったとしても、それぞれが己が目的のために動くことは変わらない。

 

 

瞬間、部屋の空気が張り詰める。アルクェイド・ブリュンスタッドの瞳は赤から金に、シエルは法衣の下にある黒鍵に、遠野志貴は右手にナイフを。だが

 

 

「ダメですよ、喧嘩はいけません。それにアルクェイドさんも仰ってたじゃないですか。治るまでは動かないって。それまでは仲良くしましょう」

 

 

本当に事情が分かっているのか、琥珀はこの話題はここまでとばかりに両手をポンと合わせながらその場を強引にまとめてしまう。そのあまりの強引さ、もとい天真爛漫さにシエルはもちろん、アルクェイド・ブリュンスタッドも目を丸くしたまま。変わらないのは遠野志貴だけ。ただ三人の共通する認識が一つだけあった。

 

 

この場を支配しているのは真祖でも代行者でも殺人貴の紛い物でもない。目の前で微笑んでいる割烹着の悪魔なのだということだった――――

 

 

 

 

「シエルさん、すいません。わたしちょっと遠野のお屋敷に戻ってきますね」

 

 

場も落ち着き、洗い物を済ませた琥珀はそうシエルへと切り出す。時刻は朝九時を回った頃。なら吸血鬼や死者が現れる心配もない。元々琥珀には襲われる心配はないのだが。

 

 

「遠野家にですか……何故」

「わたし、着の身着のままでここに来てしまったので。着替えを持ってこようと思うんです。あ、ついでに志貴さんの着替えも。見たところ志貴さんも同じようなので」

 

 

遠まわしに着替えていないことを見抜いていると言わんばかりにクスクス笑いながら琥珀は遠野志貴を見据えるも返事はない。

 

 

「とりあえずこちらの心配は無用です。遠野君、とりあえず何か食べないといけませんよ。流石に何も口にないのは今後に支障が出ます」

「大丈夫だ。これから寝るところだし、カレー以外のものなら考えてもいいけど」

「まだそんなことを言ってるんですか? あんなごちそうを食べないなんて遠野君はどうかしています!」

「ただ単にシエルさんがカレー好きなだけだろう。そういえば……琥珀、俺の歓迎会のごちそうはどうなったんだ?」

「え……?」

 

 

琥珀はどこかぽかんとした様子で固まってしまう。それはシエルも同じ。気づいていないのは遠野志貴だけ。だが二人が固まってしまっていることで、ようやく遠野志貴は気づく。自分が知らず、自分ではなくなってしまっていることに。

 

 

「……志貴さん、今のは」

 

 

琥珀は心ここに非ずといった風に聞き返すも遠野志貴は何も答えない。それどころか、自分が何を口走ったのかすら分かっていない。琥珀には話しかけない、いないものとして扱うことが遠野志貴のルールだったはず。それを破ってしまったことで驚いているのだとシエルは思っている。だがそれだけではない。その内容にこそ琥珀が驚いている理由がある。

 

 

それはあの日の約束。公園でした、初めて彼の方から自分に触れてきてくれた時の、他愛ない約束。なのに果たすことができなかったもの。それを彼は覚えてくれていた。そしてもう一つ。以前の彼なら決して口にすることのなかった言葉。それは――――

 

 

「…………」

 

 

だが遠野志貴はそのまま俯き、口を閉じてしまう。だが確かにあった。間違いではなく、確かに聞こえた。

 

あの時、いなくなってしまったと思った彼が、まだいてくれた。

 

 

「……じゃあ、ちょっと出かけてきますね志貴さん。シエルさん、その間宜しくお願いします」

 

 

これまでで一番の笑みを見せながら、琥珀はそのままマンションを後にするのだった――――

 

 

 

 

「……本当に明るい方ですね、琥珀さんは。思わずペースに飲まれちゃいました。屋敷にいた時からあんな感じだったんですか?」

 

 

琥珀が出かけた後、アルクェイド・ブリュンスタッドがいる部屋の隣でシエルは心からの感想を述べる。確かに遠野家で会った時から笑みを見せている彼女だったが、ここまでとは流石のシエルも予想していなかった。

 

 

「……ああ。いつもあんな調子だ。何も変わっていない」

「そうですか……お屋敷にいた妹さんとは本当に対照的ですね。双子とは思えないです」

「いや……違う。琥珀は、翡翠さんを演じてるだけだ」

「演じているだけ……ですか。遠野君と同じですね。それも以前言っていた自分が人形だと思い込むのと同じですか?」

「……違う。演じているのは琥珀だけだ。俺は違う。でも誰かさんのせいで調子が狂っちまったみたいだ」

「それは大変ですね。でも調子が狂ってるんじゃなくて、調子が戻ってきてる、の間違いではないんですか?」

「…………」

 

 

今度こそ、遠野志貴は黙りこんでしまう。琥珀が相手ではないにも関わらず。シエル相手には嘘はつかないというルールがあるからこそ。答えない、答えれないということはそれだけで認めていることと同義。

 

 

「さて、これ以上いじめると後が怖そうなので止めておきます。でも遠野君も行かなくてよかったんですか? 翡翠さんも心配していましたよ?」

「ああ。俺が行っても意味はない。翡翠さんが心配しているのは俺じゃない。それに――――」

「……遠野君?」

 

 

そのまま遠野志貴は固まってしまう。まるで何かを思い出したかのよう。それがいつまで続いたのか。

 

 

「……少し外に出てくる。アルクェイド・ブリュンスタッドの監視を頼む、シエルさん」

 

 

そのまま遠野志貴は立ち上がり、部屋を後にする。本当なら日中は活動せず睡眠をとるはずにも関わらず。こちらの制止の声も聞こえていないように彼は姿を消してしまう。彼の行動理念は蛇を殺すことのはず。だがこれまでの彼の行動にはそれに矛盾するものがある。シエルは理解しかけていた。恐らくは遠野志貴本人すら意識していない、根源となるもう一つの行動理念があるのだと――――

 

 

 

 

(このぐらいでいいでしょうか……)

 

 

鞄の中に遠野志貴の着替えを押し込みながら琥珀はとりあえず溜息を吐く。今いる場所は遠野志貴の部屋。正確には、部屋だった場所。そこに主の姿はない。抜け殻のように、部屋には彼の数少ない私物が散らかっている。ここの時間はあの時から止まったまま。だが今は違う。ようやく自分は彼を見つけることが出来たのだから。

 

しかし、そこで出会った彼は以前とは変わってしまっていた。失くした左腕、目を覆う包帯。何よりも自分への態度。もしかしたら自分は彼の中でいなくなってしまっているのかもしれない。そう思えてしまうほどに。だがそれは違っていた。それを諭してくれたのはあのお節介の女性、もといシエルさんだった。

 

 

『琥珀さんはこれまでと同じように遠野君に接してあげて下さい。きっとそれが一番の早道です』

 

 

再会したばかりの志貴さんに拒絶され、落ち込んでいたわたしにお茶会でシエルさんはそう告げた。だがすぐにはその意味が分からなかった。彼はわたしの言葉を聞いてくれていない。意識してくれていない。まるで八年前、遠野家で出会ったころのようだったのだから。

 

 

『わたしも彼の事情から遠野君は特別なんだと思っていました。でも最近ようやく分かってきたんです。遠野君は遠野君なんだと。彼はきっと、琥珀さんが知っている彼のままです』

 

 

でもそれをシエルさんはさも当然のように否定した。彼は彼のままなのだと。

 

 

『そうですね……遠野君は今、麻疹にかかっているようなものなんです』

 

 

少し何かを思い出すような素振りを見せながら、シエルさんはそう良く分からないことを口にした。何が言いたいのか、わたしには理解できない。それでも

 

 

『わたしも似たような経験があるんです。自分が世界で一番不幸なんだって、本気でそう思ってしまってるとでも言いましょうか。今思い出すと恥ずかしくて笑っちゃうような話ですけど』

 

 

シエルさんの言葉が間違いなく正しいのだと感じる何かがそこにはあった。まるで同じ道を、経験をしたことがあるのだと告げるように。彼女は苦笑いをしている。でも違うはず。本当はこんな風に笑って話せるような過去、経験ではないことはわたしにも察することができた。

 

 

『だから琥珀さん、今まで通り遠野君に接してあげて下さい。それがきっと、遠野君にとっても救いになりますから』

 

 

だからこそ彼女の言葉には重みがある。言葉の節々に何かを憂うような空気がある。同時に、心から自分と彼を心配してくれているのだと。ならそれに応えることに何の迷いもない。

 

彼に無視されるのは辛い。拒絶されるのは怖い。でも何よりも怖いのはこのまま彼と出会えなくなくなること。ならただ『琥珀』を演じればいい。遠野家に彼がいた時のように。難しいことではない。いつも通り、人形のわたしの役割。

 

なのに今のわたしは違っていた。ココロとカラダが一致していない。熱に浮かされているかのよう。理由は分かっている。

 

彼がわたしの名前を呼び捨てにしてくれた。ただそれだけ。それだけのことがこんなにも嬉しい。話しかけてくれたこともだが、そのことの方が驚きだった。

 

本当はずっと自分を呼び捨てにしてほしかった。理由は単純。翡翠ちゃんが呼び捨てにしてもらっていたから。そんな子供みたいな理由。いつか二人きりの時なら呼び捨てにしてもいいですよ、と口にしたこともあったけど結局できなかったこと。

 

でも分からない。どうして彼が自分を呼び捨てにしていたのか。どんなにお願いしてもしてくれなかったのに。何かきっかけがあっただろうか。思い当たる節はない。もしかしたら、彼の方にはなにかあったのかもしれない。

 

そう、わたしは何も知らない。彼のことも、シエルさん曰く彼が麻疹になってしまっている理由を。シエルさんもそれは教えてくれなかった。ならそれはきっと――――

 

 

 

気づけば知らずその手には白いリボンが握られていた。もしもう一度彼にこれを渡せば受け取ってくれるだろうか。いや、きっと拒絶されるだろう。あの時、彼はリボンではなくナイフを探していた。きっとそれが八年前の約束の答え。人形は人間にはなれない。それが彼の答え。でも、わたしはどうだったのだろう。もしわたしが人間に戻れたら、彼も人間になれるだろうか。

 

 

(……何を考えているんでしょうか、わたし)

 

 

自嘲しながらその場を立ち上がり、部屋を後にする。音を立てずに静かに。まるで泥棒に入ったかように遠野家を歩いて行く。昔はここが自分を閉じ込めているお化け屋敷のように感じられた。今は慣れてしまったけれど、閉じ込められていることには変わらないのかもしれない。翡翠ちゃんのように屋敷の外に出れないわけではないけど、本当の意味でわたしはここから逃れることができないのかもしれない。自分で自分を縛るように。

 

ふと、足を止める。翡翠ちゃんに会って行くべきかどうか。今のわたしは一日無断で屋敷を留守にしてしまっている。加えて今から屋敷を出て行くところ。どんな言い訳をしても無意味だろう。それでも翡翠ちゃんを連れていくことはできない。翡翠ちゃんは屋敷から出ることはない。それにわたしの我儘に巻き込むわけにはいかない。

 

そのまま玄関へと向かう。知らず、早足で。その理由が分からない。もしかしたらわたしは浮かれていたのかもしれない。かつて槙久様に四季様のお世話を任せられた時のように。希望なんてないのに、あきらめればいいのに。もう一度絶望することは分かり切っているのに。自分が焦っている本当の理由に気づかない振りをしている。でもそんなことでは誤魔化すことはできなかった。

 

 

そこに彼女はいた。玄関と門の間。腰にまで届く程の長い黒髪。見る者を圧倒する瞳に、圧倒的な風格。少女は腕を組んだまま、ただ真っ直ぐにわたしを睨んでいる。

 

 

「――――そんな荷物を持ってどこに行こうというの、琥珀?」

 

 

遠野家現当主、遠野秋葉。

 

 

この日、八年前から決まっていた、遠野家の因縁に翻弄されてきた二人の少女が向き合う時がようやく訪れたのだった――――

 


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