月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第二十七話 「願い」

「――――そんな荷物を持ってどこに行こうというの、琥珀?」

 

 

聞きなれた筈の凛とした声色。同時に聞いた者を圧倒するカリスマを併せ持つ矛盾。それを前にして歩みを止めるしかない。自分の挙動におかしなところはない。ただ確かなのは

 

 

「――――秋葉、様」

 

 

わたしにとって、目の前の少女、遠野秋葉と向き合うことがこの八年間の呪縛から逃れるために避けて通ることができないということだけ。

 

 

「……どうやら本当に驚いているみたいね。私が昼間に屋敷にいることがそんなにおかしいかしら? 使用人が昨日から屋敷に戻っていないのだから、それを気に掛けるのは主人として当然だと思うのだけれど」

 

 

変わらず腕を組み、視線で秋葉様はわたしを射抜いている。その言葉からは明らかに自分に対する敵意、いや詰問する意図が含まれている。当然だ。わたしは昨日から無断で屋敷を後にしていたのだから。こうして待ち伏せされているのにも納得がいく。驚いているのは自分自身のこと。

 

そう、こうなることなど分かり切っていたはずなのに、そんな当たり前のことに気づくことがができない程、わたしは壊れてしまっている。

 

 

「……学校はどうされたんですか、秋葉様。いつもならもう出られている時間ですけど」

「一日二日休んだところで何の問題もないわ。元々勉強だけなら家庭教師で事足りる。形式を考えて通っているだけだと以前話したことがあったはずだけど」

「そうでしたね。でもその割には御学友にも恵まれているそうじゃないですか。あまり長く休まれてはきっと心配されますよ?」

「そうね。ならさっさと用件を済ませるわ」

 

 

何とか自分を誤魔化しながらいつもの琥珀を演じる。変わらず笑みを浮かべながら、使用人として当主に仕える人形。これまでとなんら変わらないはずのなのに、今はそれに違和感を覚えてしまう。そんなはずはない。これではまるで

 

 

「――――答えなさい、琥珀。今までどこで何をしていたの」

 

 

わたしが、秋葉様を怖がっているみたいではないか。

 

 

視線が一層鋭くなる。ナイフを突きつけられているかのような悪寒が走る。返答次第によってはただではおかない。少女の激情と当主として厳かさ。そのどちらに天秤が傾いているのか。

 

 

「さてさて困りました……やっぱり秋葉様、怒ってらっしゃいます?」

「今更そんな言葉が出てくるなんて驚きね。私が冗談が嫌いなことは知ってると思うけど」

「はい、それはもう。ちょっとわたしが悪戯しただけで本気で怒られるんですから。心配いりませんよ秋葉様。昨日はちょっと色々ありまして。朝帰りみたいになってしまいましたけど大丈夫です」

 

 

笑いながら秋葉様の質問をはぐらかす。本当のことなど言えるわけがない。信じてもらえるわけがない。いや、知られてはいけない。

 

 

「お伝えするのが遅くなってすみません、秋葉様。わたし、ちょっと行ってみたいところがありまして。数日、お休みをいただきますね」

 

 

手に持った大きなバックを見せながら秋葉様に告げる。旅行に行くのであろう雰囲気を見せながら。強引すぎる言い訳だがそれ以外に思いつかない。使用人としての休みを使わせてもらうことに問題はないはず。ただそれがいつまでになるかは自分にも分からない。それでもわたしはここではなく、あそこに行きたかった。なのに

 

 

「――――つまらない嘘は止めなさい、琥珀。あなたにここ以外の居場所なんてあるわけがないでしょう」

 

 

秋葉様は何の容赦もなく、わたし自身が誰よりも分かっているはずの答えを突きつけた。

 

 

「――――え?」

 

 

秋葉様と対面してから初めて息を飲んだ。目が見開かれ、知らずバックを持つ手に力が入る。できるのはただ呆然と白痴のように秋葉様を見つめることだけ。

 

ワカラナイ。今、秋葉様が何と言ったのか。

 

ワカラナイ。今、わたしが何を怖がっているのか。

 

 

「……その様子じゃ、本当に忘れていたみたいね。どこに行く気かは知らないけど、もう私達に復讐する気はないということ? そのためにずっと八年間動いていたのだと思っていたのだけど」

 

 

何でもないことのように、秋葉様は口にする。これまで決してバレないように動いてきたはずの目的を。人形であるわたしのゼンマイ。行動理由。

 

 

フクシュウという名の自己保存。

 

 

「……いつから気づいてらしたんですか、秋葉様?」

「そうね……確信したのはあなたから血をもらうようになってからかしら。その前から何となくそうじゃないかとは思ってはいたけど」

 

 

表情を変えることなく淡々と、自分でも驚くほど機械的に秋葉様へと問いかける。殺人事件の犯人のように弁明し、狼狽することもない。胸に穴が空いているのではないかと思えるほど、何の感情も浮かばない。ああ、そうか――と思うだけ。わたしが間抜けだったのか、それとも秋葉様の勘が優れていたのか。恐らくはその両方。こんなにも呆気なく、わたしの八年間のフクシュウは終わりを告げる。いや、これから終わらんとしている。

 

 

「そうですか……翡翠ちゃんはともかく、秋葉様にバレていたのは予想外でした。でもどうしてそんなことをわざわざ仰ったんですか? 知っていたのならわたしを殺すなり捕えるなりできたでしょうに」

 

 

壊れかけの人形が、元の姿に戻ることによって。そう、これがあるべき結末。最初からフクシュウが終わったら死ぬつもりだった。毒かナイフか。方法は決めていなかったけれど、それだけはきっと変わらない。だってゼンマイがなければわたしは生きていけない。

 

そのゼンマイも今、終わってしまった。でも後悔はない。そんなもの、最初から持っていないしあるわけない。元々わたしは誰も恨んでいない。秋葉様に殺されるなら、それは至極当然であるような気がする。フクシュウもただ人間ならそうするだろうなと思ったからしていた――――だ、け。

 

 

――――あれ? 何かおかしい。そういえば、わたし、人形になるためにフクシュウしようとしてたのに、それってまるで

 

 

初めに気づかなければならない矛盾に、八年たった今ようやく至る。そう、前提からして間違っている。フクシュウは人間がすること。人間であればそうするであろう行為。それを何故、人形のわたしがしているのか。笑い話にも、冗談にもならない答え。いつかの彼の言葉を思い出す。

 

 

『そんなことをしても痛みはなくならない。君は人間だから、人形にはなれない』

 

 

人間は人形にはなれない。そんな当たり前の言葉。八年間、理解できなかった言葉。それが胸をざわつかせる。イタくないはずなのに、イタく、なる。

 

 

「――そうね、でも琥珀。白状すると私はそれでもいいと思っていたの。他の誰でもなく、あなたに殺されるならそれは仕方がないことだって。遠野家に復讐するためにあなたは生きてきた。その権利があなたにはある」

 

 

その瞳に確かな後悔と覚悟を見る。言葉にできない感情を押し殺した厳しい表情。遠野家当主としてではない、年相応の少女の心。十年以上わたしを縛ってきた遠野の因縁。その一部である自分自身を侮蔑しているかのように、秋葉様は告白する。殺されても構わなかった、と。

 

それをただ、わたしはじっと聞き続けている。どこか半分、夢心地な感覚と共に。わたしは分かっていた。秋葉様ならきっとそう考えるだろうと。もしわたしが殺されそうになったら、半分以上の確率で庇って死んでくれるだろうことも。計画にもそれは含まれていた。なのに、殺されてもいいと口にする秋葉様に驚きを隠せない。しかしそれは

 

 

「それを捨てて琥珀、あなたはどこに行こうというの。それとも、私達よりも復讐したい相手ができたということ?」

 

 

秋葉様の、言葉によって消え去ってしまった。

 

 

「――――」

 

 

言葉を失う。息が止まる。笑みが作れない。気づけば、バックを落していた。それはこれまで忘れていた、忘れていたかった答えを思い出してしまったから。

 

 

 

あの人が有間に預けられてから、わたしはずっと人形として生きてきた。そうすれば、イタくなくなるから。でも、違った。あの人の言葉を思い出すたびに、イタくなる。せっかく人形になれたのに、あの人のせいでわたしは、イタく、なる。

 

 

なのに、八年ぶりに会ったあの人は別人みたいに変わっていた。本当に人間になれたみたいに。わたしはあんなにイタかったのに、あんなに楽しそうにしている。自分が壊れてしまったのに。気づくこともなく。気づいて、欲しかったのに。

 

 

だから思った。あの人にフクシュウしようと。人間の振りをしているあの人を、人形に戻してやろうと。それが全て。初めは遠野の家にフクシュウするために動いていたはずなのに、いつの間にか、あの人へのフクシュウがわたしのゼンマイになっていた。

 

 

それが理由だった。八つ当たりでしかない、馬鹿馬鹿しい理由。それでもわたしにとっては、自らの存在理由に足る答え。初めのフクシュウが、いつの間にか違う物にすり替わってしまう程に。

 

 

わたしは、本当に彼が憎かった。彼が下りてくるバス停の前で待っていた。ただ待ち続けた。本当なら有間家に直接行きたいのを我慢して。ただ彼を待ち続けた。フクシュウするために。

 

 

なのに、おかしい。彼を見た瞬間、全部どうでもよくなってしまった。何でそんなことを考えてたのかも、フクシュウすることもずっとわたしは忘れてしまっていた。

 

 

――――そうだ、わたしは

 

人形として――――

 

――――彼にフクシュウするために

 

 

瞬間、視界が歪んだ。蜃気楼を見るように秋葉様が歪んで見える。それだけではない。その髪が深紅に染まっていく。点滅するように黒が赤に変わっていく。だが違う。これは本来の姿。ヒトとしての遠野秋葉が、鬼の貌を見せんとしている。

 

 

「――――答えなさい、琥珀。あなたは兄さん……いいえ、あの人に復讐するためにここを出て行くつもり?」

 

 

狂気、魔性を感じさせる瞳と深紅の髪をたなびかせながら遠野秋葉は問う。返答以外の言葉は許さないと殺気が告げている。

 

琥珀は身動きが取れない。否、取ることができない。金縛りにあったように磔にされているかのよう。同時に肌が焦げるのではないかと思える熱気が空気を支配する。

 

『檻髪』と呼ばれる遠野秋葉の混血としての異能。その視界に映る物の熱を奪う略奪の呪い。琥珀の瞳には何も映らないが、確かにそれはある。その名の通り、赤い髪が蜘蛛の巣を張るように琥珀の周囲を縛っている。秋葉が能力を行使すれば、一瞬で蒸発してしまうであろう窮地。

 

その意味を誰よりも琥珀は理解している。遠野の血に流れるヒトではない血。混血の末裔。遠野秋葉にとって逃れることができない呪いであり戒め。それが己に向けられている。返答を誤ればそこまで。偽ることも許されない。

 

遠野秋葉がどこまで知っているのかは分からない。ただ琥珀がどこに行く気なのか、それだけは知っている。それ以外に、琥珀が屋敷を出て行く理由などあり得ない。

 

 

「――――わたし、は」

 

 

それでもゆっくりと琥珀は口を開く。自分が死の淵にいることは分かる。死ぬのは怖い。痛いのは嫌だけど、死ぬのは絶対嫌だった。でもそれよりももっと怖いこと。それはわたしがわたしでなくなること。人形で、いられなくなること。そうなるくらいなら、ここで殺されてもいい。

 

あの人にフクシュウすること。

 

それが人形のわたしのゼンマイ。それを否定することは今までの、これからのわたしを壊すこと。絶対に破ってはならないもの。それを分かった上で答えを口にする。

 

 

「わたしは、あの人と一緒にいるために、ここを出て行きます」

 

 

自らの八年間を否定する言葉。遠野秋葉の逆鱗に触れると分かっていても偽ることなく答えを出す。かつてシエルに答えた解ではない。他の誰でもない、琥珀自身の言葉。

 

 

それが八年前から初めて琥珀が『人間』として出した叶うことないユメだった――――

 

 

 

静寂が全てを支配する。張り詰めた空気はいつ破裂してもおかしくない。それでも琥珀はまっすぐに秋葉を見据えたまま。秋葉もまたそんな琥珀を瞳に収めたまま微動だにしない。それがいつまで続いたのか

 

 

「…………好きにすればいいわ。どこへなりと消えなさい」

 

 

一度目を閉じた後、秋葉はいつもと変わらぬ表情を見せながら悠然と琥珀の隣を素通りし、屋敷へ入って行く。既に熱気も威圧感も残っていない。秋葉の髪もまた漆黒へと染まっている。琥珀はただ呆然とそんな秋葉の後姿に目を奪われるしかない。

 

 

「――――秋葉様、」

 

 

不意に、喉まで様々な言葉が出かかっては消えていく。どこまで分かっていたのか。何故見逃すのか。許すのか。もしかしたら、初めから分かっていたのかもしれない。その上で、わたしを試していたのかもしれない。そんな答えの出ない、自分勝手な我儘。その全てを飲みこみながら

 

 

「――――お世話になりました」

 

 

琥珀は頭を下げながら使用人として、最後の務めを果たす。何が最善だったのかは分からない。でも後悔はない。例えこの先に何があったとしても後悔はないだろう。

 

琥珀もまた、振り返らず屋敷を後にする。それが八年ぶりの、人形ではない、自らの足での一歩だった――――

 

 

 

 

誰もが去ったはずの遠野の屋敷の玄関。そこから少し離れた木々の影に、いるはずのない人影が重なっている。

 

影、少年は言葉を発することもなく、音もさせぬまま右手にあるナイフの刃を収める。役目を終えたからなのか、一度大きく息を吐きながら解放されたかのように空を見上げる。そこだけが彼が死を見ないで済む場所。目を閉じ、包帯を巻いている瞳では空の蒼は見えずあるのは暗闇だけ。それでもその暗闇はいつもより少し、違って見える気が彼にはした。ほんの少しの感傷を胸に、静かにその場を後にしようとしたその時

 

 

「――――やはり、近くにいらっしゃったんですね」

 

 

そんな、聞き慣れているはずの、それでも想像とは違う声が遠野志貴にかけられた。

 

 

「…………翡翠さん、か?」

「はい、お久しぶりです。秋葉様は屋敷に戻られたままです。ご安心ください」

 

 

思考を読んだかのようにいつもと変わらぬ雰囲気を持ったまま翡翠はお辞儀をしながら遠野志貴へと向き直る。遠野志貴もまた、虚をつかれたからかそのまま黙りこんでしまう。

 

 

「……いつから気づいてたんだ」

「姉さんが秋葉様とお話になっているところからです。屋敷の窓から、あなたの姿も見ることができましたので」

「そうか……」

 

 

遠野志貴は一度だけ翡翠に視線を向けた後、再び空を見上げる。遠野秋葉や琥珀に気づかれなかったので良しとするしかない。流石に屋敷の中から見ていた翡翠までは気づくことはできなかった。そもそも、琥珀が無事に屋敷を出た時点ですぐに立ち去っていれば翡翠に会うこともなかったはず。それでも一瞬、この場に留まってしまったのは未練か郷愁か。もう思い出せない程繰り返したはずなのに、ここにはそうさせてしまう空気があったのかもしれない。

 

 

「……よかったのか、あのまま琥珀を行かせて。まだ別れの挨拶もしてないんだろ?」

 

 

だからこれも余分なこと。初めから無視して、話しかけずに去ればいいのに、自分は無駄なことをしている。おかしい。いつからか、自分がおかしくなりつつある。ブリュンスタッドを殺し損ねた時か。シエルと出会ってからか。

 

 

「構いません。姉さんは自分で決めて、ここを出て行きました。なら、わたしからは何も」

 

 

言うことはない。言葉にするまでもなく、翡翠はそう断言する。だが分からない。翡翠にとって、姉である琥珀は誰よりも大切な存在のはず。なのにどうして、そんなことが言えるのか。どこに行くかも、どんな事情かも知らないはずなのに。

 

 

「…………」

「……? 何だ。やっぱり何か気になることがあったのか」

 

 

急に黙りこみ、口を閉ざしてしまった翡翠に尋ねる。何かを聞きたがっている、そんな空気。例え見えなくとも、感じ取ることができる。例え仮初でも、短くとも共に過ごした時間があった。翡翠がどんな少女であるかは、知っている。知識ではなく、己自身の経験で。

 

 

「……姉さんのことを呼び捨てにするようになったんですね。いつからですか?」

「……さあな。覚えてない。」

 

 

そんなことか、と思いながらも答えを口にすることはない。忘れることなど、あり得ない。例え地獄に落ちようとも、忘れることはないであろう光景。その贖罪のために、代償行為のようにいつのまにかそう口にするようになっていた。

 

翡翠はそのことは知らない。だが、確かに分かることがある。それは、名前を呼び捨てにするという行為が彼にとって特別であるということだけ。その証拠に、今は翡翠のことも呼び捨てにすることはなくなっている。

 

翡翠だけではない。シエルも、アルクェイドも同じ。彼が名前を呼び捨てにするのは琥珀ただ一人。無意識のうちに課している彼自身のルールの一つ。

 

 

「もういいか? 俺はもう行く。遠野秋葉に見つかると面倒だからな」

 

 

もう話すことはなかったこと。何よりもこれ以上この場に留まることはリスクしかない。自分は遠野秋葉と会うことはしない。それは破滅であり自滅を意味する。この場に来たことですら、本来ではあってはならないこと。翡翠に関してもそれは同じだった。だが

 

 

「――――はい。どうか姉さんを宜しくお願いします」

 

 

まるで全てを知っているかのように翡翠を頭を下げながらそう口にする。目が見えないからこそ感じる何かがそこにはあった。

 

 

「……すぐにあいつはここに帰ってくる。そんな心配は意味がない」

 

 

それを感じながらもただ現実を口にする。そう、意味など無い。いくら琥珀がやってこようと終わりは決まっている。一週間も経たないうちに、全ては終わる。蛇を殺せようが殺せまいが関係ない。だからこそ、これまで自分は琥珀と会うことはしなかった。無駄なことだと分かっていたから。

 

『蛇を殺す』

 

ただそれだけの機械が自分。世界に、抑止力によって突き動かされている人形。それだけでいい。だがそれでも、捨てきれないものがあった。今はもう思い出すこともできない程、魂にまで刻みつけられた、遠い日の誓い。

 

『琥珀を守ること』

 

それが人間としての『遠野志貴』の唯一の願い。例え他の全てが作り物であっても、それだけは本物であってほしいという叶うことのないユメ。

 

そのために、琥珀と会うことを禁じてきた。争いから遠ざけるために。どんなに嫌われても、蔑まれようとも構わない。何度繰り返そうと、死に続けようと構わない。蛇など関係ない。ただ彼女に生きていてほしい。幸せになってほしい。それが『遠野志貴』の生まれた意味。なのに

 

 

「構いません。例え短くとも、あなたと一緒にいることが姉さんの幸せです」

 

 

琥珀と同じなのに、違う声色で翡翠は断言する。一片の迷いも戸惑いもない。まるで自分のことのように、翡翠は琥珀の心を口にする。

 

 

「……何で、そんなことが分かるんだ?」

 

 

子供のような質問だった。本当に分からないからという、純粋な問い。それに

 

 

「当たり前です、わたし達は、姉妹ですから」

 

 

それまでとは違う、確かな感情を込めた声で翡翠は答える。

 

 

双子の姉妹だからこそ分かる。姉が演じている『翡翠』ではなく、本当の『琥珀』の望み。当たり前だ。翡翠の望みは、琥珀の望みそのものなのだから。

 

 

目を開けば、翡翠の微笑みが見えるはず。そう思えるほど、そこには確かな翡翠の姉への愛情があった。

 

それを前にしてもはや言葉はなかった。答えは未だ出ない。終わりは変わらない。結果こそが全て。それでも

 

 

「――――いってらっしゃいませ、志貴さま」

 

 

それ以外のものにも価値があると、そう告げたまま翡翠は『遠野志貴』を見送る。己のことは何一つ口にせず、ただ姉である琥珀のために。彼もまた、何も語らない。彼女が触れない以上、自分がわざわざ触れることはない。ただ思う。

 

 

まるで初めて彼女に名前を呼ばれたようだ、と。

 

 

それが彼と翡翠の最初で最後の偽りない触れ合いだった――――

 

 

 

 

ただ何とはなしに、空を見上げる。雲ひとつない空。立ち止まったわたしを気にすることなく、人々はせわしなく行き来している。道の真ん中で待ちぼうけをくらったかのように、足が動かない。

 

今わたしは、中間点に立っている。遠野家と、アルクェイドさんの部屋の間。わたしの行き先は決まっている。秋葉様に言ったように、答えは変わらない。例えわたしが壊れても、それは変わらない。

 

それでも、僅かな不安があった。自分はいい。後悔はない。けれど、彼はどうだろうか。もしかしたらわたしは彼に辛い思いをさせるだけかもしれない。それだけが、怖い。言葉にできない錘が、わたしの足を止めている。でもそれは

 

 

「…………志貴さん?」

 

 

遠くからでも分かる、見間違えるはずのない風貌をした彼が姿を見せたことでいつの間にか消え去ってしまった。

 

彼は変わらない。目に包帯を巻き、ジャンバーを腕を通さないまま羽織っている。きっと左腕がないのを誤魔化すためだろう。でも包帯を目に巻いているだけでも十分すぎるほどに怪しい。どこかずれているといってもいい有様に呆気にとられるしかない。

 

だがすぐに疑問に至る。何故彼がここにいるのか。日中は睡眠をとっているはずなのにどうして。だがその疑問は

 

 

「……何してる。遠野家をクビになったんだろ。来ないなら置いて行くぞ、琥珀」

 

 

そんなぶっきらぼうな、いつかの彼のような言葉によってなくなってしまう。彼は変わらず目を逸らしたまま。手を伸ばしても応えてはくれない。でもそれだけで充分だった。彼が話しかけてくれた。そして、自分を案じて自分を守ろうとしてくれていたことが、その言葉から分かったのだから。

 

 

「――――はい。宜しくお願いしますね、志貴さん」

 

 

知らず笑みを浮かべながら背中を向けたままの彼の少し後ろに付いて行く。願わくば、いつかのように彼の隣で手を繋ぐことができる日がやってきますように――――

 

 

 

 

 

「…………あ」

「どうした、忘れ物でもあったのか」

「いえ、勢いで飛び出して来たのはいいんですがその……大事なことを忘れてまして」

「大事なこと?」

「はい……その、秋葉様達、食事はどうされるのかな、と」

「…………」

 

遠野志貴は何も答えない。琥珀もまた同じ。ただできるのは遠野秋葉が誰かの赤いサンドイッチetcの餌食にならないことを祈ることだけだった――――

 

 


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