ネロ・カオスはただ静かにその光景を観察していた。突如として乱入してきた真祖アルクェイド・ブリュンスタッド。だが理解できなかった。何故彼女があの人間を救うような真似をしたのか。そもそんなことをするなどあり得ない。あれは処刑人。死徒を震え上がらせる程の冷徹な機械。その姿を自分は一度眼にしている。だが今のアルクェイド・ブリュンスタッドにはそれがない。外側は同じでも、その内にあるものが変わってしまったかのように。
「――――下らん」
一笑に付す。今この場でそれを考えることに何の意味もない。あるのはただ自らの標的がもう一つ増えた。ただそれだけ。己が為すことは何も変わらない。
「手間が省けた。その人間と共に、我が一部となってもらおう……アルクェイド・ブリュンスタッド」
真祖の姫君も、教会の代行者も、己の死と成り得る人間さえも。その全てを食らい尽くし、混沌と為す――――
瞬間、世界が開かれた。
ネロ・カオスの内側にある世界。獣王の巣と呼ばれる固有結界。それが表へと現れる。反転し、世界は飲み込まれていく。ただ獣だけが、無数の命という絶対単位しか意味を為さない異界。普段は世界からの修正を逃れるために体内に収めている心象世界をこの瞬間のみ、混沌は展開する。維持できる時間はごく僅か。場合によっては自らを形成する世界が潰されてしまいかねない諸刃の剣。
だがネロに恐れはない。魔術師として、死徒として、そしてかつて人間であった欠片として、己が全力を以って目の前の障害を排除するのみ。
「――――」
耳を裂くような獣の咆哮。その全てがこの世界に取り込まれた三つの異物に向かって放たれる。黒いケモノ。幻想種すらその中には含まれる。これまでと違うのは、その全てが同時にその世界に存在するということ。外側ではネロが起点となり、混沌を生み出す必要があった。だが今は違う。内側である固有結界の中では最初から混沌の全てが内包されている。つまり飲み込まれたが最後、逃れることなく六百六十六のケモノに襲われ続けるということ。
その全てが一斉に牙をむく。光に群がる無数の虫のように、獲物に襲いかかる獣のように世界が迫る。だがそれは
――――世界を照らす程の雷鳴によってかき消された。
それは雷だった。無数の電気が走り、火花を散らしながらケモノたちを蹴散らし砕いていく。その中心には黒衣をはためかせながら手をかざしている代行者、シエルの姿があった。だが明らかに先程までとは違う。その身に纏う雰囲気も、瞳も。混沌の世界に飲みこまれながらも、その姿はそれまでよりも力強くすらある。
「――――貸し一つです、遠野君。これが終わったら返してもらいますからね」
殺し合いをしているとは思えないほど、場違いな笑みを浮かべながらシエルは呟く。ネロにとっては意味を解せぬやり取り。それが合図になったのか、シエルは己をただ一つのモノへと切り替える。自らにとっての戒め、禁忌を破る行為。魔術師としての姿を。
詠唱と共にシエルの身体に光が走る。法衣によって隠れている腕に、不敵な笑みを浮かべている顔に。魔術回路という名のスイッチに火が灯り全身を駆け巡って行く。その駆動音が、発光が辺りを支配する。ただ魔力を通すだけでそんなことは起こらない。だが、シエルにはそれが為し得る。彼女の魔力の保有量は並みの魔術師の百倍を軽く超える。協会であれば王冠に匹敵するもの。だがそれをシエルは表に出すことはなかった。それは自らの罪、蛇から得た知識を使うこと、穢れを意味するものだったから。
しかし、今のシエルに迷いはない。自身のことなど今の彼女には微塵も頭になかった。あるのはただ約束を守ることだけ。
自らと同じ、死ぬことができない運命に囚われた少年。その姿に己を重ねた。生きることも死ぬことも同じだと、そう言った彼の姿を覚えている。それが違うのだと、証明するために。
そんな少年に恋する少女がいた。不器用に生きている彼女と彼が、これからも共に生きる可能性を掴むために。その先にきっと、自分の答えもあると信じて――――
「はああああ―――――!!」
魔術を為し、その全てが豪雨のように降り注ぐ。辺り一帯を焦土に帰る程の大魔術。もしこの場が公園であったなら全てが跡形もなく消し飛んでしまっただろう攻撃。その全てによって混沌たちは弾かれ、砕かれ、滅びて行く。数秘紋による雷霆。かつてロアが得意とした術式。それを駆使することで、それを乗り越えようとするようにシエルは自らの命を燃やす。
――――だが足りない。それだけの規格外の力があっても未だ混沌には届かない。
一匹。たった一匹が雷雨を逃れて襲いかかってくる。数という暴力。六百六十六。さらに破壊しても、何度でも蘇る不死性。全てを同時に殺さない限り、混沌は無限と同義。ならば雷雨を逃れてくる獣の数もまた無限。多い、という群体の最大の強み。その爪が届かんとした瞬間
それを超える爪の刃が、暴風となって獣達を消し去った――――
白い戦姫。金の髪と、金の瞳を見せながら吸血姫は舞う。かつてと違うのはその腕が片方しかない、ということ。だがそんなことは彼女には関係なかった。
ただ純粋に、アルクェイド・ブリュンスタッドは強かった。誰も彼女には触れられない。かつて蛇が感じたように白い吸血姫は襲いかかってくる無限に近い混沌たちを蹴散らしていく。シエルとは違う、最強種としての純粋な暴力。だが今の彼女には戸惑いしかなかった。
――――カラダが熱い。カラダが軽い。鼓動が跳ねる。息が弾む。何かに逸る様に、全てが加速していく。左腕を失くし、力の半分は失われている。万全とは程遠い自身の身体。なのに、今までの中で、一番身体が動く。
誰かを助ける。
そんな意味のない、無駄なことをしているのに、それがたまらなく嬉しい。
もしかしたら、わたしはもう壊れてしまっているのかもしれない。いつ壊れたのか分からない。でも、それが怖くない。今まで見えてこなかった物が、見えてくる。それが何なのか分からない。ただ思い出すのはあの感触。
自分の手を握ってくれた、シキの手のぬくもり。
自分に助けてほしいと言ってくれた、コハクの言葉。
理由のない熱がわたしを動かす。ただ今は、その衝動だけに――――
雷雨と暴風。二つが合わさり台風となり獣の群れはその中心に近づくことができない。だがそれだけ。近づくことができないだけ。終わりは刻一刻と迫ってくる。混沌は無限。吸血姫と代行者は有限。天秤は徐々に混沌へと傾いて行く。これは分かり切っていたこと。アルクェイド・ブリュンスタッドとシエルでは混沌は倒し得ない。されど――――
――――ここに、その唯一の例外が存在する。
それはただの人形だった。ただ一つの役割のために動くだけの、愚かな機械。
『遠野志貴』はその中心で膝を着き、右手を胸に当てている。眼は閉じたまま。微動だにしない。自分の周囲で、すぐ傍で戦闘が起こっているにもかかわらず全く気づかないかのように。その姿はまるで神に祈りを捧げる人間のよう。
「ハァッ……ハァッ……」
――――ただ呼吸を整える。耳朶に響くのはただ己の心音のみ。
自らを守ってくれる雷も、爪も、今は意味を為さない。
そう、これは己の内の戦い。これまで逃げてきた、その全てを清算するために。
自分では混沌には敵わない。それは覆しようのない事実。例え何度繰り返しても、誰の手を借りようともそれは永遠に変わらない。先の攻防。自分は混沌の動きを超えられなかった。あれ以上の性能を『遠野志貴』は引き出せない。だからこそ自分は、それを選ぶしかない。
七夜の奥義であり極致。遠野志貴が持ち得る究極の一でありながら、自分が唯一再現できなかったもの。人形である自分では、この体を十全に扱えない。七分ではない、十全でなければ奥義を放つことはできない。そう、それはすなわち俺が人形であることを止めて、人間にならなければいけないということ。
「――――」
瞬間、心臓が跳ねた。心臓がナイフで刺されたかのように、冷たい感覚が全身を駆け巡る。人形ではなくなりつつあるからこそ感じる、痛み。それが、怖い。
死ぬのが怖い。痛みが怖い。心が欠けていくのが、怖い。生きて行くのが、怖い。
怯えきった子供のように、ただ震えるのを抑えられない。もう何度死んだのか分からないのに、死が怖い。だから、人形になるしかなかった――――違う、逃げるしか、なかった。
『……イタイ、の?』
かつての彼女の言葉。それにどれほどの想いがあったのか。
『……わたしも、イタイの』
イタイ、と。その言葉にどれだけの意味があるのか、分からない。分かるはずがない。分かるわけがない。それでも
『だから、自分が人形だと思うの。そうすれば、イタくなくなるから』
自分は、それを否定した。人間は人形にはなれないと。否定したはずなのに、今、自分は人形になったまま。そうだ。俺は逃げていた。痛みから、世界から、そしてこの時の約束から。
『もし、あなたが人間になれたら、わたしも――――』
八年前の約束。それを果たすことを、俺はできていない。右手にはナイフ。左手にはリボン。どちらも自分の物ではない、借り物。それでも
例え自分が偽物であったとしても、この約束だけは――――
認めた瞬間、痛みが生まれて行く。耐えがたい、それでも生きている証。
止まった身体が脈を打ち。
チューブは一本ずつ血管となって。
消え去ったはずの蒸気は血潮となり。
細工であるはずの全てが、生まれ。
人形の振りをしていた自分が、元に戻って行く。
意味は要らない、空の容れ物。
それが長い螺旋の果てに辿り着いた、『遠野志貴』が人形から人間になった瞬間だった――――
眼を開き、世界を見る。死と向き合う。ナイフを持つ右手はとっくに握りこぶしになっている。これが最後。今持てる、人間としての自分の全てを賭けてあの混沌を乗り越える――――!!
瞬間、ケモノ達は形を失った。その全てが泥のように溶け一つに戻って行く。創生の土と呼ばれる混沌の本来の姿。指向性を持たない命の源泉。しかし、それに指向性を与えているものがある。ネロ・カオスという群体の本能。その全てが集結し、大きな津波となって全てを飲みこまんと迫る。だが
「――――遠野君!!」
シエルは残された全ての力を振り絞り、八本の黒鍵を周囲に展開する。その全てにシエルの魔力が流され雷の結界が泥を弾いて行く。三人分の陸の孤島。しかしその圧力によってシエルの顔が苦悶に歪む。魔術回路が焼き切れんばかりの激痛に耐えながらも、シエルは決して退かない。
だがそこまで。足場は作れても、シエルにはその先までは至れない。『遠野志貴』が進むべき道を作ることが。しかし
「――――星の息吹よ」
それを造り出せる、星の生み出した奇跡がここにある。
それは細く、今にも消えてしまいような光の道。
『空想具現化』
真祖の姫君に許された、己が空想を現実とする幻想。その力は全盛期には遠く及ばない。半分の力しか持たない彼女にとってはそれが精一杯。だがその空想は、これまで彼女が現実にしてきたものよりも、美しい幻想だった。まるでアルクェイド・ブリュンスタッドの今の心が形になったかのように、光の道が生まれて行く。
泥によって漆黒に染まった世界において、それはたしかな蜘蛛の糸だった。
迷いなくその道に向かって飛び込む。痛みはある。今にも頭が割れそうな、目が沸騰しそうな痛みに声すら出ない。だが恐れはない。後悔はない。あるのはそう、ただ生きてもう一度、琥珀に会いたいというみっともない願いだけだった――――
その光景を、確かにネロ・カオスは見た。破ることなど不可能なはずの創生の土による圧殺。そこから生まれた光の道。僅かな空白。そこから飛び出してくる、遠野志貴の姿。
だがそれだけ。先程の焼き回し。迎撃し自らの勝利は揺るがない。あの時のようにアルクェイド・ブリュンスタッドが間に割り込む余地すらない。しかしその予測は
「何っ―――!?」
遠野志貴と同時に迫ってくる、一本のナイフによって覆される。
遠野志貴と全く同じ速度で、タイミングで襲いかかってくるナイフ。どちらかを躱したところで、もう一方の一撃によって標的を殺す。二撃必殺とでも言える奥義。
『極死・七夜』
人間となった『遠野志貴』だからこそ再現できた借り物でありながら本物の絶技。
だが混沌が戦慄しているのはその絶技ではない。確かに極死・七夜は全うな相手であれば必殺なり得るだろう。しかし混沌にとっては子供だましに過ぎない。いくら攻撃を受けたところで混沌には意味はない。二撃だろうが三撃だろうが無意味と化す。そう、
遠野志貴が、『直死の魔眼』を持っていなければ。
「オオオオオオオ―――――-!!」
咆哮と共にネロ・カオスは全身全霊の動きによって遠野志貴を迎撃する。紙一重のところで飛んでくるナイフを回避する。だがそれこそが遠野志貴の狙い。直死の魔眼を持っていたとしても直接相手に触れなければ意味を為さない。だがネロ・カオスはそのことを知らない。故にナイフは囮。本命は遠野志貴自身。
ナイフを回避することで混沌の動きに揺らぎが生じる。混沌はそのまま遠野志貴に向かい合う。遠野志貴の動きは先程とは違う。機械のような、操り人形のような希薄さがなくなっている。生物としての、人間としての意志が満ちている動き。だがそれでも混沌は恐れない。未だ状況は五分。自らの爪が届くのが先か、相手の一撃が届くのが先か。永遠にも似た刹那。その中で確かにネロ・カオスは見た。
――――遠野志貴の魔眼の色が、蒼から金そして宝石へと変わったのを。
瞬間、ネロは恐怖した。魔術師としての知識からではない。ただその眼に視られることによって、死を想起させられた故に。時間にすれば瞬きにも満たない刹那。だがこの瞬間においてはあまりにも分厚い紙一重。
何の変哲もない、指の一突き。
振り向きざまの遠野志貴の指が、混沌の背筋の点を貫く。ただそれだけ。本来のように首をねじり取るような余分は必要ない。ただ触れるだけで全てを殺すことができる存在。逃れることができない死の体現。
「貴様――――何者……」
なのだ、と口にする間もなく全てが消え去っていく。六百六十六の命があろうが関係ない。この一撃はネロ・カオスというセカイそのものを殺すもの。あとはただ消え去るのみ。何が間違っていたのか。何が足りなかったのか。ただ分かること。それは
眼の前の人間が、自らの死を超える者だったということだけ。
それが混沌の最期。そしてこの長い夜が終わった瞬間だった――――
作者です。第三十四話を投稿させていただきました。長くかかりましたがようやく今回でネロ・カオスとの戦いは決着となります。最終戦のようなノリになっていますがまだ終わってはいません。一つ大きな区切りにはなりましたが。このSSも残りは五話程度になる予定です。感想をいただけると嬉しいです。では。