月姫転生 【完結】   作:HAJI

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『彼方の夢』

 

――――知らず、緊張していた。

 

 

ただ、本当に久しぶりに外の世界を目の当たりにしたような気がする。周りの風景も違って見える。通りすぎる人々も、何気ない街並みも、晴天の空も。

 

一歩、踏み出してみれば簡単だった。自らにとっての戒め。それを破ることに罪悪感がなかったと言えば嘘になる。でも、いつまでもわたしだけが閉じこもっているわけにはいかない。みんな、前を向き始めている。なら、わたしも前に進まなければ。守られるばかりだった、あの頃とはもう違うのだと伝えるために。

 

一歩一歩、噛みしめるように歩き続ける。緊張感が和らいできたからだろうか。身体が軽いような気がする。ふと、自分の服に目を向ける。真っ白な洋装。本当に何年ぶりに着たのか分からないもの。ただ、嘘のように身体が軽くなった。それだけでも、この服を着て来た意味があったのだろう。

 

ようやく目的地にたどり着く。何度も地図を見直す。マンションの部屋番号も確認済み。ここまで部屋を間違えるなんて恥ずかしいことするわけにはいかない。一度大きく、深呼吸をした後、迷いなくチャイムを鳴らす。同時に

 

 

「はーい、ちょっとお待ちください」

 

 

そんな、聞き慣れた明るい女性の声が部屋から聞こえてくる。同時にぱたぱたとせわしない足音。全く変わらない光景。ドアを開けながら一瞬、部屋の主は固まってしまう。きっと、わたしの服装がいつもと違っていたから。驚いて固まっていた表情からすぐに楽しそうな笑みへと変わる。

 

 

「――びっくりしちゃいました。来るなら来るって言ってくれればいいのに。お久しぶり、翡翠ちゃん」

 

 

そう言いながら姉さんはわたしを出迎えてくれる。着物姿に蒼いリボンを結んでいるいつもと変わらない姿。それに安堵しながら

 

 

「――――ええ、お久しぶり姉さん。元気そうでよかった」

 

 

久しぶりに、再会できた姉さんと一緒に微笑み合ったのだった――――

 

 

 

 

「ちょっと待ってね翡翠ちゃん。今お茶を用意しますから」

「気にしないで姉さん。喉は乾いてないから」

「いえ、そういうわけにはいきません。今は翡翠ちゃんはお客さんですからどんと構えていてください。えーっと、あれはどこに……確かシエルさんから頂いた紅茶があったはず……」

 

 

見ているこっちが心配になるぐらい部屋のあちこちを漁りながら姉さんは悪戦苦闘している。手伝おうと思ったが頑として受け入れてくれない。変なところで頑固なところは変わっていないようで安心するも、別の意味で心配になってくる。

 

 

「ありました! ちょっと待ってて下さいね。秋葉様が羨ましがるぐらい美味しい紅茶を淹れてみせますから」

 

 

上機嫌に鼻歌を歌いながら姉さんはティーカップへと紅茶を注いでいる。三か月前には当たり前に見ていた光景なのに、随分と懐かしい気がする。きっと、わたしにとってそれだけこの三カ月は意味があるものだったのだろう。きっと、姉さんにとっても。

 

三か月。姉さんが遠野屋敷から出て行ってから、もうそれだけの時間が流れている。それ以来姉さんはこのマンションの一室を借り、一人暮らしをしている。何でも知り合いが海外に出ることが多いため、必要なくなった部屋を譲ってもらったらしい。

 

 

「はい、お待たせしました翡翠ちゃん」

「ありがとう、姉さん。仕事の方は上手く行っているの?」

「それはもう。勝手知ったる場所ですし、朱鷺恵さんもいますから」

 

 

カップを持ち、自分で満足気に紅茶を飲みながら姉さんは断言する。今、姉さんは遠野家の専属医である時南宗玄の元で薬剤師として働いている。元々姉さんが薬剤師としての資格を持っているのもそこで学んでいたからこそ。それでも少しだけ心配していたのだが杞憂だったようだ。

 

 

「それよりも心配しているのはわたしの方です! 翡翠ちゃん、ちゃんとご飯は食べてますか? ご飯が食べれていますか? 変な物を食べてませんか? 秋葉様はお腹を壊したりしてませんか? それと」

「……姉さん、食事のことは大丈夫。ちゃんと専属の調理人を雇っているから。前も言ったでしょう?」

「そ、そうでしたっけ? ただわたしはそのことが心配で心配で……それを考えると夜も眠れなくなるんですから」

 

 

よよよ、その場で泣き崩れるような真似をしながら姉さんは楽しんでいる。いや、本当に心配してくれているかもしれないが素直に受け取ることができない。暗に自分のことを言われているのは分かるし、自覚はあるがやはりここまでからかわれては頭にくる。

 

 

「わたしも同じ。姉さんがちゃんと掃除ができているか心配していたの。遠野の家ほど壊す物はないでしょうけど、隣に住んでいる方に迷惑をかけてない、姉さん?」

「うっ……だ、大丈夫ですよ翡翠ちゃん。マンションの一室掃除するぐらいお茶の子さいさいです。ほら、見てください。ちゃんと綺麗に掃除できてるでしょう?」

「……そうね。さっきまでは綺麗だったわ」

 

 

姉さんはどこか引きつった笑みを見せながら弁明するも意味がない。来た時には綺麗だったはずなのに、先程のお茶の準備でめちゃくちゃになってしまっている。ある意味変わっていない証拠。だけど、変わっていることもあった。

 

部屋の雰囲気。屋敷にいる時の姉さんの部屋はどこか雑然としている部屋だった。散らかっている、というよりもテレビや小物などで溢れ返っている部屋。だけど、今は違う。必要最低限の物しか置いていない。いや、必要最低限の物しか置かないようにしている。邪魔にならないように。普通の部屋にはない位置に手すりがある。段差をなくしたような跡も。

 

そう、自分以外の誰かが生活できるように整えられている、一人部屋。

 

今はいない誰かがいつ帰ってきてもいいように、待ち続けている証。

 

 

「――――姉さん、あの人は、まだ戻ってきていないの?」

 

 

一度眼を閉じた後、ずっと避けてきた話題を姉さんに振る。聞かないでもいい、聞かない方がいい質問。でも聞いておかなければいけなかった。それが、わたしの責任でもあるのだから。

 

 

「――――ええ、まだ戻ってきていません。まったく、どこで道草食ってるんでしょうか。帰ってきたら文句の一つでも言わなきゃいけませんねー」

 

 

本当に不満に思っているのか、どこか拗ねるように姉さんはここにはいない彼に思いを馳せている。そこに演技はない。本当に姉さんは、心から彼が帰ってくることを願っている。

 

三か月前、姉さんがあの人と一緒に出て行ったあの日。それからほどなく、あの人はいなくなってしまった。どういう経緯があって、どういう理由があってあの人がいなくなったのか、姉さんは教えてはくれない。もしかしたら、姉さんも分かっていないのかもしれない。でも

 

 

「姉さん……わたし、姉さんに言ってなかったことがあるの」

「言ってなかったこと……?」

「姉さんが一度屋敷に戻ってきて、秋葉様と会ったあの日。屋敷の庭であの人に会ったの」

「志貴さんとですか……? どうして志貴さんが屋敷に?」

「姉さんが心配で後を尾けていたみたい。本当ならきっと、わたしと話をする気もなかったみたい」

「そうですか。志貴さんらしいですね。心配症というか何というか……」

 

 

納得がいくことがあったのか、くすくすと姉さんは笑っている。その笑顔に嘘はない。わたしには分かる。あの人が、約束を守ってくれたのだと。『翡翠』ではない、偽ることない『自分』を姉さんは取り戻してくれた。わたしでは叶えることができなかったユメ。

 

 

「……その時、あの人にお願いしたの。姉さんをお願いしますって…………例え、短くても、あの人と一緒にいることが姉さんにとっての幸せだと思ったから」

 

 

思い出す。眼に包帯を巻いた虚ろな彼の姿。今にも消えてしまいそうな在り方。きっと、彼は知っていたのだろう。この結末を。だからこそ、姉さんと一緒にいることを良しとしなかった。今なら分かる。彼の選択の意味。

 

でも、わたしがそれを変えてしまった。もしかしたら、わたしの言葉が無くてもあの人は姉さんと一緒にいることを選んでいたのかもしれない。それでも、間違いだったのかもしれないと、時折考える。

 

わたしと姉さんは双子。表と裏。だから、姉さんのことは誰よりも分かる。わたしが姉さんだったとしたら、後悔はしない。短い時間であってもあの人と一緒にいることを願うだろう。でも、わたしと姉さんは別人だ。姉さんが『琥珀』を演じていてもそれは変わらない。姉さんは――――

 

 

「姉さんは――――幸せだった?」

 

 

姉さんは、どうだったのだろうか。それだけが、怖かった。苦しかった。自分のことではないのに、半身が裂けるように。ただ後悔していた。自分の選択が二人を不幸にしてしまったのではないか、そのことだけが。

 

知らず、手が震えていた。自分が今、どんな表情をしているのか分からない。そんなわたしを

 

 

「――――はい、わたしは幸せですよ翡翠ちゃん。後悔なんてありません。そんなこと言ったら志貴さんに怒られちゃいますから」

 

 

慈しむように姉さんは告げる。嘘偽りない、姉さんの心。幸せだった、ではなく幸せだと。今もそれは変わらない。その笑みは今まで見た姉さんの笑顔の中で、一番綺麗だった。あの時、彼に見せるために化粧をしていた時よりも、何倍も。

 

 

ただ想う。願わくば、もう一度だけでも二人が出会うことができる奇跡があることを――――

 

 

 

 

――――空を、見上げる。

 

 

雲ひとつない、空。意味は特にない。ただよく彼が空を見上げていたからちょっと真似をして見ただけ。彼にとってはこんな何でもない青空が、とても価値があるものだった。

 

 

「寒くなってきましたね……」

 

 

誰にともなく呟く。吐く息が白くなるほど、辺りが冷たくなっていく。時刻は夕刻。もう夜になりかけている公園で、一人ベンチに座っている自分。特に意味はない日課。買い物帰りにはこうして過ごすことがわたしの日常になってしまっている。意味なんてないと分かっているのに、どうしてもやめることができなかった。

 

 

「何やってるんでしょうか、わたし」

 

 

何だかおかしくて笑ってしまう。どういえば、いつかもこんな風に同じ言葉を呟いたことがあったような気がする。その時も、頭の中は一つのことで一杯だった。

 

数えるほどしかない、思い出。その中でも、この公園は特別だった。このベンチに座って、他愛のないことを話していたのを覚えている。あの頃はまだ、互いに互いのことを警戒していた。ギクシャクしていて、でもそれがわたしはおかしくて彼をからかってばかりだった。思えば、ちょっとやりすぎだったかもしれない。

 

かじかむ手を息で温めながら、ただ待ち続ける。意味なんてない。ただ、そうしているだけでよかった。知らず心が穏やかになれるから。

 

もうイタくない。体はもうわたしのもので、目に見える世界も、触れる空気も、何もかも違って見える。生きている、という実感がある。ゼンマイがなくてもわたしは生きていける。もうわたしは、人形じゃないんだから。ただ、胸にぽっかりと穴ができてしまった。欠けてしまった何か。ずっとそのままなのか、何かで埋めることができる時が来るのか。きっと五分五分だろう。

 

 

目を閉じる。今はただ、もう少し叶うことのない夢を――――

 

 

 

 

 

 

「―――――そんなところで寝てると風邪ひくぞ、琥珀」

 

 

 

そんな懐かしい少年の声を、確かに聞いた。

 

 

「―――――え?」

 

 

虚ろになりながら声の方へと振り返る。ベンチの隣。誰もいなかったはずの場所に、彼がいた。

 

 

「――――志貴、さん?」

「本当に大丈夫か? それとももう俺のことなんて忘れちまったってことか?」

 

 

知らず出ていた言葉にどこか呆れ気味に彼は応えてくれる。その仕草に、雰囲気に、温かさに思い出す。間違いなく、彼なのだと。

 

同時に、気づいてしまった。これが夢であることを。それは彼の姿。失われているはずの左腕がある。何よりもその眼に包帯が巻かれていない。青い双眼は黒の瞳になっている。服は学生服。

 

そう、八年ぶりに有間の家で会った時の再現。もしも、何の障害もなく彼と出会えていたらという恥ずかしいわたしの夢。

 

 

「……ええ、今ようやく思い出しました。約束をほったらかしたままどこかに行ってしまったので、すっかり忘れちゃってました」

「相変わらず容赦がないな……まあ、それはそうだな」

 

 

わたしの意地悪が堪えたのか、いつものように彼は苦笑いしている。全く、どうかしている。わたしはもう、気が触れてしまっているのかもしれない。でも、構わない。

 

 

「――――お帰りなさい、志貴」

「――――ただいま、琥珀」

 

 

もう一度、彼に会うことができたのだから。

 

 

 

 

それからのことはよく覚えていない。他愛のないことをずっと喋り続けていたような気がする。自分のこと。アルクェイドさんやシエルさんのこと。翡翠ちゃんのこと。秋葉様のこと。都古ちゃんのこと。

 

話したいことがたくさんあった。聞いてほしいことがたくさんあった。でもどれだけ話しても足りない。ただ、この時間が終わってほしくなくて、喋り続ける。終わりが来るのが、いやだった。それでも

 

 

「――――寒くなってきたな。そろそろ時間だな」

 

 

夢はいつまでもは続かない。いつかは覚めるのは、決まっていること。

 

 

「そうですね。あ、志貴さん今日は御馳走の用意をしてるんです。もう体調は良さそうですからきっと喜んで頂けますよ」

 

ぽんと手を叩きながら、それに抗う。彼とした約束の一つ。歓迎会のごちそう。結局歓迎会をすることはできなかったけれど、今度こそそれを叶えよう。秋葉様や翡翠ちゃんを呼ぶのは難しいかもしれないけど、代わりにアルクェイドさんとシエルさんを呼べば。うん、それがいい。そうすれば遊園地に行くこともできる。それから、それから――――

 

 

「…………悪いな、琥珀。約束、守れそうにない」

 

 

そんなことは、もうわかっていたはずなのに、やっぱり、聞きたくなかった。

 

 

「……そうですか。何となくそうじゃないかな―って気はしてたんです。志貴さん、顔に出やすいですから」

「お互い様だろ。本当ならこうしてるのも……ま、いいか。本当に風邪ひくなよ。他のことは特に心配してないけど……もう、大丈夫だろ?」

 

 

彼が真っ直ぐに自分を見つめている。その瞳に、私が映っている。何か言いたいのに、何も言えない。夢の中ぐらい、願いが叶ってもいいのに。

 

ただ静寂が流れる。寒さは増し、いつの間にか雪が降り始めている。本当に風邪を引いてしまうかもしれない。でも、それでもこのまま。そんな中

 

確かな温かさと共に、雪ではない何かが自分の掌に渡された。

 

 

「―――――え?」

 

 

ただ呆然とそれを見つめる。雪のように白い、何か。でもわたしはそれを知っている感触を覚えてる。だってこれは、わたしが一番大事にしていた物だったから。

 

 

「それ、返しておく。長い間かかっちまったけど、約束だったからな」

 

 

照れくさそうに彼は笑顔を見せながら白いリボンを返してくれた。その約束を覚えている。わたしからすれば、八年越しの約束。彼からすれば、一体どれほどの時間が経っているのか分からない。それでも

 

 

「――――はい。預かっておきますね」

 

 

彼は確かに約束を守ってくれた。守ってくれなかった約束もある。それでもこの約束だけは、叶えておきたかったのだと。わたしと、彼が、人形ではなく人間になれた証。

 

だからきっと大丈夫。寂しい時もきっとある。それでもこの約束が胸にあれば、わたしは生きていける。そう願ってくれた彼がいるのだから。だから

 

 

「―――――ありがとう、琥珀」

「―――――ありがとう、志貴」

 

 

ありがとう、と笑いながら別れを告げる。それが変わることのない、『琥珀』であるわたしのココロだった―――――

 

 

 

 

 

――――ふと、目を覚ました。

 

 

視界には降りしきる雪。人気のない、公園。変わらない、自分一人だけのベンチ。ただ、その掌には確かな白いリボンがある。

 

 

立ち上がり、歩き始める。一歩一歩、雪を踏みしめながら。新しい自分を始めるために。最後に一度だけ、空を見上げた。彼が夢見た、彼方の夢。ただ想う。

 

 

 

―――――今夜はこんなにも、月が綺麗だ。

 

 

 

 

 


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