月姫転生 【完結】   作:HAJI

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後日談 「再演」前編

――――ふと、目を覚ました。

 

 

だが視界には何も映らない。あるのは光のない暗闇。人であるなら不安に囚われてしまうであろう世界。しかし、自分にとってはそうではない。むしろ何も見えないことに安堵すら感じてしまう。何故なら外の世界を見るということは、自分にとってはあの死の線と点に満ちた世界を見ることと同義なのだから。

 

 

「――――ん」

 

 

けだるげに上半身を起こしてみる。結果は良好。眩暈や貧血は今朝は幾分和らいでいる。朝起きてこれなら十分に僥倖といえるだろう。そのまま手を握っては開くのを繰り返す。変わらない自分の体の感触。その熱。当たり前のことなのにそれに心の底から安堵する。そう、自分にとって夜眠りに就いて朝起きるのは当たり前のことではない。いつそれが終わりを迎えてもおかしくはないのだから。

 

なのにそれが怖くない。いつからだったか、眠ることに安心できるようになったのは。そう、あれはたしか――――

 

 

「――――あ、おはようございます志貴さん。ようやく目を覚まされたんですね」

 

 

そんな聞き慣れた声によってようやく現実に引き戻される。もう何度目かわからないやりとり。なのに何故か随分久しぶりに思える。

 

 

「…………? 志貴さん、どうされたんですか? 体調が優れないとか?」

「……いや、ちょっと寝ぼけてただけだ。たった今、誰かさんのおかげで現実に引き戻されたけど」

「そうですか。それは残念でしたねー。一体どんな夢をご覧になっていたのやら」

 

 

クスクスと鈴の音が鳴るように楽し気に笑いながら、さも当然のように隣にいる少女。こっちの方がよっぽど夢であると思えるような有様なのだが言わぬが華だろう。

 

 

「……とりあえず、おはよう琥珀。今日も元気そうだな」

「はい、おはようございます志貴さん。今日も宜しくお願いしますね」

 

 

こっちの挨拶に待ってましたとばかりに応えてくれる琥珀の姿が目に浮かぶ。見えなくても、彼女が向日葵のような笑みを浮かべているのは分かる。

 

 

それが一年前から変わらない、『遠野志貴』の日常。日向の夢の続きだった――――

 

 

 

 

「ふぅ……ところで今何時なんだ、琥珀?」

「ええと、ちょうど朝の八時を回ったところでしょうか。相変わらずお寝坊さんですね、志貴さんは」

「……そういうお前は起きてたんだろ。ならさっさと起こせばいいだろう」

「いえいえ、志貴さんがあまりにも気持ちよさそうに眠られていて起こすのが忍びなくて……でも安心してください。ちゃんと見守っていましたから!」

 

 

そんな意味不明な理由を力強く力説してくる琥珀に呆れるしかない。一体何を見守ることがあるのか。琥珀はどんなに遅くても朝の七時には起床している。なら最低でも一時間は自分の寝顔を見られていたことになる。どんな羞恥プレイなのか。

 

 

「……思い出した。そういえば屋敷にいた頃から主人の寝顔を盗み見るのが趣味だったな。使用人としてはどうなんだ、それ」

「あらあら、そんなこと言っていいんですか志貴さん? それを言ったら志貴さんだって朝起こしに来た使用人にあられもない姿を晒していたじゃありませんか」

「…………」

 

 

意趣返しのつもりだったのが見事に藪蛇になってしまう。この割烹着の悪魔を言い負かすことは生半可なことでは叶わない。助力を求めるも援軍はなし。もはやあきらめるしかない。

 

 

「それに今のわたしは使用人ではありませんから……そうです! 志貴さん、今のわたしは世間一般的にどういう風に見えると思います?」

「そうだな……未成年の男子高校生を囲っている怪しい薬剤師か?」

「ちょ、ちょっと待ってください!? それじゃあまるでわたしが犯罪者みたいじゃないですか!? ちゃんと合意の下です! そうじゃなくて……そう、恋人です! なので何も疚しいことはありません!」

 

 

珍しく狼狽しながらも証明完了とばかりに断言する未成年者略取容疑の女。なお合意があったとの供述をしている模様。真偽のほどはともかく、琥珀も思うところがないわけではないらしい。

 

 

「恋人か……改めて口にすると違和感がすごいな。まだ使用人と主人の方がしっくりくる」

「そんな……こんな甲斐甲斐しい恋人を前にして酷いです、志貴さん…………は! そうですね主人というのも悪くないかもしれません! 知ってますか志貴さん? 世間一般的に主人というのは夫である男性を指す言」

「そこまでにしておけ、琥珀」

 

 

きゃーと自分の横でベッドの上を猫のようにごろごろしだす琥珀にげんなりするしかない。というかこいつは猫が嫌いだったはずなのにここ最近の仕草が猫じみてきたのは何なのか。白い吸血姫に影響を受けているのは明らか。

 

 

「そろそろ起きるぞ、このままじゃ学校に遅刻しちまうからな」

 

 

悪ふざけはここまで。もう手遅れな気がしないでもないが登校の支度をしなくては。囲われているとしても未成年である自分は学校に行かなければならない。いや、行きたい。だがそんな自分の逃走は

 

 

「? 何を仰ってるんですか志貴さん? 今日はお休みですよ?」

 

 

そんなきょとんとした琥珀の言葉によって防がれてしまう。どうやら本当に自分は寝ぼけてしまっているらしい。

 

 

「そ、そういえばそうだったな……」

「本当に寝ぼけていらっしゃったんですね。もしかして、今日お出かけすることもお忘れになってるんじゃありませんか?」

「お出かけ……?」

「やっぱりそうですね! 遊園地です遊園地です! 先週から約束してたじゃないですか。忘れたとは言わせませんよ?」

 

 

めっとこちらを叱りつけてくる琥珀に気圧されるも、どうにも記憶が曖昧だ。というか記憶に何か齟齬があるのではないかと思いたくなってくる。

 

 

『遊園地』

 

 

それは自分にとってはある意味トラウマになっている単語。遊園地自体に罪はないがこればっかりは仕方がない。思い出すのはちょうど一年前。蛇を巡る騒動が一段落し、目の前にいる琥珀と今ここにはいないアルクェイド、シエルさんの四人でした約束。それを果たすために遊園地に繰り出したのだが結果は散々なものだった。いや、確かに楽しいものではあったのだがそれ以上に疲労困憊になった記憶の方が強い。初めての遊園地に子供のように、ではなく子供そのままにはしゃぐ琥珀とアルクェイド。それに振り回される自分とシエルさん。まさに子供を引率する保護者の役割をしなければならなかった自分たち(半分以上はシエルさん)は息も絶え絶えになってしまった。それだけならまだ笑い話で済むのだが、テンションが降り切れてしまったアルクェイドは何を思ったのか、自分を抱えたままビルの屋上まで飛び上がり、そのまま飛び回るアトラクションを慣行。当然シエルさんもそれを追いかける羽目に。琥珀はそんな自分たちを地上からあらあらとばかりに楽しそうに見守っているだけ。目が見えていないとはいえ、それはどんな遊園地のアトラクションよりも恐怖を感じるものだった。それ以来、我が家では遊園地の話題はタブーとなっていたはず。だというのに何故。そんな自分の思考を読んだかのように

 

 

「違いますよ、志貴さん? 遊園地は遊園地でも普通の遊園地ではありません! そうですね、買い物の遊園地とでもいうべきでしょうか?」

 

 

ぽん、と手を合わせたかのように楽し気に琥珀は告げてくる。それによってようやく記憶がつながる。いや氷解するといった方が正しいかもしれない。

 

 

「それはあれか、前に言ってた最近できた例のあれのことか?」

「はい♪ 例のあれです。噂を聞いてからずっと行ってみたいと思ってたんです」

 

 

ともすれば遊園地の時以上のテンションを見せる琥珀に溜息を吐くしかない。あれとは何を隠そう最近できた大型スーパーである。曰く、選ばれた者しか買い物ができない。曰く、とても食べきれないような量の食材が溢れている場所。曰く、一度迷えば二度と出てこれない広さなどエトセトラ。根も葉もない噂はともかく、そんなテレビなどでよく耳にする(琥珀にとっての)大型アトラクションがついに我が街にも上陸。使用人ではなくなったものの、我が家の厨房を取り仕切っているものとして見過ごすことはできない一大イベントと相成ったわけである。しかもそれだけではない。

 

 

「…………思い出した、それってたしか俺たちだけじゃなくて」

「はい、都古ちゃんと弓塚さんも一緒ですよ? ようやく夢から覚めましたか、志貴さん?」

 

 

悪戯が成功した子供のような琥珀を前に言葉もない。こんなイベントを忘れているなんてどうかしている。いや、もしかしたら無意識に記憶からなかったことにしてしまっていたのかもしれない。

 

 

(都古はともかく弓塚さんも一緒か……被害者は俺一人に抑えたかったんだが、もう手遅れだな……)

 

 

知らず、顔を手で押さえるももはやどうしようもない。

 

 

弓塚さつき。

 

 

奇しくも一年前。何の因果か、自分と知り合い、友達になった同級生。本当なら違う学校であり接点もないはずだったのだが、蛇の騒動によって弓塚さんたちが通う校舎が崩壊してしまったせいもあり自分の通う学校の校舎を一時的に使用することに。そんなこんなで交友するようになったもののそれだけで済むわけがない。同じバスで通学する以上、あの割烹着の誰かさんと接触するのは当然。そしてこんな面白そうなことに首を突っ込まないなどあり得ない。自分が知らないうちにあれよあれよという間に琥珀と弓塚さんは知り合い、もとい友達に。結果今回のイベントにも参加させられることになったのだろう。本当申し訳ない。

 

 

「あ、まるでわたしが無理やり弓塚さんを巻き込んだと思ってますね、志貴さん?」

「まるでじゃなくて、まさに、だろ。お前と違って素直で純粋な娘なんだ。あまり巻き込むんじゃない。これ以上犠牲者が出たらどうする」

「志貴さん、わたしのことを何だと思ってるんですか!? ちょっとこのお話をしたら興味がありそうなご様子だったのでお誘いしただけです!」

「どうだかな」

 

 

必死に言い訳する琥珀はともかく、弓塚さんも琥珀に対しては女友達のような関係を築いてくれているらしい。申し訳なさはあるがありがたくもある。どうしても出自、というかこれまで生い立ちもあって琥珀には同世代、同性の知り合いがほとんどいない。そんな琥珀に自分経緯とはいえ友達ができたことは素直に喜ぶべきことなのだろう。もっとも根がいたずらっ子である琥珀がやりすぎないよう気を付ける必要があるが。

 

 

(まあ、俺も琥珀のことは言えないか……)

 

 

絶賛自分に纏わりついてくる琥珀をあしらいながら自嘲するしかない。自分も琥珀とは違う意味で弓塚さんには迷惑をかけてしまっているのだから。主に学校までの通学路の送り迎え。本当なら自分でできなくもないのだが、勇気を出して自分の手助けを申し出てくれた彼女の厚意に甘えてしまっている形。それ以外にも細々したところで弓塚さんにはお世話になってしまっている。何かの形でお返しができればいいのだがどうしたものか。どころか弓塚さん個人だけでなく、学校でも面倒事ばかり引き起こしてしまっている。アンバーな吸血姫による突然の授業参観に始まり、自称二十五歳の新任女性教師による一騒動。そのどちらも我らがシエル先生によって鎮圧されたものの火種は未だにそこらじゅうに燻っている。とにかく無事に卒業することが今の自分の第一目標。

 

 

「はぁ……とりあえず着替えるか」

「そうですね。流石にこのままでは都古ちゃんの情操教育上良くありませんし、風邪をひいてしまっては元も子もありません」

 

 

うんうん、と一番都古の教育上問題のある存在が何か言っているがもはや突っ込む気も起きない。琥珀だけではない。今の自分もまた同じ。布団に包まってはいるものの一糸まとわぬ状態。都古はもちろんだが、弓塚さんにも見られでもしたら色んな意味で自分は死にかねない。

 

 

「お待たせしました志貴さん。ではお着替えを――」

「っ!? お断りだ!? 着替えぐらい自分でできる!」

 

 

そんな自分を知ってか知らずかさも当然、流れるように自分を着替えさせようとしてくる琥珀。知らず背筋が寒くなる。本当に恐ろしいのは琥珀にとって今の行動は自然なものであるということ。自分をからかう意図も何もない彼女自身の素の在り方。それに身を委ねてしまったら一体自分はどこまで堕落してしまうのか。文字通り昼夜問わずの奉仕。これに抗うことが学校を卒業する以上に自分にとっての一番大きな問題、もとい悩みだったりする。

 

 

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃありませんか。志貴さんからわたしは見えないんですし、有間の家では都古ちゃんが着替えを手伝ってくれていたらしいじゃないですか?」

「一体いつの話をしてるんだ!? いや、そもそも何でそのことを」

「さてさてどうしてでしょうか? それはぜひ都古ちゃんに直接お聞きになって下さいな」

「…………もういい。分かったからお前もさっさと着替えてくれ。約束の時間になっちまう」

「ふふっ、ではそうさせてもらいますね」

 

 

気にした風もなく、そのまま琥珀は衣服を身に着け始める。視ることはできなくともその衣擦れの音から、和服を纏っているのが分かる。それを振り払うように自らも用意してくれた着替えに袖を通していく。惚気ではないが、この時だけはこの眼が見えなくてよかったと心から思う。もしそうでなければ自分は今以上に琥珀に溺れ、とっくに堕落してしまっていたに違いない。

 

 

――――ふと、眼を開いた。

 

 

瞳には何も映らない。以前使っていたアイマスクも、巻いていた魔眼殺しも、もうしていない。必要ない。それでも感じる温かさ。窓から差し込んできているであろう日向の温もり。それに勝るとも劣らない彼女の体温。それを手のひらから感じ取る。

 

 

「――――じゃあ行きましょうか、志貴?」

 

 

いつものように自分の手を握りながら彼女がその名を呼んでくれる。二人きりの時だけの呼び方。最近はここぞという時にしか使わない彼女の切り札。それによって知らず鼓動が早まる。でもまあ仕方ないだろう。認めたくはないが、もう自分に嘘をつく必要もない。

 

 

そう、何のことはない。自分はとうの昔に琥珀(彼女)にイカレてしまっていたのだから――――

 

 

 

 

 

「お疲れさまでした、志貴さん。ここで少し休憩しましょう」

「ああ……本当に疲れた。遊園地を思い出すくらいにな」

 

 

労いの言葉と共に差し出されたペットボトルのお茶を口にしながらそう愚痴るしかない。だがそれも許されるはず。午前中から出発し、現在は既に夕刻。大型イベントは終了し、弓塚さんとはバス停で別れ、都古は有間の家に送り届けた。それだけでも重労働なのにさらに自分を苦しめたのが今自分が腰かけているベンチの傍に降ろした戦果という名の買い物袋の山だった。

 

 

「しかし本当に凄かったですねー。あんな噂が流れるのも納得の施設でした! 都古ちゃんと弓塚さんをお誘いした甲斐もあったというものです!」

「そうかな……まあ、そうだったと思うしかないか」

 

 

未だ興奮が冷めやらない琥珀を無視しながら、ここにはいない二人の少女たちに思いを馳せる。都古についてはある意味いつも通りといっていい。思春期でもあり、中学生になってからはどこか余所余所しさがあったものの最近は慣れてきたのか、以前の雰囲気に戻りつつある。もっとも琥珀に対する対抗心は変わらないようで、現在は冷戦状態……といっても素直になれていないだけ。琥珀としては自分のことをお姉ちゃん呼びしてほしいと思っているようだが如何せん状況は芳しくない様子。果たしてその野望が叶う日は来るのか。

 

 

(弓塚さんには今度何か埋め合わせをしないとな……)

 

自分の次に振り回されてしまった弓塚さんには申し訳なさしかない。ただでさえ人見知りがちであるにも関わらず、琥珀と都古のじゃれあいに巻き込んでしまった。自分を除き、中立の立場である弓塚さんを仲間に引き入れんとする琥珀と都古。あわあわするしかない弓塚さん。挙句買い物に一緒に夢中になってしまった二人の代わりに途中から完全に自分を誘導する係になってしまった。緊張からか握ってくれた手が手汗だらけになっていたのは彼女の名誉のために墓の下まで持っていく覚悟である。

 

 

「それよりも見てください志貴さん! このお菓子の素晴らしさを! 完全にわたしの理解を超えています……この発想力……感嘆するほかありません!」

「いや、俺には見えないし」

 

 

そんな自分の覚悟など知る由もない自称我が恋人様は新しいおもちゃを手に入れた子供、いや研究を目にしたマッドサイエンティストのように目を輝かせているのだろう。見えなくても声だけで十分だった。

 

 

「いいえ、志貴さんは分かっていません! こんな物がお菓子だなんて……秋葉様が見たらきっと卒倒するはずです! いえ、翡翠ちゃんならもしかしたら……!? これは信条を曲げてでも贈るしかないのでは……」

 

 

どうやら琥珀の中での産業革命が起こっているらしい。それに巻き込まれかねない遠野家。しかしそこまでとは一体どんなお菓子なのか。そんなにすごいのか外国のお菓子。そもそもそれ本当にお菓子なのか。怖いもの見たさもあるが触れない方がいいだろう。

 

そのままベンチに背を預けながら空を見上げる。もちろん何か見えるわけではないが、習慣はやはりなくならない。空を見上げるのが趣味だなんて自分も誰かのことは言えないかもしれない。

 

 

「……志貴さん、大丈夫ですか? 少し横になります?」

「いや、いい。疲れたのは本当だけど、体の調子自体は良いからな」

 

 

さっきまでのはしゃぎっぷりはどこに行ってしまったのか。琥珀は自分の身を案じてくる。こういったところには琥珀は本当に機敏がきく。なので嘘偽りなく答える。直死の魔眼を失ったからか、琥珀の助力のおかげか。それとも他にも理由があるのかは分からないがここ一年は本当に調子が良い。根本的なこの体の欠陥からは逃れられないが、それでも以前よりずっと人並みの生活を送れている。

 

 

「そういえば……思い出した。いつかもこうして買い物に付き合わされたことがあったっけ。確か自分の歓迎会の買い物を自分で運ばされたんだったな」

「そ、それは……志貴さん、まだそのこと根に持ってらしたんですね」

「当たり前だろ。それだけじゃない。この公園では面倒事しか思い出せない」

 

 

話題を変える意味もかねてそう告げる。そう、ここは自分にとっては特別な場所。この公園で琥珀に何度振り回されたか。

 

 

「学校の前で待ち伏せされてここに連れてこられたんだったな。正直生きた心地がしなかった。今思い出してもぞっとする」

「し、志貴さん……それを口にするのは反則です! あれは何と言いますか……気の迷いといいますか……そうですね、シエルさん風に言うなら麻疹にかかってしまっていたようなもので」

 

 

珍しく口ごもり、よく分からない弁明を続ける琥珀。何故そこでシエルさんが出てくるのかは不明だが琥珀にとってあれは消し去りたいほどのやらかしだったらしい。

 

 

「それだけじゃない……そうだ、雪の中でずっとベンチに座って俺を待ってたことがあっただろ。見ててこっちが冷や冷やしたぞ。まあ、待たせちまった俺が悪いといえば悪いんだが」

 

 

そんな琥珀に釣られるように思い出す。自分のせいで雪の降り仕切る中、ずっとベンチで待ちぼうけをくらっていた誰か。約束を信じて、ただ待ち続けていてくれた彼女。それを見ていることしかできなかった自分。それでも何とか約束を果たすことだけはできた記憶。だが

 

 

「……? わたし、そんなことした記憶ありませんよ志貴さん?」

「…………え?」

 

 

そんなことはなかった、と琥珀に返されてしまう。思わず呆然としてしまう。

 

 

「……もしかしたら、わたしではない『琥珀』との記憶じゃないでしょうか?」

 

 

何か感じ入るものがあったのか、それともそれほど自分は呆けていたのか。琥珀はどこか困ったような、悲し気な雰囲気でそう言ってくれる。そう、琥珀は自分の事情も全て理解している。だからこそ、どこか憂いを帯びた様子を見せている。

 

 

「――――ああ、そうだな。きっと」

「ええ、だからたまには思い出してあげてください。その間だけはちょっとだけ志貴さんを貸してあげます」

 

 

少しだけ拗ねるような、それでもどこか嬉しそうに琥珀はそう言ってくれる。もう全てを思い出すことはできないけれど、きっとそこには大切なものがあった。それだけは憶えてる。もう届かない、彼方の夢。

 

 

 

「……少し冷えてきたな」

「はい、そろそろ戻りましょうか。最近は物騒な噂もありますし、これ以上志貴さんに無理をさせるといけませんから」

 

 

互いに互いを気遣いながらそう切り出す。感傷に浸るのもいいが、このままでは本当に風邪を引きかねない。それは避けなければ。だが立ち上がりかけた体が止まる。微かな違和感。

 

 

「物騒な噂……? 一体何のことだ?」

「……ああ、志貴さんはまだご存じありませんでしたっけ。何でも一年前の猟奇殺人事件の犯人が現れた、とか」

 

 

どこか気まずそうに琥珀はそう吐露する。本当なら口にするつもりはなかったのだろう。彼女らしからぬミス。琥珀もまたさっきにやりとりで心あらずだったのかもしれない。

 

 

「でも本当に根も葉もない噂なんです。噂の内容も多種多様で、吸血鬼から殺人鬼、はては魔法使いまで出てくるぐらいで。もちろん内容が内容ですから調べてはみましたが、実際に行方不明になった方もいらっしゃいませんでした。ちょうどあの事件から一年ですし、それが原因ではないかと」

 

 

白状するように琥珀はそう続ける。琥珀からすれば自分が巻き込まれるかもしれない可能性があるものには敏感になるのは当然。実際それを耳にすれば多少なりとも自分は気にせざるを得ない。もっともそれが何であっても今の自分にできることなど何もないのだが。せいぜいできるのはあの二人に助力を乞うことぐらい。流石にただの噂でそんなことをするのも気が引けるが。

 

 

なのに何故か引っかかる。何か致命的なミスを、勘違いをしているのではないか。そんな予感。脳裏によぎるかつての記憶。自分のものではない、もう繋がっていない情報の海。摩耗してしまっている知識の檻。自分には必要ないと切り捨てた知識の中に、何かが。

 

 

「――――琥珀、気になることがある。二人に連絡を」

 

 

――――そう口にした瞬間、世界が歪んだ。

 

 

「――――がっ!? あ」

「っ!? 志貴さん、しっかりして下さい!? いますぐ横に」

 

 

そのまま蹲り、しゃがみこんでしまった自分に駆け寄りながら琥珀が何かを言っている。だが聞こえない。ただあるのは痛みだけ。いつもの眩暈や貧血ではない。いや、そうであってくれればどれだけ良かったか。

 

 

そうだ。自分は知っている。覚えている。この痛みを。頭痛を。忘れるわけがない。忘れることなどできるわけがない。

 

 

知らず両目を開く。そこにはもう暗闇はない。あるのは光。一年以上見ることのなかった、外の世界。その視界の先には初めて見る、自らの義手の掌。だがそんなことはどうでもよかった。ただ目に映るのは

 

 

忘れかけていた、世界に満ちている死の線と点だけ。

 

 

 

それが一年の時を超え、『遠野志貴』に訪れた一夜限りの再演の兆しだった――――

 

 

 

 

 




お久しぶりです。約六年ぶりとなりますが月姫リメイクの発売を記念して後日談を投稿させていただきました。これは元々後日談としてプロットだけはあったものの、蛇足になりかねないということでお蔵入りしたものをリメイクのネタをリファインして再構成したもの、日向の夢エンドの後の世界の話となります。前編と銘打っているように後編含めた二話構成となっています。後編についてはリメイクのネタバレになりかねない部分が多く含まれる予定ですのでご注意ください。少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。では。

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