月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第五話 「再開」

――――夢を見る。

 

 

過去の記憶を、記録を確かめるように。もう飽きるほどに見てきたはずなのに、繰り返し繰り返し。中には身に覚えのない内容もままある。忘れてしまっているものなのか、それとも勝手に空想し作り上げた虚構か。

 

だが意味はない。目が覚めれば全て覚えていないのだから。いや、覚えてなどいられないだろう。これほどの記録を、螺旋を全て認識すれば自我など保ってはいられない。

 

 

もし、その時が来たのならそれは――――

 

 

 

 

「――――お兄ちゃん!」

 

 

聞き慣れた声が虚ろだった意識を目覚めさせてくれる。ある意味いつも通り。何も変わっていないはずなのに何故か涙が出そうになる。あくびは出てはいないが、きっと眠りを妨げられたためだろう。

 

 

「朝だよお兄ちゃん! 早くしないとがっこうに遅れちゃうよ!」

 

 

そんな目覚めてからまだ覚醒しきっていない頭に活を入れてくれようとしてくれているのかは定かではないが、都古はまるで自分が遅刻してしまうかのような慌てっぷりを見せている。きっと目の前には頬を膨らませた都古の姿があるのだろう。誠に残念だがそれを拝むことはできない。

 

 

「……おはよう、都古。今日も元気だな」

「おはよう、じゃないよお兄ちゃん! どうしていつもすぐに起きてくれないの!?」

「いつも言ってるだろ……朝は弱いんだ。このまま世界がなくなってもいいくらいに。そういうわけだから先に行ってくれ、都古」

「よ、よく分からないけどダメだよ! お兄ちゃんを送って行くのがあたしの仕事なんだから!」

 

 

目を覚ましたにも関わらず目を開けることなく、アイマスクをしたまま都古へと挨拶する。寝ている間に着ける、という意味では今の方がアイマスク本来の用途。もっとも自分の場合は昼夜問わず、寝ていようが起きていようが関係ない。唯一の例外が入浴時だけ。相変わらず自分の視界は暗闇。もう慣れ親しんでいるとはいえ、やはり目覚めの瞬間は気が滅入る。

 

 

「……? お兄ちゃん、どうかしたの?」

「いや、何でもない。とりあえず準備するから居間で待っててくれ。それとも着替えも手伝ってくれるのか?」

「っ!? わ、わかった……早くしてね……!」

 

 

どこかオタオタしながら都古は脱兎のごとく部屋から逃げ出していく。理由は言うまでもなく自分が着替えの準備を始めたから。どうやらあれでもやはり思春期であることは間違いないらしい。少し前までは着替えも手伝ってくれていたのだが。別に悲しくはないが少しだけ思春期に嫌われる父親の気分を味わっているかのよう。

 

 

「……ふう。今日はいまいちだな……」

 

 

ベッドから上体を起こし、端座位になりながら自らの体である物の調子を確かめる。貧血で倒れるほどではないが、血の巡りはよくない。感覚も鈍い。朝であることを差し引いても不調である、というのは間違いない。どこか機械の点検のように自らの状態を見極める。自分のことでありながらどこか他人事のようにすら思える作業。しかし、そうせざるを得ない理由がこの体にはある。

 

慢性的な貧血。もしくは眩暈。直死の魔眼を抜きにしてもなくなることはない遠野志貴の体の現状。目を閉じ、全盲に近い生活を送りながらもまだ自分は人並みの生活を送ることは許されることはない。もっとも今の有様は身体だけでなく、自分自身の精神状態のせいでもあるので自業自得と言えるかもしれないが。

 

 

(あれから三日……とりあえずは、ってところか……)

 

 

先日の遠野秋葉の訪問とその顛末から三日が過ぎ去っている。幸か不幸か、あれ以来彼女が有間の家を訪ねてくることはない。ある意味当然。それだけの拒絶の言葉を自分は口にしたのだから。だが罪悪感はあれど、後悔はしていない。あの時の選択は、きっと間違っていない。もし本当に知識通りなら、自分はそのまま死地に向かいかねなかったのだから。

 

生き延びること。

 

それが今の自分の行動理念。何も持てない、何も持っていない自分がこの八年間で必死に見つけ出した在り方。きっと誰であれ、変わることはない原初の願い、欲求。それが自分にもあるはず。現に自分は死を嫌悪している。ならそれはきっと生きたいということに他ならないのだから。

 

だがそれだけで逃れることができるほど遠野志貴の因果は甘くはない。例え遠野の家に戻らなくとも、常に死の危険が付きまとう。皮肉な話だ。死を見る眼があるのに、死から逃げられないなんて。もしかしたら、見えることで逆に死を呼び寄せているのかもしれない。

 

しかし嘆いていても仕方ない。これは八年前から分かり切っていたこと。とりあえず準備はしてきた。なら後は運を天に任せるだけ、足掻くだけ足掻いて、その果てに終わりが来たのならあきらめるしかない。ただその瞬間までは、みっともなく這い続ける。きっと、そうするべきなんだから。

 

自分に言い聞かせながら、大きな溜息とともに背伸びをし、意識を切り替える。とにもかくにも今は学校へ行く準備をしなければ。今では都古が今か今かと待っているはず。早くしなければ頭突きを食らいかねない。三日前に食らったばかりなのに、朝から食らおうものなら本当に倒れかねない。今はどこから影響されたのか、中国拳法の真似ごとまでしているらしい。頭突きが拳になるのか、と空恐ろしいことを危惧しながら慣れた手つきで準備を整える。おおよそ必要な物は手の届く範囲に配置している。

 

もし誰かがこの部屋を見れば、物の少なさに驚くだろう。遠野志貴も部屋にはあまり私物がなかったらしいが、自分は根本的に理由が異なる。ただ単純に動線上で邪魔となる物がないよう、必要最低限の物しか置いていないだけ。ベッドに机。着替えが入った小さな三段ボックスに学生鞄。ラジオ兼ラジカセにイヤホン。せいぜいそんなところ。これが自分の世界であり、全て。小さな、狭い世界だが、慣れればそれほど悪くない。死の見える世界に比べれば、きっとどんな世界でもマシだろう。

 

だがそんな自分の世界にも、一つだけ自分の物ではない物がある。偶然か必然か。ふと、それに触れてしまう。触れないように机の奥にしまっておいたはずなのに、いつ以来か分からないにも関わらず手触りだけでそれが何なのか分かってしまう。

 

 

「…………」

 

 

白く長いリボン。今は見えないが、きっとあの時と変わらない形をしているのだろう。同時にあの日の彼女の姿が蘇る。

 

八年前に見た少女と、三日前に目にした着物姿の女性。

 

共に死の線と点に満ちていたにも関わらず、直視した存在。まるで別人のように変わっていた彼女。ただその内までは分からない。なら自分はどうなのか。八年前と、何か変わったのだろうか。変われたのだろうか。

 

あの時、これを受け取ってしまったこと。それが正しかったのか、間違っていたのか。ただ分かるのは、きっとこのリボンが元の持ち主の手に戻ることはないだろうということだけ。

 

 

「――っ!?」

 

 

瞬間、頭痛が起こりその場に蹲ってしまう。直死の魔眼による負荷の頭痛ではない、八年前からある頭痛。医者に見せても原因不明であるもの。それが最近、頻度を増している。頭が割れるような痛みと、何かが刻まれているような嘔吐感。もしかしたら、別人になってしまった拒絶反応かもしれない。本当に、この体は自分を楽にしてくれる気が毛頭ないらしい。そんな痛みが何とか収まった後、ふと気づく。

 

 

何かと理由をつけて、遠野の家に戻りたくないと抗っていた自分。その根源。何のことはない。

 

 

――――琥珀と会いたくなかったから。

 

 

そんな子供じみた理由が根本であったことに今更気づき、自嘲気味な笑みを浮かべながら呼吸を整え、自分を待っているであろう都古と共に、家を後にするのだった――――

 

 

 

 

 

――――そこは一種の異界だった。

 

 

薄暗く、陽の光が届いているのか定かではない講堂。ステンドグラスから差しこんでくる細い光だけがかろうじて道を指し示している幻想的な光景。救いを求める者に、平等にそれを与えんとするはずの教会は、致命的な程人を寄せ付けぬ空気に満ちている。排他的、と言ってもいい。だが彼らが拒んでいるには人ではない。かつてヒトであり、ヒトではなくなったもの。人でない霊長を決して認めない者達の意志がカタチになったもの。

 

『埋葬機関』

 

聖堂教会の中においても異端狩りに特化した代行集団。悪魔払いではなく、悪魔殺しの代行者達。彼らがその中でも怨敵としているのが吸血鬼。その名の通り血を吸う鬼であり、人にとっての天敵。元々吸血鬼であったモノも、人から吸血鬼であったモノも関係ない。ただ吸血鬼であるというだけで彼らにとってそれは決して許されない。ここは彼らの本拠地であり、同時に墓場でもある。見えない何かに縛られているように、彼らもまた人間でありながら人間でなくなってしまった存在。

 

 

「…………」

 

 

そんな一般人が踏み入れば空気だけで体がすくんでしまうほどに浄化され、毒にすらなりかねない空気に満ちた空間を一人の女性が歩いている。カソックと呼ばれる法衣に身を包んだ殉教者。だがそこに、救いを説く姿はない。ただ単調に、規律が取れた軍隊を思わせる歩法を見せながら彼女は進んでいく。足が地につく度に甲高い反響音が行動に響き渡る。法衣には不釣り合いなブーツの奏でる音は、聞く者に戦慄を与えかねない。だがそんな彼女を前にして

 

 

「――――へえ、これは珍しい。ここで君に会うなんて何年振りかな? てっきりここが嫌いなんだとばかり思ってたんだけど」

 

 

まるで初めからそこにいたかのような自然さで、同時にあり得ない程の不自然さを纏った少年が姿を見せる。薄暗く、光がほとんど差してこない中であってもその存在感は圧倒的だった。

 

天使。彼を初めて見る人間ならまずそう連想するだろう。それほどまでにその在り方は神秘的で、幻想的だった。白い法衣を身に纏い、指にはいくつもの指輪。子供のような容姿。その全てが、天使という言葉に相応しい。

 

だが視る者が視れば気づくだろう。その正体がまさにそれとは真逆であることを。そう、彼は悪魔。自らの手足ですら悪魔にしてしまう、空想を描く夢の住人。

 

 

「……それはわたしの台詞です。貴方こそ、こんなところにいていいのですかメレム」

 

 

それまで一定の規律を守っていた足音を留めながら、彼女、シエルは真っ直ぐに少年を見据える。そこには親愛はない。まるで敵に出会ったかのような、言いようのない空気がある。蒼い双眼に射抜かれながらも、少年メレムはまるで意に介することはない。むしろ楽しげですらある。

 

 

「ああ、ここの空気のこと? 確かに少し気にはなるけど、我慢できないってほどじゃない。心配しないでいいよ。たまには慣れておかないと、いざって時に困るからね」

「勘違いしているようですね。わたしが言っているのは、今わたしの前にいて自分の身の心配をしなくていいのか、ということです」

「なるほど、そう取ることもできるか。でもわざわざ口にするまでもない。君がお節介焼きだってことをここで知らない奴はいないし」

 

 

ある種の敵対心をシエルが見せているものの、メレムは動じるどころかからかうだけ。会社の上司と部下、先輩と後輩のように。先のシエルの言葉の半分以上が自分の身を案じている物であることを知っていながら遊んでいるだけ。

 

『メレム・ソロモン』

 

死徒二十七祖の一人であり、同時に埋葬機関の五位でもある吸血鬼。吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る埋葬機関に属している変わり者、矛盾した存在。

 

 

「……そうですか。で、貴方は何故ここに? 局長からの呼び出しですか?」

 

 

これ以上気を張っていても無駄だと判断したのか、一度目を閉じ幾分か殺気を収めながらシエルは問う。先のメレムの言葉に納得したわけではないが、ここは一種の異界。特に吸血鬼にとっては立っているだけでもやっとになる程の浄化された場所。そこにいながらも平然としているのが彼が祖たる所以なのだろうが、それでも好んでやってくることは考えにくい。その真意を問うもの。もっともメレムが正直にそれを明かすなどとは思っていない。これはただの通過儀礼。世間話のようなもの。だが

 

 

「いや、違うよ。ナルバレックに用があるのは確かだけど。ちょっと金の換金をお願いしようと思って」

 

 

あっさりと、まるで気にする風もなくメレムは己の目的を明かす。あまりにも自然すぎて、嘘だという疑問すら抱けない程にその答えは真実だった。

 

 

「換金、ですか? 意外ですね。貴方は人間社会には興味がないとばかり思っていましたが」

「ん? ああ、使うのはボクじゃないんだけどね。ちょっと君と同じようにお節介をしておこうと思って」

 

 

どこか楽しげにメレムは笑う。屈託のない笑み。普段の彼からは想像できない、純粋な顔。その理由に興味はあるものの、シエルは切り捨てる。きっと答えはしないことは分かり切っているのだから。

 

 

「そうですか……ですがわざわざ局長に頼む必要があるとは思えません。換金ぐらい、あなたでもできるでしょう」

「そうだね。左腕ならできなくもないんだけど、それだとちょっと時間と手間がかかっちゃうんだよ。急用だから今回は癪だけど、借りを作っておこうってわけ。本当に人間社会ってのは面倒だね」

「時間と手間、ですか。四桁を生きているあなたが言っても説得力がありませんね。そもそもあなたに人間社会が理解できているとは思えませんが」

「確かに。ボクはヴァンほど世俗にはまみれてないからね。そういえば、今度豪華客船でパーティをするとか言ってたっけ。吸血鬼が海の上で舞踏会なんて、あいつぐらいなんじゃないかな」

 

 

それが面白い、とメレムは笑う。そんなメレムに辟易としながらも、これ以上ここで時間は割けれないとばかりにシエルはその場を後にせんとする。だが

 

 

「でも急いでいるのは君も同じじゃないかな。ソレを持ち出すってことは、そういうことなんだろう?」

 

 

先程までの悪戯好きな子供のような顔ではなく、囁く悪魔のような笑みを見せながらメレムは告げる。その視線の先にはシエルではなく、彼女が肩に担いでいる巨大な黒い物体。端から見れば棺桶のようなもの。異質なのはそれが法衣によって拘束されているということだけ。

 

 

「ええ。局長の許可は出ています。御心配なく」

「ちょっと待ちなよ。まったく、何で君はそんなにボクを邪見にするのさ」

「わたし、貴方が嫌いですから」

「きっついなー。ま、そこが君らしいんだけど。でもそうか、今度で十七回目だっけ? あの蛇もあきらめが悪い。だからこそ君もまだ、こうしていられるわけだけど」

「…………」

「おや、失言だったかな。でもお節介は本当だよ。どうせまた脱皮するんだから今回にこだわらなくてもいいんじゃない?」

「……残念ですがわたしは貴方ほど気が長くないので。これ以上は時間の無駄でしょう。では。局長の愚痴にでも付き合ってやってください」

「えー。あいつの愚痴は長くて退屈なんだよなー。思わず食べたくなっちゃうぐらいに」

 

 

冗談か本気変わらない軽口を流しながら、今度こそシエルはメレムの横を通り過ぎ、講堂を後にする。見据えるのは出口だけ。この地獄にも似た牢獄の先。それを潜ろうとした刹那

 

 

「じゃあ、本当に最後――――君は人間に戻って、生きたいのかな? それとも人間に戻って、死にたいのかな?」

 

 

文字通り、司祭のような厳かさと子供のような無垢さを内包した矛盾した問い。その問い自体もまた、シエルにとって避けて通ることができない命題。それを最後の置き土産にしながら少年は姿を消す。絵本の中にしかいない、ピーターパンのように。

 

 

振り返ることなく、彼女は発つ。自らの因縁と運命に決着をつけるために。その先の答えを未だ持たぬまま。その答えを得ることができるかは分からない。それでも、自分を取り戻すために――――

 

 

 

 

誰もいない、誰も知らない山奥に。大きな大きな城がある。まるで世界から隔絶されたような、幻想的な心象世界。城でありながら、城でない場所。

 

何故ならそこには一人しかいない。豪華な食堂も、階段も、装飾も必要ない。どこか無機質な岩にも似た冷たさを感じさせる牢獄。

 

中心には城の主が眠っていた。椅子に腰かけ、目を閉じ眠っている女性。この無機質な世界において、彼女だけが異質だった。

 

美しい金髪に、完璧な造形を持つ美貌と肉体。身に纏う白のドレスに着飾られたそれは、男であれば魅了されない者はいないだろう。同時に決して触れることはない。触れることはできない、究極の一。

 

そんな彼女を縛りつけている物。文字通り、無数の鎖が天井から彼女の体を絡め取っている。決して目覚めることがないように。だがこれは誰かが彼女を縛っているのではない。

 

彼女自身が彼女を縛っている証。眠る、というこれまでずっと繰り返して来た行為。それがいつからだったのか、誰に言われて始めたのかは分からない。ただ彼女はそれを繰り返して来た。機械のように、何の疑問も持たぬまま。

 

 

――――その時が訪れる。

 

 

まるで決まっていたように全ての鎖が解かれ、砕け散って行く。同時に彼女はゆっくりとその瞳を開く。血のように染まった深紅。その眼で自らの体を見下ろし、同時にゆっくりと立ち上がる。

 

一瞬、掌を握りしめ、感覚を確かめる。同時に、内に宿る衝動を抑え込む。その表情に感情はない。無機質な城と同じように、彼女もまた同じ。今しているのは自らの体の確認。兵器が自身の異常を確認するように、性能を確認するように彼女は理解する。今の自分の能力と現状を。

 

そのまま無意識に髪を掻き上げる動作を行うも、空を切る。自らの後ろ髪は肩までもない。にもかかわらず梳いてしまったのはただの習慣。知識を、記憶を洗い流されていたため、知らず昔の動作が出てしまっただけ。そのことに何の感慨もない。髪が長かったのは自分がそう言う風に造られたから。そこに愛着はない。司祭は嘆いていたが彼女にとっては邪魔な物が消えた程度の些事でしかない。

 

 

――――目を閉じ、世界と同化する。

 

 

この時代の、この先に必要である知識を星から手に入れる。取捨選択。必要でないものは排除する。無駄な物は必要ない。ただ己が役割を果たすために。

 

同化が終わる。この先の自分のすべきことと、その先を理解する。設計図のように、そこには何のズレも、歪みもない。そんなものはあり得ない。

 

瞬間、深紅の瞳が金へと変わる。それを合図に城は消え去っていく。まるで蜃気楼のように無に環っていく。残ったのは何もない山と、その中に一人取り残されている吸血姫だけ。

 

 

ふと、空を見上げる。

 

 

満月。

 

 

その光を見つめながらも、彼女はすぐさま歩きだす。ただ機械のように。与えられた役割を果たすためだけに。

 

 

誰かが言った。

 

 

――――君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ、と。

 

 

その意味を解することなく、白い吸血姫は舞台に上がる。その先に、何があるのかを知る由もなく――――

 

 

 

 

 

 

朝、一日で一番人々が行きかう時間帯。その歩道に一人の女性の姿がある。着物、という時代錯誤な服装のせいで通り過ぎて行く通行人からは奇異の目を向けられているが、それは着物のせいだけではない。

 

和服美人、と言ってもいい程、彼女の着物姿が絵になっていたから。同時に視線にさらされているにも関わらず、変わらず柔らかい笑みを浮かべていることも大きな理由だろう。

 

通行人達は気にはしながらも、話しかける程の時間も理由もないため、一瞥しながらも去っていく。白いガードレールに沿うように、人々は流れて行く。そんな中で、逆行するように女性はその場で立ち尽くしている。まるで誰かを待っているかのように。

 

もし自分が着物でなければ、あのガードレールに腰掛けて待っていてもよかったかもしれない、とふと考えながらも彼女はそのままただ待ち続ける。

 

時間にすれば短かったのだろう。しかし、それが長く感じられたのはいつ以来だろう。きっと自分が演じているものが、そう感じさせるのだろう。

 

もう何台目かわからない、朝の通勤バス。それが停留所に止まり、中から人々が足早に下りてくる。きっとそれぞれに急いでいくべき場所があるのだろう。

 

だがそんな中、一歩遅れて一人の少年がゆっくりとバスから降りてくる。目にアイマスクをし、手には杖を持った明らかに異質な姿。そのせいか、彼が進まんとしている場所には知らず人が避けて行く。きっと道を開けてくれているのだろうが、遠目から見ると皆が彼を避けているかのように見える。

 

それに気づいているのか、それとも気づかないふりをしているのか。少年はバスの中の運転手に向かって小さく笑みを見せながら何かしゃべったあと、ゆっくりとこちらへと向かってくる。

 

 

それを目にしながら、知らず彼女は手で自らの顔に触れていた。まるで今、自分はどんな表情をしているかを確かめるように。だがすぐそれが無意味であることに気づく。

 

 

そう、そんなことをしても意味はない。彼に自分の表情は見えないのだから。

 

 

それでも、自分が今笑っているのが分かる。口元は確かに笑っている。なら大丈夫。これまでと変わらない。ただわたしは演じればいい。

 

 

 

「――――おはようございます、志貴様」

 

 

 

自分の目の前にまでやってきた少年に向かって彼女は告げる。少年は何かに気づいたようにその場で歩みを止めてしまう。ただゆっくりと見えないはずの視線を上げるだけ。

 

 

それが彼と彼女の再会であり、再開。

 

 

今、役者は全て舞台に上がった。違うのは主演が代役であるということだけ。それが何をもたらすのか誰も知らないまま、物語はようやく開幕するのだった――――

 

 

 


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