月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第零話 『  』

「すいません、出過ぎた話でしたね。でも志貴さんにはぜひ考え直して欲しかったんです。遠野の家に戻ることに不安があるみたいですけど、大丈夫ですよ。秋葉様や翡翠ちゃんもいますから。きっと八年前みたいな事故は起こりません」

 

 

黙りこんでしまっている自分に向かって、琥珀は慈しむような声で告げる。全ての心配はいらないと。この時程、自分がアイマスクをしていることに感謝することはなかっただろう。知らず、こちらの表情を誤魔化すことができるのだから。彼女はこんな物がなくとも、表情を変える必要すらないのだろう。八年の間にそれができなくなった自分が異常なのか、それができる彼女が異常なのか。それを知ることもなく

 

 

「それに有間の家にいれば安全、とは限りませんから――――」

 

 

そんな無意識にこぼれたような琥珀の言葉によって、まるで心臓を鷲掴みにされたような悪寒を覚えた。もう、逃げ場はないと。自分にそうする以外の選択肢はないと宣告されたに等しい。だが逆にそれが自分の思考をクリアにする。

 

――――反転する。そう、何故自分はこんなにも困惑しているのか、翻弄されているのか。

 

決まっている。自分がないからだ。確固たる自分がないから、こんなにも無様に為すがままにされている。中途半端に遠野志貴の殻を被っているから。中途半端に知識を持っているから。中途半端に、遠野志貴と関係がある彼女達を気遣っているから。

 

だからそんな物は必要ない。罪悪感も、後ろめたさも感じる必要もない。そもそもそんな物は自分にありはしない。ただ『普通の人間ならそう思うだろう』と知っているからそうしているだけ。

 

 

「――――できない。俺は、遠野の家には戻らない」

 

 

自分でも驚くほど、抑揚のない言葉が口から漏れた。戻れない、のではなく、戻らない。何かを理由にした物ではなく、間違いなく自らが選んだ選択だった。

 

 

「――――」

 

 

瞬間、初めて彼女の呼吸に変化が生じた。今まで決まったリズムで淀みなく流れていた流れが止まる。秒にも満たない差だったのかもしれないが、はっきりと自分にはそれが感じ取れた。

 

 

「志貴さん、それは」

「何度も言わせないでくれ。俺は遠野の家には戻らない。目のことも、記憶喪失のことも関係ない。俺が帰りたくないから、帰らない。それだけだ」

 

 

先程までとは逆に、琥珀に反論の間を与えることなく先を取る。論理も、理由づけも必要ない。これまでの理論武装という名の言い訳とは真逆の感情論によって彼女の誘いを断る。

 

有間の家が安全とは限らない。琥珀が先程口にした内容。そこに不安がなかったと言えば嘘になる。確かに、有間の家にいれば安全とは限らない。それでも、遠野の家に戻ることに比べれば雲泥の差がある。自分がいることで都古達に危険が及ぶ可能性など百も承知。そもそもそれは本物の遠野志貴であっても変わらない。だからこそ旅行という名の逃走を考えた。もし狙われたとしても、自分だけで済むように。

 

だから、許せなかったのはその一言。まるで、都古達を人質にとったかのようにも取れる彼女の言葉。もしかしたら、そんな意図で言った言葉ではなかったのかもしれない。もしかしたら、彼女にとっては何でもない、当たり前の言葉だったのかもしれない。それが許せなかった。そう、彼女が知識通り、八年前から――――

 

 

「――――そうですか。なら、仕方がありませんね」

 

 

そんな自分の思考を断ち切るようにぽつりと、拍子抜けするほどあっさりとした言葉を琥珀は口にする。思わずこちらが呆然としてしまうほど。もし鏡があれば、口を開けたままになった自分の姿があるだろう。

 

だが姿が見えないのは彼女も同じ。目を閉じた自分からは彼女がどんな表情をしているのかは見えない。声も先程までとなんら変わらない。しかし、だからこそ恐ろしい。恐らくは自分の思惑が外れ、予想外の流れになっているにもかかわらず何の動揺も見せない。それともこうなることも彼女の筋書きなのでは、と勘繰ってしまう。

 

 

「申し訳ありませんでした、志貴さん。無理を言ってしまって……ちょっと、間違えちゃったみたいです」

「間違えた……?」

「いえ、こちらの話です。でも、困りました。これじゃわたし、秋葉様に何を言われるか分かりません。志貴さんを必ずお連れすると約束しちゃったんですよ?」

「……それは、俺のせいじゃないだろ。できもしない約束をした琥珀さんの自己責任だ」

「それはそうなんですが……うぅ、志貴さんって思ったよりもヒドい人だったんですね」

 

 

よよよ、とその場に泣き崩れてしまうような哀愁を漂わせている琥珀にただ苦い顔をするしかない。知らず、ため息を吐く。先程までの言いようのない感情も、緊張感もどこかに行ってしまった。もしかしたら全てが考えすぎだったのでは、と思ってしまう。だが逆にそれが違和感だった。

 

彼女がこんなにもあっさりとあきらめるわけがない、と。

 

 

「はぁ……仕方ありません。このまま志貴さんを拉致、監禁する方法も考えたんですがやっぱり無理そうですね。そんなことしたら秋葉様に何をされるか……あ、もしかしたら秋葉様も賛成してくださるかもしれませんね。どうですか、志貴さん?」

「……無茶苦茶言わないでくれ。そんなのは御免だ」

「そ、そんなに怯えないでください! 冗談に決まってるじゃないですか」

 

 

予想以上に自分がドン引きしているのを見て焦ったのか、慌てて弁明するもこっちにとっては笑い話では済まされない。事実、遠野の家には人間を監禁できる場所があるのだから。先程までは違う意味での冷や汗を流しながらも何とか落ち着きを取り戻すことができた。

 

 

「とにかく、話はこれでいいだろ? 遠野秋葉のことは気の毒だけど、半分以上は自己責任だ。悪いけど、翡翠って妹さんにも伝えておいてくれ」

 

 

ペットボトルのお茶を一気に飲み干し、学生鞄にしまいながらベンチから立ち上がる。正確な時間は分からないが、もう充分話には付き合った。遠野秋葉以上に、琥珀と接することは自分にとっては辛いことだったらしい。この空間から解放されることが、こんなにも待ち遠しかったのだから。酷な対応だったかもしれないが、これがお互いのため。どうやっても、自分は遠野志貴の代わりにはなれないのだから。だが

 

 

「―――いいえ、志貴さん。まだ約束が済んでませんよ?」

 

 

そんな自分を解放することを、まだ彼女は許してはくれなかった。

 

 

「約束……? もう約束なら果たしただろう。お茶には付き合ったわけだし……」

 

 

半ばその場から立ち去ろうとしていたところに声をかけられせいか、若干ぶっきらぼうになってしまったがそう答える。もっとも、男女のお茶と言えるほど甘いものではなく、いわば狐と狸の化かし合いと言った方が正しいかもしれない。どちらが狐でどちらが狸かは言うまでもないが。しかし

 

 

「…………」

 

 

琥珀はそのままただじっと何かを待ち続けている。それまでの彼女の動作からは明らかに異質な空気がある。それが何故なのか、何なのか。

 

だが瞬間、思い出す。知識として、想い出す。

 

――――そうか。でも、それは

 

白いリボン。彼女が遠野志貴と約束した、再会の約束。琥珀がその時を待っていることを。

 

知らず、唇をかむ。自分ではその約束を果たすことができないことに。今、リボンを持っていないからではない。自分が本物の遠野志貴ではない以上、永久に果たされることはないであろう約束。できるのはただ、沈黙を貫き通すことだけ。

 

 

「そうですね。でも、さっきまでのは秋葉様に頼まれたお仕事です。もう少し、わたしとのおしゃべりに付き合って下さいませんか?」

「それは……」

「もう志貴さんに戻ってきてほしいとは言いませんから。あと少しだけ、お付き合いください」

 

 

そんな言い訳にもなってないような言葉と共に再び自分は手を引かれ、ベンチへと戻されてしまう。力づくで振るほどくこともできたかもしれないが、流石にそこまでは気が引ける。しかし、疑問は尽きない。

 

 

「それで、一体何の話があるんだ? 遠野の家のこと以外で俺と話すことなんてないだろう?」

「そんなことありませんよ。わたし、あなたと話したいことがたくさんあったんですから」

 

 

くすくすと笑いながら、年相応の少女のように琥珀は楽しそうにしている。その姿をそのままに受け入れることができないのは何故なのか。識っているからなのか。それとも―――

 

 

「でもそうですね。時間もあまりないですし、気になったことをお聞きしてもいいですか?」

「気になったこと……?」

「はい。三日前に秋葉様としゃべられていた内容です。最後に志貴さん、仰りましたよね。自分はもう死にたくないんだって。だから遠野の家に戻りたくない、と」

「…………」

 

 

ただ口を紡ぐしかない。琥珀が何を言おうとしているのか分からない。ただその言葉の先には、きっと自分にとって望ましくないものがあることは容易に想像できる。

 

そこには先程までの少女の姿はない。ただゼンマイの巻かれた人形のように、役割を果たさんとしているモノの姿。まるでテストの答え合わせ、間違い探しの答えをするような機械的な空気がある。

 

 

「でもそれっておかしくないですか。あなたは、八年前の事故から記憶喪失になってるんですよね」

「……そうだ。でもそれのどこがおかしいって言うんだ」

 

 

ただ否定の言葉を口にする。みっともない悪あがき。もう琥珀が何を言わんとしているかを半ば理解しているにも関わらず。

 

 

「おかしいですよ。もう死にたくないってことは、遠野の家に戻ればもう一度死ぬような目に会うことを知っているみたいじゃないですか」

 

 

琥珀はただ淡々と告げる。その言葉に反論することはできない。確かに言い訳はできる。事故に会ったことを知っていたから、戻りたくなかった。矛盾はない答え。だが琥珀が言っているのは別のこと。遠野秋葉相手であれば、疑問を抱かすことなく言いくるめることができた。それは遠野秋葉があの事件の当事者だったから。だからこそ、罪悪感もあり自分が口にした言葉の違和感に気づくこともなかった。それを計算に入れて自分はあの言葉を選んだ。誤算はたった一つ。

 

 

「――――あなたは本当は、記憶喪失ではないんじゃないですか?」

 

 

あの場に、目の前の彼女がいたということ。俯瞰風景を見るように、極めて客観的な物の見方ができる琥珀だからこそ至れる答え。

 

 

「……何を言ってるんだ。俺は記憶喪失だ。そもそもそんな嘘をつく必要がないだろう」

「そうでしょうか。あなたにとってはその方が都合が良いことがあったとか」

「…………」

「でもそうですね……記憶喪失が嘘でも、あなたが本物の志貴さんではなくなってしまっているのは本当かもしれませんね。その方が、色々と辻褄が合いますし」

「そんな、馬鹿な話があるわけないだろ……!」

 

 

そう返すのが精一杯だった。笑い話だ。その馬鹿な話が、今の自分の現状なのだから。そのままずばりを言い当てられているにもかかわらず、ただ乾いた笑みしか浮かんでこない。

 

 

「あり得ないお話ではないと思いますよ? 二重人格と言うものもありますし。そもそもあなたが言っていたじゃないですか。自分は志貴ではない―――と」

「――――っ!?」

 

 

瞬間、今度こそ本当に息を飲んだ。それほどまでに今、何気なく彼女が口にした言葉は自分にとって全ての前提が壊れてしまう程の意味を持っていたのだから。

 

 

「あれ、おかしいですね。どうしてそんなに驚かれているんですか。事故の後のことですから、覚えてらっしゃると思ったんですけど。もしかして忘れちゃってます? わたし、八年前、遠野の家であなたと会ったことがあるんですよ?」

 

 

手をポンと合わせ、嬉しそうに琥珀は明かす。今まであえて触れることのなかった八年前の邂逅を。様々な理由で、知らないふりをしていた方がいいだろうと判断したもの。それを今ここで明かした理由を、彼は知らない。気づかない。

 

 

「……覚えてる。でも驚いてるのはそこじゃない。君は俺が遠野志貴じゃないってことを、本気で信じてるのか……?」

 

 

自分が今、驚いているのはその一点。八年前の邂逅は覚えていてもおかしくない。でもまさか、本当に自分が遠野志貴ではないことを信じているわけがない。今まで誰一人、信じることのなかったお伽噺。自分自身でさえ、信じることができないような悪夢。それを

 

 

「……? はい。それがどうかしたんですか?」

 

 

目の前の彼女は本当に、何でもないように受け入れていた。

 

 

「……どうかした、じゃないだろう。俺が、遠野志貴じゃないって認めてるってことだろう」

「はい」

「じゃあお前は、俺が志貴じゃないって知りながらここにいるのか!?」

「はい」

「分かってるのか!? 俺は、お前が窓から見ていた遠野志貴じゃない! 本物の遠野志貴が……もういないってことなんだぞ!?」

「はい。あ、でもわたしが窓から見ていたことは知ってたんですね。やっぱり記憶喪失じゃないんじゃないですか」

 

 

やっぱり自分が思った通りだと、彼女がそんなどうでもいいことに反応し、笑みを浮かべているのだろう。

 

それが、心底おぞましかった。気味が悪かった。だってそうだ。目の前の少女、琥珀は本当に自分が遠野志貴ではないと思っている。もはや疑いようがない。なのにそのことに対する感情が何も見えない。もしそれがバレれば自分がどうなるか、どんな反応をされるか。考えなかった日はない。

 

憎悪されるのか。哀れみを向けられるのか。嘲笑されるのか。

 

遠野秋葉にとってはどうなのか。愛した自分の兄が、見ず知らずの他人になっていたと知った時の感情。行動。泣き叫ぶのか。怒りのまま紛い物である自分を消そうとするのか。

 

翡翠にとってはどうなのか。恋した少年がいなくなってしまったことを知れば。涙を流すのだろう。ただ言葉はなくとも、自分に対して拒絶の、侮蔑の視線を向けてくるのだろう。

 

なのに琥珀にはそのどれも当てはまらない。ただ笑みを浮かべ、当然のようにそれを受け入れている。あり得ない。彼女の言うことが真実なら、八年前から彼女は自分のことを知っていたはず。彼女にとっての遠野志貴は遠野秋葉や翡翠と同じように、もしかしたらそれ以上に特別な存在だったはず。なのにどうしてそんな態度が取れるのか。喜怒哀楽の喜しかない仮面をかぶり続けることができるのか。

 

 

「君は……何を考えてるんだ?」

 

 

ただ絞り出すように、八年前に出会った時から抱いていた問いを投げかける。もはや問いではなく、今の自分の感情の吐露。

 

 

「何を考えているか……ですか?」

「そうだ。俺が遠野志貴じゃないってことを知っていながら、俺に何をさせようとしてるんだ。復讐のためか?」

「フクシュウ……?」

「そうだ。遠野家に復讐するためか? それとも遠野志貴の復讐か?」

「フクシュウ……そう、ソレです。わたし、それをするために動いてるんでした。でも本当に何でも知ってるんですね。流石にわたしもそこまで知ってるとは思ってませんでした」

 

 

本来なら知っているはずのない、知識から得た琥珀の行動理念を口にしながらも琥珀はやはり変わらない。その態度も、まるで他人事。自らの復讐のために遠野家を皆殺しするべく画策しているにも関わらず、全く感情というものが感じられない。

 

まるでそう、それ以外にやることがないから。それ以外に生き方を見つけることができない、哀れな人形。

 

 

「……人も増えてきましたね。そろそろ時間でしょうか。これ以上騒いでいるとあなたにも迷惑をかけちゃいますね」

 

 

そんな場違いな琥珀の言葉によってやっと我に帰る。どうやら思ったよりも時間が経ち、公園にも人が集まりつつあるらしい。少し落ち着きを取り戻しつつある自分を見越していたのだろう。

 

 

「志貴さん、これで本当に最後です。一つ、お願いしてもいいですか?」

「お願い……?」

 

 

琥珀はそう自分に言葉をかける。まだ心の整理がつかない。一体何を思って彼女が動いているのか。自分に何を求めているのか。

 

 

「はい。もう一度、その眼でわたしを見ていただけますか。あの時のように目を逸らさずに」

 

 

それは自分の中でも全く予想し得ないお願い。目を開き、自分を見て欲しい。三日前のように目を逸らすのではなく、真っ直ぐに。

 

本当なら断っても良かった。短い時間とはいえ魔眼を晒すことは避けなければならない。負荷と疲労からは逃れられない。しかしそれでも、この時の琥珀の願いを無為にすることはできなかった。それがどんな理由で、どんな感情からくるのかは自分にも分からぬまま。ゆっくりと両の目で彼女を捉える。

 

変わらぬ死の線と点の世界の中で、彼女は笑っていた。あの時とは比べ物にならない程成長し、着物姿をした美しい少女。

 

 

「――――志貴さん、わたし、あの時と変わってますか?」

 

 

微笑みながら少女は問う。八年前の、洋装した少女の姿が脳裏に浮かぶ。生気のない、虚ろな目をした儚げな姿。だが今は違う。目には光が、笑みには見る者を癒すような温かさがある。もし八年越しの再会なら、双子の別人だと思ってしまうほどに彼女は変わっている。だが

 

 

「――――変わってない。君は、八年前と全く変わってない」

 

 

全く間をおかず、思慮することなく。ただ単純に、心からの本音を自分は吐露した。

それはきっと彼女だけでなく、自分にも向けた言葉。

 

 

「――――そうですか。でも酷いです。八年越しに会った女の子に変わってないなんて、いくらわたしでも傷ついちゃいます。もしかして志貴さん、わたしのこと嫌いですか?」

 

 

一度目を閉じた後、まるで姉になったかのような親しみをもって琥珀は頬を膨らませている。だがそんな愛くるしい姿よりも、自分にとっては琥珀の口にした最後の言葉にはっとさせられていた。目から鱗といったところ。何故こんなことにすぐ気付かなかったのか。八年前から抱いていた、琥珀という少女に対する得も知れない感情の正体。

 

 

「そうだ。俺は、君が嫌いだ」

 

 

たった一つの、これ以上にない分かりやすい答え。

 

 

「――――あ、そうだったんですね。わたしも今、やっと気づきました。わたしもあなたのことが嫌いだったみたいです。もしかしたらわたし達、似た者同士なのかもしれませんね」

 

 

本当に先程の自分と同じように、今ようやく気づいたよう目をぱちくりさせながら琥珀も答える。そこには互いに辛辣さも、嫌味もない。あるのはやっとずっと喉に引っかかっていた物が取れたような感覚だけ。

 

 

「じゃあこれ以上あなたに嫌われない内にお暇させてもらいますね。ごめんなさい、学校サボらせちゃいました」

「いいさ。どうせ今日はサボろうと思ってたところだったし」

「あ、ダメですよ志貴さん。ちゃんと学校に行かないと都古ちゃんに言いつけますよ」

「なんでそこで都古が出てくるんだ……」

 

 

互いに長年の謎が氷解したからなのか、自分は最初に出会った時のようなノリで琥珀と接することができている。もしかしたらそうできるよう、彼女がふるまっているだけなのかもしれないが。分かるのは唯一つ。先の会話によって、自分達はもう二度と再会することはないだろうということだけ。

 

 

「それでは。さようなら、志貴さん。お話できて嬉しかったです」

 

 

出会った時と変わらない、変わったはずの笑みを見せた後、彼女は去っていく。その姿はもう見えない。自分の目はもう閉じられている。きっと目を開けていても変わらない。自分には、最後まで彼女の仮面の内を覗くことはできなかったのだから。

 

その刹那

 

 

――――志貴さん、まだ答えは見つけられなかったんですね。

 

 

そんな、どこかで聞いた言葉が聞こえた気がした――――

 

 

 

 

暗転する。場面が切り替わる。カメラが変わるように、強引に世界が変わっていく。そこには自分がいた。遠野志貴の殻を被った自分が。その意識が自分と重なる。もう何度目になるか分からない、自分が重なり、同時に削れていく感覚。

 

 

「――――ふぅ」

 

 

一体何度目になるかわからない溜息を吐く。ベッドに横になった自分に体力の疲労はない。あるのは精神的疲労だけ。それがもう、二週間近くになろうとしている。

 

 

(街を出てからもうすぐ二週間か……そろそろ終わってもいい頃だな……)

 

 

意味もなく寝返りを打ちながら、真新しいシーツの感触に身を委ねる。使い慣れていないために感じる不自由さも今は少しずつ慣れてきている。

 

ここはビジネスホテルの一室。ここがどこかなどどうでもいい。重要なのはただ、自分がいる場所が三咲町ではないということだけ。今は言うなれば逃亡中の期間。その理由も誰に話しても本気にしてもらえないようなお伽噺。

 

蛇と揶揄される吸血鬼をめぐる闘争。それに巻き込まれないために自分は今、三咲町から遥かに離れた場所にいる。八年越し計画。遠野志貴の因果から逃れるための策。魔眼と七夜の体を持っていようとも、戦うことができないという根本は変わらない。今は、武器である短刀もない。否、あったとしても変わらない。

 

体はある。武器はある。知識はある。それでも、経験がない。

 

理論だけでは現実は覆せない。理論に裏打ちされた経験がなければ、何もなし得ない。遠野志貴が戦えたのは、幼少期の訓練があったから。体が覚えていただけ。

 

だがそんな都合のいい物は自分にはない。だからこそ、今自分はここにいる。みっともなく足掻いている。

 

 

(都古の奴……きっと怒ってるんだろうな……)

 

 

ルームサービスで頼んだ料理を機械的に口に運び終えた後、手でベッドの位置を確認し腰を下ろす。今もまだ、目は閉じられたまま。ホテルを選んだのもこのため。多少高くはつくが、自分が動かずに食事やその他もろもろをお願いできるのは大きい。おかげで魔眼を晒すことなく生活をすることできている。

 

ふと思い出したのは有間の家の都古のこと。三日の旅行に行くというだけでも不機嫌だったのに、今はそれを破り二週間。きっと鬼のように怒っているのだろう。もしかしたら逆に泣いているのかもしれない。どっちにしろ心配をかけ、戻った暁には特大の頭突きが待っていることだけは間違いない。だがそれでも構わない。それはつまり、自分が望んでやまなかった日常に帰還することを意味しているのだから。

 

手がバックに触れる。自分が持ってきた、数少ない私物。バックといっても中に入っている物はたかが知れている。部屋に置いている物となんら変わらない自分の世界。変わっているのは、部屋にはあった白いリボンだけ。手にはしながらも、結局自分はそれをここには持ってこなかった。

 

あの日の邂逅があったからだろうか。

 

知らずあの時の選択を思い返す。もし、あの時自分が彼女の言う通り遠野の家に戻っていればどうなっていたのか。今よりも、何か希望があったのだろうか。

 

いや、そんな感傷に意味はない。過ぎ去ったことに意味はない。彼女が何を求めていたのか自分には分からなかった。もしかしたら、求めているものなど何もないのかもしれない。ただ人形のように、役割を果たしていただけなのかもしれない。

 

でも、そんな彼女に自分はあの時――――

 

 

「っ!?」

 

 

瞬間、頭痛が起こる。今までの魔眼の負荷による頭痛ではない。これはそう、八年前にあの広場を見た時に感じた頭痛と吐き気。これまで一度もなかったその痛みが自分を襲う。それが何なのか分からないまま、ようやく意識を取り戻した自分が耳にしたのは明らかに異常な音だった。

 

 

「何だ……?」

 

 

それはテレビからの音声だった。だがそこから聞こえてくる音が普通ではない。人々の悲鳴。何かが倒壊するような音。鳴り響くサイレン。まるでそう、パニック映画のようだ。先程までニュースをしていたはずなのに、いつのまにかチャンネルを切り替えてしまったのだろうか。

 

 

だが違う。明らかに違う。音からだけでも、それが普通ではないのが分かる。作りものではない、真に迫る何かが伝わってくる。

 

 

もはやそれは反射だった。目のことも、体のことも、全てを度外視してアイマスクをはぎ取り、魔眼を開いた。

 

 

「何だ――――これ?」

 

 

それは死都だった。テレビのブラウン管の中は異界だった。ただ赤い、赤しかない、街だったモノ。照らしているのは月明かりだけなのに、だからこそ街は血に染まっていた。

 

 

生きている者は誰ひとりいない、死の世界。直死の魔眼を持っている自分ですら、言葉を失うほどの死の都。

 

 

叫びを上げるリポーターの声も、テロップも、その全てが意味を為していない。ただ自分には分かっていた。分かってしまった。それが何であるか。

 

 

それが、二週間前までいた、自分の世界であることを――――

 

 

 

瞬間、部屋を飛び出していた。頭の中を何かが駆け巡っている。こんな状況なのに、こんな状況だからなのか、知識を照らし合わせるように自分は何かを計算している。

 

死都。死者。秘匿。無視。蛇。混沌。真祖。代行者。理解不能。

 

分からない。何故あんなことになっているのか。蛇の仕業なのか。だがあり得ない。あんなことを許すまで、代行者達が何もしないなど。今代のロアの性能は決して高くない。初代とは比べるまでもなく、先代ともその差は歴然。ここまで侵攻を許すなど。そもそもあの街にはシエルに加え、アルクェイドもいる。遠野志貴に殺されていない彼女が。十全の力を発揮できる彼女がいながらこんなことになるなんてあり得ない。じゃあ一体どうして。分からない。分からない分からナイ。ワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイ――――!!

 

 

「ハアッ……ハアッ……ハアッ…………!!」

 

 

ただがむしゃらには走る。今自分が何をしているのか、どこに向かおうとしているのか分からない。もしかしたら、逃げているのかもしれない。受け入れられない現実から。まるで八年前目覚めたあの時のように。全てに目を閉じ、耳を塞いで。本当は人形のくせに、人間の振りをするように。そんなどこか冷めた目で、どこか遠くから自分を見つめている自分が、いる。

 

 

「――――え?」

 

 

気づけば、床に倒れていた。いつからは分からないが、きっと転んでしまったのだろう。なら立たないと。立たないと、どこにも行けない。それなのに体は全く動いてはくれなかった。

 

 

「――――は、ハハ」

 

 

知らず声が漏れた。笑ってしまう。だってそうだ。今自分は何もできない。立つことも、起き上がることも。手を動かすことも、足を動かすことも。指を動かすことも、体を震わすことも。もしかしたら、もうとっくに息もしていないのかもしれない。

 

 

ようやく気づいた。目が、見えていない。瞼を閉じていないのに、何も見えない。死の線すら、見えない。体はクラゲのよう。ただあるだけで、用を為さない無用の体。

 

 

「何だ――――俺」

 

 

死んでいる、と。そんな当たり前のことにようやく気づいてつい笑ってしまう。

 

 

体が死んでいる。借り物の肉体が、壊れてしまった。糸が切れた人形のように、ゼンマイが切れたロボットのように。みっともなく、床に転がっている。それを他人事のように見ている、自分。そういえば、と思いだす。

 

 

そういえば、本物の遠野志貴も、命を分け与えられた人形だったっけ―――

 

 

これは当然の帰結。操り主が、力の源泉がなくなれば動かなくなってしまう。人形に相応しい、結末。

 

 

――――なんて、無様。

 

 

かつて誰かがよく口にした言葉を思い浮かべながら、紛い物は退場する。舞台にすら上がらない役者は必要ないと告げるように。あっさりと、呆気なく終わりは訪れた。

 

 

彼は思った。死にたくない、と。生きたい、と。

 

 

だが同時にこのまま消えれば、全てから解放される。そんな矛盾した思考。

 

 

しかし、彼は知る。そんな結末すら自分には許されないのだということを。

 

 

死に触れる。初めてのはずなのに、慣れ親しんだ感覚。その先にある、空の境界。

 

 

これが最初の螺旋。もう摩耗し切り、思い出せない程に劣化した原初の記憶。

 

 

蛇の永遠に巻き込まれながら、『 』の意志に押し流されながらただ回り続ける。

 

 

 

螺旋のように。ただ終わりがあることを願いながら――――

 

 

 


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