月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第七話 「代価」

―――いつからだろう。目を開けなくなったのは。

 

 

――――いつからだろう。耳を塞いだのは。

 

 

――――いつからだろう。言葉を発さなくなったのは。

 

 

 

まるでそう、いつか目覚めたばかりの頃のよう。全てに絶望し、死に触れることで生きることすら痛かった。

 

 

ただ痛かった。体が、心が。繰り返して行くうちに、自分が無くなっていく。削れていく。摩耗し、擦り切れて行く。何のためにここにいて、何のために生きているのか。どうして、死ぬことができないのか。

 

 

自分に、自分が殺されていく。もう、自分がどれであったのかも分からない。ただそれでも――――

 

 

 

『……イタイ、の?』

 

 

それだけは、覚えている。もう名前すら思い出せない、誰かの言葉。忘れてはいけない、大切な名前だったはずなのに。

 

 

『……わたしも、イタイの』

 

 

彼女の痛み。それと比べることはできない。でも、やっとその言葉の意味が、理解できた気がした。

 

 

『だから、自分が人形だと思うの。そうすれば、イタくなくなるから』

 

 

今なら、あの時の言葉の意味が、分かる。そうだ。そうしなければ、耐えられない。人間のままでは、耐えられない。生き延びられない。なら、人形になるしかない。

 

 

認めた瞬間、痛みが無くなって行く。消え去っていく。

 

 

体は脈打つのを止め。

 

血管は一本ずつチューブになって。

 

血液は蒸気のように消え去って。

 

心臓もなにもかも、形だけの細工に、なる。

 

人間の振りをしていた自分が、元に戻って行く。

 

意味を持たない、空の容れ物。

 

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

結局、あの時、間違えていたのは自分で、正しかったのは彼女だったのか。

 

 

理解しながらも、何故か悲しかった。彼女の言葉を認めることは、彼女との約束を破ることなのだから。

 

 

でも、構わない。彼女を――――できるなら、構わない。

 

 

さあ、始めよう。ただ糸に操られる人形の、最後の舞台を――――

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 

ゆっくりと意識が戻ってくる。もう飽きるほど繰り返した目覚めの瞬間。だが珍しく都古の声は聞こえてこない。酷い時には実力行使をしてくるのだが、どうやら今日は襲撃がある前に自分で目覚めることができたようだ。

 

 

「ふぅ……」

 

 

溜息を吐きながら、すぐに起き上がることなくそのまま顔に手を当てたまま天井を見上げる。正確には天井があるであろう場所を。アイマスクをしている自分には暗闇しか見えないのだから。そのまま体に血が巡って行くのを確かめながら、思い出す。何か夢を見ていたような気がするのに、それが何だったのか思い出せない。ここのところ、夢を見る頻度が増えている気がする。同時にあの原因不明の頭痛。どちらかと言えば頭痛の方が問題だ。あまりにひどくなれば生活に支障が出かねない。目が見えないだけでも十分すぎるにも関わらず、これ以上厄介事は御免だと辟易しながらも起き上がろうとした瞬間、

 

 

「……?」

 

 

違和感があった。手から伝わってくる感触が、自分が横になっていたはずのベッドの感触が異なる。それだけではない。部屋の空気も違う。明らかに室温も、臭いも、その全てが自分の部屋ではない。まだ自分はもしかして夢の中にいるのではと疑うもそれはドアをノックする音によってかき消される。返事をする間もなく

 

 

「失礼しますよ……あ、ようやく起きられたんですね。おはようございます、志貴さん」

 

 

そんなあり得ないはずの割烹着の少女の楽しげな声によって、ようやく自分が遠野の家に戻ってきていたことを思い出すのだった――――

 

 

 

 

「……琥珀さん、どうして俺の部屋に当然のように入ってきてるんですか」

「決まってるじゃないですか。わたし、志貴さんの付き人なんですから。主人を起こすのは召使の仕事なんですよ?」

「いつの時代の話だ。それに昨日も言っただろう。起きるのも着替えるのも自分でやるって。琥珀さんに手伝ってもらうのは移動だけで充分だ」

「はい。それは伺っていましたが、流石に遅いなあって思ったものですから。お部屋に伺うのもこれで三回目なんですよ? いくら声をかけても起きて下さらないので、てっきり寝たふりをされているのかと……」

「…………」

 

 

どこまで本気で言っているのか分からない琥珀の言動にげんなりしながらも、ようやく起き上がり辺りを見渡す。そこにはきっと、見たことのない遠野の屋敷の部屋があるのだろう。見えなくとも、座っているベッドの感触と部屋の空気がそれを物語っている。明らかに自分にとっては異質な、異物感を覚えるしかない空間だった。

 

 

(本当に……来ちまったんだな……)

 

 

ようやく実感が湧くと同時に、知らず息を飲む。遠野の屋敷という遠野志貴にとっての、いや自分にとっての鬼門にやってきてしまったのだと。絶対にやってくることはないだろうと心に決めていたにもかかわらず自分がここにいることに、自分自身が一番驚いている。もっともその原因は目の前で微笑んでいるであろう琥珀との再会なのだが。自分がここで生活できない理由を全て潰され、逃げ場がなくなってしまったこと。さらに有間の家にいれば安全とは限らない、家族に危険が及ぶ可能性もその一つ。

 

だが未だに分からない。自分はその全てを度外視しても旅行と言う脱出方法を用意していた。いくら琥珀に看破されようとそれを防ぐことはできない。なら強引にそうすれば良かった。だが自分はそうしなかった。それは

 

 

(あの時のあれは……一体何だったんだ……?)

 

 

自分をあの時襲った頭痛と、幻。形容しがたい内容と断片的な幻。意味が理解できないもの。しかし、それに後押しされるように自分は遠野の家に戻る選択をしてしまった。まるで見えない力が働いたかのように、一種の強迫観念といってもいい理解できない感覚。その証拠に今の自分は戸惑いはあれど後悔はない。何故なら――――

 

 

「……志貴さん、どうかされましたか? 体調が優れないとか?」

「っ!? い、いや……何でもない。ちょっとここが自分の部屋じゃないことに驚いてただけだ」

「そうですか。でも仕方がありませんね。まだ来られてから二日目ですし。これから慣れてこられると思いますよ」

「……そうだな」

 

 

それが良いことなのか、悪いことなのかは分からないが。きっと慣れて行くのだろう。もっともずっとこの屋敷に留まる気は毛頭ない。期間は一カ月。本当なら旅行と言う名の逃亡期間にあてるはずだった時間。それを超えれば、再び有間の家に戻ることになっている。あくまでも、この一カ月を乗り越えることができれば、の話だが。

 

 

「あ、もしかして志貴さん、ホームシックにかかってるんですか。都古ちゃんに起こしに来てもらえないのが寂しい、とか」

「そんな訳ないだろう……俺が幾つだと思ってるんだ」

 

 

くすくすと笑いながら、こちらをからかってくる割烹着の悪魔にどうしたらいいのか頭を痛めるしかない。同時に都古のことを思い出す。それだけで鳩尾が痛くなる。もうしばらくは頭突きは御免だった。駄々をこねる都古を半ば強引に振り切りながらここまでやって来たのだから。もっとも遠野には戻らないと言っておきながらのこの流れだったので、自業自得と言われればそれまでだが。だがそれでもこれで都古達、有間の人々が危険にあうことはなくなったはず。それだけで十分だった。

 

 

「ふふっ、そういうことにしておきますね。でも今度はもう一人の妹さんに苦労することになるかもしれませんね」

「もう一人……?」

「ええ。志貴さん、実はもう八時を回っているんです。秋葉様はもう学校に行かれてしまいましたよ。夕食が楽しみですね」

「……そうだな。本当に楽しみだよ、まったく……」

 

 

琥珀が何を言わんとしているかを理解し、今度はある意味都古以上に厄介な妹のことを思い出す。遠野志貴にとっての妹であり、自分にとってはそうではないが、今はそんなことは関係ない。昨日会っただけでも胃が痛かったにもかかわらず、これから毎日顔を合わせなければならないだから。加えて一カ月の滞在を許してもらう代わりに、毎朝朝食を一緒にするという約束を初日から破ってしまった。琥珀がどこか悪戯に成功した子供のように楽しそうにしているのはそれが理由なのだろう。

 

 

そう、でも結局すべては茶番でしかない。本物の遠野志貴ではない紛い物は、ただ演じるしかない。無様に、みっともなく、這いながら。彼女達を欺きながらただ自分が生き延びるために。

 

 

「では志貴さん、遅くなりましたけどそろそろ朝ごはんにしましょうか。何かお手伝いしましょうか?」

 

 

流石にからかいすぎたと思ったのか、茶目っ気を感じさせることなく琥珀がゆっくりと近づいてくる。それによって今までは意識することができなかった彼女の匂い、体温、息使いが伝わってくる。これまで感じることがなかった、女性の感覚。

 

 

「――っ!? い、いいから早く出て行ってくれ! 着替えぐらいは自分でできるって言っただろう!」

 

 

反射的に蹲りながら、ただそう抵抗するしかない。都古ならいざ知らず、自分と同年代の女性に着替えを手伝ってもらうなど拷問以外の何でもない。そもそも今の自分は、人様の前に出れる状況ではない。朝であるなら避けることができないもの。それを悟られまいと必死に誤魔化すも

 

 

「……分かりました。じゃあドアの前で待ってますね」

 

 

しばらく不思議そうに黙りこんでいた琥珀はそのまま部屋から出て行こうとする。同時に安堵しかけるも

 

 

志貴さんもやっぱり男の子なんですね、とさらっとこちらの努力を木っ端微塵、台無しにする台詞を残しながら嬉しそうに悪魔は去っていく。

 

 

「――――」

 

 

もはや言葉はない。ただ分かるのは、自分にとっての天敵は都古でも遠野秋葉でもなく、やはり彼女なのだという今更の事実だけだった――――

 

 

 

 

「――――ごちそうさまでした」

 

 

手を合わせながら、何とか朝食を終わらせる。だが思ったよりも時間がかかってしまった。やはり、慣れていない環境ではいつも通りに食事をすることは難しそうだ。見えないが、この食堂もその一つ。こんな大人数で食事ができそうな場所で一人きりでもくもくと食事をするということ自体が既に普通ではない。もっとも遠野秋葉と対面しながら二人きりで食事をするのに比べればまだマシなのかもしれないが。

 

 

「お粗末さまでした。でも驚きました。本当に見えていらっしゃらないのにこんなに早く召し上がられるんですね」

「これでも遅かった方なんだけどな。まあパンだったし。それよりもずっと琥珀さんに見られてる方がよっぽど迷惑だったよ」

「あ、気づかれてたんですか? そんなにうるさくしてたつもりはなかったんですけど」

「何となく分かる。気配を消して後ろに立つのが趣味の人でもね」

 

 

朝の仕返しとばかりに自分の食事姿をじっと見ていたであろう琥珀に釘を指す。明確に分かったわけではないが、どうやら反応からして当たりだったらしい。同時に琥珀から見て、今のでも食事時間は早く感じたようだ。目が見えない、というのがどういうことか分かっていないからだろう。見えなくなってから日が浅ければ時間はかかるかもしれないが、自分は八年以上この生活をしている。食事にせよ、歩行にせよ健常者が思うよりずっと早く、安全に行うことができるのだから。

 

 

「あはは……あ、でも驚いたと言えばここまで来る時もです。初めての場所なのに、あんなに早く歩かれるんですね。途中からわたし、ほとんどいらなかったもしれませんね」

「……そんなことはないけど、手すりがあったからな」

 

 

話題を変える意味もあったのか、琥珀は先程までの移動について振ってくる。今、自分は一階の部屋にいる。遠野志貴、正確には遠野四季の部屋は一階ではないのだが動線の関係、つまるところ食堂に行く上で階段を下りる必要があるため自分の部屋は一階ということになった。だがそれだけに留まらないのが遠野秋葉が遠野秋葉である所以。

 

 

「そうですね。でもわたしも驚きました。まさか一日で一階全てに手すりをつけてしまうなんて。秋葉様らしいと言えば秋葉様らしい豪快ぶりです。手すりだけじゃなくて、段差もなくしてるんですよ」

 

 

ばりあふりーって言うらしいですね、と感心するように琥珀は言葉を漏らしている。だが感想は自分も同じ。自分がこちらに来ると伝えたその日の内に屋敷を改装してしまうのだから。ありがたいが、同時に申し訳なさもある。たった一カ月しかいない自分のために、遠野志貴ではない自分のせいでそんなことをさせてしまっているのだから。知らず、黙りこんでしま自分に何かを感じ取ったのか

 

 

「でもちゃんとわたしにもお手伝いさせてくださいね。二日目でお役御免、失業するなんていくらなんでも酷すぎます。志貴さんの付き人にしてもらうのに、わたしが秋葉様をどれだけ説得したか分かります?」

「分からない。というか知りたくもない。だれもそんなこと頼んでないだろう……」

「うぅ……やっぱり志貴さん、わたしのこと嫌いなんですね。もしかして翡翠ちゃんの方が良かったですか?」

「そんな、ことは……」

 

 

どこから突っ込んだらいいのか分からず、言葉を詰まらせるも、同時に言葉にできない感覚を覚える。先の琥珀の言葉。それに何か、引っ掛かりを感じる。気のせいかもしれない程の、それでも素通りできない違和感。それは

 

 

「――――おはようございます。志貴さま」

 

 

新たな来客によって霧散してしまう。控えめなドアの開閉の音とともに、静かな足音をたてながら自分に向かって声の主は挨拶をしてくる。きっとその場でお辞儀をしているのだろうと分かる程、彼女の動きには淀みがなかった。

 

 

「――――ああ。おはよう、翡翠さん」

 

 

『翡翠』

 

 

それが今、自分の前にいる少女の名前。琥珀の双子の妹であり、今は秋葉の付き人である存在。それを証明するように、その声は琥珀と全く同じ。違うのは瞳の色と、しゃべり方だけ。明るさを感じさせる琥珀と対照的に、彼女のしゃべり方はどこか機械的だ。感情を表に出さないようにしていると言った方が正しいのかもしれない。その理由も自分は識っているが、わざわざ口に出すことはない。

 

きっと姿も琥珀と瓜二つなのだろう。違うのは服装だろうか。メイド服という割烹着に負けず劣らずの時代錯誤の恰好をしているはずだが見えない自分には分からない。だがそうなのだろう、と信じてしまうような雰囲気が彼女にはあった。

 

 

「…………」

 

 

だが挨拶を返したにもかかわらず、翡翠からはどこか不機嫌な気配が漂っている。ほんのわずかなものだが、確かにそんな雰囲気がある。その理由を考えるも

 

 

「おはよう翡翠ちゃん。秋葉様はちゃんとお送りした?」

「はい。姉さんはやっと志貴さまをお連れしたんですね。秋葉様がお怒りになられていました」

「そ、それはわたしのせいじゃありません。ね、そうですよね志貴さん?」

「さあ、どうだろうな。それよりも翡翠さん、何かあったのか。機嫌が悪そうだけど……」

 

 

あえて琥珀を無視しながら翡翠に問いかける。まだ会って二日目のはずだが、何か気に障ることをしたのだろうか。それとも、もう自分が本物の志貴ではないと見抜かれたのか。知らず緊張で息を飲むも

 

 

「くすくす……志貴さん、翡翠ちゃんはですね、志貴さんにさん付けで呼ばれるのが嫌なんですよ。ね、翡翠ちゃん?」

「……姉さん、それは」

 

 

琥珀に看破されたからなのか、翡翠はそのまま黙りこんでしまう。そういえば、と思い出す。琥珀と違って、翡翠はその服装通り、付き人であることに固執している節がある。だから呼び捨てではなく、さん付けで呼ばれることに納得していないのだろう。

 

 

「そうか……でも悪いな。琥珀さんにだけさん付けで、翡翠さんだけ呼び捨てにするのも変だし。君は秋葉の付き人なんだから気にすることないさ」

 

 

苦しいかと思いながらもそう言い訳する。呼び捨てにすることはやはり抵抗がある。何よりも翡翠を呼び捨てにするならきっと琥珀も呼び捨てにしないといけなくなる。間違いない。もはや想像する必要すらない。何となくそれは嫌だった。理由はないが、子供の意地のようなもの。

 

 

「―――分かりました。志貴さまがそう仰られるなら従います」

 

 

だが全く納得していないのが丸わかりな返事を翡翠は口にする。思わず一歩引いてしまいそうなほど。もしかしたら、思っていた以上にこの少女は感情が読み取りやすいのかもしれない。

 

 

「ふふっ、残念でしたね翡翠ちゃん。志貴さんは頑固なところがありますから。さあ、そろそろ参りましょうか志貴さん。早くしないと学校に遅れてしまいますよ?」

 

 

自分と翡翠のやりとりが面白かったのか、名残惜しそうにしながらも琥珀はそのまま自分の手を取ろうとするも、呆気にとられるしかない。何故なら

 

 

「――――何言ってるんだ? 俺、学校になんて行く気はないぞ」

 

 

自分はこれっぽっちも学校に行く気など無いのだから。

 

 

「――――え?」

 

 

それは琥珀だけではなく、翡翠の声も重なっていた。きっと二人とも目をぱちくりさせながら顔を見合わせているのだろうと分かる程、二人は言葉を失っていた。だが驚いているのは自分も同じ。もしかしたら二人よりも自分の方が驚いているかもしれない。

 

 

「え? 何でそんなに驚いてるんだ? 俺、言っただろう。学校は一カ月休学するようになってるって」

「そ、そんなこと一言も聞いてません! 今初めて聞きました! ね、翡翠ちゃん?」

「はい。わたしも初めてお聞きしました」

「そ、そうだったっけ……? おかしいな、確かに言った気がするんだが……」

 

 

慌てた琥珀と対照的に冷静さを見せている、装っている翡翠の言葉によってどうやら自分が本当にそれを伝えていなかったのだと知るも未だに腑に落ちない。確かに伝えた筈なのだが、誰かと間違えたのだろうか。とにもかくにも

 

 

「まあ、いいさ。琥珀さんも言ってただろ。元々俺、一カ月ほど旅行する予定でさ。それで学校も休学する手はずになってたんだ」

 

 

それが自分が学校に行かない表向きの理由。旅行をする間に学校を休学する計画。それは遠野家に戻るならば、余計に実行しなければならない策だった。

 

 

「それは確かに言いましたけど……でも休学することはないんじゃないですか? せっかくちゃんとここから学校までの送り迎えができるように計画してたのに全部台無しじゃないですか!」

「……どんな計画だったのかはあえて聞かないけど、残念だったな。もう休学届は出しているから無駄だぞ」

「そんな……ひどいです……」

 

 

本当に落ち込んでいるのか、琥珀はそのまま黙りこんでしまう。どうやら本当に学校までの送り迎えをする気だったららしい。きっと彼女のことだ。実際に何度も往復し、シュミレートしたのだろう。その全てが無となり、割烹着の悪魔は初めて自分に敗北したショックから立ち直れていない。もっとも、知ったことではないのだが。想像するだにぞっとする。校門で着物姿の少女が自分を待っている光景。あまつさえその少女に付き添われながら帰宅する。あり得ない。違う意味で学校に通えなくなりそうだ。

 

 

「志貴さま、本当に宜しいのですか。学業に支障が出てしまわれるのでは……」

「……? ああ、そのことなら心配ない。もうこの先一カ月分の勉強は済ませてるんだ。元々そうする気だったし」

 

 

琥珀とは違い、本当に自分の身を案じてくれる翡翠に感謝しながらもっともらしい答えを告げる。しかし、学校に行きたくないのは大きく二つの理由があったから。

 

一つが学校に行けば、恐らくある人物と出会うことになってしまうから。学校は違えど、何らかの形で彼女は自分と接触しようとしてくるはず。こちらとしてはご遠慮願いたいもの。疾しいことがあるわけではないが、巻き込まれれば厄介なことになる。自分が持っている知識など、力になれることもあるかもしれないがそもそも自分の持っている知識が全て正しいとは限らない。逆にそのせいで余計な結果を招いてしまうこともあり得る。何よりもそのせいで、自分が疑われては元も子もない。

 

 

しかし、これは大した危険はない。確かに厄介ではあるが、彼女であれば自分は直接危険にあることはないだろう。故に一番の理由はもう一つの方。それは――――

 

 

「……志貴さん、そのことは秋葉様も知らないんですよね?」

 

 

そんな思考を断ち切るように先程までその場に伏していたはずの琥珀が割って入ってくる。知らず、気圧される。嫌な予感が、する。何かよくないことを企んでいる狸が目の前にいる。

 

 

「あ、ああ……それがどうかしたのか?」

「いえいえ、大したことではありません。ただ、もし秋葉様がこのことを知ったらどうされるかな、と思っただけです」

「…………それは」

「これはただの想像なんですが。そうですね、きっと秋葉様は志貴さんに家庭教師をつけるかもしれません、いえ、もしかしたらその間、秋葉様がご自分で志貴さんに勉強を教えてくださるかもしれませんね」

「――――」

 

 

瞬間、言葉を失う。琥珀の言葉に驚いたからではない。その内容が、あまりにも現実味を帯びている予言だったからこそ。いや、間違いなくそうなるであろう未来。それを変えるためには

 

 

「――――何が、望みだ?」

 

 

目の前の割烹着の狸を、口止めしなければならないということ。

 

 

「え? 何を仰ってるんですか。それじゃあまるでわたしが志貴さんを脅しているみたいじゃないですか」

「まるで、じゃなくてまさに、だろう。いいからさっさとしろ。俺に何をさせたいんだ」

「いえいえ、簡単なことです。明日から、志貴さんにわたしの買い物に付き合ってほしいんです」

 

 

デートですね、なんてどこか楽しげな様子を見せている琥珀に怪訝な視線を向けるしかない。本当にどこまでが演技で、どこからが本音なのか。未だに掴めない。もしかしたら、彼女自身、どちらがどちらなのか分かっていないのかもしれないが。

 

 

「買い物……? 何でそんなこと……」

「志貴さんが来られたことで、ちょっと色々と買い物をしないといけないんです。ですからそれにお付き合いしてほしいな、と。ちょうどよかったです。学校があれば、中々お誘いできなかったかもしれませんから。どうでしょうか? 代価としては釣り合いが取れていると思うんですけど」

 

 

手を会わせながら、琥珀は笑みを浮かべながらお願いと言う名の脅迫をする。答えなど、考えるまでもない。

 

 

「……分かった、その代わり」

「はい。休学のことは秋葉様にも内緒です。良かったですね、志貴さん?」

 

 

ここに契約は完了した。ただどうしてももう一つ、こちらにも条件があった。それは

 

 

「ただ、一つ条件がある」

「条件、ですか?」

「ああ。もし、外で金髪の外国人、女性を見たら教えてほしい。できるだけ、静かに」

「金髪の女性、ですか……? 知り合いの方ですか?」

「いや……以前、道でぶつかって怒らせちゃったことがある人なんだ。だから、会わないようにしたくて……」

「はあ……ちゃんと謝った方が良いと思いますけど、志貴さんがそう仰るなら」

 

 

事情が理解できない琥珀は首をかしげているものの、了承してくれる。これが自分が学校に行きたくない、正確には外出をしたくない二つ目の理由。だが誰にも話すことができるはずもない。

 

 

もし出会えば、その女性を殺してしまうかもしれないから、と。

 

 

いや、そうではない。もし出会って殺人衝動が起きれば、殺すよりも先に自分が十八に分割されてしまうから、の方が正しいだろう。何にせよ、彼女と接触することは絶対に避けなければならないことには変わらない。

 

 

「――――姉さん、あまり志貴さまを困らせるようなことは」

 

 

そこで今まで自分と琥珀のやり取りを黙って見ていた翡翠が口を開く。流石にこれ以上は付き人としてどうなのか、という常識人である彼女の援護射撃。もしかしたらこの屋敷の中で、一番の味方は翡翠かもしれない。そんな風に思うも

 

 

「じゃあ今度は翡翠ちゃんの番ですね。さっきのことを黙っている代わりに、志貴さんが一つ、お願いを聞いてくださるみたいですよ?」

 

 

まるでそれすらも計算していたように琥珀はその場を後にしながら翡翠に囁き、そのまま食器を慣れた手つきで厨房へと運んでいく。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

後には自分と翡翠が残された。ただ互いに無言で向かい合う。見えないが、きっと無表情で自分を見つめているのは間違いない。ただ居心地が悪いのは自分だけ。何かを口にしなければ、と思うもののその先が出てこない。

 

 

何故なら今の自分は、彼女達の主人でありながら、弱みを握られている存在なのだから。

 

 

当主がいない遠野家での、自分の初めての朝はそこで終わりを告げる。

 

 

ただその少し後から、自分は翡翠のことを呼び捨てにするようになったのだった――――

 

 

 


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