月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第八話 「刻限」

「…………ふぅ」

 

 

ようやく一人になれたことに安堵し、そのまま無造作にベッドへと倒れ込む。日差し匂いがする真新しいベッド。なのに今は古いかつての自分のベッドが恋しいのは贅沢なのだろうか。

 

 

(これからこれが、ずっと続くのか……)

 

 

顔に手を当てながら溜息を吐くしかない。今は昼食が終わり、ようやく部屋へと戻ってきたところ。既に自分を送ってくれた琥珀の姿はない。正確には追い出したところ。まだ自分が戻ってきてから日が浅いからなのか、それとも基本的に献身的なところがあるのか。琥珀は事あるごとに自分の世話を焼いてくれる。付き人だから、と言われればそれまでだが流石に度が過ぎているような気がする。自分が識っている琥珀も遠野志貴には世話を焼いていたがここまでではなかった。もしかしたら、本物の志貴よりも自分の反応が彼女にとっては面白いからなのかもしれない。

 

 

(琥珀さんは置いておいて……後の二人は、まあ……仕方ない、か)

 

 

自分の付き人である琥珀と接触する機会が多くなるのはもはや避けようがない。事実、彼女の助けがなければいかに手すりや段差がないとはいえ、生活することはできないのだから。故に後は残る二人。遠野秋葉と翡翠。今のところは特に問題はない。彼女達には自分は最低限の接触しかしない、と決めてある。不用意に接触すれば、自分のことを悟られてしまうかもしれない。何よりも自分自身が彼女達とは関わりたくないと思っている。

 

もう一度、新しい関係を作る。

 

それは、あの時公園で琥珀が自分に告げた言葉。例え記憶が戻らなくても、新しく関係を作ってくれればいいと。だがそれはできない。そこまで自分は開き直ることはできない。そもそも自分は記憶喪失でもなければ、遠野志貴でもない。

 

そう、遠野志貴という殻を被っている限り、自分が彼女達と本当の意味で触れあうことができる日など永遠に訪れることはないのだから。

 

そのまま、何をするでもなく時間の流れに身を委ねる。カチカチと、聞き慣れない時計の針が刻む音が部屋に響いて行く。一定の感覚で、変わることのない繰り返し。

 

視界は変わらなくとも、新しい環境で生活することはやはり思った以上にストレスらしい。眠気と、倦怠感が身体をゆっくりと蝕んでいく。今思えば、そういう意味では休学したのは失敗だったかもしれない。学校に行けば、確実に半日以上この屋敷に留まることなく済むのだから。

 

ふと、気づく。もう思い出すことすら難しい、八年前の記憶。初めて、この屋敷を見た時は子供だったからなのか屋敷がとても大きく見えた。同時に、逃れることができない大きな監獄のように。そこから逃れることが、その時の自分にはできなかった。だが今の自分にはそれができる。囚われる以外の選択肢が、ある。

 

 

――――逃げ出せばいい。

 

 

誰かがそう囁く。それは正しい。遠野志貴の体であったとしても、直死の魔眼を持っていようと、特別に生きる必要はない。逃げ出すことを、誰が責めることができる。そんな権利は、きっと誰にもない。自分以外にそんなことを言える者などいない。

 

なのに、自分はここにいる。自分で選んでここにいる。そのはずなのに、どうしてこんなに不安なのか。怖いのか。何が怖いのか。決まってる。死ぬことが怖い。それ以上の理由が、あるわけ、ない。なのに。どうし、て――――

 

深淵に堕ちていく最中、そういえばと思い出す。

 

 

そういえば、遠野志貴は夢を見ないはず。なら、自分が見ている物は何なのか、と――――

 

 

 

 

――――ユメを見る。

 

ここではない、誰かのユメを。

 

全てから逃げ出した自分。その結末を。

 

全てが血に染まった朱のセカイ。

 

それを画面から見ながら、みっともなく倒れ伏している、人形。

 

ここでユメが終わる。終わってくれれば、まだ自分には救いがあったのに、なのに。

 

――――なんて、無様。

 

 

 

 

「――――っ!?」

 

 

瞬間、覚醒する。もはや反射だった。何も考える間もなく、体が動く、跳ね起きる。秒にも満たない間に、無数の思考が巡って行く。その全てを振り切りながら、ただ手で口を押さ耐える。しかし、無駄なことだった。

 

 

「うっ……!! うあ……あぁ……!!」

 

 

蹲り、ただ息を吐くように全てを吐きだす。胃にある全てを吐きだしながらもまだ足りないと。止まることのない嘔吐感。内蔵すらも必要ない、と言わんばかりにただ全てを吐き出す。呼吸もできない。する必要もない。今はただ、吐き出したかった。

 

目からは涙が、鼻からは鼻水が、口からは唾液が。その全てで顔はぐちゃぐちゃだった。まるでイヌのよう。できるのはただえづきながら、この嘔吐感がなくなる時を待つことだけだった――――

 

 

「ハアッ……!! ハアッ……!!」

 

 

肩で息をし、口と胸を手で押さえながらようやく呼吸する。一体どれだけの時間、そうしていたのか分からない。ただ分かるのは、自分が生きているということだけ。だがそれが何よりも嬉しかった。苦しみよりも、ただそのことが愛おしい。何故なら自分はさっき――――

 

 

「―――っ!!」

 

 

呼吸することも忘れ、手を伸ばす。そこには自分の視界を守るマスクがある。本当なら外してはいけない戒めを何のためらいもなく破る。まるで邪魔な物を投げ捨てるように。そう、邪魔だった。コレがあれば目を開くことができない。世界を、知ることができない。何よりも今は、目を開けなければ――――

 

 

魔眼によって世界を視る。死の線に満ちた変わらない世界。この世の真実。本当なら、それを直死することは避けなければならない。だが今は、そんなことはどうでもよかった。それすらどうでもよくなるほどの、あり得ない光景がそこにはあったのだから。

 

 

(ここは……俺の、部屋……?)

 

 

そこは自分の部屋だった。殺風景な、まるで引っ越して来たばかりのような部屋。間違いなく、八年間自分が慣れ親しんできた自室。何も驚くことはない、当たり前の風景。なのにそれが今は何よりも異常だった。何故なら

 

 

(何で……? 俺は、確か……ホテルの部屋に……)

 

 

自分はホテルの部屋にいたはず。三咲町から離れたビジネスホテルの一室に。間違いない。覚えている。なのにどうしてこんなところにいるのか。もしかしてまだ、夢を見ているのだろうか。

 

いや、夢ではない。嘔吐感も、苦しみも、呼吸をする感覚もある。痛みは、ある。夢ではあり得ない。今、間違いなく自分はここにいる。

 

だって覚えている。そうだ。覚えてる。その感覚を。手足が動かなくなり、呼吸もできなくなり、目も見えなくなる、死の感覚を。だからこそ、今自分が生きていることが分かる。

 

だがその瞬間、ようやく気づく。思い出す。真っ先に気づかなければならないのに、気づかないふりをしていた、現実を。

 

 

――――そうだ。俺は、あの時、確かに

 

 

死んだはず。そんなあり得ない、当然の現実を目の当たりにしたと同時に

 

 

「おはよう、お兄ちゃん朝だよ! 今日こそすぐに起きてもらうんだから!」

 

 

そんな場違いな騒がしい声が思考をクリアにする。ドンという解放音とともにドアを開けながら元気よく少女がやってくる。いつも変わらない、騒がしさ。見ているだけでこちらまで元気を分けてもらえるような、そんな少女。聞き慣れた感覚。

 

 

「…………都、古?」

 

 

有間都古。自分にとっての家族であり、妹。その姿も声も覚えている。間違いなく、彼女は都古だ。なのにそのことが信じられない。どうして都古がここにいるのか。いや、違う。どうして自分がここにいるのか。

 

 

「……お兄ちゃん?」

 

 

呆然と自分が見つめていたからなのか、それとも珍しく自分が起こすよりも早く目覚めていたからなのか。都古は狐につままれたように目をぱちくりさせながらこちらを見つめている。そんな都古を前にして自分も固まったまま。何を口にすればいいのか分からない。だが

 

 

「……っ!? どうしたの、お兄ちゃん! 具合が悪いの!?」

 

 

目を見開き、驚愕しながら都古は悲鳴のような声を上げる。そこでようやく自分の姿に気づく。衣服は乱れ、ベッドには嘔吐物。加えて顔は涙や唾液でぐちゃぐちゃ。とても普通ではない。加えて自分は元々貧血と頭痛、眩暈持ちでもある。都古もそれを誰よりも知っているからこそすぐさま自分の身を案じ、駆け寄ってくる。

 

どこか他人事のようにそんな都古の姿を視界に収める。久しぶりに見た、妹の姿。日々成長している。変わらないのは、その死の線と点、だ、け――――

 

 

「――――触るなっ!!」

「きゃっ!?」

 

 

電光石火のような速さと激しさ。間一髪のところで目を閉じ、そのまま力任せに自分に触れようとした都古を突き飛ばす。そこに容赦も遠慮もない。ただ無造作に男性の力を振るわれた都古は悲鳴とともに床に転んでしまう。しかし今の自分にあるのは安堵感だけだった。

 

 

(あ、危なかった……!! もし、あのまま気づくのが遅かったら……!!)

 

 

背筋が凍る。息が止まる。今の自分は、目を開けている。そのことに気づくのが一瞬遅れた。もしあのまま都古が自分に触れてくればどうなるか。いや、自分が都古に触れてしまえばどうなるか。死の線と点。それに触れてしまえば、人間はひとたまりもない。例外なく線によって体が崩れ、点によって体は死滅する。それが自分が目を閉じているもう一つの理由。自分が死ぬことでなく、触れた相手を壊してしまうこと。目を閉じなければ自分は他人と触れあうことすらできない。長く目を閉じていたせいで、そんな当たり前のことを忘れかけてしまっていた。

 

 

「……っ! み、都古!? だ、大丈夫か……!?」

 

 

一瞬の思考停止の後、目をしっかりと閉じながら都古へと手を伸ばす。だがその手が届いているのかすら分からない。あるのは罪悪感だけ。自分の身を案じた都古を力づくで払ってしまったのだから。

 

 

「ご、ごめんなさい……お兄ちゃん……あたし……」

 

 

きっと何が起こったのか分かっていないのだろう。都古は怯えた様子で、涙声で震えている。涙を流し、悲しんでいる。見えなくても、見えないからこそ、それが分かる。まるで自分が悪いことをして怒られてしまったように都古はその場に座りこんでしまっている。

 

 

「……違う、悪いのは俺だ。今朝は、体の調子が悪いんだ。それで、八つ当たりしちまった……ごめんな、都古」

 

 

できるだけ優しく、呼吸を整えながら都古に話しかける。吐き気も、頭痛も、理解できない現状も今はどうでもいい。ただ今は目の前の妹を泣かせたくなかった。

 

 

「ほんと……? もう、怒ってない……?」

「ああ。ほんとだ。だからちょっと、おばさんを呼んできてくれないか……? ベッド、汚しちゃったから」

「……うん。呼んでくる。お兄ちゃんは動かないで待っててね!」

 

 

涙をぬぐいながら、それでも自分を案じる言葉を残し都古は走りながら去っていく。そのことに心を痛めながらも、同時に安堵する。

 

 

後には自分だけが残される。今はただ、ここに戻ってこれたことを感謝することしかできなかった――――

 

 

 

 

――――それからは、何もなかった。吐き気も、頭痛も。見るはずのない夢も。

 

 

変わらない日常。都古に起こされ、学校に行き、家に戻り、眠りに就く。そんな当たり前の、だからこそ尊い日々。まるで、あの日が嘘だったかのように。いつも通り。

 

あるのは既視感だけ。どこかで見たような、体験したような、そんな錯覚。

 

だがそんな全てを自分は無視した。気づかない、振りをした。

 

日付が戻っていることも、教師の授業が同じことも、食事の内容が同じことも。

 

そうだ。偶然に決まっている。だってそうだ。こんなこと、あるわけない。

 

知識としては識っている。未来視と呼ばれる能力があることを。でもおかしい。遠野志貴が持っているのは直死の魔眼。未来視の眼など、持ってはいない。

 

いや、そうだとしてもおかしい。それは未来を視るもの。なら、視ることができるだけ。

 

だが自分は覚えている。あの感覚を。鼓動がなくなるのを。息ができなくなるあの苦しみを。みっともなく、糸が切れた人形のように倒れ伏している自分の姿を――――

 

 

「っ!?」

 

 

まるであの時のように飛び起きる。違うのは、吐き気も頭痛もないことだけ。すぐさま感触を確かめる。間違いない、ここは自分の部屋。ホテルの部屋ではない。当たり前だ。自分はホテルになんて行っていないんだから。たまたま、そういう夢を見ただけ。

 

 

(俺も、よっぽどだな……起きるたびに怯えてるなんて……)

 

 

自分の浅はかさに笑ってしまう。一体何を怖がっているというのか。ただの夢に。これでは、都古のことを笑えない。そうだ。きっとこれから自分が逃亡することに不安を感じているに違いない。だから、あんな夢まで見たのだろう。

 

だから、心配することはない。用意はしてきた。時期は来た。後は、上手く一カ月やり過ごせば自分は――――

 

 

瞬間、コンコンとドアをノックする音が響く。都古ではない。都古であればノックすることなく部屋へと入ってくるはず。いくら言い聞かせても変わらない癖。ならばもはや答えは一つしかない。

 

 

「……志貴、ちょっといいかしら」

「おばさん……? 何か用ですか?」

 

 

すぐさま起き上がり、そのままドアを開ける。見えないが、そこには都古の母である啓子がいた。だが要領を得ない。夕食してはまだ時間は早いはず。買い物などは自分ではなく、都古に頼むはず。一体何の用で。加えてどこか啓子の様子はおかしい。その声はいつもとは明らかに違う。どこか言いようのない感情を含んだ物。例えるなら自分に対する後ろめたさ、申し訳なさ、そんなものが滲んでいる。

 

 

同時に得も知れない感覚に囚われる。知っている。自分はこの感覚を知っている。この、展開を、自分は、知って、いる。

 

 

「志貴、突然だけれど、お客様がお見えになっているわ……」

 

 

その言葉によって、間違いないのだと悟る。突きつけられる。喉元にナイフを突きつけられるように、息ができない。

 

 

「――――お邪魔しています。お久しぶりです、兄さん」

 

 

聞いたことがないはずの、聞き慣れた声が自分に向けられる。もはや眼を開く必要もない。それほどまでに印象的な、彼女の在り方を形にしたような凛とした音色。

 

 

「――――」

 

 

だがその全てが、自分の耳には届いてはいなかった。あるのは相反する、矛盾する感情だけ。あり得ないと驚愕する自分と、当然だと悟っている自分。

 

 

「――――兄さん、その眼、は」

 

 

その全てが混ざり合い、なくなっていく。同時に恐怖が生まれてくる。逃れる事ができない死の恐怖が。あの感覚が。

 

 

――――逃げられない。

 

 

誰かが囁く。お前は逃げられない。何度でも、何度でも追ってくる。運命からは、逃げられない。

 

 

幻視する。生きている者が誰もいない、死の世界。血のように赤いセカイ。それは決まっていることなのだと。

 

 

「…………兄さん?」

 

 

誰かが自分を呼んでいる。自分ではない、自分を呼んでいる。遠野志貴という、死の呪いを。まるでこれから先も同じだと宣告するように。

 

 

「…………帰ってくれ」

「……え?」

 

 

知らず言葉が出た。何も考えていない、心からの本音。人を気遣うことのない、拒絶の言葉。今はそれすらも煩わしい。おぞましい。

 

 

「――――いいから帰ってくれ、俺は帰る気はない!! 出て行ってくれ!!」

 

 

ただ感情に任せ、拒絶する。振り払う。全てを知っていながら。目の前の少女がどんな想いでここにきたのか知っているにもかかわらず。

 

ただ違う。振り払おうとしているのは彼女ではない。この出会いから始まるであろう、この先の未来を否定するために。それを認めたくない一心で。

 

息を飲む声が聞こえる。彼女だけではない。都古も、啓子も、見たことのないほど激情している自分の姿に言葉を失っている。唯一の例外は一人だけ。

 

 

「志貴様……それは」

「俺は、遠野志貴じゃない!! これ以上巻き込まないでくれ……俺は人形じゃない! 俺は、俺なんだ……!!」

 

 

ただ、子供のように叫ぶ。今まで抑えていた何かが決壊する。八年間、抑え込んでいた物が溢れだす。誰にも理解してもらえない、理解することができない痛み。もうそれに触れないでくれと。自分を解放してくれと。

 

 

「俺はもう、死にたくないんだ――――!!」

 

 

それが全て。こんな体にされて、全てを奪われて。名前も、記憶もない。自分が誰かも分からない。そんな自分が望んだたった一つ望み。生きること。それすらも奪わないでくれと。奇しくも、前にも口にしたことがある拒絶の言葉。だがその意味は全く違う。

 

知識から得た言葉ではなく、自分自身の言葉。

 

 

それだけで十分だった。遠野秋葉はそのまま去り、琥珀もまたそれから自分の前に姿を現すことはなかった。

 

後はまたいつも変わらぬ日々。知らない日々。学校を休学し、有間の家で生活する日常。外に出ることなく、ただ嵐が去ることを願うだけ。

 

自らの方舟であるビジネスホテルへの脱出を行うことはなかった。否、行うことはできなかった。きっと、心のどこかで分かっていたから。そこへ行けば、同じ結末が待っていると。

 

しかし、それはただの逃避でしかない。あの時と違う行動をしても、周りが、世界が変わるわけではない。

 

なら、至る結末は同じであるということ。

 

 

 

 

――――それは死都だった。ただ赤い、赤しかない、街だったモノ。照らしているのは月明かりだけなのに、だからこそ街は血に染まっていた。

 

生きている者は誰ひとりいない、死の世界。直死の魔眼を持っている自分ですら、言葉を失うほどの死の都。

 

どこかで見た、光景。あの時と違うのは、自分が傍観者ではなく、当事者であったことだけ。

 

 

「何、で………」

 

 

ぽつりと、そう漏らすも誰も答えることはない。何でこんなことになっているのか。何で自分はここにいるのか。何で自分はこれを知っているのか。

 

 

だが誰も応えてはくれない。生きている者は誰もいない。街からは火が上がり、建物は崩れ落ち、黒煙が覆い尽くしている。まるで終焉に向かう砂時計のよう。静かに、それでも確実に世界は終わりへと向かっている。

 

 

それでも、自分は何かを探している。ふらふらと、みっともなく。魔眼を晒しながら。だって眼を閉じていては探せない。目を閉じていても仕方ない。どうせ――のだから関係ない。夢遊病者のように、それでも必死に何かを探している。そんな自分を遠くから見ているもう一人の自分が、いる。

 

 

「ほう……驚きだ。もしやとは思ったが、本当にその躯か」

 

 

誰かが自分に声をかけてくる。この地獄で、それでもその存在感は異常だった。

 

 

そもそもそれは生きてすらいなかった。人間ではない、存在。その名の通り、死に従う者。

 

 

「確かに八年前に殺したはずだが……まさか、な」

 

 

アカシャの蛇。ミハイル・ロア・バルダムヨォン。この地獄の創始者にして支配者。だがそれを前にしても何も感情は浮かばない。もう、そんな物は残っていない。そんな物は既に、摩耗してしまっている。

 

だからあるのは単なる疑問。ロアの姿。それが、違っていた。自分は識っている。会ったことはなくとも、ロアの姿を。その二つの可能性。しかし、そのどれとも似つかない。

 

髪を束ね、眼鏡をかけている。どこか理知さを感じさせる容姿。法衣のような物を纏った在り方。まるで神官のような厳かさと同時に人間味を感じさせない冷たさ。

 

 

「―――――」

「ふむ、姫君と抜け殻のことを知っているのか。何故君がそんなことを知っているのかは知らぬが、まあいい。抜け殻なら……そうだな、今頃どこかで死に続けているのだろう」

 

 

どうやら自分が何かを蛇に問うたらしい。蛇は何かを思案しながらも律義にこちらの問いに応えてくる。そこには感情は見えない。まるで何かを計算する研究者のように。根源を目指す魔術師(オロカモノ)のように。

 

 

「――――姫君ならばここにいる。ようやく私は、『永遠』を手に入れたのだ」

 

 

蛇は嗤う。永遠を求めた偽物がセセラワラウ。蛇はようやく脱皮を終える。十七回も繰り返しながら、ようやく到達した。

 

 

だが気づかない。蛇は気づけない。それが己が求めた永遠ではないことを。永遠を手に入れることが、自分の本当の望みではないことを。それが、虚構であることを。彼は知らない。目的と手段。卵と鶏。果たしてそのどちらが先だったのか。

 

 

だがその全てがどうでもよかった。そこで、ようやく、見つける。見つけてしまった。探して、探していたものを。きっとそうなっているんだろうと、分かっていたのに。なのに――――

 

 

――――ただ涙を流す。

 

 

この時の自分はまだ、そんな物を流すことができたらしい。そんなことができるほど、まだ―――だったのか。

 

 

『オニイ――――チャン』

 

 

そんな都古であった物の声。もう声なんて、あげることができない有様なのに。

 

 

それが悲しかった。憎かった。ただ怒りが全てを支配する。この頃はまだ、そんな熱が自分には残っていた。

 

 

「ああああああああああああ――――――!!」

 

 

咆哮し、駆ける。死への恐怖も、絶望もなかった。あるのは怒りだけ。目の前の蛇への。何よりも何もできない自分への。

 

あるのはこの眼だけ。その全ての力を以って蛇の死を視る。確かな線と点。ウロボロスを断ち切るためにただ走る。手には何もない。自分は遠野志貴ではない。だから、ソレは手にしていない。手に入れることができなかった。だが充分だ。この手だけでいい。この手で、指で点を突けば全てが終わる。

 

身体が熱い。眼が熱い。七夜の身体が、血が、目の前の人でない者を殺せと命令してくる。だが関係はない。ただ自分の意志で、こいつを――――

 

 

「――――醜いな」

 

 

侮蔑の言葉と共に、何かが宙を舞う。まるで壊れた人形の手のように。痛みもない。血も流れない。当然だ。そんなもの、自分には残っていない。

 

死の線ではなく、生の線を切られた。いつ切られたのか、それとももう既に切られていたのか。右肘から先が、ない。

 

そこに驚きはない。当たり前だ。例え遠野志貴の身体を持っていようとも、直死の魔眼を持っていようとも使いこなせければ意味はない。故にこれはただの自殺。殺されながらも、自ら望んだ死。それでもまだあきらめはない。右腕がなければ左腕で、腕がなければ両の足で。ただ蛇の胸に視える点を突くことができれば――――

 

 

「――――ようやく気づいたかね。もう、君は死んでいる」

 

 

言われて気づいた。左手を伸ばしているのに、それ以上動かない。まるで糸が切れてしまった人形のよう。もう見ることもできないが、点を突かれてしまったらしい。死の点ではない、紛い物の点。相反する、決して交わらないもう一つの魔眼。偽物の直死の魔眼。だがそれで十分だった。自分には、その偽物の眼にすら、敵わない。本物の眼を持っていても、敵わない。

 

 

「これは……」

 

 

蛇が何かを言っている。だがどうでもいい。あと少し、あと少しで指が届くのに、足りない。ほんの少し、この手に何かがあれば、届くかもしれないのに。ナイフが、あれば。あれが、あれば、もしかしたら――――

 

 

「――――なるほど、さしずめお前はワタシの息子と言ったところか」

 

 

でも、ない。自分は持っていない。持とうとは、しなかった。だって仕方ない。もし持っていても、自分では、使いこなせない。

 

 

知識はある。身体はある。武器はある。だが経験が、ない。

 

 

ならどうすればいい。決まってる。考えるまでもない。自分にはそれが、できる。でも、できない。それは、それだけはできない。そんなことをすれば、『自分』が死んでしまう―――

 

 

「感謝する。君は私が永遠に辿り着いた証でもある。またいずれ、再会する日を楽しみしているよ。もっとも、その時にはもう君はいないだろうがね」

 

 

理解できない言葉と共に死の海に沈んでいく。もう何度目になるか分からない。それでも決して慣れることはない、死の感覚。

 

 

だが同じではない。確かに進んでいる。この道は円ではなく、螺旋。少しずつではあるが進んでいる。その先が希望が絶望かは分からない。ただ分かること。その先に、自分が求めた答えが、ある。

 

 

刻限は迫ってくる。針の秒針が進むように、砂時計の砂が落ちるように。

 

 

目覚めの刻は、もう目の前に――――

 

 

 


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