新エリー都、都市部から少し離れたヤヌス区の一画にある六分街。ルミナスクエアのような煌びやかさは無いが、下町ならではの懐古感と和やかな雰囲気が漂うこの町に、一人の少女が足を運んでいた。
ピンと上に伸びた黒い耳に、艶やかな長い黒髪。羽織っていた青き衣は彼女が所属する組織のトレードマーク。
対ホロウ特別行動部第六課のエース、虚狩りの称号を与えられし少女──星見雅。
常人を逸した身体能力と洗練された剣術で、大型のエーテリアスですら瞬く間に斬り伏せる圧倒的な力。弱きを助け悪を滅する勇猛果敢な姿に心打たれた者は数知れず。大和撫子のような振る舞いも相まって、彼女──だけではないのだが、民からは偶像として崇められていた。中には「私を踏んでくだしゃい!」や「貴方の椅子になりたいです!」といった風変わりな崇拝者もいたが。
そんな彼女が街を歩けば、瞬く間にファンから囲まれ、買い物すらままならない状況に陥るのは必然。しかし、六分街は例外であった。
握手を求める者こそいれど、ルミナスクエアほど人はおらず、あんぱんも買える。都心で苦労している彼女に、住民は気を遣ってくれているのだ。
もうひとつ理由を言えば──彼女が六分街を訪れるのは、住民にとって『よくあること』だからだ。
玩具店を過ぎ、ボンプが並ぶ雑貨屋も、機械人が立つ珈琲店もラーメン屋も通り過ぎ、向かった先は二階建ての黄色い建物。壁には『Random Play』と記された看板。
雅は緑の扉の前に立ち、軽く二回扉を叩く。程なくして扉は開かれ、中から現れたのは銀髪の男。目の下に隈が残る彼は、雅の姿を見下ろして柔やかに笑った。
「いらっしゃい、雅さん。すっかり常連さんだね」
「邪魔をする」
アキラと呼ばれた男はこの家──ビデオ屋の店主であった。彼は身体を退け、雅を店内に誘う。棚に満遍なく並べられたビデオを雅が物色していると、扉を閉めたアキラが声を掛けた。
「今度はどんなビデオ……いや、修行をお望みで?」
「前に借りた物でも満足のいく修行はできたが、此度はより動きに研きをかけた修行を行いたい」
「オーケー、派手なアクション映画を御所望だね。ちょっと待ってて」
雅の意図を的確に汲んだアキラは、陳列棚を物色し始める。その間、雅は店で飼われている黒猫と触れ合う修行を試みていると、アキラはひとつのビデオを手に取り、雅に見せた。パッケージには大剣を背負った赤いコートの男と、刀を構える青いコートの男が描かれている。
「これなんかいいんじゃないかな。刀を使うのは敵側なんだけど、スタイリッシュなアクションが目白押しの映画だよ」
「ふむ、お前が言うのなら間違いないだろう。ところでこの映画、表題に『参』と記されているが......壱や弐もあるのか?」
「ご明察。この作品、シリーズでは三作目に該当するんだ。でも物語上の時系列では最初にあたるから、初めての人が見ても大丈夫だよ」
「むっ、続き物にして過去へと遡る……そのような手法もあるのだな」
まだ映画に疎い彼女は、アキラの解説を聞いて関心を持つ。
「他の作品も気になったら、今度は一作目を見るのがいいね。時系列も三作目の次にあたるから。ホラー色強めなのが個人的に難点だけど。二作目は監督が変わって批評も多かったけど、ここからアクション路線に加速していって、三作目の礎にもなったとファンの間では言われているんだ。今となっては五作品まで続くほどに人気シリーズに──」
映画解説に熱が入ったのか、早口でシリーズの紹介を続けるアキラ。そんな彼の言葉を両耳で拾う傍ら、雅はパッケージの人物──刀を構える青コートの男を見つめていた。
どのような業を見せてくれるのかという興味は勿論だが、相対する赤コートの男を睨む彼の青い眼──数多の敵を斬り、血を浴び、戦い抜いてきたと感じさせる修羅の如き眼が、雅の赤い両眼を離さなかった。
「──っと、紹介はこのくらいかな。雅さん、時間があるなら今日見ていくかい? ちょうど暇を持て余していたところなんだ。リンは出かけていて、客入りもご覧の通り
解説を終えたアキラは、雅を鑑賞会に誘ってきた。通常はビデオを借りていくものだが、雅の家には肝心の機材が無かった。六課のオフィスで見ることも可能だが、彼女はいつもビデオ屋で見させてもらっていた。
「私は構わないが……日課は済ませたのか?」
「ウーフを眺めながらのスクラッチも、コーヒーを嗜んでからのVR訓練も済ませてきたよ。あとは……ベッドの上でのんびり過ごしながら夢の世界に旅立つだけかな」
「そうか。では、共に時間を分かち合うとしよう」
アキラの予定が空いていることを確認し、雅は誘いに乗った。アキラは「会場にご案内します」と、店の奥にあった階段を上る。雅も後を追ってビデオ屋の二階へ。
立て掛けられた脚立とかわいらしいプレートが下げられた扉を通り過ぎ、アキラは一番奥の部屋へ。雅もビデオを片手に部屋の中へ入る。
部屋の壁には映画のポスター。棚には多種多様な展示品。ここは彼の趣味が敷き詰められた、アキラの部屋であった。
あの星見雅を自室に招き入れる。彼女のファンが知れば卒倒し、憤慨のあまりエーテリアス化しそうだが、二人にとってはありふれた日常の一コマでしかない。雅はビデオをアキラに渡し、テレビの前に置かれたソファーに腰を落ち着かせる。アキラもビデオをデッキの中に入れ、リモコンを操作しながら雅の隣に座った。
雅の表情は入店時から変化が無いように思われるが、実際は此度の修行内容に期待を膨らませ、テレビアニメの放送を待つ子供のように心を踊らせていた。彼と一緒の時間を過ごせる事も、要因のひとつであったが。
やがて、しきりに耳を動かす雅を映した黒の画面に色が付き、ビデオの中にある世界が幕を開けた。
語りを背景に始まった二人の剣劇。雅は瞬きも忘れて画面に食いつく。
物語は赤いコートの男を主軸に展開される。彼が握るのは大剣であったが、型に囚われない我流の剣技は雅にとって新鮮なものであった。
突如街中に出現した塔を登り、敵を倒し、やがて彼は感動の再会を果たす。双子の兄である青いコートの男と。
彼等は物語の中で、幾度と殺し合った。残された唯一の家族であるにも関わらず争う二人を見て雅は心を痛めながらも、本来の目的であった修行は怠らない。青いコートの男が見せる剣術を、雅は一秒たりとも見逃さなかった。
兄弟の行く末。塔の真実。黒幕の計画。敵を華麗に倒しながらも進んでゆく物語を、雅は見届けた。
──やがて、三時間ほど過ぎた頃。
「ふぅ……やっぱりいつ見てもこの作品は色褪せないね」
エンドロールまでアクションたっぷりであったビデオを見終え、アキラは感傷に浸る。
その横で、終始姿勢を崩さず表情も変えず、されどしっかり楽しんでいた雅は、テレビの画面が黒一色の世界へ戻ったのを確認して、ふぅと息を吐いた。
「此度も良い修行であった。誠に感謝する」
「雅さんの力になれたのなら僕も嬉しいよ。続きが見たくなったらいつでも言ってね」
「うむ、その時はまた同じ時間を分かち合おう」
「そ、そうだね……頑張って僕も一緒に見るよ」
雅から期待の眼差しを受けるも、アキラは歯切れの悪い返事をする。いつもなら微笑み返すところを今回はどうしたのかと疑問に思ったが、はたとアキラの解説を思い出す。
次の話──シリーズでは初代にあたる作品はホラー色が強いと言っていた。幽霊やゾンビといった恐怖の対象が相手を驚かせ、怖がらせるのがホラーと呼ばれるジャンルだ。
そして、彼の妹であるリンの情報によれば、彼はホラー作品にめっぽう弱い。
「案ずるな。私が隣にいる。もしお前を脅かす者が現れたなら、叫びを上げる間も与えず斬り伏せてみせよう」
「大丈夫だよ。もしそんなことをしたらバラバラになるのはテレビで、雅さんは続きを見れなくなってしまうからね」
心配無用だとアキラは返す。それに、続きを見れなくなるのは雅にとっても困る話だ。
「そうか。ではお前の心の強さを信じよう。耐えきれなければ私が……ふぁあっ……」
守ってみせる、と伝えようとしたところで雅の口から眠気を誘う息が漏れた。
ここのソファーには面妖な術を施してあるのか、映画を見ていた時の集中力が途切れた途端に睡魔が襲いかかる。虚狩りと呼ばれる星見雅を以てしても勝てない強敵であった。
故に彼女は、この現象を逆手に取ることにした。
「すまない……次なる修行の時が来たようだ」
「気にしなくていいよ。ゆっくりしてね」
雅の言葉を聞き、アキラはソファーから立ち上がる。彼が機材からビデオを取り出しているのを薄目で見ながら、ソファーの端にあったクッションを枕にする形で身体を横向きに倒した。頭を優しく包み込む感触が微睡みを助長させる。
僅かに見えていた横向きの世界は閉ざされ、暗闇の中へ。アキラが機材を弄る雑音も遠のいていき、やがて雅の意識は眠りの中へ落ちていった。
*********************************
──雨が降っていた。
空は星一つすら見えない漆黒に対し、地上は灯りを灯す建物で埋め尽くされ、天地がひっくり返ったかのよう。そこには、新エリー都の脅威であり象徴でもあった黒の半球──ホロウがどこにも存在しない。
代わりに存在していたのは、地を突き破る形で突出した、天にも届きそうな高い塔。その頂へと続く螺旋の坂を、星見雅は歩いていた。
彼女の左手には鞘に収められた一振りの刀──数多のエーテリアスを屠りし『骸討ち・無尾』が。しかし、いつも彼女の周囲で浮かんでいた霊魂は見当たらない。
雨に打たれ、服を濡らしながら足を進める。最後に坂の果てにあった階段を登り、雅は塔の頂へ。
数本の柱が周囲に立ち並ぶ円形の舞台。空に浮かぶ、雲の陰から姿を顕わにした青い月が雅を出迎える。しかし彼女の視線は月に行かず、頂上で待つ先客に向けられていた。
遠目でもわかる高身長の男。月光に照らされた白銀の髪。膝下より長い青のコートと、男の左手にある鞘に巻かれた黄色い下緒帯が風になびく。男はおもむろに振り返り、雅と向かい合った。
端麗な顔立ちだが、その目は冷酷さを帯びていた。彼に睨まれたが最後、誰もが身を凍らせて、ただただ死を待つことしかできないであろう。しかし雅は、右手を刀の柄に沿えて構えた。
「此度は良い修行になりそうだ」
雅は、この男を知っていた。この場所を知っていた。当然だ。先刻まで、画面越しに見ていたのだから。
これが、雅の次なる修行。映画で見た猛者との
雅はいつ何時も修行を怠らない。が、どうしても肉体的鍛錬ができない場面は存在する。主に六課事務所での
仮想敵、仮想空間を脳内で構築し戦闘を行う。敵の種類は様々で、己の虚像、異国の剣士、超大型知能機械人など。
修行相手は映画から着想を得ることもあった。最近は専らそちらの方が多い。敵を鮮明に思い出せるのは映画を見終わった直後。故に、映画鑑賞後は睡魔に身を委ね、眠りの世界で空想戦闘に励んでいた。
素人が真似をしても妄想の域を出ない。空想の中で現実と差異の無い肉体を構築する。自身のイメージが完璧だからこそできる修行。
骸討ち・無尾も同様だ。この刀と彼女は、人生を共にしてきたと言っても過言ではない。故にこの世界での発現も可能であった。もっとも、制御状態──彼女が認識できる範囲までだが。
雅が構えたのを見て、相手の男も同様に刀を握る。雨が降りしきる中、両者は瞬きもせず睨み合う。
雅の記憶が正しければ、敵は相当の手練だ。ほんの僅かでも隙を見せれば、一秒後にはバラバラにされてしまうであろう。刀の間合いからは離れているが、男が映画で見た通りの動きをしてくるならば、刀身のみで間合いは計れない。この舞台全てが、彼の射程範囲内だ。
雅は息を呑み、相手の僅かな動きを見逃さないよう集中する。仕掛ける隙も伺っていたが、雅の手は止まったまま。男も刀を構えたまま微動だにしない。
──と思った矢先、男の姿が消えた。
「っ!」
雅は咄嗟に地を蹴り横へ。身体を翻しながら移動し、先程まで立っていた場所を見る。消えたと思った男はその場に立ち、抜き身の刀を振り抜いていた。
次はこちらの番だと、雅は駆け出し刀を抜く。だが男は雅の一振り逆袈裟で容易く弾き、振り上がった刀を首元から胴体を斬らんと振り下ろした。雅は素早い身のこなしで避け、舞台の端に立って男と距離を取る。
男は刀を一度鞘に戻し、こちらを見る。雅も刀を納め、再び睨み合いへ。また膠着状態が続くと思われたが、程なくして男は膝を曲げ、体勢を低く構えた。雅が警戒する中、男はその場から動かず刀を一瞬抜いた。
束の間、雅の視界がぐにゃりと歪んだ。雅は咄嗟にその場を離れると、立っていた場の空間が斬り刻まれた。後ろにあった柱も巻き込まれ、音を立てて崩れ落ちる。雅は男から視線を外していなかったが、一歩も動いていない。
先の瞬間移動──純粋な身体能力による超高速移動とは違う。空間そのものを斬る異能の業。映画で先に見ていなければ反応できなかったかもしれない。
雅は再び攻撃に転じる。二度目の突撃を図ったが、男は刀を抜かず、空いていた右手で雅の振り下ろした刀を弾いた。体勢を崩した雅を狙い、男はそのまま刀の柄を握り接近──疾風の如き居合いを繰り出した。
しかし雅の身体には傷一つ付かず。居合いが来る前に飛び上がっていた彼女は、宙で身体を翻し、背を向けた男に刀を振り下ろした。刃が男の背を狙わんと切迫し──気付いた時、刀は空を斬っていた。
すんでの所で瞬間移動によりかわされたが、その動きが視えていた雅は地を蹴り、舞台の中心にいた男へ向かう。男は刀を抜き、雅を迎え撃った。
雨が降る中、二人の剣士は目にも止まらぬ疾さで刀を振るう。的確に隙を狙い、防ぎ、両者一歩も譲らぬ剣戟を繰り広げる。刀のぶつかる音がとめどなく響いた後、大きな金属音が鳴り響いた。
衝撃で舞台に張っていた水が跳ねる。二人は刃を交わし鍔迫り合いへと発展。互いに刀を押し合ったが、やがて二人は弾かれるようにして離れ、再び距離を取った。
「やはり一筋縄ではいかぬか。それでこそ修行のしがいがある」
空想の中で様々な剣士と刃を交えてきたが、これほどの力を持つ者はそうそういなかった。終始無表情の彼女であったが、心はいつになく高揚していた。刀を鞘に戻し、続きを待ち望むように再び構える。対する男も納刀し、雅と対峙する。
その時──男の身体に、黒いモヤが僅かにかかったのを雅は見た。
「むっ……?」
彼女は違和感を抱いたが、構えは解かず。次なる一手を考えながら男を注視する。対する男は刀に手を置かず、空いた右手をこちらに向け、手のひらを上に向けて手招きをした。
挑発にも受け取れる行為を見て雅が疑問に思っていると、男は数歩後ろに下がり──そのまま舞台から飛び降りた。
「なっ──」
予想外の行動に雅は驚き、すかさず男がいた場所へ。舞台から見下ろすと、男は地に背を向ける形で奈落へ落ちていた。唖然と見つめている間に、男の姿はどんどん遠くへ。
降参し舞台から降りた──とは到底思えない。相手の罠か、単に舞台を変えるのが目的か。このまま修行を終える選択肢もあったが、こちらを誘う彼の手招きが、雅の脳裏から離れなかった。
思案の末に雅が選んだのは──継続であった。彼女も塔から飛び降り、宙に身を放り出す。いつでも抜けるよう刀は構えたまま、重力に従って真っ直ぐ落ちる。だが、同じ速度で落ちていては追いつける筈もなく。
ならば走るだけだ。雅は身体を動かし、塔の側面に足をつける。所々穴の空いた壁に気を付けながら、空から降る雨よりも速く駆けた。
激しい風斬り音を受けながら走り続け、やがて視界の先に青を見つけた。雅は一層足を速めて男を追いかける。異例の速度で彼女は下に向かっていたが、不思議なことに地面が迫る気配はなく、ただただ塔の壁面が続いている。
長く走ったのか、それとも一分にも満たなかったか。雅は、手を伸ばせば届きそうなほど男に迫っていた。男は刀を構えず、背に風を受けながら落ち続ける。
いったいどういうつもりなのか。疑問は晴れないが、今こそ好機。雅は刀を握り締め、思い切り壁を蹴った。彼女の身体が再び空中へ放り出される。雅と肉薄するも、男は未だ刀を握らず。
雅は渾身の一振りを繰り出すべく力を込め、いざ刀を抜かんとした──その時。
突如として、男の身体から空間の裂け目が発現した。
「これは──!」
雅は目を見開き驚く。空中で、それも目の前で突然開いたとなれば対応できる筈もなく。雅の身体は瞬く間に裂け目へ飲み込まれた。
裂け目の中、漆黒の世界を雅は落ちていく。男の姿はどこにも見当たらなかった。何も無い暗闇であったが、やがて雅の落ちる先に再び裂け目が現れた。
雅は困惑していたが、とにかく今は進むしかない。落下に身を任せ、次なる裂け目の中へ。雅が裂け目を通った時──聞き覚えのない声が脳に響いた。
「そんなに会いたきゃ会わせてやるよ! お代は結構!
*********************************
裂け目を抜けた先に雅が見たのは、迫り来る地面であった。
空中にいると察した彼女は、くるりと身体を回転させ足を地面に向け、音を抑えた柔らかな着地を見せた。一拍置いて雅は立ち上がり、周囲を見渡す。
広い公園のようだが、遊具も駆け回る子供もいない。世界に存在するのは自分一人だと錯覚する静かな平野。青いコートの男は、やはりいなかった。
「あの裂け目は……」
雅は先程の出来事を振り返る。
自分が通った空間の裂け目。妙な声が響いたことを覗けば、今まで何度も通ってきた『ホロウ内の裂け目』とよく似ていた。とすればここはホロウの中だが、エーテリアスの気配は微塵も感じない。
そもそも、ここは夢の中だ。空想鍛錬の最中で裂け目が生じるのはこれまでにもあった。いつもと変わりない流れの筈だが……先程の『声』が雅の中で引っかかっていた。
何かが違う。直感的に思っていた雅は、いつでも刀を抜けるよう警戒しながら足を進める。
人もエーテリアスもいない、小鳥のさえずりも聞こえない平野を歩く。永遠に平野だけが広がっているのかと思った時、進む先に建物らしきものを見つけた。雅が進むにつれ、建物の外観が詳細に見えてくる。年代を感じさせる、古い洋館であった。
しかし、雅が見つけたのは洋館だけではなかった。平野にいた雅以外の人間──こちらに背を向け洋館を見つめていた、黒いコートの人物。雅の足音に気付いたのか、振り返って雅と対面する。
整った顔立ちにオールバックの銀髪。先程まで雅と戦っていた青いコートの男と瓜二つであったが、表情からは年季を感じさせ、体格も一回り大きい。丁度、青いコートの男が成長した姿のようであった。彼が左手に持つ刀の鞘にも、同じ黄色の下緒が結ばれている。
「……何だ貴様は?」
男がこちらに話しかけてきた。雅は驚き、咄嗟に体勢を低くして構えを取る。
先程まで無口だった空想の相手が突然意思を持ったように振る舞ってきたのもあったが、相手の冷たい眼差しの奥に見えた、鋭い殺気。声を聞いただけで総毛立ち、気付けば臨戦態勢を取っていた。
男は、刀を構えた雅を見つめる。やがて彼は一歩、雅の方へ足を進めた。
刹那──耳をつんざく金属音が平野に鳴り響いた。
音の発信源には、刀を抜いて振り下ろしていた黒コートの男。一方で雅は、先程立っていた所から大きく下がり、刀を水平に構えていた。彼女の足下には、地面を強く擦った跡が伸びている。
刀を持つ右手に痺れが残る。これまでの泰然自若な表情から一変、赤い両眼は驚愕で見開かれ、どっと汗が噴き出し、心臓は警鐘のように大音量を鳴らしていた。
「ほう……」
男は感心したかのような声を漏らす。雅は深く息を吸ってから刀を構え直す。全神経を張り巡らせ、男の動きを見た。一方で黒コートの男は、抜き身の刀を右手に再びこちらへ一歩踏み出す。
瞬間、男の姿は消え──雅に一閃を繰り出した。
が、その刃は空を斬る。雅は横に飛び退き、男の一閃を回避した。しかし僅かに避けきれず、雅の頬に赤い線が引かれた。
「次は避けたか。先程受け止めたのは偶然ではないようだな」
男は一度刀を鞘に納め、雅と向かい合う。まだ二手であったが、雅は男の強さを痛感していた。
青いコートの男よりも数段重く、速い。そして、人を斬る事に一切の躊躇が無い。
「奴との決着はまだついていないが、たまには相手を変えるのも悪くはない。勝手に人の家へ上がり込んできた貴様が何者なのかは、後で聞かせてもらうとしよう」
男は不敵に笑い、継続の意を示す。
彼は先程の青コートの男と同一なのか。何故意思を持ち、雅の知らない装いを纏っているのか。そもそもここは、本当に夢の中なのか。
様々な疑問が頭に浮かんだが、雅はそれらを一旦隅に追いやった。鍵を握っていそうなのは目の前にいる男のみで、相手はこちらを斬らんとしている。
「──参る」
頬を伝う鮮血を拭い、雅は刀を構える。張り詰めた空気が漂う中、男の動きをじっと見つめる。
やがて、男が再び一歩を踏み出そうと足を上げた瞬間、雅は地を蹴った。弧を描き、瞬く間に男の背後へ回る。雅は柄を固く握り、男の背中を狙って抜刀。
「
しかし男は見切っていた。素早く振り返り、襲ってきた刃を鞘で弾く。体勢を崩した雅に男は刀を振りかざしてきたが、雅は咄嗟に刀で防ぎ、受け流しつつ後ろへ飛び退く。
反撃に転じようと雅が構えた時、切っ先をこちら向ける浅葱色の剣が男の周囲に八本出現。一本ずつ、タイミングを僅かにずらし雅を狙って飛んできた。
先の青コートの男は見せなかったが、劇中で見た技であった。故に見切れた雅は横に走り剣を避ける。動きながら男を視界に捉えていると、男の姿が瞬時に消えた。
否、消えたと見紛うほどの高速移動で、彼は雅の真上に移った。刀は既に抜かれ凶刃を顕わにし、殺意の目をこちらに向けている。彼の姿をなんとか捉えていた雅は、地を蹴ってその場から退避。
男の刃はそのまま垂直落下し、雅のいない地面を叩く。気付かずにいたら頭から真っ二つにされていたであろう。男は再び消えて雅の頭上に移るが、雅も再び男の兜割りを避ける。
三度目の兜割りが繰り出された後、男はまた瞬間移動をしたが、頭上にはいない。束の間、背後から感じた身も凍り付く殺気。
「
男の冷たい声が響いた。雅は振り返った勢いを乗せて刀を抜く。地を駆け、すれ違いざまに疾風の如き速さで敵を斬る必殺の居合い。それを繰り出したのは、相手も同じであった。
後方から、刀の鍔と鞘が当たる音が鳴った。と同時に、雅の身体から鮮血が飛散した。
「がはっ……!」
「無様に逃げ回るだけかと思っていたが、向かってくるだけの器量はあったか。いずれにせよ、愚かな結末に変わりはないがな」
男の居合いを、飛び上がって避ける選択肢は雅の中にあった。しかし彼は青コートの男より遥かに強い。居合いを避けきれず、足を持って行かれる危険の方が高かった。故に雅は居合いで相殺する道を選んだ。
いなしきれず身体に傷を負ったが、まだ動ける。雅は振り返って男を睨み、刀を構える。対して傷一つ無かった男は、その場で刀を構えると一瞬刀を抜いた。
刹那、雅のいる空間が歪む。次元を斬る面妖な技だ。雅は避けながら男に向かって走る。
三連、男は技を放ってきたが雅は高速移動で回避し、男の前へ。刀を振り抜いたが一歩届かず、男に刀で受け止められる。しかし雅は手を止めず、刀を振り続けた。
何度刀の交わる音が響いたか。刀身も目視できぬ速さで両者は刀を振るう。男が瞬間移動で避けたならば雅は姿を捉えて距離を詰め、その逆も然り。舞台を縦横無尽に駆け回り、絶え間ない剣戟を繰り広げた。
やがて金属音が強く響いた後、両者は弾かれるように距離を取った。しかし息吐く暇もなく、男は次の一手を繰り出してきた。
男を中心に空間が歪み出す。先の次元を斬る技の比ではない大きさ。雅もその中にいた。
後方に退避か、繰り出す前に斬るか──否、どちらも間に合わない。ならば先の居合いと同じく、相殺して乗り切るしかない。
覚悟を決めた雅は、男と同様に刀を構えて力を込めた。一重、二重──三重。
「
「混沌を断ち切る!」
二人の姿が同時に消えた。次の瞬間、ドーム状に歪んでいた空間の中が、絶え間ない斬撃で埋め尽くされた。
気付けば二人は元の位置に立ち、刀を静かに納める。キンと音が響いた後、歪んだ空間は破裂するように消えた。そして雅の身体に、いなしきれなかった斬撃が再び刻まれ、身体から血が飛散した。
一方の男は涼しい顔で雅を見ている。彼等が駆け回った地には鮮血が飛び散っていたが、それらは全て雅のものであった。
あまりにも遠い。雅は、男との力の差を痛感した。
「貴様の背にあるシンボル……ただの飾りでなければ、どこかの組織の人間か。何故俺の前に現れたのかは、皆目見当も付かんが」
男は攻撃を止め、ひとり考える素振りを見せる。あの剣戟の中で服の背中に記されたH.A.N.Dのマークを見る余裕もあったようだ。
「答えろ。貴様の戦う理由は何だ?」
すると男は、雅に突然問いかけてきた。意図があってなのか、単なる気まぐれか。雅は疑問に思ったが、荒れていた息を整え、いつでも攻撃を受け止められるよう刀を抜き、答えた。
「除悪務本……悪たる存在を滅するその時まで、私は戦い続ける」
母を失ったあの日から変わらぬ信念。人々を襲うエーテリアスを、世界を脅威に晒す
雅の答えを男はどう受け取ったのか。僅かに見えた笑みは嘲笑か、それとも感心か。
「では、ひとつ助言してやろう」
男がそう口にした次の瞬間、雅の視界が一変した。
遠くに立っていた筈の男は、雅の眼前にいた。男の刀は既に抜かれていた。
その刀身は──雅の身体を貫いていた。
「
雅はようやく、自分が男に刺されたことに気が付いた。鋭い痛みが遅れて届き、逆流した血は雅の口から血反吐となって零れる。
雅は理解した。この男は、ただの一度も本気を出していなかったのだと。
「力が無くては何も守れはしない。己の身さえも」
男は刀を深く突き刺す。更に増した痛みが襲う中、己の無力さを突きつける彼の言葉が、雅の頭に響く。それは、映画で青いコートの男が放っていたのと同じ言葉であった。
やがて彼は雅の肩を押し、刀を引き抜いた。
「
刺された腹部から血が噴き出す。雅は踏ん張れる力もなく、仰向けで地面に倒れた。傷から流れる血が雅を中心に、赤い池を作り出す。
「貴様が何者か聞き出すつもりだったが、もう興味は無い。さっさとここから消え失せろ」
雅の耳に男の見放した声が届き、足音が遠ざかっていく。血が背中を温めるが、体温は徐々に失われていく。刀を握る力も緩まっていた。
「(これが消滅……これが死か)」
雅の思考は異様なほど冷静であった。死の直前とはこういう感覚なのかと、呑気に考えてしまうほどに。ここは夢か現実か。あの男は何者だったのか。刀を交える前に抱いていた疑問はとうに消え失せていた。
アキラとは、もっと時を共にしていたかった。リンとも他愛ない話を交えながら街を歩いていたかった。
柳は今も自分を探しているだろうか。帰りにあんぱんを買ってやりたかった。悠真はまだ職場にいるだろうか。休暇を受理できなくなると知ったら彼はショックで寝込みそうだ。蒼角はおやつを食べ終わっただろうか。また一緒にメロンを嗜みたかった。
アキラ、リンを通して知り合った者等とも、一戦交えてみたかった。
父上は──今も心配して自分の帰りを待っているだろうか。
仲間と父の顔が思い浮かぶ中、刺された腹部の痛みが引いていく。否、痛覚が消えていく。思考もぼんやりとしてきた中、雅は掠れた声で呟いた。
「母上……」
誰よりも雅を見守り、支えてきた母。目の前で、無尾を自ら突き刺した母の姿が鮮明に浮かぶ。母上も、こんな痛みを感じていたのだろうか。
母との修行、共に過ごした日々は今も彼女の胸にある。母上は自分を刀から遠ざけようとしていたが、世界がそれを許さなかった。
運命に導かれるように、雅は無尾を手にした。そして帰るべき場所を、大切な家族を失った。
大事な思い出から切り離すことのできない、惨憺たる記憶。それが、雅の抑えていた感情を呼び覚ました。
無垢の人間を
大切な物を奪った
母を守れなかった、無力な自分に怒った。
あの時、自分に母上を守る力があれば。エーテリアスを倒す力があれば。雅の中で、先程男が放った言葉が反芻する。
次は絶対に奪わせやしない。アキラとリンを、六課の仲間を、新しく出会った友を、残された家族を、失いたくない。
故に彼女は求め──魂は叫びを上げた。
──
「まだ……終わっていない」
手放しかけた刀を握り締め、雅は身体を起こす。ひとつの動作でも激痛が身体に走り、生きている実感を抱かせる。常人なら気を保つことすら不可能な傷だが、雅は立ち上がり、相対する男を視界に捉えた。
男は既にこちらへ振り返っていたが、雅が起き上がるのを待っていたのか、目を合わせたところで彼は刀に手を沿えた。
身体の激痛が徐々に引いていく。痛覚が消えていったからではない。彼女の中で沸々と起こり、されど溢れないよう御した強い感情と、刀のように研ぎ澄まされた集中力が、痛みを凌駕していた。
雅は抜身の刀を一度鞘に戻し、体勢を低くして構える。内で燃ゆる炎の熱が全身に行き渡るのを感じ、熱は手を通じて刀に宿る。
「勝利を上となし、闘乱はこれに次ぐ」
おぼろげだった焦点が合い、男の姿を明確に捉えた瞬間、雅は地を蹴った。
雅の姿が一瞬にして消え──男が刀を抜くよりも疾くすれ違い、居合いを繰り出した。
「何だと?」
身体を斬り刻まれた男から驚いた声が届く。しかし雅は手を止めず、振り返って男に一閃。男の反撃よりも速く刀を振り、絶え間なく斬り続ける。
「一刀無影」
一心不乱、されど鋭く、時には豪快に。目にも止まらぬ連撃を浴びせ続けていたが、やがて男は我慢の限界とばかりに叫んだ。
「
雅が向かってきたのを狙い、男は刀を振りかざす。対する雅は寸でのところで止まり、男の反撃を後ろに飛び退いて避ける。刀は鞘に納め、力を溜める。
簡単には溜めさせまいと、男はすかさず距離を縮めてきたが──。
「明鏡止水、我が心」
三重まで溜められるところを一重で止め、雅は刀を抜いた。振りおろした刀から溜まったエネルギーが刃の波と化し、男めがけて地を駆けた。
男は容易く刃の波を断ち切る。しかし斬撃を完全に打ち消すことは叶わず、僅かに漏れた斬撃の欠片が男の身体を掠めた。
刹那、男の首から下が一瞬にして氷付けになった。
「バカな……!」
動けなくなった男は驚嘆の声を上げる。
無尾には、斬られた者の体温を一瞬にして奪う力を持つ。絶え間ない連撃によってその異常が蓄積され、先の斬撃が最後の一押しとなり、ようやく花開いたのだ。
敵の強さを鑑みても、動きを止められるのは数秒が限界。だが、溜まりに溜まった力を開放するには十分過ぎる時間だ。
雅は刀を抜くと、青い炎が鞘から溢れた。柄を通じて、刀はおびただしい熱を宿しているのを感じる。
この男は、己が求める力の権化だ。
己の目指す境地であり、越えるべき壁だ。
もう二度と、大切な者を奪わせない為に。誰にも負けない力を持つ者へとなる為に。雅は放った。
「悪──直──斬!」
雅は男に向かって駆け出す。先程の連撃よりも速く、鋭く──神雷の奔るが如く男を斬った。氷付けにされて動けなかった男は、相殺することも叶わずその身に刃を受ける。
青い残影は流星のように地を駆ける。やがて彼女の姿が顕わになった時には、刀を鞘に納めんとしていた。
「刀はもう鞘だ」
刀鐔が鞘とかち合う。遅れてやってきた斬撃が、男を襲った。彼の身体から鮮血が飛び散り、地面を赤く彩った。しかしそれは雅も同様で、ボロボロの身体で大技を放った反動か、彼女は再び血反吐を吐いた。
「ごはッ……!」
身体が発した最終警告。とうに限界を迎えていたが、雅は膝を折ることはしない。視界も思考も霞む中、男の姿を捉える。
「……ただの女狐と侮っていたか」
男は、平然と立っていた。確かな手応えはあったが、男が受けた傷は瞬く間に再生しており、流れた血は既に止まっている。
しかし雅は、特に驚きはしなかった。彼が映画の青いコートの男と同じ存在なら、彼もまた『人ならざる者』なのだから。
雅は刀から手を離さず、未だ闘志を宿した眼で男を睨みつけた。
「私は……まだ戦える」
「弱者をいたぶる趣味はないが、手負いの獣となれば話は別だな。いいだろう……少し、本気を出してやる」
男は不敵に笑い、刀を構える。と同時に、彼から放たれていた力の圧が一層増したのを感じた。男の刃は更に疾さを増して襲いかかってくることであろう。
想像以上の力に雅は戦慄する。が、刀は離さない。昂る感情に比例して集中力も鋭くなっていく。あとは、この肉体がどこまで持つか。
二人の剣士による剣戟が、再び幕を上げようとした──その時であった。
不意に、踏ん張る力が失われて雅は体勢を崩した。咄嗟に下を見ると、雅の足は知らぬ間に出現していた漆黒の沼に掴まれていた。
「これは……!?」
「盛り上がってるトコロ悪いが時間切れだ! 続きはまた今度のお楽しみってコトで! 次がある保証はネェけどよ!」
沼の中から軽快に話す者の声が届く。空想戦闘の最中に開いた空間の裂け目を通り、この地へ誘われる道中で聞いた声であった。
しかし、勝負はまだ終わっていない。雅は泥濘みから抜け出そうと必死にもがくが、沼は絶対逃がすまいと、徐々に雅の身体を飲み込んでいく。一方で黒コートの男は、手を差し伸べる素振りも見せず、刀に手を置いたままこちらを見ていた。
「待て、私はまだ──!」
「タイムアップだっつったろ! 時間延長サービスも無しだ! その代わり、お帰りはキッチリ元の場所まで届けてやるよ! 駄々こねて暴れようモンなら暗闇ン中で降りてもらうぜ! まぁそのナリじゃ、抵抗する気力も無さそうだがな! つまり詩人ちゃん的に言うと……アレだアレ!」
やがて雅の身体を全て飲み込み、視界が暗黒に包まれる。集中も途切れ、眠りへ落ちる時のように思考がまどろむ中、その者は言った。
「迷子の迷子の子狐ちゃんは、さっさとおウチに帰ってネンネしな!」
*********************************
「……やびさん! 雅さん! 雅さん!」
自分を呼ぶ声が耳に届く。知らぬ間に閉じていた目を開けると、眩い光が射し込む。やがてぼやけていた視界が鮮明になり、こちらを覗き込んでいた二人の顔を見た。
灰色の髪を持つ男と、青紫の髪色の少女──アキラとリンであった。悲痛と焦燥に満ちた表情の二人であったが、雅が目覚めたのを見て驚き、やがて深い安堵の息を吐いた。
「良かったぁー! もう目を覚まさないのかと思っちゃったよー!」
「アキラ、リン……一体何が──」
「それはこっちが聞きたいよ! 帰ってきたらお兄ちゃんが今まで見たこと無いぐらいパニクってて、二階に上がってみたら雅さんが眠ってて、ずっと起きないって聞いて……」
「僕も驚いたんだ。そろそろ起きる頃かなと様子を見に行ったら、雅さんはうなされていて、酷く汗をかいていた。何度も声をかけたり揺すったりしても効果が無くて、外部から何かしらの攻撃を受けていると思ってFairyに尋ねてみたけど、特に異常は無いと返されて八方塞がりだったんだ。とにかく、無事で本当に良かった」
どうやら二人には心配を掛けてしまったようだ。雅は自身の額を触ると、アキラの言うとおり汗が出ており、服の背が寝汗でぐっしょりと濡れていたことにようやく気付いた。リンがタオルを渡してきたので、雅はすまないと礼を告げて受け取る。
「柳さんにも連絡しておいたけど、来る前に起きてくれてよかったねお兄ちゃん。課長に何をしたんですかーって、鬼の剣幕で詰められることも無さそうだし」
「僕はただ一瞬に映画を見ただけなんだ。で、雅さんは次の修行に入るって言い残して眠って......その修行の最中に何かあったんだろうけど、流石に夢の中までは入れないからね」
「夢……そうか、私は夢の中で修行をしていて……」
タオルで顔を拭きながら、雅は夢の内容を振り返る。
映画で見た塔の頂上に行き、そこで待ち受けていた青いコートの男と剣を交え──。
「戦いの中……黒い何かに呑まれた。その後のことは、よく覚えていない。誰かと会ったような気はするが……」
「深い眠りに入っていたみたいだね。悪夢を見た時はよくあることだ」
「そうか……これが悪夢というものか」
雅は目を伏せ、記憶を辿る。しかし悪夢の中身は漆黒の霧に隠されたまま。微かに残っていたのは、圧倒的な『何か』に対峙した記憶。恐怖、悲愴、激昂、高揚──そして『何か』を掴みかけた感覚。
青いコートの男を追いかけた先に何があったのか。雅はとても気になったが、記憶が無い以上答えは出なかった。
──しばらくアキラの部屋で休んでいると、一階から慌ただしい物音が聞こえた。音は徐々に近づくと、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「課長! ご無事ですか!?」
現れたのは桃色の髪の女性。対ホロウ六課の副課長、月城柳であった。かけていた眼鏡は斜めにずれ、息も酷く荒れていたが、雅の姿を見た彼女は目を点にさせ、やがて落ち着きを取り戻していった。
「良かった。目を覚ましてくれたのですね」
「つい先程だ。いらぬ心配をかけてしまったようだな。すまない」
「全くですよ。どこに行ったのかと思えば……リンさんからのDMで事情を聞いて、慌てて駆けつけたんですから。それでアキラさん。いったい何があったのか、説明をお願いできますか?」
「ちゃんと話させてもらうよ。だから柳さん、今にも金棒を振り下ろしてきそうな顔で睨むのはよしてくれないかな」
それから柳は、雅がここへ来てから眠りに落ち、悪夢から目覚めるまでの話をアキラから聞いた。聞いていく中で柳の警戒も解け、話し終わる頃には普段の柔らかな表情に移り変わっていた。
彼女は眼鏡の端を上げ、ソファーに腰掛けていた雅を見下ろしながら口を開いた。
「大方理解できました。つまり課長は、会議を無断で欠席してビデオ屋に赴き、会議に戻る素振りは一切無くビデオを見て眠りにつき、夢の中での修行に集中するあまり悪夢にうなされ、無事現実に戻ってきたと」
「……えっ? 雅さん、会議をすっぽかしてここに来てたのかい?」
「……あっ」
柳の言葉を聞き、雅は思わず声を漏らす。会議のことが頭から完全に抜けていたと、そこでようやく気付いたのだ。
そうですよねと、柳は圧のある声色で微笑みかけてくる。雅は彼女の顔を直視できず、無意識に顔を背けた。やがて柳の方から、呆れの混じったため息が聞こえた。
「文句のひとつは言わせてもらうつもりで来たのですが、アキラさんからの話を聞いた今では、もう怒る気も失くしましたよ。夢の中でする修行はほどほどにしてくださいね? 目覚めないかもしれないと、本当に心配していたんですから」
「あぁ……すまなかった」
柳に心配をかけさせたことを、雅は改めて謝る。今自分はどんな顔をしていたのか。柳と目を合わせると、彼女は再び息を吐いて優しく微笑んだ。
──が、すぐに真面目な表情に切り替わり、柳は眼鏡の位置を正しながら言葉を続けた。
「明日は念のためにバイタルチェックを受けてもらいます。戦闘に支障がないかVR訓練もしてもらいましょう。それと、明日の会議は必ず出席してくださいね」
「体感では異常無いが、万が一ということもある。精神と身体の不備は確認しておこう。それらが終わった頃、会議へ出る余力が残っているとは限らないが」
「浅羽隊員みたいなこと言わないでください。バイタルチェックに時間はさほど掛かりません。VR訓練は会議が終わってからにしましょう。そうすれば、訓練を長引かせて会議を欠席される心配もありませんから」
「……了解した」
思考を先回りされて逃げ場を失った雅は、小さな声で返答した。明日はどうやって会議を抜け出すかに苦心することになりそうだ。
雅の返答に満足したであろう柳は、次にアキラへと向き直った。
「アキラさん、貴方も同罪ですからね。貴方ほど課長と付き合いのある人間なら、課長が会議を放り出してビデオ屋に来ていた可能性を思慮できていた筈です。ビデオを見せる前に私へ確認してくれていたら、こうはならなかったのではありませんか?」
「おっと予想外。まさかここで僕に金棒が向けられるとは。ホロウの中を熟知している僕でも、雅さんの思考は未だ読み取れないんだ。その言い分は呑めないな」
「うーん……柳さんの言うとおりかも。お兄ちゃん、ここは素直に謝っておいたら? 今ならあんぱん奢りで許してくれるかもしれないよ。勿論、私の分も含めてね!」
「まいったな。二対一になるとは思いもしなかった……わかったよ。あんぱん奢りで手を打ってくれるなら。雅さんもどうかな?」
三人のやり取りが繰り広げられた後で、アキラが尋ねてくる。リンと柳も、優しい目でこちらを見ていた。
雅の脳裏に、懐かしい光景が過った。ホロウに奪われた、大切な家族がこちらを向いて笑いかけている。記憶のフィルムに焼き付いたその情景と重なり、雅は笑みを零す。
「あぁ、共に行こう」
雅はソファーから立ち上がる。その言葉を待っていたのか、三人も同様に笑顔を見せた。
近場の雑貨屋141にするかルミナスクエアまで行くか、アキラ達が相談し始めた傍ら、雅は部屋のテレビに視線を向ける。画面は再び漆黒の世界に戻り、自身を睨む雅の姿が映し出されていた。
「(私は……今度こそ守ってみせる。その為には、更なる力が必要だ。根源たる悪を滅するほどの力が)」
雅の中で、目に映る姿が変容する。己自身から、守る力を持たなかった過去の自分へ。悲しみに囚われ、怒りのままに刀を振るった獣へ。
そして──力を求めることに囚われた、蒼き修羅へ。
「(私の目指す先に、お前はいるのだろう。だが私は、お前のようにはならない。私は、守る為に力を求める。悪を滅する為に力を使う)」
決して道を違えたりはしない。守るべき、そして背を預け合える仲間と共に進むと、雅は誓った。
「(私は、この道義を貫き通す)」