「……何だったんだ。あの女は」
刀から手を離した男は、自分以外誰もいない平野の中で独り呟く。
気が付いた時、彼はこの場所にいた。ここがどこなのか彼は知っていた。当然だ。ここは、彼が生まれ育った場所なのだから。
しかしその場に、今の自分が来れる筈などない。ここが幻想の世界だと気付くのに時間は掛からなかった。
何故自分はここに誘われたのか。疑問に思っていた時、男は一人の少女と出会った。
見覚えのない顔。見慣れない服装。更には獣の耳を有していたが、尻尾は見当たらない。不思議な少女であった。
少女の手には刀があった。訝しみながらも試しに一太刀入れてみると、華奢な少女はそれを受け止めた。もう一太刀入れると、今度は避けた。
少女と刀に興味を抱いた男は、力を試した。想像以上に食らいついてきたが、男の力を引き出すまでには至らず。興味を失った彼は切り捨てたが、少女の本質はここからであった。
少女の背に、烈焔が見えた。狐の尾と見紛う幾つもの炎を宿した彼女は、数段疾さを上げた。油断していたとはいえ、一瞬少女を見失うほどに。
身を焦がし、血を吐きながらも少女の闘う意志は燃え盛っていた。少女に再び興味を抱いた男は、ほんの少し力を開放することに決めたが──遅かった。
突如、少女の足下に黒い沼が出現し、瞬く間に少女を飲み込んだ。男はしばらく待ったが、少女が再び現れることはなかった。
「名を聞いてやってもよかったか」
少々惜しいことをしたと男は零す。彼は周囲を見渡すが、少女どころか自分以外の気配を感じられない。腕を組んで静かに待つも、変化は無い。
しきりに指で叩いていた男は、やがて苛立ちを示すように空へ語りかけた。
「いつまで俺をここに残すつもりだ」
「なんだよもうオサラバってか!? 懐かしい光景ダロ! ちょっとは感傷に浸ろうぜ! お屋敷で思い出巡りツアーなんてどうよ!」
「必要ない。頼んだ覚えもない」
騒々しくも懐かしい声が、バージルの呼びかけに応えた。しかし周囲には気配を感じない。
「とうに消えたと思っていたが、しぶとく生き残っていたとはな」
「俺等は悪魔でも何でもない、ただの夢だ。必要がなくなりゃ消えるだけ……だったんだが、中途半端に自我が残っちまって、真っ暗闇ん中で漂ってたのさ」
男から切り離された筈の悪夢。奴に倒され消滅したと男は思っていたのだが、どうやら彼等も死に損なったようだ。
「何故俺をここに誘った? あの女狐は誰だ? 途中で連れ去った理由は?」
「質問はひとつずつってママから教わらなかったか? 答えてやっからそんな怖い顔すんなっての! いくらお前でも、存在しねぇヤツを斬れるわけねぇんだからよ!」
「試してみるか? この幻想ごと壊せば、貴様も虚無らしく静かになるだろう」
「そしたらお前も暗闇ん中に落ちて、俺ら虚無の仲間入りだな! まだ勝負の途中なんだろ? 戻りたきゃあ刀は納めたままにすんのがオススメだぜ!」
相手の態度にむかっ腹が立つも、男は刀の柄に添えていた手を下ろす。幻想にいつまでも残るつもりはないが、声の主が言うように帰れなくなるのも困る。今は素直に従うしかなかった。
「で、あの子狐チャンについてだったか? ショージキ俺も全然知らねぇんだ。暗闇ン中を彷徨ってたら、たまたま見つけたってだけでよ。お前っぽいヤツとやり合ってて楽しそうだったモンだから、じゃあ本物に合わせてやろうと思ってな! ファンサービスってヤツだ!」
「それで俺を誘ったか」
「丁度お前もオネムさんみてーだったからベストタイミングだぜ! で、どうよ? あの子狐チャンとやり合った感想は?」
「……少し見所のある女ではあった。それだけだ」
「ったく、夢ン中でぐらい素直になりゃいいじゃねーか! 追い込まれた子狐チャンから手痛く噛まれて、お前もやる気出そうとしてたろ!? おっと誤魔化す必要はねぇぜ! こっちは全部見てたんだからよ!」
ケタケタと笑い声が響き、不快に思った男はたまらず舌打ちをする。鶏肉にできないのが本当に残念だ。
しかし、少女に興味を抱いたのは事実であった。特に少女が最後に見せた力。こちらの体温を奪ってきた刀に由来するものか、少女自身が眠らせていたものか。
「......それで、何故途中で奴を連れ去った?」
「他人様の夢ン中にいつまでもいさせるわけにはいかねぇだろ? お前の悪い影響を受けでもしたら大変だからな! それに、下手すりゃ暗闇に落ちて俺等の仲間入りだ。勝手に連れてきた以上、無事に帰す義務があるってワケ」
「貴様がそんな律儀な運び屋だとは思いもしなかったな」
「オイオイ、散々運んできてやったのを忘れたか? お前を落としたことだって一回も……あー、二、三回はあったかも?」
とぼける声の主に、男は呆れてため息を吐く。
「奴を再び連れてくることは?」
「そいつは無理な相談だ! 俺が案内したのは一回限りの往復便! 追加サービスは受け付けてねぇぜ! そもそも子狐チャンを見つけたのもたまたまだったんだ。どこの『世界』にいるかもわかりゃしねぇってのに、もう一回見つけンのは骨が折れるぜ!」
「……まぁいい。退屈しのぎにはなった。それで十分としよう」
「けどまぁ、こうして一回かち合ったんだ。『縁』があればまた会えるかもな? いつになるかは知らねぇけどよ」
言葉の意図する所が気になったが、男は追求しようとせず。念の為、男は遠い過去の記憶を遡ったが身に覚えはなかった。狐を食らう趣味もない。少なくとも、自分の娘という線は無いだろう。
「んじゃ、そろそろお開きとしますか。つってもお前は、俺や子狐チャンと会ったことすら忘れちまうだろうけどナ」
「どういうことだ?」
「言ったろ? ここは夢ン中だ。それも深い深い眠りの底。自分じゃ認識できない無意識の領域さ。ま、記憶の隅っこに引っ掛かって残る可能性もあるけどな。因みに今の俺は、ここに眠ってたお前の記憶にいた俺を介して喋ってんだ。口はツンケンしながらも、俺等のことちゃーんと覚えていたとは嬉しいねぇ。詩人ちゃんもどっかにいるかもな」
「いるとしたら、いつもの公園だろう。だが、わざわざ会いに行く用事もない。さっさと俺を帰してもらおう」
「ハイハイわかりましたよ。ったく、最後まで可愛げのねぇ野郎だ。詩人ちゃんの時はもっと素直だったぜ?」
声の主はそう語りかけてきたが、男はもう話すことはないと無視を決め込む。相手はぶつくさと小言を口にしていたが、やがて声が届かなくなった。
そして、声の主と入れ替わるように、男の前に空間の裂け目が開かれた。男は腕を降ろし、裂け目に向かって歩き出す。
「じゃあな能面野郎! 弟にもよろしく言っといてくれ! また遊びに行ってやるってな!」
「……忘れていなければな」
後ろで別れの声が響く。男は振り返ることなく、裂け目の中へと入っていった。