目を開けると、天井が見えた。
木造の梁が薄暗い光に照らされ、かすかに燻ったような匂いが鼻を突く。
(……ここは?)
視界がまだぼやけている。
痛みが遅れてやってきた。
全身が鉛のように重く、肋骨に鋭い痛みが走る。
思い出した——ヴォルフガングとの戦い。
奴の一撃を受け、俺は——
「——ッ!」
身じろぎすると、痛みが容赦なく襲いかかる。
「おい、おとなしくしてろ」
低い声が聞こえた。
横を見ると、ロバートが腕を組んで椅子に座っている。
「……ロバート?」
「やっと起きたか。二日も眠りっぱなしだったぞ」
「二日……?」
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
戦闘の後、俺は意識を失い——そのままここに運ばれたらしい。
「ここは……?」
「前線から少し離れた野戦病院だ。お前が死なない程度にしぶとかったおかげでな、傷は深いが命に別状はない」
「……そっか」
安堵する間もなく、体の節々が痛む。
「まったく、無茶しやがって……。お前が死んでたら、俺たちの士気は地に落ちてたぞ」
「……そんな大層なもんじゃねぇよ」
自嘲気味に笑う。
「まあ、そう言うな。お前のことを心配してる奴は多いんだぜ」
ロバートが顎をしゃくると、入り口の方で小さな気配が動いた。
「……」
そこにいたのは——リナだった。
彼女は扉の影からじっとこちらを見つめていた。
「……リナ?」
呼びかけると、一瞬だけ目を伏せたが、すぐにこちらへ近づいてきた。
「……大丈夫?」
その問いに、ハロルドは少しだけ笑ってみせた。
「まぁな。少なくとも、生きてはいる」
「……そっか」
リナはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、彼女の瞳には何かが渦巻いていた。
(……何かが、変わった?)
スラムを焼かれ、貴族に虐げられ、逃げ場を失ったリナ。
戦場に立ち、初めて人を殺した。
その変化が、彼女の中で何を生み出したのか——ハロルドにはまだ分からなかった。
「……ハロルド」
リナが、静かに口を開いた。
「私は……戦うわ」
その声には、迷いがなかった。
「リナ……」
「貴族を……許さない」
その言葉は、氷のように冷たかった。
ハロルドは、彼女の瞳を見つめる。
そこにあるのは、怒りか、憎しみか——それとも。
(……お前は、本当にそれでいいのか?)
けれど、今はその問いを投げかけることはできなかった。
戦場は、すべてを狂わせる。
それは、リナだけではなく——自分もまた、例外ではないのだから。
夜の帳が降りた戦場。
火が灯る野営地では、負傷兵たちの呻き声と、遠くで響く狼の遠吠えが交差していた。
ハロルドは横たわりながら、自分の身体を確かめる。
(……肋骨の痛みはまだ残ってるが、動けないほどじゃない)
野戦病院に運ばれて二日が経過し、少しずつだが回復しつつあった。
「水を持ってきた」
扉が静かに開き、リナが小さな水袋を差し出した。
「……ありがとう」
ハロルドはそれを受け取り、喉を潤す。
ひんやりとした水が身体に染み渡る感覚に、わずかに息をついた。
「ちゃんと飲んでる?」
「ん……まぁな」
「ロバートに聞いたけど、怪我人は水を多めに取ったほうがいいんだって」
「……あいつ、余計なことまで喋りやがって」
苦笑しつつも、水袋を握る手に力を込める。
リナは、じっとこちらを見つめていた。
「……リナ」
「何?」
「お前、本当に……戦うつもりか?」
ハロルドは、真正面からその問いを投げかけた。
「……」
リナは、しばしの沈黙の後、小さく頷く。
「生きるために戦う……それだけよ」
「貴族への復讐のためじゃないのか?」
「……それもあるわ」
リナの瞳が揺れる。
「私は……もう逃げない」
「……そうか」
ハロルドは、それ以上は何も言えなかった。
(……俺は、こいつを戦場に立たせたくなかった)
だが、リナは既に”覚悟”を決めていた。
彼女を止める権利は、もう自分にはないのかもしれない。
リナは、短剣を静かに撫でる。
「……私は、もう迷わない」
その言葉が、まるで決別のように響いた。
夜が明けると同時に、前線では新たな戦闘の準備が進んでいた。
「バジルス軍の動きが活発になっている」
ロバートが地図を広げ、作戦会議を開く。
「敵は戦力を立て直し、再度攻勢を仕掛けるつもりだ。俺たちは、それを迎え撃つ」
「……数は?」
「おそらく、こちらの倍はいる」
「……きついな」
ハロルドは、唸るように呟いた。
しかし、それを聞いたリナは、淡々と言い放つ。
「殺せばいいんでしょう?」
その言葉に、一瞬、場が静まる。
ロバートが、驚いたようにリナを見る。
「……お前、本気で言ってんのか?」
「本気よ」
「……」
ロバートは短く息を吐く。
「お前……どこでそんな”殺し”を覚えた?」
その問いに、リナは目を伏せた。
彼女の過去は、まだ語られていない。
「……生きるために、やらなきゃいけなかったのよ」
それだけ言い残し、リナは席を立つ。
ハロルドは、彼女の背中を見送りながら、思った。
(リナ、お前は……どこまで変わるつもりだ?)
戦場は、人を変える。
その恐ろしさを、ハロルドは誰よりも知っていた。