英雄の影に生きる一般兵ハロルド   作:パパリア田中

31 / 44
敗北

 帝国軍の撤退は続いていた。

 

 戦場から離れ、ようやくバジルス軍の追撃が緩んだころには、兵士たちは皆、満身創痍だった。

 

 夜になり、森の中でようやく陣を敷く。

 

 焚き火の明かりに照らされた兵たちは、疲労困憊しながらも、わずかな安堵を得ていた。

 

「……ハロルド」

 

 リナがそっと近づいてきた。

 

「無事だったのね」

 

「ああ。お前もな」

 

 ハロルドは、リナの顔を見た。

 

 表情は無機質だったが、その瞳の奥には微かな動揺があるように見えた。

 

「……撤退中、敵兵に襲われたりしなかったか?」

 

「少しだけ。でも、なんとか切り抜けたわ」

 

 リナはそう言いながら、血の滲んだ短剣を見せた。

 

(……少し、じゃねえな)

 

 ハロルドは心の中で呟く。

 

 リナが戦闘に慣れていることは、この数日で十分理解していた。

 

 だが、それを口にするのは躊躇われた。

 

「……オーウェンは?」

 

「王都に戻ったわ。私と一緒に来るよう説得したけど、彼は残ることを選んだ」

 

「そうか」

 

 ハロルドは短く答え、焚き火を見つめた。

 

 

 

「くそっ……!」

 

 ロバートが拳を地面に叩きつけた。

 

 彼の目には悔しさが滲んでいる。

 

「俺たちは……敗けたんだな」

 

 誰もが沈黙する。

 

 戦場において敗北は死と隣り合わせだった。

 

 今回は生き延びることができたが、それが次も保証されるわけではない。

 

「このままで済むとは思えねえ」

 

 ハロルドは呟く。

 

「バジルス軍が勢いを増せば、次の戦場ではさらに不利になる」

 

「……どうする?」

 

「帝国軍が態勢を立て直すまで、俺たちは生き延びるしかねえ」

 

 誰もが厳しい現実を受け止めるしかなかった。

 

 

 

 ゲルマニア軍は敗北した。

 

 バジルス軍の猛攻に耐えきれず、撤退を余儀なくされた。

 

 戦場には、死体と燃え盛る瓦礫が散乱し、生き残った兵たちは泥と血にまみれながら必死に後方へと退いていく。

 

 ハロルドもまた、ロバートや他の兵士たちと共に撤退戦を戦っていた。

 

「くそっ、バジルス軍の追撃がしつこい!」

 

「ここで食い止めなければ、全滅するぞ!」

 

 ロバートの叫びが響く。

 

 後方に退がる途中、ゲルマニア軍は何度もバジルス軍の追撃を振り切ろうと試みた。しかし、敵は容赦なく圧力をかけ、少しでも動きの鈍った者を容赦なく討ち取っていく。

 

 ハロルドは剣を振るいながら、必死に退却路を確保していた。

 

「ぐっ……!」

 

 敵兵の槍をギリギリで躱し、喉元を切り裂く。血飛沫が飛び、敵が倒れるのを確認する間もなく、次の敵が迫ってくる。

 

(くそ……! これが“敗北”の戦場か……!)

 

 勝利を目指して戦っていた時とは違い、敗走する側の戦場は地獄そのものだった。

 

 次々と仲間が倒れ、道が死体で埋め尽くされる。

 

 戦意を失った者は即座に討ち取られ、逃げる者も背後から槍に貫かれる。

 

 それでも、ハロルドたちは生き残るために戦い、少しでも距離を稼ごうとしていた。

 

 

 

 一方、リナもまた、戦場の中にいた。

 

 彼女は血に濡れた短剣を握りしめながら、じっとバジルス軍の兵士を見つめていた。

 

(私は……どうすればいい?)

 

 逃げるべきか、戦うべきか。

 

 だが、彼女にはもう逃げる場所などなかった。

 

 スラムは焼かれ、王都には自分を殺そうとする貴族がいる。

 

 どこにも安全な場所など存在しない。

 

 ならば——

 

「……生きる」

 

 リナは小さく呟くと、目の前の敵兵へと駆け出した。

 

「なっ——!?」

 

 敵兵が気づいた時には遅かった。

 

 リナは低い姿勢で懐に飛び込み、短剣で喉を貫いた。

 

「がっ……!」

 

 敵兵が血泡を吹きながら崩れ落ちる。

 

 だが、リナの表情に恐怖はなかった。

 

(私は……生きる)

 

 そのためなら、どれだけ手を汚してもいい。

 

 どれだけ人を殺してもいい。

 

 この戦場で、生き延びるために——。

 

 

 

 やがて、ゲルマニア軍はようやくバジルス軍の追撃を振り切り、撤退を成功させた。

 

 すでに夜が明け、戦場は死臭と煙に包まれていた。

 

 ハロルドたちはボロボロになりながらも、かろうじて生き延びることができた。

 

 リナもまた、傷だらけの体で焚き火の前に座っていた。

 

「……王都には戻らないのか?」

 

 ハロルドが問いかけると、リナは焚き火を見つめたまま答えた。

 

「戻る場所なんて、もうない」

 

「それでも、スラムを焼いた貴族どもは王都にいる。お前にとって、そいつらは——」

 

「殺したいわ」

 

 リナの声には、怒りも激情もなかった。ただ、冷たく削ぎ落とされた殺意だけが宿っていた。

 

「でも、今の私じゃ、何もできない」

 

「……それで、どうする?」

 

「生きる。そして、力をつける。……復讐を果たせるくらいの力を」

 

 ハロルドは彼女の横顔を見つめ、静かに息を吐いた。

 

(……リナ、お前は変わったな)

 

 かつての彼女は、ただ生きることに必死だった。

 

 だが今、彼女は“生きる理由”を手に入れた。

 

 それは、復讐。

 

 誰かを殺すために、生きると決めたのだ。

 

「……お前がどうするかは自由だが、戦場は甘くないぞ」

 

「知ってる」

 

 リナの答えは、迷いのないものだった。

 

 

 

 ゲルマニア軍は敗北し、多くの兵士が命を落とした。

 

 だが、ハロルドとリナは生き残った。

 

 そして、彼らは戦場に残ることを選んだ。

 

 リナは復讐を果たすために、ハロルドは生きるために——。

 

 戦いはまだ、終わらない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。