ゲルマニア軍の撤退は、決して安堵のものではなかった。
敗戦による士気の低下、補給の枯渇、そして何より、追撃の恐怖。
撤退戦の中で多くの兵が倒れ、戦線を離脱した者も数え切れない。
生き延びた者たちは、泥と血に塗れたまま、疲れ果てた体を引きずりながら歩き続けた。
ハロルドもまた、剣を杖代わりにしながら歩を進めていた。
(……疲れた)
腕が重い。脚も痛む。だが、立ち止まるわけにはいかない。
彼の隣では、リナが無言で歩いていた。
かつての彼女なら、こんな状況では怯え、泣きそうになっていただろう。
だが今のリナは、ただじっと前を見据えている。
(お前は……本当に変わったな)
ハロルドは彼女の横顔を盗み見ながら、そう思った。
以前のリナにはなかった冷たい決意が、その瞳には宿っていた。
だが、それが本当に彼女にとって“良い変化”なのか——ハロルドには判断できなかった。
撤退軍の行軍は、極限状態だった。
まともな食料も水もなく、兵士たちは疲弊していく。
「……くそ、腹が減った……」
「水は……ないのか……」
飢えと渇きに耐えられなくなった兵士たちは、道端に生えている草をむさぼり、泥水をすすり始める。
それが毒草かどうかも確かめずに。
餓死よりはマシだと、本能で生き延びようとする。
しかし、その結果——
「う……ぐっ!」
「おい、どうした!? おい!!」
苦しみながら倒れる兵士が現れた。
毒草を食べてしまったのだ。
それでも、他の兵士たちはそれを見ても何も言わなかった。
皆、生きるために必死だった。
見知らぬ誰かが倒れても、自分の命の方が大事だった。
ハロルドもまた、立ち止まることなく歩き続けた。
(これが……戦場の現実、か)
死にゆく仲間を見捨てることに、罪悪感を覚える余裕すらない。
行軍の中、リナはじっと黙っていた。
だが、彼女の目はしっかりと開かれ、周囲を観察している。
「……リナ」
ハロルドが声をかけると、彼女はゆっくりと視線を向けた。
「何?」
「お前……疲れてないのか?」
「……疲れてるわよ」
淡々とした口調だったが、その目は冴えていた。
この極限の行軍の中でも、彼女はまだ生きる意志を保っている。
いや——むしろ、この状況を観察し、何かを学ぼうとしているようにも見えた。
「……お前、本当に変わったな」
「そう?」
リナはそう言って、小さく微笑んだ。
だが、その微笑みはかつてのような純粋なものではなかった。
どこか、冷たいものを孕んでいた。
ようやく、撤退軍は後方の補給拠点へとたどり着いた。
そこには、最低限の食料と水が用意されており、兵士たちは飢えた獣のように飛びついた。
ハロルドもリナも、無言でパンを口に運んだ。
生きるために。
戦争はまだ終わらない。
彼らの戦いも、まだ続いていく——。