市場の喧騒が遠のき、リナの細い腕がハロルドの袖をぎゅっと握り締める感触だけが鮮明に残る。
「……リナ?」
ハロルドは、彼女の表情を窺うように見下ろした。
リナは微笑んでいた。
だが、その微笑みはどこか危うく、壊れそうな儚さを帯びている。
「……よかった。置いていかないって、言ってくれて」
彼女の声は甘く、そしてどこか震えていた。
ハロルドは内心の違和感を拭えぬまま、静かに息を吐く。
「そんなこと、言った覚えはない」
「……嘘つき」
リナは頬を膨らませるようにして、拗ねた表情を見せた。
「さっき、『見捨てたりしない』って言ったじゃない。……だったら、ずっと一緒にいてくれるよね?」
その言葉に、ハロルドは答えられなかった。
「……そうだな」
曖昧な返答をすると、リナは満足そうに微笑み、彼の腕をそっと放す。
「ねえ、今日は何をするの?」
「まずは、隊の報告に行く。それから——」
「私も行っていい?」
リナは瞳を輝かせながら尋ねる。
しかし、ハロルドは少し考えてから首を横に振った。
「リナは休んでいろ。昨日の疲れもあるだろう」
「……」
リナはほんの少し、唇を噛む。
そして、ふっと微笑んだ。
「……うん、わかった」
素直に引き下がったことに、ハロルドは逆に違和感を覚えた。
だが、それを深く追求することはしなかった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、ハロルド」
彼が背を向けると、リナはじっとその後ろ姿を見つめた。
ハロルドは長い一日を終え、宿の自室に戻った。
報告、隊の整理、武器の手入れ——戦争の準備は常に尽きない。
(……今日は、よく眠れそうだ)
ベッドに横たわり、目を閉じる。
疲労が身体を重くし、まどろみが意識を侵食する——
そのとき——
——ぺろっ
頬に、何か湿った感触が走った。
「……?」
ハロルドは目を開ける。
暗闇の中、目の前に——リナがいた。
その瞳は妖しく光り、唇は熱を帯びた息を吐き出している。
「リナ……?」
彼が声を出そうとすると、リナの指がそっと彼の唇を塞いだ。
「しー……静かにして」
彼女は、じっとハロルドの顔を見つめる。
「ハロルド……私はね、ずっと思ってたの」
「……何を?」
リナは、ゆっくりと顔を近づける。
彼の頬に再び、彼女の舌が這う。
「……ずっと、誰も私を助けてくれなかった」
リナの声は、甘く、そしてどこか狂気を孕んでいた。
「私に優しくする人なんていなかった……みんな、みんな……」
リナの瞳には、深い暗闇が宿っている。
「でも、ハロルドは違った」
彼の胸にそっと手を添えながら、囁く。
「どんなに傷ついても、どんなに辛くても、ハロルドは私を見捨てなかった……」
「……」
「ねえ……」
リナは微笑む。
「私は、ハロルドさえいてくれたら、それでいいの」
「ハロルドさえ、私のそばにいてくれたら……もう、何もいらない」
ハロルドは息を呑んだ。
リナの言葉は、純粋な愛情と、狂気的な執着が混ざり合ったものだった。
「……リナ」
「うん?」
彼女は、小さな子供のように首を傾げる。
ハロルドは、彼女の肩を優しく掴んだ。
「お前は、俺に依存しすぎている」
「依存?」
「そうだ」
彼の言葉に、リナはきょとんとした表情を浮かべた。
しかし——
次の瞬間、彼女の唇がゆっくりと歪む。
「ふふっ……いいよ、それで」
「……リナ」
「私は、ハロルドのものだから」
彼女は、そっとハロルドの手を握り締める。
「だから……ずっと、私を見てて」
その言葉には、深い愛情と、壊れそうな危うさが滲んでいた。
ハロルドは、彼女の瞳をじっと見つめる。
(……このままじゃ、いけない)
彼は、リナにとって唯一の拠り所になってしまっている。
彼女がこれ以上、歪んでしまう前に——何とかしなければならない。
だが、どうすればいいのか……答えは、まだ見つからなかった。