英雄の影に生きる一般兵ハロルド   作:パパリア田中

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リナ

 

 部屋の中は静寂に包まれていた。

 

 ランプのかすかな明かりが揺れ、壁にぼんやりとした影を落とす。ハロルドは椅子に腰掛け、寝台に横たわる少女を見つめていた。

 

 少女はまだ眠っている。

 

 顔の腫れは幾分か引いたが、まだ痛々しい傷が残っていた。服の下に隠された痣は、触れるだけで痛みが走るほど深い。

 

 (ろくなもん食ってなかったんだろうな)

 

 痩せた腕と、骨ばった指先。それが、彼女がどんな生活をしてきたのかを物語っていた。

 

 ——腹を空かせたまま、誰にも助けを求めることもできず、ただ蹂躙される日々。

 

 スラムではよくある話だ。

 

 だが、目の前にいるこの少女が生き延びられるかどうかは、もう「よくある話」では済まされない。

 

 (さて……どうするかな)

 

 ハロルドは窓の外に視線を移した。

 

 王都の夜は静かで、遠くにかすかな喧騒が聞こえる。兵士たちの詰所から漏れる笑い声、酒場の酔客たちの怒鳴り声、そして時折響く犬の遠吠え——この街は、夜になっても人の営みが途切れることはない。

 

 だが、スラムの片隅では、多くの命が闇に呑まれていく。

 

 少女がその一人にならなかったのは、単なる偶然だったのか、それとも——

 

 「……ん」

 

 少女が微かに身じろぎした。

 

 ハロルドは椅子から立ち上がり、水の入ったカップを手に取る。

 

 「起きたか」

 

 少女はゆっくりと目を開けた。

 

 腫れの引いた方の目が、ぼんやりとハロルドを捉える。

 

 「……ここ……どこ……?」

 

 「俺の部屋だ」

 

 少女はしばらく天井を見つめていたが、やがて痛みをこらえるように身を縮めた。

 

 「水、飲めるか?」

 

 ハロルドがカップを差し出すと、少女はわずかに首を振った。

 

 「……いらない……」

 

 「そうか。じゃあ、腹は?」

 

 「……いらない……」

 

 「そうか」

 

 ハロルドはため息をつき、カップを机の上に置いた。

 

 (まあ、無理もないか)

 

 この少女がこれまでにどんな目に遭ってきたかは知らないが、少なくとも、すぐに信用してもらえるとは思っていなかった。

 

 「……おじさんは……?」

 

 「おじさんじゃねえ」

 

 「……?」

 

 「ハロルドだ」

 

 少女は少しだけ驚いたような顔をして、ゆっくりと瞬きをした。

 

 「……ハロルド……?」

 

 「ああ。お前の名前は?」

 

 少女は答えなかった。

 

 いや、答えられないのかもしれない。

 

 名前を忘れたのか、あるいは、もう「名前を持つこと」を諦めたのか。

 

 「……なかったら、適当に決めるぞ」

 

 ハロルドはふと考えた後、口を開いた。

 

 「——リナでいいか?」

 

 少女は少しだけ目を見開き、しばらく考えるように沈黙した。そして、かすかに唇を動かした。

 

 「……リナ……」

 

 その声は、驚くほど小さく、それでいて、どこか安堵したような響きがあった。

 

 「……リナ……」

 

 再び、小さく呟く。

 

 その瞬間——

 

 少女の肩が小刻みに震えた。

 

 「……っ」

 

 何かに怯えるように、両腕で自分の体を抱く。

 

 ハロルドは眉をひそめた。

 

 (悪夢でも見たか?)

 

 だが、違った。

 

 リナの目は覚めている。

 

 それなのに、彼女の瞳には、目の前の現実ではなく、過去のどこかに刻まれた恐怖が映っていた。

 

 ハロルドは静かに観察した。

 

 ——彼女の反応は、ただの恐怖ではない。

 

 戦場で、捕虜にされた女たちが見せる、あの絶望の色に似ていた。

 

 「……怖いのか?」

 

 ぽつりと尋ねると、リナはびくりと肩を揺らした。

 

 そして、小さく首を振った。

 

 ——違う。

 

 そう言いたげだった。

 

 だが、それは「怖くない」という意味ではない。

 

 「……お前が何をされたかは聞かない」

 

 リナの体が硬直する。

 

 「けど、もう誰にも触れさせない」

 

 リナはしばらく息を詰めていたが、やがて、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 「……ほんと?」

 

 震える声で問いかける。

 

 ハロルドは、短く答えた。

 

 「ああ」

 

 それだけで、リナはまた目を閉じた。

 

 だが、今度は、少しだけ穏やかな顔をしていた。

 

 ハロルドはその様子を見ながら、胸の奥に奇妙な感覚を覚えていた。

 

 (……拾っちまったな)

 

 戦場では、助けられない命がいくらでもある。

 

 だが、今回は違う。

 

 少なくとも、この一人は助けられた。

 

 「……少し休め。食えそうになったら、何か持ってきてやる」

 

 そう言って、ハロルドは椅子に腰掛けた。

 

 ランプの灯が静かに揺れ、部屋には再び静寂が戻る。

 

 少女——リナは、小さく目を閉じた。

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