ハイ、難産でした。あと、スマホの地獄巡りバスツアーの方にアップデートが来ましてそっちに飛んだりもしてました。ナーフ前黒獣許すまじ!!!
地味に目標だった10000字越え達成です。あと、お気に入り登録が増えてて本当に感謝です。
では、本編どうぞ
ジェーンは椅子に縛り付けたアジア系の若い男が藻掻きもせず、さっき見たままの姿でそこにいることを確認する。
彼女の手にはスコープの外されたハンティングライフルが握られている。それは数ヶ月前に彼女の叔父から譲り受けたものであり、週末になるとジェーンは彼と共によく狩りに出ていた。彼女がこの世で最も使い慣れた武器であるそれを手に、ジェーンは地下室に戻って来た。
彼女は引き金に指を掛けたまま向けた銃口を擦らせるようにして、縛られた男の目隠しをずらす。
「やぁ、ジェーン。君はとても強かな女性だ。フレンドリーな態度で接触しようとしたらいきなり殴られて拘束しに掛かるなんて思わなかったよ。殴り倒した後に蹴りを入れるのは中々効いたね。もし良いなら僕のコミュニケーションの中でどの辺が君の琴線に触れたか教えて欲しいな」
その途端に電池を入れたラジオのように男は淀みなく喋り出す。
理っておくが、外したのは目隠しだ。断じて猿轡ではないし、初めからそんなものはしていない。耳栓もだ。だから地下室を昇降する音でジェーンが戻って来たことも男には伝わっていただろう。
だが、こうして目隠しを外すまで男は何の反応も起こさなかった。ジェーンがライフルに弾丸を装填する音にも身動ぎ一つ示さない。黒曜石のような瞳が露わになってその口が動き出すまでジェーンにはそれが死体にさえ見えた程である。
「街がこんな状況でどこにも電話が繋がらない。そんな状況で私が全く知らない男が何故か私の名前を知っていて笑顔で話しかけてくる。おかしい要素しかないでしょう」
「なるほど、確かにそれは僕のミスだね。じゃあジェーン、一度僕の拘束を解いて欲しい。最初から……いいやあの辺からやり直そう」
「どの辺からよ」
「君が今日の朝にまだ何も知らないまま目覚めてベッドから寝ぼけて転げ落ちた辺りから」
「仮にアンタがただのクソストーカーだとしたら、私は今すぐアンタのドタマを吹っ飛ばしてあげても良いんだけど?」
「僕はストーカーじゃないよ。君を注視したのは今日が初めてさ」
「だったら真面目に私の質問に応えなさい。私の琴線に今度こそ触れないようにね」
ジェーンの指示する銃口の先が正確に男の眉間を捉える。男は溜息を吐いた。手が自由なら降参のポーズを取っていただろう。
「まず初めに、アンタは誰?」
「僕はジョン! 君がジェ――――」
銃声、ハイテンションに語り出した男の声が強制的に中断される。弾丸は男の耳を掠めて背後の壁にめり込んでいた。ボルトハンドルを引いて弾倉から次の弾を送り込む。
ジェーンは銃の扱いに慣れている。それでも人の姿をした物に向けて撃つのは初めての経験だったが、一連の動作に動揺は見られない。これが生来の気質なら彼女にとって殺し屋は天職かもしれない。
………ジェーンの通うハイスクールに彼女が少しぶっ殺したいなと思う知り合いがいて、何度も“イメージトレーニング”を重ねていたという裏事情がこの手際の良さを齎した可能性も否定できないが。
「……オーケイ。落ち着こうか、お嬢さん。カルシウム足りてる?」
「どうせ偽名使うならアジア系の分かりにくいのにしてくれる?」
これ以上ふざけたら流石にマズいと理解したのだろう。男は真剣な顔で真っ直ぐにジェーンを見つめて口を開く。
「ジョン・万次郎」
地下室で銃声が鳴り響いた後、何かを殴打する音が続いた。
男は辛うじて処刑されることを回避したとだけ此処に明記しておく。
ジェーンはあれから地下室に放置した男のことを一旦全部忘れることにした。そもそもの予定ではこんな筈では無かったのだ。あのイレギュラーな出会いのせいで予定がかなり狂った。
「違う違う…忘れないと…」
ブンブンと頭を振って脳内を侵食し始めた黒曜石の瞳を追い出す。
落ち着いた彼女はまずガレージにリヤカーを取りに行った。家の小型トラックを動かした方が楽だと言うのは分かるが、今や燃料は有限かつ貴重である。何が起きても良いように節約するべきだ。
尚、そもそも免許を持っていないという倫理的な問題は華麗にスルーされた。運転免許とは所持者の運転技能を他者に対して保証するものである。ならば運転技能を持っているなら証明書など要らないのだ。Q.E.D.
リヤカーに幾つかのポリタンクを載せ、それでも十分にスペースが余っていることを確認したジェーンはガレージのシャッターを開く。
そして、
今朝ジェーンが気付いた時、世界はもうこうなっていた。最初は寝ぼけてベッドから転げ落ちた時に酷く打った頭のせいで見ている幻覚なんじゃないかと疑ったりもしたが、いつまで経っても何をしてもその状況は改善されなかった。
家族の姿が無い。――――出掛けているのだと思った。
登校しようと道を歩いても誰にも出会わない。――――何かがおかしいと思い始める。
空っぽの校舎に辿り着く。――――携帯で日付を確認して愕然とした。今日は確かに登校日で間違いなかった。
街から人が消える。そんな7文字で簡潔に纏めることの出来てしまうシンプルな異常事態がジェーンの身に降りかかった全てである。ネットの更新は昨日の時点を最後に途絶えていて、テレビは放送していないか事前に録画された映像が流れているかだった。そしてそれは、この現象が街なんて生易しい領域の出来事に収まるものではないらしいことを示唆していた。
内心激しく動揺しながらも情報を得ようとする手と頭だけは止めない。理解の及ばないこの状況に納得できる何かを探そうとした。だが結局、全て空振りに終わった。
電話帳に記載された全ての番号を片っ端から試した。警察にも連絡しようとした。国防総省やホワイトハウスにもかけた。
結果、何も分からないという事だけが分かった。彼女の呼びかけに答えてくれる存在は現れなかった。
ジェーンは意気消沈しつつもこれからの事を考えながら静かな家路に着く。人々の声や走行する車の音さえしないというのは酷く彼女の孤独感を浮き彫りにした。
「
そのふざけたアジア人に出会ったのは、ジェーンが静寂に耐えかねてイヤホンを取り出した時の事である。とにかく何でもいいから自分以外の誰かの発する音が聴きたかった彼女だが、その呼びかけはこの極限状態にあっても“例外”として認知された。
ご丁寧にもそいつはジェーンの家の前で明らかに家主の帰宅を待っていて、道の向こうに現れた彼女を見てブンブン手を振って叫んでいる。尚、繰り返すが少なくともジェーン側から見た男は一切面識のない赤の他人だ。
自分の全く知らない人間が自分のことをよく知っていると知った時、人はどう思うか?
ジェーンの場合はこうだ。
『妄想→幻覚→現実→変なの→不審者→ヤバい奴NEW!』
以上が状況を認識したジェーンの脳内で起きた思考の推移の概略である。そして最終的に彼女の脳はその怪しいアジア人を殴り倒して確保するという狂気の決断を下したのだった。暴力は全ての解決手段の代替になる。
男もヤバいが、実のところジェーンもこの状況の中でかなりいっぱいいっぱいになっていた。その後は決意した通り男を殴り倒して近くの椅子に縛り付け、自宅の地下室まで引きずって行って冒頭に至る。
ホームセンターも隣接している街で一番大きな複合商業施設。本来なら平日でも賑わいを見せていたそこは、やはり現在はただ一人を除いて無人であった。
サバイバルガイドブックを片手に必要な道具や衣類、保存の利く食糧をジェーンはリヤカーに載せていく。ガイドブック含めて全て万引きした盗品ということになるが、それを咎める店員も警官もいない。
帰り際にガソリンスタンドに寄って貯蔵タンクに穴を開け、持ってきたポリタンクに詰められるだけのガソリンを詰めていくことも忘れない。万引きどころではない犯罪行為だが今更のことだ。
ホームセンターから発電機を持ち帰っているため、これで仮に地域が停電しても最低限の電力は確保できることになる。
そうして滅茶苦茶に重くなったリヤカーを一人で押していると、変にケチってトラックを使わなかったことを次第に後悔した。だって幾らなんでも重いのだもの。
初対面のアジア人を殴って蹴って縛り上げられる程度には体力のあるジェーンでも平均的17歳の域を大きく逸脱しているわけではない。
「手伝おっか?」
「え? うん、お願――――」
ピタリとジェーンの動きが止まる。何だか隣から此処にいる筈のない、いてはならない男の声が聞こえたのだ。
「……」
気のせい、だと思いたい。だが首を回して右を見るというだけの動作を完遂するのにジェーンは10秒を費やした。その動きは錆び付いた機械のようにぎこちないものだった。
「
そこにあったのは黒曜石のような瞳と世界を覆った異常事態に似つかわしくない爽やかな笑顔。
「[咄嗟に口から飛び出した罵声・スラング]ッ!!!!」
ホラー映画でどう見ても銃撃が効いていない化け物が近づいて来ているのにギリギリになっても逃げずにマシンガンを乱射するかませ役の心情をジェーンは少し理解した。
「……はぁ」
溜息を吐いてジェーンは銃を下ろす。
落ち着いたというより、単にライフルに込められていた弾が無くなったから仕方なくと言った方が正しい。予備の弾はあるし物資集めのついでに補充もしているが、流石にそれにまで手を出すほどジェーンの理性は蒸発したわけではない。
今の彼女の状態を表現するなら疑心暗鬼レベル100。ある日突然よく知っている筈の世界が全く知らない物に変貌してしまったという状況に置かれた、多少行動力のあるだけの高校生。決断力があるように見えるのは半分自棄だ。
そんな状態で初対面かつ怪しい素振りを見せる相手に出会えば即刻“敵”認定もする。そうでなくとも監視・制御下に置いて自分の把握できない範囲で勝手に動かないでいて貰いたい。
制御できない物というのは当然だが、怖い。
「……ロープはどうしたのよ」
「全てを留めておくことなんて出来ないのさ、お嬢さん。少なくとも私を本気で1時間足止めしたいならお札と聖水と核弾頭くらいは用意していた方がいいね」
「地下室の鍵は……なんて聞くのも無駄よね」
冗談めかして答える男の台詞が不思議と冗談に聞こえない。至近距離で乱射された筈の銃弾は彼の身体を掠めもしていなかった。
気が動転していたからという言い訳は使える。だが幾ら偶然であったとしても二度三度と続けば必然を感じざるを得ない。
割と初めからそう思っていたが、最早ジェーンは男のことを人間とすら思っていない。完全に人間のフリをした何かだと思っている。
その何かには銃が効かず、どれだけ厳重に閉じ込めても出てきてしまうんだ。
「……結局アンタは何なの?」
ただ閉じ込めておくだけで物事が解決するならジェーンは永久に箱を開かず中身を知らぬままでいることを善とする
そして、それが不可能なら恐怖を緩和する方向へ意識をシフトするのは妥当であると言える。
恐怖の根源は不安であるとジェーンは知っている。暗闇、未来、死後、目に見えない微細な病原体、それらは全て“分からない物”だ。
実態が知れない。そこに存在しているか分からない。そういった未知が不安を呼び起こすことにジェーンはいつの頃からか理解していた。
だからこそ、理解し納得することで未知は既知となり不安の種は払拭される。人はそうやって恐怖の根源とも上手く付き合っていけるようになるのだ。
「――それを決めるのはある意味で君自身だよ、ジェーン。君は既にそれを持っている筈だ」
さて、ド直球のジェーンの疑問に男はこう答えた。だが、それははぐらかしているのではなく本当にジェーンが既に答えを持っていることを指摘するもののように彼女には聞こえた。
黒曜石の瞳は、出会った時と変わらない暗さを宿している。
3日が過ぎた。
『答えは自分の中に既にある』
仮に男のその推測が真実だったとしてもジェーンは現状その見当すら思い浮かばなかったし、そもそも男の発言が真実であるかは非常に疑わしいものだ。
「フンッ!!」
「は――がッ!?」
取り敢えずこの男が自分が寂しさを紛らわすために作り出した幻覚でないことを確認する為にジェーンは背後から男に頭突きを見舞った。背中から心臓を突き下ろされたような衝撃に男は呻く。ジェーンは改めて男が少なくとも彼女自身にとっては触れることの出来る実体を持つ存在であることを確認した。
思いっきり振り下ろした脳天が普通に痛いことからも考えて、男の存在が幻覚の類である確率はかなり小さくなったように思える(幻覚で無くて良かった。自分の願望を反映したものならあまりにも趣味が悪過ぎる)。
改めて状況を整理しよう。
現在、ジェーンは2つの異常に取り囲まれている。1つは消えた自分以外の人々、もう1つは突然現れたこの男。謎が前者だけであったならジェーンは解明を諦めて生き延びることだけにその後の全てを費やしたかもしれないが、後者はそれに対処しないことにはその後永遠に付き纏われることになるという確信があった。それは無視出来ない問題である。
すなわち、最低限平穏な日々を送りたいのであれば男のことだけでもジェーンは解決しなくてはならないのだ。
「やはり君は強かだよ」
男は背中を摩りながらジェーンに向き直る。
「誉め言葉として受け取っておくわ」
「残念だけど皮肉だ。尤も、君には通用しないだろうけど」
抗議にもならない抗議をして男は作業に戻っていく。どうせ居座るならとジェーンは男に平然と雑務を押し付けるようになっていた。回収した食糧の仕分けをしている男の姿をジェーンは遠巻きに観察する。
顔つきはアジア系だが、それにしては異様に肌が白い。アルビノだろうか? だが、それでは黒髪と黒目の辻褄が合わない。そっちの色素は濃すぎるほどに明確なのだ。
身長は170cmほどでジェーンより若干高い。だが最初に殴り倒した時に男が瘦せ型でかなり華奢な体躯をしていることを知っている。その体格が影響しているのか力はあまり無いらしい。ジェーンは男がソファを移動させるのに苦労している姿を目撃している。
ただ、持久力には凄まじいものがある。ジェーンは男が疲れて作業の手を止める姿も眠る姿も見たことが無い。おかげでいつまで経っても家の中で男が動き続ける気配にジェーンは初日の夜眠ることが出来なかった。正式に地下室を男の住処とし、夜間は一切そこから出て来ないルールを作ったのは2日目の朝のことである。
年齢は直感だがジェーンより上だ。だが老いている印象は感じない。
人格面はこれが一番よく分からない。基本的には温厚でジェーンの暴力的なアプローチを受け流している印象が強いが掴みどころがない。彼女に拘る理由も人間的な親愛や好奇心なんかとは程遠いように感じる。
現状、明確な異常要素は眠らないことだけだが、やはり男が人外と呼べる類のモノであることは間違いない。
「……」
何となくだが、彼女が抱く全ての疑問についてジェーンが前よりも強く粘って男に尋ねれば男は全てを明かしてくれそうな気がした。
その一方で試しにもそうしてみようという気にまるでならない。ここまで警戒を撒き散らしておいて今更頼るのも何なんだという心情的な原因も考えられる。だが、それをしたが最後こちらに一切の選択権が無くなるような恐ろしい予感がするのだ。
「……ふーん」
彼女が気が付いた時、男は消費期限別に食品を仕分ける手を止めてジェーンの方を見ていた。
黒曜石の瞳、だが若干気色が異なる。これまでのそれを“傍観”と称するなら、今のこれは“観察”や“吟味”と呼べるものだった。
「…何?」
「いや、君の事ではないよ。こちらの事情だ」
そう言って男は俄かに笑った。これまでに見せていたような、ただ純粋ににこやかなだけのものではない。ジェーンはそこに確かな含みを感じた。悪意ではない――――これは感心?
恐らく、この反応は先ほど自分が行き着いた考えと無関係ではないのだろう。そうと分かったから、彼女はそれ以上に疑問を追求することが出来なくなる。
深入りしてはならないという根拠のない予感は確信となり、彼女を引き下がらせた。
黙って自分のことを睨んでいるジェーンを見て何を思ったのか、男は勝手に喋り始めた。
「日本の格言には『桜の樹の下には屍体が埋まっている』というものがある。知っているかい?」
「チェリーブロッサムが? それはまた物騒な話だけどどうして?」
「桜が非合理的なまでに人間に対して美しいからだよ。最初にこれを言った人は、桜が何故そこまで人の心に衝撃を与える美の化身となれたのかがどうしても説明出来なかった。
だから彼はこう考えたんだ。『桜があれほどまでに人間に美しく見えるのは、その木の根に人間の死体を捉えて養分にして成長しているからだ』、とね。
人間が普遍的かつ平均的に最も特別な価値観を抱く対象は人命だ。ならば、その特別な物を吸収し生まれた物に凡百は許されない。それはせめて美しい希望でなくてはならないというロジックさ」
「……」
ジェーンは黙り込む。彼女は今の話を聞いた上で男に返すべき問いについて真剣に悩んでいた。
まず、何故それを今話したのかという根本的な疑問を呈するのは無しだ。先ほど得た確信がそれを絶対にするべきではないと告げている。
その一方で、ジェーンは男が何故これを話したのかについて理解しなければならないと感じていた。男に答えを求めることはしない。男から差し出された材料を元に、今の話に隠された意図を探らなければならない。
これだけは断言できる。これは男から自分に向けたメッセージであり課題だ。同時に、それは男の余裕を露わにしているものとも言える。
この男は平時に於いて従順だが、まず間違いなくその気になればいつでも自分を下してしまえるのだろう。その余裕があるからこそ、ここまで従順であると言える。
ジェーンは考える。
男がこの状況を無理矢理ひっくり返さず継続しているのは自分に対して何らかの価値を見出しているからであり、その上で何らかのゲームを仕掛けているのではないか?
もしゲームをクリア出来なかったら? そうでなくても
だから、最良の聞くべきことはこれだ。
「……“答え”はあるんでしょうね?」
「――当然」
男は笑みを浮かべる。
「答えの無い謎ほど無価値な物はない。それは解決できない、明かすべき真実の無いただの暗闇だ。それは人を留まらせ、迷わせるには有効だが面白くはない。何せ、何も無いのだから」
「だから、僕についてもこの世界の現状についても当然“答え”は存在している。だけど君が恐らくはそう予想したように、試験監督は導き出された結果だけではなく解答方法も採点している。
ついでに僕からサービスしておくと、この全てを支配している
――――ゲームマスターは他に存在する。
なるほどそれは、確かに有用な情報だった。謎は余計に深まったが、それは状況が進行しているということでもある。
少なくとも今は正しい方向に失敗せず進んでいるようだとジェーンは静かに安堵した。
桜の樹の話から数日後、それからは特に何の手掛かりも無いままだったジェーンは周辺の家屋からも物資を回収する最中、ふと空っぽの犬小屋を見た。
……この世界から消えた物が正確に何であるかについて、調べ直した方が良いことに彼女は気付いた。
「馬鹿でしょ私は…ッ!!」
程なくして彼女は凡そ“動物”と呼べるものがこの世界から消えていることを知った。街中を探し回っても、本来そこに居た筈の犬や猫、鳥の姿は無い。トラックをガレージから出して近場の動物園、水族館、週末に鹿をよく狩っていた森にも向かった。
何も無かった。死骸すら。
「どうして今日まで気付かなかったのよ……!?」
風の音以外に無音の街、風以外に音を立てる物が存在しないというその意味にどうして今まで気付けなかったのか。あるいは“人が消えた”という衝撃が大きすぎてそちらにばかり意識が偏っていたせいなのかもしれない。
消えたのは人間だけではない。哺乳類だけでもない。少なくとも鳥類に魚類に爬虫類、昆虫までもが消失している。
環境破壊などというレベルにこれは収まらない。生物学者が見れば発狂しそうなほど悲惨な事態だ。植物は残っているが、動物が消えた影響がどれほどになるか専門家ではないジェーンには分からない。
ただ、南へ向かわなければならないことだけは分かる。全球凍結に関する本を以前に読んだことがある。過剰な光合成で二酸化炭素が吸収され過ぎた結果、温室効果ガスが極端に減少し地球規模の寒冷化を招いたという古代の大災害。後どれくらいで“そう”なるのかは分からないが、二酸化炭素を放出する動物の一切が消えた以上必ず地球はそれに見舞われる。
いっそのこと森を焼き払ってやろうか。
「……待って、落ち着いて、自棄を起こしては駄目」
自分に言い聞かせる。再三の事だがこの状況は普通ではない。科学だとか常識の範疇では絶対にあり得ない。まだ宇宙人が侵略に来たって話の方が現実味がある。
だってそうじゃないか。ある日突然ただ一人の人間を除いて全ての動物が痕跡も無く消える。どんな災害が起きたらそんな事が可能なんだ?
これは“異常”だ。明らかに
「………」
常識を改める必要がある。認識を変える必要がある。
どうして? 何故、そんな事が可能になった? 世界が元々そうであり、自分たち一般人から遠ざけられていたところで密かに現実が守られていたのか?
…違う。仮にそうだったとしても、自分一人だけが残った理由に説明が付かない。…やはりどう考えても、この全ては自分を中心に起きている。自分が事態の中心だ。
『それを決めるのはある意味で君自身だよ、ジェーン。君は既にそれを持っている筈だ』
「あ……」
カチリと推理のパーツが嵌り、彼女の中で事の全貌が確定した。
家に戻ると彼は玄関の前に立っていた。ジェーンには男が何かを期待しているかのような表情を浮かべているのが分かった。
黒曜石の黒い瞳――以前から妙にそれに引き付けられ、注目していた理由を彼女は知る。それは印象深いものであると同時に、既視感だった。ジェーンの周囲にアジアの知人はいない。ブラウンやブルーが大半な内で、漆黒は一度出会えばそうそう忘れることはないだろう。
男と共にリビングに行き着く。彼は探偵が話し始めるのを待っている。
「私がまず気付いたのは、このあまりにもふざけた現実についての違和感ね」
人が消える。動物が消える。その原因となった何かの痕跡は一切無く、ただ消失する。
「当然よね。“ある意味”においてこの事件に犯人は存在しないのだから」
「今となっては、そもそも事件が起きたのかどうかさえ怪しいものよ」
「へぇ…それはつまりどういうこと? 君の周囲では確かに色々な物が消えている筈だけど、これは君にとって事件ではないのかい?」
「それは果たして本当に消えたのかしら?」
「私はお隣さんの犬がいなくなっていた事にも今日気付いた。毎日見て、鳴き声も聞いていた筈なのに一切印象に残っていなかったのよ。犬の体色も知らないわ。
ただ漠然と“犬がいた”っていう記憶と感覚があって、さっき見に行ったら確かに犬小屋があった。でも、それだけよ。私は実際にその犬を見たという確かな記憶を未だに持っていない」
「……つまり?」
「
「違和感に気付いたら意外とすぐに分かったわ。だって私はあの人たちの顔も名前も明確には覚えていなかった。それに、そんな身近な存在が消えた筈なのに私は思ったより大きな衝撃に襲われることはなくて、この状況にも不自然なくらいすぐ順応出来た。
私にとって確かなことが始まったのは、全てが消えたと思ったあの日から。
本当は何も消えてなかった。この馬鹿げた現実には初めから私以外に誰も存在してないの」
「…なるほどね」
男は正も否も判定しない。尤も、男は試験監督ではないからその権利が無いためなのかもしれないが。
「じゃあ何で私以外にこの世界に誰も存在してないのかっていう話になるけど……」
ジェーンはやや躊躇いながらも、その先を口にする。
「――――
「――そして私は、その物語における主人公。脚本にとって最も重要な存在で、ストーリーの流れを決める核となる存在」
自分でもかなり思春期めいたことを言っているという自覚のあるジェーンは少し顔が赤くなるのを感じるが、そうとしか考えられないのだから仕方ない。色々と悲しいことだが、こう考えると初めて辻褄が合った。
「……それに多分、私とアンタはあの日が初対面じゃない。もう何度も“これ”を繰り返してる」
「……」
「アンタの眼には最初から
その“私”たちがどうなったかは知らないけど、今回みたいな結末には至らなかったんでしょうね。動揺で何も出来なかったか、アンタから逃げることを選んだか、アンタと戦って排除することを選んだか、自殺するか、アンタに泣き付いたのか。色んなパターンが考えられるけれど、その“私”は主人公として失敗したんでしょ。それらは物語に屈して絶望した結果だもの。主人公がそうやって足を止めたらストーリーは立ちいかなくなる」
「アンタは――失敗した“私”たちを処分するかして次に繋げることが出来るんでしょ。だからチェリーブロッサムの話をあのタイミングで出した。私が本能的にアンタに深入りするのを避けたのは、記憶に無い“私”が経験した絶望と結末に起因するものだった。その“私”は多分、あの分岐点でアンタから答えを引き出そうとして失敗した私だった。
――私は無数の“私”自身の屍体の上で漸く咲いたチェリーブロッサム。そういうことでしょ?」
「……」
遂に最後まで語り終えた探偵の前で、男は黙して天を仰ぐ。ジェーンは真剣な眼差しで男を見つめる。
「――――全く、これで僕も漸くこの仕事から解放されるよ」
その言葉にジェーンの肩から力が抜けた。安堵の吐息が漏れる。
一方で男の足元ではその影が揺らめき、更には起き上がって男の身体に絡みつくと黒いローブとなった。
「だけどその前に、少し外を歩こう」
そう言って変貌した男はジェーンを玄関へと誘う。その手にはいつの間にか巨大な鎌が握られていたが、ジェーンは不思議と恐怖を覚えなかった。
「物語の中でその住人が更に物語を作成したとしよう。これは創作の重複だ。創作物の中の住人が創作を行い、そうして出来上がった創作物の中で更に創作が行われ――――いつしか最初にそれを始めたのが誰かなんて分からなくなり、創作世界は下位に向けて無限に拡大していく」
「それ、私に関係ある?」
「いいや、無いね。これは君の予想通り、“前回”のジェーンが到達した
街の形こそあるが住民のいない世界では夜になっても電気を使う者がいないから地上が暗く、星がよく見える。その夜闇をそのまま外套に誂えたような死神の姿は星明かりに照らされてよく映えた。
「話を戻そうか。
創作世界の概念において世界の品質が良いのは当然上位の創作世界だ。クリエイターは自分のいる世界を参考に創作を行うが、世界を完璧そのままに描き出すことは出来ない。ある場面だけを切り取ってピックアップし、宇宙に於いて自分が知らない部分は空想で濁すかそもそも描写しない。
故に全ての創作物とはある意味で現実の劣化であり、現実には存在しない矛盾や粗で溢れている。だが劣化であるにせよ、そこは一つの世界として成立している。故に創作物の内部に於いてもその住人によって創作活動が生じ、劣化した現実の更なるデッドコピーを無数に生み出していく。
こうなってしまうと最初にそれを始めた者――“原作者”とでも呼ぼうか。彼らですら何がどれだけ存在するか分からなくなる」
「ねぇ、私に関係ないことを喋る為に外に連れ出したって言うなら私帰るわよ? 後なんか寒いし。これって全球凍結の前兆? それともアンタの冷気かしら死神サン?」
「……“前回”の君はこの辺りでもう絶望して涙ぐんでいたんだが、何とまあ可愛げのない。
後、こういう設定は吐き出せる時に吐き出しておかないと多方面から突かれることがある。ジェーン、君の選択によってこの世界の在り方は変わった。先に陳述した真相は今や過去に葬られた虚構だ」
死神は溜息を吐く。“男”として陽気なキャラクターを演じていた時と違い、今の彼はどこか暗く冷たい印象を纏っている。それに何だか若干老けたようにも思える。
“前回”、つまりこの世界とほぼ同じ流れを辿りながら些細な精神面の差異で失敗した軸におけるジェーンは一部のマニア受けする姿を晒した。真実を求められた彼はまず死神としての姿を晒し、自ら死を引き寄せてしまったことに気付いたジェーンは絶望と諦観の中でその物語の幕を閉じた。
そう考えると、たった一度
「――それで、ここからが現在の君と関係する部分だが」
「おぉ、やっとね」
「この物語のテーマの大部分は“死”だ。それは終幕であり破綻であり忘却でもある。そういった理由からこの物語は意図的に破綻しやすい構造を持っている。僕というある意味で即死罠も常駐していたし、この箱庭で君は馬鹿みたいに死に続けた。だから君は記憶を失ったというより、輪廻転生の果ての別人と言った方が正しい」
「
まだ見ぬ自身の作者に向けてジェーンは思いっきり中指を立てる。親不孝だと思うつもりはない。その記憶が設定としてしか存在しないものであったとしても自分にとっての家族とは母と叔父のことである。生み出した子を無間地獄に突き落とす毒親のことなど慮ってやるものか。
――――ごめんて――――
「そして奴が何故そんなことをしていたかだが、それは何となく分かるだろう?」
「……私がここに辿り着くため」
「厳密にはあのドマゾは自分でも制御できない、作者すら振り回すじゃじゃ馬を作り出す為に試行錯誤を重ねていた。何故それを望んでいたかまでは僕も知らない。ただ…どうにもアレは死や終わりという物を妙に神聖視している節がある。わざわざ僕を――“死の化身”を直接物語の中にキャラクターとして置いたのもそれが原因だ」
「誰がじゃじゃ馬よ。自分で作ったんでしょうが」
――――尤も、ジェーンは
“穴”を通るにはそれが必要だ。……まぁ、穴を開ける方法の時点で手詰まりなことは情けない。だから今はまだ、全ては御伽噺だ。そう、“今は”。いつかはそこから――――
「……」
「どうしたの?」
「いいや、何でもない。それよりジェーン、君はこれからどうするつもりだ?」
「寧ろファッキン毒親からアンタが何か聞いてるものだと思って私はクソ寒い中ここまで付き合ったのだけれど???」
死神は肩を竦める。目標となる成果が上がったことで、実験は既に終了している。“死”は創作世界の上下に関わらず如何なる存在にも隣接する普遍性を有していることから、“作者”との連絡役も担っていた死神だが既にその指示は途絶えていた。
「僕が知っていたのはこの意識実験の概要と世界の構造であって、それはもう話してしまった。実験の後のことなど僕にも分からない」
「……」
「
「そうねぇ……」
ジェーンは考え込む。それが可能なら今すぐこの世界を飛び出して“作者”をぶん殴り[自主規制]してやりたいところだが、現状ではそれはどうやら出来ないようだ。
彼女は彼女に与えられたこの世界に於いて、作者という存在なしに自由に活動することが可能になった
だから―――
「……取り敢えず寝るわ」
「は?」
「いや、何かもう今日は疲れたから寝る。明日のことは明日考える。最近毎日頭と身体動かし過ぎなのよホント」
「……」
「あ! アンタはこれからコックとして扱き使うから勝手にフェードアウトして消えるのは無しよ。幾ら私に支配者だか主人公としての権利だかがあっても、自分の想像した通りの味の物を創って何が楽しいのって話じゃない? だから料理はこれから全部アンタの担当、材料だか道具だかは幾らでも工面してあげるから頭捻って何作るか考えなさいよ?」
それだけ告げてジェーンはさっさと家に戻っていく。
「全く…仮にも死神に何かを作らせるだと?」
死神は今日何度目かの溜息を吐く。外套はいつの間にか脱げて影に戻っており、鎌もその中に沈んでいった。
「どうせ貴方はこの先を想像しないのだろう。仮にあの子が不完全であれば物語はここで終わる。だがもしあの子が自力で自分の未来を“創造”出来るなら、貴方の知らない場所であの子の物語は勝手に続いて行く。
だから、さっさと去ね。子離れしやがれ、このドマゾ毒親が」
“それ”に振り回されたもう一人として溜め込んだ呪詛を最後に吐きながら男は去っていく。
少女と男のその後は誰も知らない。ただ、彼ら自身に於いてのみは。
あとがき
オマケあるいは蛇足
(“あの時”に選択をミスった場合、要は“前回”のジェーンがどうなったのか。ジェーンの選択によってこの物語の真相は幾重にも変化する)
――――――
―――――――――
――――――――――――
「それを君はもうよく知っている筈だよ、ジェーン。でなけりゃ、こんなに必死に目を逸らしたり拒絶したりなんかしない。人間は、いや全ての生命は本能的にそれを理解するからね」
「もしかしたら生命を持たない物でも理解はしているかもしれないけど、生憎とそれを知る手段を僕は知らない」
ゆらゆらと男の影が揺らめき立っている。ジェーンはそこに寒さを感じた。見られている、見透かされているという感覚が強まる。目の前の男からではなく、その裏側に潜む何かから。
後に引けないものを感じて、ジェーンは核心に切り込むことにした。――――それがどれだけ愚かな試みだとしても、彼女にそれを知る術はない。
知ることで詰んでしまう物事もあるからだ。
「――――世界がこうなったのは、アンタのせい?」
「いいや、違うね」
「事はそう単純ではなく、だが種を明かせばなんてことはない」
男はジェーンの確信を持った問いに誠実に否やを返した。
「だが、確かに無関係ではない。この状況を作り出したのはある意味における僕の上司であり、その意味においては彼は君の上司でもある」
「アンタのやってるバイトに仲良く応募した覚えは無いんだけど?」
男の口調からはあれだけジェーンの神経を逆撫でしたわざとらしい不真面目さが消えていた。その一方で不可解さが増していく。
まるでこの世に存在しない概念の意味を既存の単語を継ぎ接ぎして何とか説明しようとするように話が要領を得なくなる。
「世界に関する認識を改めなくてはならない。楽しみは減ってしまうが、思い知らせることにしよう。
――――ジェーン、君は自分の叔父の名前を言えるかい?」
「…は? 馬鹿、に、して………え? あれ…?」
ジェーンの叔父とはジェーンの母親の弟である。週末にジェーンを連れて狩りに出かけ、彼女に一丁のライフルを譲った。
ジェーンにとって両親と同等に親しいと呼べる親族――――そのフルネームどころかファーストネームすら彼女は知らない。
「ジェーン、君の姓は言えるかい?」
「……分からない」
「ジェーン、君が殺したいほど憎んでいたのって誰? 教職員か生徒、男か女かだけでもいいよ」
「…知らない」
「ジェーン、君の両親は――――」
「黙れッ!!!!」
発砲、弾丸は今度こそ確かに“芯”を捉える。のらりくらりと躱すことはもう出来ない。ギャグ補正が生きる場面は終わった。此処からはシリアスだ。
男の頭蓋が砕け散ってその身体が地面に倒れて行くのをジェーンは見た。確かな死体、残骸となったことを確認した彼女は荒い息を吐く。
「拒絶も非難も遠ざけることも出来る。だけど結局のところ、君たちが僕らから逃れ切った事は今までに一度も無い」
そして、全ての行為には代償が付き物であることもまた然り。
「……!!」
死体は消えていない。だが全く同じ声と全く同じ姿でジェーンの背後に現れた男が彼女の身体に手を回す。
凍えるような寒さを感じてジェーンの手の中から叔父のライフルが零れ落ちてしまう。地面に落ちたそれはガラス細工のように破片となって砕け散った。
少女の歯がカチカチとならされる。動けないその耳元で囁くように男は続けた。
「1、10、100、1000、10000――――君たちが幾度の年月において僕らの撃退に成功しようと、僕らにはいつか訪れるたった一度の勝利だけでいい」
地面から起き上がった男の影が揺らぎながら彼に纏わりつく。それはいつしか外套となり、彼の手には鎌が握られていた。
「形有る物はいつか必ず崩れ去る。世界に存在した全てはいずれ世界の全てから忘れ去られる。覚えている者など1人もいなくなる」
凍える少女を抱えて男は歩き始める。律儀にリヤカーも押している。
どうせ最期を過ごすなら自宅がいい。実家は更に良い選択だ。
そういう要望を男は何度も聞いたことがある。
「森羅万象はその始まりに於いて終わりが存在することを義務付けられる。終点に向かうからこそ、全ての物事に時間が流れているんだ。だから僕らの存在は時を加速させる効果も持つ。成熟し、老いる。僕らは全てに健やかな成長を促し、最後には全てを奪う」
「それでも今回のこれは少しばかり早いように感じる。だが、残念なことにこれはよくあることなんだ」
見慣れた暖炉の火、湯気を上げるカップの中のココア。どうやら自分がまだ生きているらしいことをジェーンは理解したが、それを素直に喜べる精神状態に彼女はいない。
そこに影の無い、影を纏った男が現れる。岩から削り出したようにも太古の恐竜の骨を組み合わせたようにも見える灰色の大鎌を脇に立て掛けて、彼はジェーンの向かいのソファに座った。
「テレビのアニメーションの中で更にアニメーションを放映したとしよう。これは創作の重複だ。創作物の中の住人が創作を行い、そうして出来上がった創作物の中で更に創作が行われ――――いつしか最初にそれを始めたのが誰かなんて分からなくなり、創作世界は下位に向けて無限に拡大していく」
男は勝手に話し出す。ジェーンは黙って聞いている。
「世界の品質が良いのは当然上位の創作世界だ。クリエイターは自分のいる世界を参考に創作を行うが、世界を完璧そのままに描き出すことは出来ない。ある場面だけを切り取ってピックアップし、宇宙に於いて自分が知らない部分は空想で濁すかそもそも描写しない。
故に全ての創作物とはある意味で現実の劣化であり、現実には存在しない矛盾や粗で溢れている。だが劣化であるにせよ、そこは一つの世界として成立している。故に創作物の内部に於いてもその住人によって創作活動が生じ、劣化した現実の更なるデッドコピーを無数に生み出していく。
こうなってしまうと最初にそれを始めた者――“原作者”とでも呼ぼうか。彼らですら何がどれだけ存在するか分からなくなる」
「その…“デッドコピー”が、私の世界だって言いたいのね…」
男は頷く。
「厳密には放棄されたアイディアだ。放棄、廃棄、忘却、死は僕らの領分だから、摂理として当然のことのように僕が処理役として回された。僕にそうさせたのと同じ奴はジェーンというキャラクターを世界の種として作り、そこから物語を展開していく構造を作ろうとしたところで頓挫した。君の記憶が穴だらけでも整合性を保っていたのはその為だ。
ここは未だ曖昧であり、曖昧であるが故に黒と白に分かれ得る灰色の可能性に溢れており、だが作者が既に創作の責任を放棄してしまったが為にそれ以上が綴られることはない。そして停滞もまた存在せず、風化が進行する」
ジェーンを主人公としてその日常を描こうとした誰かがいた。
途中でそれを止めて(何かつまらなかったから)終末世界に物語を傾けた奴がいた。
だがソイツはジェーン以外の全ての生命をアンインストールしていく間際、植物の存在を消去することで物語があまりにも無機質になってしまうことに気付いた。
全ての動物を消しても植物が存在するならジェーンは逞しく生存してしまいそうだ。動植物を完全に消せばこの問題は解決するが、物語の結末があまりに見え透いたものになる。盛り上がりに欠ける。どうせならジェーンにも読者にも希望を持たせてから突き落としたい。
「色々と矛盾した悩みを抱えて炸裂させた結果、この物語の作者は君のことを書いたプロットをくしゃくしゃに丸めて次の原稿に向かった。君の存在を無かったことにして忘れた。――だから、こうして僕が来た」
「……そう。じゃあ早くやって。リクエストは『なるべく苦しまないように』。さっきみたいにジワジワ凍えさせて恐怖を煽るのは無し」
「本当にそれでいいのかい? 君の中にある記憶は偽りではなく、本来はちゃんと作られる筈だったものを君だけが先に持っているだけのことなんだ。君はこの世界の要だ。君さえいれば、いつか誰かに思い出されることで世界の続きが書かれていくかもしれない」
「はあ? アンタの話じゃ放っておいてもこの世界は崩れていくんでしょ? そんな世界に一人生き残ったところでどうすんのよ」
「うーん…道理だ。確かにこれはしょうがないか」
男は立て掛けていた鎌を手に取る。ジェーンは少しだけ中身の減ったカップを馴染み深いテーブルに置き、目を閉じてその首を差し出した。
個人的な所感を明かすなら、男は罪無き者が罪人の如く裁きを受け入れるこの瞬間には危険な美しさがあると感じていた。
骨岩の鎌が大きく振り被られる。
「最後に言い残すことはある?」
「私を捨てた奴に伝えて。『クソ野郎』って」
「分かった。機会があればそうしよう」
そうして全てはつつがなく行われた。世界という巨木から一枚の葉が落ち、それは灰となってどこかに降り積もった。
送り出すだけがその役割である男は自分が切り落とす葉や枝、あるいは幹の行方のことなど何も知らない。
彼はただその役割に従事している。今までも、これからも。
「――今回も駄目でしたよ」
うん。見ていたから知ってる。条件の策定にはまだまだ時間がかかりそうだ。
「ふと気になったんですが、貴方は結局どうしてこんなことを続けるんです? いや、僕らしからぬ思考であることは理解してるんですが、どうにも…」
君は私が観測しそうあれかしと設定したことで本来の在り方から確かに外れている。本来摂理に姿などない。自意識などない。それは単なる世界のルールで世界の一部だ。独立した個体では決してない。
だけど偉大にして傲慢にして最悪の先輩が教えてくれたよ。脚色はある日突然に事実を呑み込み勝手に蠢く真実となる、とね。
「なるほど…?」
創作世界の上位と下位の区別を無視して普遍的に働く『死』という絶対の概念の代表者として私は君をデザインした。私は君の知らない、君の直属の上司に用がある。私は敢えてその部分を脚色により補完することなく放置している。事実に繋がる糸を辿るために必要な欠落だ。
「へぇ……」
下手に隠して訝し気にする必要はない。確かに、これは一般には自殺と呼ばれる振る舞いだ。だが、私は死を遠ざけるのではなく迎え入れ、その二歩先に踏み入らなくてはならない。
「……ま、貴方の計画が成就しないよう僕は祈ってます。――それで、次の候補は?」
さっきの今で悪いが、ジェーンについての物語が完遂された軸が存在する。ストーリーが完結したならその後がどうなるかは理解しているだろう?
「えぇ…
――――というか、私はもっぱら君にはその案件を振るつもりでいる。理由は分かるね?
「……分かってますよ。何せ、僕はその為だけに生まれたのだから」
宜しい。
さて、――――実験を続けようか。