視界を黒く染め、鼻腔を強く刺激する煤煙。
むせ返ると骨肉が痛み、
そして艤装の軋みと響きあい、
まるで身体が割れ砕けると感じるほどに強い痛みとなる。
艤装の痛みなど本来、わずかにしか感じない。
操舵性の向上のために船体表面の感覚を得ることができるが、
強すぎる痛みはもちろん軽減もしくは遮断される。
にも関わらず覚える痛み、
それは存在しない痛み。
非在の痛み。
その痛みに身も心も苛まれる彼女は、
立つことを諦め、
ぼろぼろになった甲板の上に仰向けに転がり、
自らの黒煙で黒く染まる空を眺めていた。
「――由良さん! 由良さん!」
熱と、軋み。
石のように硬くなり、
そして脆く罅割れていく意識に声が届く。
「「五月雨」……恋梅ちゃん」
「大丈夫ですか、由良さん!」
黒煙の中でも輝きを失わない艶やかな長い髪の少女が、
仰向けに転がる由良の横まで走りよってきてしゃがみこみ
彼女の顔を覗き込み話しかけてくる。
心配を通り越して、悲痛に顔を歪める彼女。
由良は首だけ動かして彼女と顔を合わせ、
弱々しく笑って答えた。
「あ……うん……どうなの、かな?」
損傷の確認。
しかしすでに身体は、頭は、重く、
痛みばかり強く、
熱さばかり響いて、
損傷を報告するようなまともな感覚は働かない。
「恋梅ちゃん……由良の船体、どうなってる?」
「由良さん、は――っ」
少女の息を飲む気配。
明確には言葉にしないが、
彼女が受けたであろう衝撃は十分に感じられた。
「由良さん、帰投……しましょう。
もう帰投命令は出ています」
――帰投。
作戦は、成功したのだろうか。
けれど自分はもう……、
「……ごめんなさい。もう、私、動けないみたい」
かつて艤装は手足のようだったが、
今となっては身体に繋がれた、
痛みを生み出す機械のようだった。
排水量5500トンの痛みの機関。
自分の身体のように磨いてきた甲板は穴が空き、炎に蹂躙され、
自慢の単装砲も煙突もなぎ倒され、
虚しく転がるばかり。
水雷戦隊の旗艦として海原をかける躯はもう壊れ、
もはや為す術もない。
「由良」は――自らが沈むことを悟った。
『――由良。本当に、もう動けないの?』
恋梅の肩に乗っていた妖精が伝える声を聞いた時、
諦念に占められていた由良の心がなおも痛んだ。
けれど、もうどうしようもないのだ。
「うん――ごめんなさい、提督さん……」
『いや……私の方こそ、あなたに謝らければならない。
ごめん、由良。
私の作戦が至らないばかりに、
あなたを……沈めてしまって』
それ以上、二人の間に言葉はなかった。
沈む。それは船体を手放すということ。
一度船体を失えば、その娘はもはや艦娘ではなくなる。
虚数の海で戦い、提督と、仲間たちののそばにいることができなくなる。
提督やみんなと離れることは由良にとって辛いことだった。
けれど、今ここで「由良」を沈めなければ、
由良もまた沈んでしまう。
ただの娘としてでも生き長らえるためには、
「由良」は沈まなければならないのだ。
『命令よ、「五月雨」。
軽巡洋艦「由良」を、雷撃処分しなさい』
艦を沈ませるためには仲間による介錯が必要になる。
だが、提督に命じられた恋梅は、
いやいやと頭を振った。
「そんな……!
いや、できない……私にはできません!」
恋梅にも「由良」を沈ませなければならないことはわかっているだろう。
由良を死なせるつもりはないだろう。
だが、彼女が生き続けたとしても、
もはや艦娘の仲間ではなくなる。
別れなければならなくなる。
それが、辛い。
提督もきっとそれを理解している。
けれども彼女はなおも命じた。
『恋梅、お願い。
由良が「由良」でなくなっても、
由良をこの世界から無くすわけにはいかないのよ……!』
「――!」
恋梅はうつむき、歯をくいしばって涙を零した。
彼女は由良を覗きこむような位置にいたから、
その涙は由良の顔に落ちてきた。
「五月雨」の艦娘の涙。
それは決して皐月の雨のように「由良」を癒やすものではないが、
由良の心には慰みを与えた。
「……これからも頑張ってね。恋梅ちゃん」
由良は恋梅の顔に手を伸ばし、涙をすくって別れを告げる。
「私、恋梅ちゃんや、第二駆逐隊のみんなと戦えてよかった。
みんな元気で素直で、私の力になってくれた。
私はもうここで終わりだけど、元気でね。ね?」
「――はい」
恋梅は由良の手を握り、自らの濡れた頬にこすりつけて言う。
「由良さん――今まで、ありがとうございました」
そして、決意を込めて立ち上がる。
群青の瞳からは涙をこぼし続けていたけれど、
だけど艦娘としての誇りと強さを取り戻して、
提督の声を伝える妖精を胸に抱えて、
五月雨の艦娘は姿勢を正して別れを告げる。
『いままでありがとう。由良。
あなたは私が他の艦隊に誇れる、最高の艦娘だった。
退役後のことは心配しないで。
ちゃんと、あなたが望む通りの進路を用意するから』
「――はい。
提督さん、これまでありがとうございました。
これからも、提督さんが勝利と共にありますように」
ぐっと涙を拭いて、
恋梅は長い髪を翻し、由良から遠ざかっていく。
すぐに小さな背中は黒煙に飲まれて見えなくなった。
そして、青く宝石のように済んだ光が煙の向こうから見えた。
――そして、衝撃。
喫水線下から船体を貫く、痛みの衝撃。
それは由良を非在へと誘う痛みも、死の冷たさも吹き飛ばし、
そして「由良」の艦娘のすべてを奪った。
すべてを失くした空のような喪失感の中で、
彼女は無意識の中へと落ちていった。