「――医務室で良いかい?
それとも、お手洗い?」
「ううん……船渠に行きたい」
「船渠に? ――少し遠いね。もう戻らなくていいの?」
「……時間があったら、じゃ、駄目かな」
「いや、構わないと思うよ」
艦娘用の船渠は屋内にある。
屋内、と言ってもそれは実時空にあるのではなく、
閉じられた複素時空に存在する。
なぜなら、複素数体である艦娘の船体は、
複素時空にのみ存在できるからだ。
夜の基地の敷地を横切り、船渠に入る。
中は波止場とは違う、
プールのような、人工的なかおりに満ちている。
けれど、由良にとっては郷愁と安堵を覚えさせる空気だった。
由良はいつの間にか玲奈の手を離れて一人で
引き寄せられるように「由良」の船体の近くまで歩み寄った。
甲板に上がると妖精たちが退屈そうに寝転がったり
天井を見ていたりした。
今のところ船体の破損もなくやることがないという様子だ。
傷ひとつない五〇口径一四糎単装砲の砲身を撫でる。
ひやりと冷たく、
けれどザラザラとして温かみがあった。
「そういえば、前は時々そうやって、
単装砲を見ていたりしたね」
由良に続いて甲板に上がってきた玲奈も、
砲身を撫でたり各部を調べるように覗きこんだりした。
「私の単装砲、提督さんも好き?」
「好き……かどうかはわからないよ。
けれど、あなたを守る大切な武装だからね」
由良はその言葉に頬笑み、そして俯く。
甲板の縁から船体を浮かべる虚海の水面に落とすように彼女は言う。
「私のこと、上からなんて言われてるの?」
問いに、玲奈はわずかに眉を上げたが、
落ち着いた様子で答える。
「今のところは何も、だよ」
由良は何の事柄に関してのことか、明確に口にしなかった。
けれども玲奈はそれで惚けたりせず、
由良の意を汲んで答える。
「珍しい例ではあるが、初めてではない。
今は様子見――由良の進化を見極めているんだろうね」
「そう……」
沈んだ声で答えながら、由良は砲座に腰掛ける。
「提督さんは、玲奈は、私のことどのくらい聞いているの?」
由良は言葉どおり、玲奈が自分のことをどの程度把握しているのか質問した。
しかし玲奈はその由良の言葉に、
由良自身も明確には意識していないであろう
僅かな猜疑心を感じ取った。
「……由良」
猜疑心。それは良くないものだ。
確かに玲奈は海幕から命令を受ける者として、
「兵器」である艦娘に話せないことも知っている。
だから疑われても、信頼を損ねても仕方がない。
しかしそれでも、猜疑心を持ち、他者を信じないということは、
自分の心もまた損ねることであり、
玲奈は由良にそのような状態になって欲しくなかった。
「そうね……ごめん。
玲奈にこんなふうに言うことはなかったね」
そして由良も遅れながら自分の心に隠れたものに気付いたのか、
更に落ち込んだ様子で玲奈から目を反らし、俯いてしまった。
由良は黙りこくってしまった。
ここで、玲奈は由良の沈黙を良いことに時間を流れさせ
適当なところで「そろそろ元気になった?」とでも言えば良かった。
だが、玲奈はそうしなかった。
「……何を知りたいの?」
聞かれたところで答えられないこともあるかもしれない。
「…………」
由良は俯いたまま何も言わない。
俯いた由良のうなじが見えている。
白く、華奢で美しい少女のうなじ。
小さな肩、背中。
その姿はひどく儚く。
今にも――消え去ってしまいそうに玲奈には見えた。
そんな少女を前に、玲奈は自衛官としての義務を果たす
必要性を感じなかった。
「由良……」
玲奈は由良の正面に回ってしゃがみこみ、
砲座に座って俯いている由良の顔を覗き込むようにして話しかける。
今からの話すことはもしかしたら玲奈の立場を危うくするかもしれない。
けれども、そんな危険性を値踏みするよりも、
玲奈は由良に、自分の部下であり妹のような少女に対し
誠実でありたいとだけ思った。
「普通、艦娘は限界を超えたダメージを負うと、
「轟沈」して船体を失う。
しかし艦娘となった少女自体は救出できる。
だが……救出せず、帰ってこなくなる少女もいる」
「救出できなかった艦娘の末路は2つある。
1つは「遺失」であり、もう1つは「変異」だ」
「「遺失」は存在の消滅」
「「変異」とは艦娘が深海棲艦化することだ。
――とは言っても、どの深海棲艦が艦娘の変異体であるかは
海幕では計測できないから、
都市伝説的な話ともいうことができる」
「そして、それとは別にもう1つ、
3つ目の可能性があると海幕は密かに考えている。
それが、「復活」」
「「復活」するのは「轟沈」はしても救助され、
「遺失」も「変異」もしなかった艦娘に限られる」
「とは言っても、そのような艦娘は艦娘としての能力を
失いのが普通だ」
「だが稀に艦娘の能力を失わない少女もいる。
例えば「青葉」、「響」――そして「由良」だ」
「由良」と玲奈が口にしたとき、
由良はぴくんと肩を動かした。
だが何も言わない。
玲奈も由良の顔を見てはいるが、
特に問いかけることなく自分の話を続ける。
「彼女たちに関しては「撃沈」ではなく、
単なる大破だったのではとも言われている。
実際のところ、「青葉」と「響」は船体が完全消滅した
わけではなかった。
けれども海幕が特別に工数を割いてその船体を回収しても、
青葉と真響は当初、自分の船体を操舵することはおろか、
観測することすらできなかった」
「しかし「由良」は彼女たち2人とはまた違っていた。
「由良」は一時、完全に船体を失った。
だが突然、「由良」は復活した。
これには、確かに海幕も興味を示している。
そうだ。本当は――私も何度も諮問を受けたし、
由良のことも密かに検査が行われている」
「けれど、今のところ、
海幕はなんの情報も得られていない。
むしろ「青葉」「響」の方が、
限界を超えた船体から未知の情報をいくつか提供している。
だから海幕は今のところ、由良のことを静観することにしたんだ」