「急に押しかけて悪いね。
まあ、こちらも急な予定だったから。
それでも、あなたに会いたくてきたんだ」
学校の屋上、
空に近い場所。
今日の空はとても青が澄んで、深く、
雲ひとつない空に、一筋、航跡を描くように、
煙の筋を煙草をふかす一人の女性がそこにいた。
白いスーツに身を包んだ姿は凛として、
海自基地や鎮守府で見てきたような制服ではないが、
由良は胸に懐かしさと愛おしさを
抱かずにはいられなかった。
「玲奈……久しぶり」
「そうね、久しぶり、由良。
元気にしていた?」
「はい、私は、元気です。
提督さ――玲奈も変わりない?」
「ああ。まあ、少し忙しいが、
今日はこうしてお休みももらってるし。
――髪、少し短くした?」
「あ、うん。
ちょっとね。――変?」
「いや。新鮮で、可愛いよ」
艦娘時代には長く伸ばして束ねていた由良の髪。
腰ほどまで伸びていた髪を、
今は少し切って短くしていた。
束ねる様も、
前のようにリボンを巻きつけるのではなく、
先端を蝶結びで結ぶように。
――可愛い、ですって。
親愛の微笑以上に、由良の顔がほころんでしまう。
玲奈もまた頬笑みながら、
煙草を携帯灰皿に押し込み、
座ろう? と、屋上のベンチを示した。
「身体の調子はどう?」
並んで座って話し始める。
最初に玲奈が口にした言葉は、
由良への気遣いだった。
「大丈夫。
まだ、正直言えば、少しつらい時もあるけど」
「……そうみたいね」
「え?」
「今も、ちょっとつらいんじゃない?」
玲奈は由良の顔を覗き込みながら言った。
近づく彼女の吐息に、由良の胸はどきどきと高鳴る。
「ううん、大丈夫。
今は……ちょっと波が来てるだけだから」
「本当に?」
気づかれている。
気づいてもらっている。
友達にもわかるぐらい、
今の由良の顔色は悪いのだろうけど、
でも、こうして一番に親しい、
今でも大切に思える相手に気遣ってもらえるということは、
何よりも嬉しい事。
「保健室に行く?
それとも家まで送ろうか?」
「ううん。本当に大丈夫。
それに、今はここで……こうしていたいの」
この青い空は、海のようだから。
そしてそんな青の中に、あなたと共にいる。
本当の海も、ここから遠くに見えるけれど、
あの海に一番近い場所で過ごした日々を、
虚構だけど、近くに感じるから。
「みんな元気?」
由良が尋ねると、玲奈は笑顔で答える。
「ああ、皆、元気だよ。
というか、ここに来てるのは私だけではないんだよ。
今は、私が一足先に来てしまったけれど、
みんなも由良に会いたがっている。
――会いに来る?」
「そうね……ええ、会いたいわ。
でも、どうしてみんな来てるの?」
「由良のため……というのが私や皆の気持ちだけど、
公式には次の作戦の前のレクリエーション、
親睦会ってところかな」
「親睦会?
じゃあ提督さん――玲奈、
新しい艦隊を編成したの?」
「いや。編成した、というよりは、された。
飛行場姫討伐のための……ああ、
防衛機密事項だから、あんまり話してはいけないんだけど」
聞かなかったことにして、といたずらっぽく笑う彼女。
けれど由良にとって最後の敵となった
因縁ある名前を聞いて、気にせずにはいられなかった。
「飛行場姫……まだ、やっぱりいたのね」
「うん。……いや、由良が気に病むことはないよ。
あの時の作戦でもちゃんと打撃は与えられてたし、
しばらくして一基は倒したんだ。
けれどそれから、もう一基現れた。
おかげで相変わらずあっちの海はうるさいことになってるから、
きっちりトドメを差しに行こうっていう算段なんだ」
「今度は……きっと、勝てるよね。ね?」
「そうだね。勝って、無事に帰ってくるよ」
そう言って、静かに、しかし強く決意を滲ませてから、
玲奈はベンチから腰を上げた。
「ま、あんまり話し込んでも何だし、
今はとりあえずお暇するよ。
皆と会う予定だけど、今日の放課後でどう?
――それとも、今日は無理?」
「ううん。大丈夫。
放課後ね。どこに向かえばいいの?」
「そのころにまた迎えに来るよ。
私のメールアドレス、知っているよね?」
「え、でも悪いわ」
「大丈夫だよ。
今日は仕事を入れてないから、そこらへんをぶらぶらしているよ」
そう言って玲奈は屋上のフェンスを掴み、
その向こう側の風景を見やった。
「いつも基地の方ばかりにいるからね。
こうして、普通の街並みを見るのは久しぶりだ。
皆と合う前か、あった後でも、
街を散策するのも楽しそうだね」
玲奈が去ったあとも、由良は屋上にいた。
彼女がそうしたように、街の風景を見ながら。
いつも、この風景の向こう側の海を見ていた。
玲奈が、仲間たちが、
そこで傷ついていないだろうかと心配して。
戦いの日々でも、
みんなと一緒にいたかったと懐かしんで。
――でも、あそこはもう私の居場所じゃない。
今は日常の街の中に建つ学校の屋上にいる。
海は遠く、
むしろ空のほうが近い。
空は海の上でも変わらず見えたかもしれない。
けれど目を閉じても、
吹く風は海のものとはかけ離れている。
それでもなお、在りし日に縋るように目を閉じているとき、
――ぽちゃん、と、どこかで水面を揺らす音。
聴こえる。
虚数単位のしずくが落ちる。
それは実空間と直交する世界を揺らし、
――虫の羽音のように震える、甲高い音。響く。
空が切り裂かれ、
世界は――沈んだ。