シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚- 作:ヒュペルボレイオス
激しく降り注ぐ雨粒が跳弾し、血溜まりの様な泥水が地面の僅かな凹凸を均していく。
水天一碧を体現していた美しい空は鉛色に曇り、海は黒く荒れ畝た。
散々邪魔をしてくれたオヤブンガーメイルはこの天候になってからは静かなもの。どこか雨風を凌げる場所で羽と体を休めているのだろう。
雨粒はより大きく、より長く、より篠突き続け、今やまるで糸の様に景色を細かく切り刻む。歪む視界、冷や水で張り付く髪、眼に走る痛みは既に気に留めるのをやめた。
口を開けば跳ねた泥水が入り込む。それなのに疲労に喘ぐのを辞められないのか、鼻の機能では回せないのか、空気を取り込まんと度々無意識に開口してしまう。
岩肌は流れ落ちる水の光沢にてらてらと彩られまるで硝子の様だった。指先に伝わる土の感触がその欺瞞を剥がす。こまめに切り揃えた爪の隙間に入り込む土を泥水が洗い流す。
その感覚さえもがとっくに無くなっている。
全身に滲む汗と悪天候と冷めきった空気とで指先が悴んで、今や体の芯だけが命の灯火を絶やさぬようにと火照っているだけだ。
大雨。
泥水。
寒気。
疲労。
体力を奪われ続けた果てにようやく絶壁の向こうから広葉樹の頭が見えて、僅かばかりの、けれど確かな成果に目を見開く。
歓喜の吐息が込み上げて、指先に流れる血が湧いた。
──届く。
尽きそうになった確信が息を吹き返す。
空を飛んでひょいっと行けたら楽ではあるが、ギャラドスは高度限界なのか純粋に嫌がっているのかボールから出てこない。野生のポケモンさえ近付かないので多分嫌がっているのだろう。
泥濘む岩肌に足をねじ込む。
泥の枷に文字通り足を引っ張られながらも靴先をもたげる。
素手でやるもんじゃないな、と他人事のようにぼんやりと考えながら、広葉樹の根本、絶壁の果てに手を伸ばす。
──須臾に。あっけなく平衡を喪失した。
「あ、」
掴んだ岩が雨の侵蝕を受けてぼろりと外れた。
ねじ込んだ足を動かした拍子に泥で滑った。
最悪と最悪が重なって、おれの体は完全に頼る先を喪失した。
叫ぶ間も無く滑落する。
ぐりんと反転する視界は直後に顔泥が叩き付けられた。煩い雨音の中でも服の裂ける音は鮮明に聴こえ、露出した肌が擦れ千切れる。冷たい泥水にまみれながら焼けるような痛みが全身を打ち、肺から叩き出された空気に喉が揺れる。
広葉樹は伸ばした手の先で風雨に消えた。
これまでの労力が無に帰す音が耳の奥で脳を抉る。
徒労の文字が精神を追撃する中で、うっすらと口角が上がったのを自覚した。
「……は、っはは……」
どこまで転げ落ちただろう。
ずる剥けた背中に注がれる雨水の感覚。
ポーチの中身がその辺に散らばっているのが少しだけ見える視界は右目側だけ。
もはや何度目かになる滑落。
その度に、立ち上がる度に、より高く登れた達成感に打ち震える。バトルタワーで勝利を重ね続ける感覚と似ている。違うのは敗北の度に痛む心身のうち、身の方が真面目にしんどいことか。
「あー────…………」
ふらつきを抑えて地に右手をつく。激痛の中で体を持ち上げ、視界の点滅が終わるのを待つ。顔を上げれば、あの広葉樹はもうどこにも見つけられなかった。
でも、ある。
月と同じだ。たとえ新月だろうとそれはこちらから見えないだけで、どんな夜でも空には月がある。
「いける……!」
眼前に聳える黒き岩壁。
どこにどう足を掛け手を伸ばせば進めるのか、どこが脆いか、どこが罠か、体で覚えたルートが視える。
「ギャラドス。ごめん、もう一回途中まで送ってくれ」
少しでも体力を温存するために、地表数メートル先までは彼女の背に乗せてもらう。心配そうな強面に申し訳無さはあるものの、ごめん、ここでやめる訳にはいかないんだ。
頼むよ、と懇願すればギャラドスはおれが乗りやすいように身を屈める。このやり取りにも慣れてしまった。
三叉の角を労いながら握り、太ももでしっかりと首を──
「ぶえっ」
足を上げようとして突如疲労の重石が括り付けられる。想定より全く上がらなかった足にバランスを崩し、ギャラドスの体からずべしゃっと雪崩れ落ちた。ぎょっとした彼女がおれの周囲をうろうろ旋回する。
落ち着いて。
そう声を掛けてやりたいのに顎も舌も動かない。土と泥の酷い味がじゃり、と口の中を最悪に染めている。
耳鳴りの中でギャラドスの狼狽声が遠くで鳴っていて、その鳴き方は初めて聴くなとちょっぴり感動した。
泥と一体化したように全身が地面から離れない。
土まるけの瞼が引き攣りながら下りていくのを感じる。
抗い難い脱力感と眠気に、待ってせめてギャラドスをとボールに指を伸ばして、指を、ああ無理、動かないや。
……でも、行かないと。
三本の柱を、超えて、微睡む彼の元に。
数字が。
月が。
季節が移ろう。
そのまえに。
ささげ、ないと。
なにか──が、揺れていた。
ゆら、ゆら、と小舟のように。おだやかに、ゆったりと、おれの体を運んでいる。
──かあさん?
それはなんの、根拠もないけれど。
思い出したのは、あのひとの背中だった。
若葉の息吹くフタバの町。小さな坂の下りたところ。
シンジ湖で一日中遊んで。
帰りの体力なんて考えてない子供のおれは疲れはてて眠っていて。
母さんはおれをおんぶして、ゆっくりと、夕日が撫でる下り坂を歩いていた。
ピクニックの荷物はガルーラが持ってくれていて。
ふたりとももっと早く歩けるのに。
背中のおれが起きないように、揺れないように。
ゆっくり──本当にゆっくり、おだやかに、歩いていた。
ああ。
ねえ、母さん。
話したいことがあるんだ。
ずっと話したいことがあったんだ。
ソノオの花畑は写真で見るよりずっと綺麗だったこと。
コンテストは母さんが一番強かったこと。
アンノーン文字を解読できたこと。
シロナさんは本当に手強かったんだ。
ポケモン図鑑は完成したと思ったらすごい容量のアップデートが来たんだ。
エムリットを捕まえるのに一ヶ月掛かったんだ。
バトルタワーで初めて四十九連勝したんだよ。
それでね。
それでね。
ここからは行けない裏側があって、そこは真っ暗でなにもないけれど、どこにでも行けるんだ。
笛は駄目だった。
でも直接打ち込めば世界が応えてくれるんだ。
ねえ母さん。
あのね、この世界はね。
神様がいるんだ。
神様がこの世界を作って眺めているんだよ。
神様は神様の言葉でこの世界を作っているから。
神様の言葉が分かるようになると、世界の作り方が分かるんだよ。
今度家に帰ったら、母さんにも教えてあげる。
それと。
それと。
それと。
*
群青の海岸にキングはいない。
その一点においては、原野や湿地よりも安全と言っていいだろう。
その分オヤブンたちは凶暴かつ数が多いけれど、最近のテルはオヤブンをあまり恐れない。
彼のランクを考えると、それは当たり前なのかもしれません。
シマボシ隊長はとても公平で厳格な方だから、二年前からずっと「団員ランクの決め方」は明確な決まりとして死守している。図鑑の完成にどれだけ貢献したかを数値化して、ポイントを稼げばランクが上がる。とても明快な成果主義だ。
その計算式の中で最もポイントを稼げるのは当然ながら「捕獲」だった。
でもポケモンを一体捕まえるのが精々だったあたし達は、草むらからきのみを投げて観察したり、ポケモン同士が争っているのを遠巻きに見て技を記録したりすることで「調査」としていた。初めてポケモンを捕まえた時は、みんな盛大にお祝いしたものです。
そんな環境で、テルの活躍はまさしく「異様」だった。
次から次に捕まえては個体差の記録を済ませて野生に帰す。その際に数体を選出し、鍛え上げて進化させる。どんな技を使って、どんな餌を好んで、どんな時間に活動するのか。
求められる図鑑タスクを複数並行して進める綺羅星の如き活躍に、二年前に制定された団員ランクの計算式は、なにかの間違いじゃないかって数値を叩き出し続けている。
そうして昨日、彼のランクはナナツボシになった。それは調査隊員の誰よりも高いランクであり、創立以来の快挙だった。
オヤブンさえも恐れない、誰より強い調査隊員。
あたしの自慢の後輩で、本人には言ってないけど恩人で、ちょっぴり憧れの人。
──それが、医務室に運び込まれてきた。
ベッドで眠る後輩の顔は抜け殻の様だった。
苦しみは感じない。けれど和みも感じない。精巧な人形がそこにあるような感覚。壁にかけられた酷い有様の調査隊制服さえ無ければ、ただの仮眠にさえ見えるほど。
でも、あたしは知っている。
彼の怪我は瞬く間に治ってしまうからあまり残らない。
制服の酷さは彼が受け、誰にも知られず癒えた怪我の証拠だということを。
「…………何が、あったんですか?」
「それが誰にも分からないのです。テルくんはシンジュ団のキャプテンを訪ねて『帳岬』を目指していたはずなのですが……土砂降りの中、『風さらしの森』で倒れているのを発見されました」
おかしいのはここからです、とラベン博士が首を傾げる。
「
「ポケモンに襲われたのではない、と……? では、雨で体力を奪われてしまったのでしょうか」
「ポケモンに襲われていないにしては隊服がボロボロすぎますし、悪天候で力尽きたにしては
謎めいた状況に沈黙する。
枕元に置かれたモンスターボールから、テルのポケモン達が出てくる様子は無い。それはあたし達に、医務室を利用するムラの人達に、配慮してのことだろう。テルの手持ちは彼の育成の甲斐あってすくすくと成長し、勝手に出ても騒がれない大きさではなくなっているのだ。
「……ここはテルが目覚めるのを待って本人に訊きましょう。大丈夫です! テルのことですから、お腹が空けば起きてきますよ」
あとをキネさんに任せて、後ろ髪を引かれながらもあたし達は部屋を立ち去る。無理のある理屈に内心で自分を嘲笑った。
テルのポケモンは主人に危険が迫れば各々勝手にボールを飛び出す。それは彼がヒスイ地方の厳しさを理解してから、真っ先に教えたことだった。
みんな元気でしたと言うのなら、何故誰もテルが気を失う前に出てこなかったのだろう。
みんな元気でしたと言うのなら、何故誰もテルを背負ってベースキャンプに戻らなかったのだろう。
まるで、「手を出すな」と言い付けられているみたいに。
悶々と考えながらラベン博士の研究室で資料を纏めていると、シタン先輩がふと話し始めた。
「……そういえばショウ。聞いたか、ムラに出たギャラドスの話」
「ムラの上を飛んでいったギャラドスの話ですよね。聞きましたよ」
浜門の方角からムラの上空を飛び去っていったギャラドスの噂は、しばらく村人の話題を占領した。
あれは何だ龍じゃないかと調査の依頼が殺到し、ムラに戻るなりあたし達も取り囲まれたのは記憶に新しい。
「あの一件でデンボクさんが参っちまったらしくてさ。今日も寝込んでるのか団長室は立入禁止だぜ」
「ええ!?」
思わず出た大声に口を押さえる。
あの威風堂々とした団長が床に伏せる姿なんて全く想像できなかった。
ふと思い出したのは、サザンカさんの本部意匠案を断固として許可しなかったのは団長だったこと。本当はギャラドスを象りたかったが、コイキングに変更を余儀なくされたことだった。
「団長はギャラドスがお嫌いなのでしょうか……?」
「そりゃあの人、故郷をギャラドスに焼かれてるからな」
「こっ……!?」
ギャラドスの資料に目線を落としたまま、先輩はなんでもないことの様に口にした。
あくまで噂だけどな、と付け加えられてもそうですかで流せるものではない。
あたしも手元に視線を向ける。作業机には博士が取り寄せた文献が広げられていた。
争うふたつの村を一夜にして滅ぼした「龍」の伝説。
ひと月の間鎮まること無く暴れ続けた「龍」の伝承。
口から放たれる破壊の熱線、荒れ狂う巨体、稲妻の槌。
前触れ無く突然現れる滅びの化身、「龍」の正体──ギャラドス。
あのコイキングの進化系だとテルが映像を撮ってきた時には、誰もが目を疑った。
「オレもパラセクトに弟喰われてるから、気持ちは分からなくもないんだよ。テルがパラスの群れ丸ごと捕まえてきた時は腰抜かしたし……正直怖いよ。ポケモンだけじゃなくて、あの後輩が」
……そう。
ムラを騒然とさせたそのギャラドスは、やはりと言うかなんというか、テルのポケモンだったのです。
ぺしょぺしょになりながら「単純に空を飛びたかったんです……」「お騒がせするつもりは無かったんです……」と自供したのはついこの前のことだ。
彼は一応、彼なりにコトブキムラに溶け込もうとしている。依頼をこなし、仕事をこなし、誰にでも人当たり良く笑い、よく話す。
それでも──やっぱり。
“空の裂け目から落ちてきた、ポケモンを使役する異能者である”との目は、どうしても向けられていた。
「確かにテルは怖いかもしれません。ですが、それはあたし達がテルに対して無知だからですよね」
その視線を承知の上で、あたしはハッキリと告げる。
テルは自分に出来ることは全部やっているのだ。自分が有用な人間であることも、無害な人間であることも、精一杯示している。
「ポケモンが怖いのはあたし達がポケモンを知らないから。だから、こうして図鑑を作ります。ではテルが怖いのは? 自分たちの知らない技術と知識を持つ異邦者だからです。それならポケモンと同じように、テルを知っていけばいいと思います」
捕獲の技術、ポケモンの知識。
育成の技術、戦術の知識。
テルが怖く感じるのは、あたし達に無いものを沢山持っていて、強いから。
「どんな目に遭ってもポケモンが大好きで、美味しいものに目がなくて、好きなものに一直線で、ちょっと周りとはズレてるけれど……彼は自分ではない誰かのために、どこまでも頑張れる人ですので」
ギンガ団は衣食住を彼に提供しているけれど、彼はきっとその気にればポケモン達と一緒に原野で生きていける。
エスパータイプの力を借りればちょっとした小屋なら建ててしまえるし、黒鉄トンネルを住みやすく魔改造していても驚かない。
本当に着の身着のまま裂け目から放り出されたような最初の頃とは状況が随分と様変わりして、彼にはもうコトブキムラに固執する理由がない。
それでもテルはムラのために、ギンガ団のために尽くしている。
それが、それこそが、異邦人で異能者な彼なりの、あたし達への「愛」なのだと思う。
「大丈夫ですよ。テルは強いですがオヤブンやキングと違って荒ぶりません。人の言葉を話す友好的な仲間ですから!」
「……はは、確かに。あいつは金色に光り輝いたりしないもんな」
「金ぴかテルはちょっと見てみたいですが……」
「やめろ笑う」
研究室に和やかな空気が漂い出す。
みんな金ぴかのテルを想像したのか、何人かが堪えきれずに吹き出した。
「ショウくん、こちらグレッグルとドクロッグの毒の差異についての資料です」
「分かりました。キネさんに届けてきますね」
細かな項目がびっしりと書き込まれた何枚かの紙をトントンと揃えて席を立つ。
ついでなのでテルの様子も見に行こう。赤い廊下に一旦出て、キネさんを呼びながら入った医務室。資料を確認してもらっているまさにその時、窓際のベッドから這い上がる人影があった。
「テル!」
彼は音を立ててベッドから落ちた。
よろめきながらシーツを掴んで立ち上がると枕元のボールベルトをガッとわし掴み、風を取り入れる窓の先を望んだかと思えば──
おもむろに窓枠に飛び乗って、刹那、ギャラドスに跨り空を駆け出した。
「……え?」
医務室に吹き荒れた、凩だけを残して。
*
頬を殴りつける烈風が速度を無言で物語る。
あまりの寒さで今着ているのが制服ではなく白い病衣だと気付いたが、引き返すのは衝動が許さない。
原野の空を山の峰が仕切る。高度限界のギャラドスを休ませ、カミナギの笛を吹き鳴らす。
「アヤシシ様!」
しばらく時間を置けば高台の方角から山肌を駆け登る白い体躯が見えた。エスパータイプとして多少の空間跳躍や転移もしているのだろう。
アヤシシ様がじっとおれを眼差す。凛とした黒真珠の眼を見つめ返し、静かに頷く。それで了承してくれたらしく、彼はおれを背に乗せて原野と湿地を隔てるテンガン山の峠を越えにかかった。
それは遠い未来における、クロガネシティからヨスガシティまでの道のりだ。
刳り貫いた内部登山道ではなく本来なら立入禁止の表登山道。時折浮遊感に見舞われて、直後は頁を捲ったかのように景色が移り変わる。
幾度かそれを繰り返して、肌を撫でる風が湿り気を帯びる。同時に赤く熟れた斜陽が目を眩ませる。
舞台の戦場を越え、霧の遺跡を通過し、リッシ湖に差し掛かり口角が上がる。畔を大きく周って、その先の丘を駆け上がる。
ヨスガからノモセ、リッシ湖から隠れ泉への道の先。聳える絶壁はすっかり乾いていて、リベンジに燃える胸が高鳴った。
アヤシシ様から飛び下りる。
ギャラドスは疲れが取れていないのか、顔色があまりよろしくない。無理をさせたくはないし、今回はイチから登るか。
アヤシシ様に見守られながらおれは登れそうなルートを視線でなぞる。大体のアタリをつけて、ポーチから……ポーチ無いわ。
「ポーチが無い!?」
現実を確かめるように絶叫した。ボールが無いとかオレンのみが無いとかではなくポーチが無い。
落とした? どこで? なんで? と高速で思考が回り出す。
「………………置いてきた…………!!」
手に取ったのはボールを連ねたベルトだけ。ポケモンがいればなんでも出来るとは言ったが手ぶらで冒険に出るのは愚かすぎる。寝ぼけてんのか。寝起きではあったよ。
どうする。
どうできる。
近くにウォロさんとか歩いてないか。
待て。金も無い。終わりだ。
「いや! 確かこの辺りに……」
記憶を頼りに近場を探ると、案の定おれが落としたモンスターボールがいくつか見つかった。キズぐすりは容器が少しヒビ割れているが漏れてはいない。草を縒って作った紐で結び、病衣の腰紐に括り付ける。そんなに数は持てないが無いよりはマシだろう。
気を取り直して岩に手を掛けた瞬間、ボールから相棒が飛び出した。
「バクフーン?」
──僅かに揺らいだ赤紫の炎が収まったのを確認して、裸足と素手でこの岩肌を登るつもりでいる自分の主を背中に促す。
主はきょとんと目を瞬かせると、「あー!」合点がいったのか大きく頷いた。
「そっかお前バクフーンだもんな、“ロッククライム”の適性あるのか」
うんうんと自分の理屈で納得する相棒に少し呆れる。別に何か有用な技が使えるから出てきた訳じゃないよ。
ギャラドスが出てこないのも、野生の獣がこの岩壁に近づかないのも、この「中」を本能的に恐れてのことだ。
それなのに気を違えた様にきみが直向きに目指すものだから。
動きやすい制服でもないのに登ろうとするものだから。
裸足なのも気にしないでいるものだから。
いよいよ、放っておけなくなった。
陽光に赤めく絶壁に四肢を掛ける。
ゴツゴツとした岩肌はどう見たって侵入者を拒んでいる。
そんな威嚇を踏み付けにして、主を乗せた自分は征く。目指すのはこの地でいっとう
主が焦がれた広葉樹が目と鼻の先に迫る。
壁から地に切り替わるその瞬間、ぐんと最後の一歩を大きく踏み込んだ。
「っ────」
吐息さえ雑音になる静寂の帳。
空の果ては紫紺に染まり、燃えるような夕染と鍔迫り合う。
それまで吹いていた風はぴたりと制止した。
踏破した壁の先は巨大な窪地で、断崖に囲まれた湖面が二色の空を映し出す。僅かな湖畔には『紅蓮の湿地』でよく見るような白亜の柱が槍の様に突き出していた。「スモールスケール槍の柱だ……」主はまた変なこと言ってる。
──その奥に。
──小さな入口が、一切の光を呑み込んで口を開けていた。
「戻りの、洞窟……!」
歓喜に震える主の嬉々とした声が静寂を打った。
やはり彼の目的地はあの奥らしい。はしゃぐ紺青の眼は残念なことに何に憑かれている様子も無かった。
……仕方ないなあ。
腹を括って柱の傍に降下する。衝撃を逃し、嫌なくらいに内臓を冷やす『奥』を見つめる。
「行こう、バクフーン!」
決して迷子にならないように主人の手を掴むと、彼は何を勘違ったのか嬉しそうに顔を緩めた。
恐れ知らずもここまで来ると見ているこっちが恐ろしい。
この先は「シンオウ」に連なる神の領域。
深く、昏く、静かな冷たい冥府の底。
自分たちが本能で敬い、同時に畏れるモノの庭。
だから。
何を喰らってでも、きみだけは絶対、
シタン(♂)
つい名前を与えてしまったモブ先輩。ジョウト出身。マサヒコがパラセクトを連れ歩き始めてから夢見が悪い。
ガーメイル(♂)
意地っ張りな性格でちょっぴり強情。戻りの洞窟への絶壁を登る人間を止めようとしてやったのに無視されたのでもう知らん、勝手にせえ。