シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚-   作:ヒュペルボレイオス

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 ※ポケモンと人間が結婚する描写があります。




霊界下り ※異類婚姻譚描写有り

 

 

 

 ひんやりと厳かな空気に満ちた静寂の広間を、ぐるりと取り囲む白亜の柱。

 漣が石化した様な地面から伝わる冷気が素足を凍てつかせ、柱の背後に控える岩壁は無数の凹凸を規則無く繰り返す。

 

 天井は見えない。

 黒と灰が支配する帳の中で、遠くに黒の貴石が如き煌めきが僅かにちかちかと呼吸しているのを、時折見付けられる程度だ。その煌めきを生む光は、いったいどこから差しているのだろう。

 

 

「…………凄い。ちゃんと、()()()()……!」

 

 

 声が上擦る。口端が引き上がる。興奮のままに壁に歩み寄り白亜の柱にそっと手を触れた。

 砕け、倒れ、苔生した物を幾つも見てきたが今回は違う。

 傷は無い。倒れる素振りも無い。苔の気配も感じられない。

 中心に連れてなだらかに膨らむ独特の造りがひと目で分かる。数多の亡骸のかつての姿を示すように、石灰石は悠然と立ち並んでいた。

 

 ようやく思い出す。

 シシの高台に、紅蓮の湿地に、これまで何度も見た骸の数々の名が脳の底から噴き上がる。

 

 ──北風の建築学(ボレイアス・アルキテクトニキ)、通称「シンオウ建築」。

 

 それは古代シンオウ人が創り出した建築様式。

 芸術的に洗練され周辺環境に左右されない自己完結型の造形美──と、古い時代の書物に書き記されていた。

 

 なにせ現存する建物が殆ど無く、建築史にも少し綴られる程度。ほとんど幻。ボレイアス・アルキテクトニキという言葉も「芸術的な建物」の意味で使われる賛辞でしかない。

 

 だけど、だのに──ああ!

 こんなにも! しっかり残っているなんて!

 

 

「ほら見て見て見て見てバクフーン! 紅蓮の湿地で写真撮ったのがこれな? これ倒れた柱の頭に唐草模様みたいな渦巻きが入ってるだろ? けどこの柱にはそれが無いんだよ! ここは湿地の遺跡より形が残っているのに湿地の遺跡より()()んだ!」

 

 

 は? とバクフーンが首を傾げる。

 芸術の流行がより華美に、より簡素にと移り変わるように、シンオウ建築にも僅かながら変遷というものがある。誤差のようなものではあるが、よりシンプルなものが古いらしい。

 こうして差異を目の当たりにすると本当に誤差だ。変遷が生まれる程の年月がありながら、変化を選ばなかった──遂げる必要が無かった芸術。

 

 

「きっと古代シンオウ人にとって『うつくしいもの』は確固として決まっていたんだ。自分たちの感性によるアレンジなんて要らなかったんだよ」

 

 

 バクフーンを連れながら洞窟を取り囲む十一の柱ひとつひとつを触れて回る。その瞬間にぞっとするほどに精緻繊細な細工意匠が神経から伝達された。

 

 シンプル、なんてふざけたことを言うじゃないか。

 石に刻まれた凹凸の縦線は引っ掛かりが無くどこまでもなめらかで、石と石の接着面は互いに吸い付くようなフィット感。機械で切り出したとしても中々こうはいかない。手作業故に可能な美と業の極地。

 そしてそれが自己を主張することは決して無く、こうして触れられなければ「シンプル」という大枠の印象の底で眠っていただろう。

 ──そして、いずれ永遠に無くなってしまうのだ。

 

 

「バクフーン?」

 

 

 思考に哀愁の影が差した瞬間、バクフーンの炎が灯る。威嚇の咆哮を洞窟に反響させ、彼はおれを背に隠す。

 

 地面に落ちる天井の影がまるで日蝕の様に“黒”に喰われ出し、体表を撫でる空気の温度が幾度か低下する。

 感動ではなく悪寒が走る。同時に期待が膨れ上がり、次の瞬間を待ち侘びる。

 

 

 とぷ、ん。

 

 

 “黒”に満ちた大地の月から現れ(いで)た霊界の使者。

 二メートルを超える巨体は古い墓石から削り出したが如く怪しく重々しい雰囲気を纏い、見せつけるように広げられるのは両肩から伸びる太く逞しい豪腕の先の大きな手。

 

 漆黒に均された地面からタールの様にねばついた影が滴り落ちる(浮き上がる)

 影は巨大な鎌を象り、霊界の使者──ヨノワールの掌が黒の柄を握り込んだ。ざらりと空気を軋ませて大鎌が振り抜かれると、その刃に追随してヨマワルがぼこぼこと湧いて出た。

 

 

「ふうん、野生のポケモンが得物を持つとはオシャじゃないの……」

 

 

 正直そのでかい手でパンチを繰り出される方が怖い気がするが、リーチと群れを手に入れたと考えればそっちもそっちで冷や汗が出る。

 ヨノワールは霊界の電波を受信して動いているから、自身の意思があるのか無いのかは分かっていない。

 指示を出しているのが何者なのかは知らない。けれど、この感動も冷めない内に洞窟内で群れバトルとはやってくれる。

 

 

「──撤退戦だ! 出口までの道を切り拓け!」

 

 

 応、と燃え盛る妖焔が遠吠えと絡む。

 無数に迫りくるヨマワルの群れの先でヨノワールが指揮を執る。そこらのトレーナーなんて目じゃないフォーメーションに舌を巻く。ゴーストタイプのバクフーンはこの数で“かげうち”されるだけでキツい。

 ので。

 

 

「ラッキー、守りは任せた! “ひかりのかべ”! バクフーンも“めいそう”だ!」

 

 

 バクフーンの隣にピンクの防人を向かわせる。ラッキーの鳴き声と共に二体の体を淡黄色をした半透明のドームが包み込んだ。

 

 おれのいた時代と違い、この時代のラッキーはまだ自力で“ひかりのかべ”を修得しないらしい。ムラに居着いたバリヤードも交えて「壁」の概念から教えた甲斐もあってうちの子は無事に覚えてくれた。

 ただ“リフレクター”との細分化は出来ていないので、“めいそう”や“てっぺき”辺りの強化技と同じく「守りの力(防御と特防)」として効果が齎される。

 つまり──物理技の“かげうち”も、特殊技の“あくのはどう”も軽減可能ってワケだ!

 

 

「“フラッシュ”!」

 

 

 八方向から繰り出された“かげうち”からバクフーンを守るため、ラッキーは壁を展開した流れで強烈な光を放出する。おれの目も眩むような白光は彼らに向かう影を塗り潰し、驚いたのかヨマワルたちの陣形が乱れた。

 

 その隙に出口までの距離を詰める。

 今は倒すのが目的なんじゃない。ここから出られたらおれたちの勝ちなんだ。本当なら全部捕獲したいけどボールの数が無いから仕方ないんだ。

 

 

「“シャドークロー”!」

 

 

 閃光の中を果敢に飛び掛かるヨマワルにバクフーンが応戦する。乱戦とはいえ下手に“シャドーボール”を撃つと柱が傷つく、それは避けたい。

 バクフーンの攻撃は特攻と比べると幾分か低く決定打になり難いが、“めいそう”で攻めの力を上げている分そこそこつぶしが利くので、まあ。

 

 爪で跳ね除けられたヨマワルの体が宙を舞う。

 入れ替わりで新たな個体が三体バクフーンに迫り、闇に潜ませた影を操り至近距離で穿ちに来る。

 

 

「“マジカルシャイン”!」

 

 

 ダメージを与えられない“フラッシュ”じゃあ状況の打開には繋がらない。

 光量は落ちるがここはダメージレースを優先し、三体の“かげうち”を“マジカルシャイン”で一度に迎撃する。光と影のぶつかり合いを掻い潜ってバクフーンは火を灯す。

 

 

「“力強く”抉じ開けろ──“ひゃっきやこう”!!」

 

 

 躑躅(ツツジ)髑髏(しゃれこうべ)が無数に花開く。召喚された鬼火の群れは紅の一つ目たちと喰らい合う様に縺れ燃え盛った。

 

 煌々と照らされた岩肌が艶やかな色に撫でつけられる。

 ヨマワルの陣形は乱しきった。おさらば、と駆け出した刹那バクフーンの悲鳴が(つんざ)き自身の視界が“黒”に染まる。

 

 先導のため手持ちから僅かに離れた瞬間。

 それを待ち望んでいたのだろう。

 “マジカルシャイン”と“ひゃっきやこう”に照らされた洞窟内の壁。そこに生まれたおれの影から飛び出した巨体が大鎌を振り抜いた。

 

 首筋に伝う虚の刃。その冷気。

 まるで臓腑を氷水に引きずり出される感覚の中で、知らない言い伝えを誰かが耳元で囁いた。

 

 

 ──強き光は、深き影生み出したり。

 

 

 加減無く怒気に燃え上がる焔の熱を遠くに、そこでおれの意識は刈り取られた。

 

 なお感じるのは重力か。

 何も見えない“闇”の中。

 底へ底へと落ち行く体。

 光を拾わない眼には何も映らない。

 今自分は目を開けているのか、手を広げているのか、足を動かしているのか、なにひとつとして視認出来ない。

 雪崩に呑まれた時と同じだ。上に向かっているのか下に潜っているのか、雪の中から判断はつかない。

 こういう時は口の中に唾液を溜めてその流れで重力を確認するのがセオリーだ。

 暗黒を暗黒として認識するから狂うのであって、既知の現象とひとつひとつ結びつけていけば、知らない街を旅するのと何も変わらない。

 

 ほら。

 眼前に広がる光景を受け入れる。

 ここは闇の中。星月の見えない夜の世界。おれは懐中電灯を持っていないから、とりあえず気の赴くままに()()()進む。

 

 足の感覚が掴めてきたね?

 そうしたら次は手を振ってウォーキングの姿勢を意識する。

 どこにあるかも分からなかった体に一本の芯が通るから、そこに空気を流し込むようなイメージで息をする。

 実際にどうかは問題じゃない。おれがそれを“そう”と認識するかどうかだ。

 

 潜って。

 

 下って。

 

 歩いて。

 

 降りて。

 

 

 闇の中を、旅しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──光明があった。

 ──日輪があった。

 ──いつ如何なる時も、シンオウの地は穏やかだった。

 

 それは遠い遠い神話の時代。

 古代シンオウ人が北風の彼方に住まう人々(ヒュペルボレイオス)と呼ばれ、創造神を厚く崇拝する民と、誰もが知っていた頃の話。

 

 そこは天に最も近く、世界の蝶番(ちょうつがい)が如き場所。

 寄る船を尽く破壊する冷たい大海原と、羽毛のような雪を降らせて山を塞ぐ極寒の北風に護られた理想郷。

 一年を通して春であり、一日を通して昼であり、永遠の光明に包まれた幸福な楽園だった。

 

 風と海と光に愛され、幸と歌で満ちた大地には、花々の限りが咲き誇る園が数多く存在する。

 とある日の頃、花運び(シェイミ)の群れが花園のひとつを慈しんでいた。小川のせせらぎの如き愛らしい声で唄い、小さな体を丸めてぷすぷすと微睡み、変化を遂げた姿で空を軽やかに舞う。

 

 そんな花運びと戯れるひとりの娘子がいた。

 朝露に濡れた金紗の髪はそよ風に揺れる度にきらきらと輝き、どこまでも澄む春の空が映り込んだ白銀の眼は溢れんばかりの光を灯して笑みを湛える。

 

 それはまさに絵画にも描けない楽園の光景だった。

 シャクヤクは燃えるように鮮やかな紅を纏い、スイセンは娘子の身を包む純白の衣よりも眩く、群生する青いネモフィラは心奥たちが住まう湖の水面を思わせる。

 

 

 幸福と愛に満ちた光景を──深奥(シンオウ)が、見ていた。

 

 

 存在しない夜の世界、訪れることの無い冬の世界、知られざる死の世界を司る禍くも美しき白金の神は、そのけして描けぬ絵画に目を奪われた。

 いつか罪在る白金の龍(ギラティナ)と呼ばれることになる深奥の治める世界は、理想郷の光によって生み出された深い影の國だ。

 

 淡い金色(こんじき)を纏う体は影の国での陽の代わり。

 体に幾筋も走る涼やかな紺碧(こんぺき)は影の国での空の代わり。

 

 深奥以外の全てが闇と夜と死と静寂で満たされた昏き眠りの世には、光に揺蕩う髪も、息吹に色づく花も、溢れる笑顔も、何も無かった。

 

 だから闇の中から見ているだけで幸せだった。

 娘子が唄えば花々が笑い、花運びが笑えば花々が唄う、幻想の帳がおりた花園が深奥の孤独を慰めた。

 

 けれどそれはいっときのもの。

 娘子たちの笑みは“神奥(シンオウ)”に向けられるものであり、世を隔てた深奥と視線が絡むことは決して無い。

 神奥が普く世を照らし続けるように、深奥には無数に流れ着く死を正しく処理し続ける役目がある。

 

 どれだけ焦がれても。

 どれだけ見つめても。

 光に愛され愛と幸に輝く命は、夜を冠し死と闇に染まる己のものにはなり得ない。

 

 心に吹く隙間風に耐え切れず、深奥はとうとう光に向けて手を伸ばす。

 (シンオウ)の箱庭を引き裂いて、花園に微睡む娘子を自らの領域に招き入れる。

 それは(シンオウ)の分身たる自分が、初めて自分の力で手に入れたものだった。

 

 

 これに激怒したのが春の神(ラブトロス)である。

 自分が息吹かせた花々を花運びたちと愛でる娘子を何より愛していた春の神は、事態を静観する太陽神に嘆いてみせた。

 

 

 ──私の娘はどこだ。

 

 

 大粒の涙を零してシンオウの地を飛び回る春の神の尋常ならざる様子に、風の神(トルネロス)雷の神(ボルトロス)と共に狼狽えた。その哀泣は天高く響き渡り、当時のカミナギたちは心を痛めずにはいられなかった。

 

 

 ──私の娘はどこだ。

 

 

 一度でも母になったことがあるのなら、春の神の慟哭に胸を打たれないはずがない。その哀しみを表すかのように、常春の楽園は次第に花々が萎れ、豊かな果実は減り始めた。

 

 春の神の乱心に稔りの神(ランドロス)は手が出せなかった。子を奪われた烈火の如き怒りと濁流の如き哀しみを静める力は、風と雷の喧嘩を諌める稔りの神には無かったのだ。

 

 

 ──私の娘はどこだ。

 

 

 シンオウの地を全て巡り終えた春の神は遂にくたびれて、そのどこにも娘子がいなかった現実に崩折れる。

 陰り行く常春の楽園に、嘆き悲しむ春の神に、あるカミナギが光明に祈った。

 

 

 ──神よ。主よ。

 ──どうか、彷徨える春の神をお救いください。

 

 

 祭によって捧げられた祈りは天の梯子を通じて届けられ、創造神は春の神に娘子の行方を神託する。

 地上を、空を駆ける春の神では見つけられなかった洞窟の奥。冥府の底。裂けた大地のその真下。

 光を知らない昏き世界で、深奥に寄り添う娘子がいた。

 

 夜霧に濡れた髪は冬の雪が如き白銀に染まり、闇を眺め続けた眼は白銅色に褪せている。

 しかし深奥を愛しげに仰ぐ慈愛に満ちた笑みは、地上で花運びと戯れていた少女の頃と変わっていない。

 少女の面影を残しながら、娘子はひとりの淑女として深奥の傍らに留まっていた。

 

 

 ──帰ろう、と春の神は言った。

 

 

 困ったのは娘子だ。

 シンオウに生きる者として、彼女は既に深奥をも愛している。光に焦がれ自身を攫い、けれど何ひとつとして強制しなかった静かな白金の神を娘子は拒絶できなかった。

 けれど彼女が今も持つ少女の心は、親とさえ言える春の神の迎えに歓喜していた。

 二度と会えない悲しみをそっと奥底にしまい込んでいた。その封が解かれた今、すぐにでも駆け寄りたかったのだ。

 

 伴侶と母の板挟みになった娘子の揺れ動く心を眼差して、深奥はひとつの恵みを下賜し給うた。

 分厚く鮮やかな紅色の皮に包まれた十二粒ひと房のザロクのみは、春の神が昏き世を訪れたために芽吹いた食物であり、娘子がこの世界で初めて目にする食べ物だった。

 

 

 ──感謝いたします、深奥様。

 

 

 その意図を理解した上で果実を口にしたのかは、心奥(シンオウ)たちにしか分からないが。

 娘子は皮を剥いて溢れ出た甘辛い果肉を、ひと粒、またひと粒と、まるで離別の儀のように切なげに、婚姻の儀のように愛しげに咀嚼した。

 

 裁定は此処に下された。

 十二の粒のうち六つを食べた娘子は、一年の半分を深奥の傍らで暮らし、一年の半分を春の神と共に暮らす。

 ──ザロクのみがどれだけ水と肥料を与えても必ず六粒しか実らないのは、娘子が食べ残した数だからとされている。

 

 春の神は娘子のいない一年の半分を嘆いて姿を隠し、娘子が地上に戻る頃にシンオウの地を訪れることになった。

 ──それが、常春のシンオウに訪れた四季の始まりである。

 

 深奥は伴侶が迷わぬようカミナギたちに神殿を建てさせた。

 娘子は三本の柱を目印に、孤独に微睡む彼の元へ参る。少しでも長くいられるように、ザロクのみをひと粒食べ終える前に。

 ──これより後、娘子の話は伝わっていない。恙無く幸福に悠久の命を終えたのか、今も深奥が大切に隠しているのかは誰も知らない。

 

 ──石灰石の亡骸は、何も語らないのだから。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 頬と思わしき部位に伝うくすぐったさに(まなじり)を拭う。

 心臓を押し潰す程に流れ込んだ孤独と執着が与えられた返答に咽び泣いている。

 誰かの叫び声が聴こえて、それがどうやら自分の口を発生源としているのが分かった。

 

 理解した。

 戻りの洞窟の壁を取り囲む十一の柱が描く遺跡の正体を。

 

 穹窿墓(きゅうりゅうぼ)だ。あれは。

 

 花と風に愛された“彼女”の冥婚を祝ぐために造り出された地下の空。ただひとりの愛を讃え、ただひとはしらの孤悲を慰めるための終の空。

 それは確かに「神殿」なのだろう。

 けれどそれ以前に「墓」なのだ。

 花と風に愛されて、闇と影に求められた、うつくしい理想郷の娘子の。

 

 狂を発したように泣き叫ぶ自分を、どこか他人事として眺めていた。

 きっと桶をひっくり返した豪雨みたいに注がれた感情が、おれの心を追い出したせいだ。

 

 光の嬰児に懸想し、愛執の果てに大地を裂いた狂恋。

 花も風も光もない闇の中で落涙する幽愁。

 楽園を駆け回りなお報われず終わりの見えない悲憤。

 

 最後には幾重もの愛で締め括られるが、その道中はこんなにも痛い。全身の肉を引き裂いて全ての骨を砕きあらゆる臓器を叩き潰そうと、この胸の痛みに届くことは無いだろう。

 

 怒りを顕にするなかれ。

 悲しみに涙するなかれ。

 

 シンオウしんわの一節は、神々の代弁者たちがこの耐え難い激情に狂化しないための戒律なのだろうか。

 だとすればなんて無茶を言う。全身を打ちのめす愛しさと怒りと悲しみは、けして呑み込めるものではないというのに。

 

 喉が潰れるほど哭いて、涙も枯れるほど泣いて、飽きもせず叫ぶのにも限界が来て。

 ようやくおれの心は、体の中の居場所を返してもらえた。

 一生分なんてものじゃない感情の濁流に翻弄された体は鉛より重く、絶対に癒えないと断言できるような疲労に溺れている。

 

 

 ──後悔してる?

 

 

 知らない人(シロナさん)にそう問われ、おれは首を横に振りたかった。否と言葉で伝えたかった。

 好奇心で踏み込むには些か重すぎる古代の墓場だったけれど、後悔なんて絶対にしない。それだけは違う。

 だって踏み込まなければ分からなかった。踏み込まなければこの痛みを知らずに済んだだろうけど、この愛を知らずに生きてしまえたのだ。

 

 そうだ。

 おれは、知らないのが嫌なんだ。

 

 シンオウ地方に伝わる物語を取り零して生きてしまえるのが嫌だ。そこにあった人の、ポケモンの、神さまの想いを、言葉を、祈りを、おれが知らないのは嫌なんだ。

 

 だから後悔なんてしない。

 この痛みは全部必要なものだ。たいせつなものなんだ。怪獣のように荒れ狂う心臓が誰の鼓動であろうとも、おれの世界から取り零したくはない。

 次に踏み込んだ先でこれに勝る痛みが待っていようとも。

 おれは、おれが生きる世界の全てを知りたいんだ。

 

 

 

 

 ──だから、神さまの言葉を使ったんだ?

 

 

 

 

 知らない人(シロナさん)の淡々とした冷たい声と自分の胸中の文言が一致する。

 金庫の蝶番がカチリと音を立てて崩れていく。収められていた、封じられていた、忘れていた記憶のカケラ。

 

 

 ──用意するのは送信機(電卓)言語(アンノーン)

 ──世界を運営するために必要なのは三段階。神さまの言葉を世界に放ち、世界が処理できるように翻訳し、実行する。

 ──神さまの世界はよくできているから、第一段階さえしてしまえば第二第三は自動的に行われる。

 

 

 神さまの言葉を解読したおれは捕獲した全種類のアンノーンを組み合わせて「神さまの言葉」を綴った。

 ひどく単純なものから熱が出るほど複雑なものまで、組み合わせは無限にあった。

 

 

 ──そう、アンノーンとは。

 ──アルセウス(かみさま)が世界を運営するための、宣託(プログラム)言語であったのだ。

 

 

 綴るだけで満足だったおれは、神さまの言葉が形を成すことに対してあまりに無神経だった。

 形を成した宣託は世界に放たれ、翻訳され、実行される。神さまの言葉を綴る存在はアルセウスのみだから、複雑なプロテクトなんて必要ない。

 

 律令の如く早急に執り行われた宣託の発布。頭を垂れて従う世界。

 きのみの個数は思いのまま、欲しい道具は欲しいまま。

 特別な赤い鉱石を用いたボールがぼとぼととバッグに貯まっていく光景は「値崩れ」の概念を幼心に理解させた。

 

 行きたいところに行くのも自由で、“そらをとぶ”や“テレポート”よりも自在に空間を渡り歩いた。まるで幽霊にでもなったように、虚数の世界を飛び回った。

 

 

「……そうしたら、知らない場所に行けた。コトブキシティに、クロガネシティに、ナギサシティに」

 

 

 窓から見える景色はコトブキシティなのに、コトブキシティのどの建物でもない不思議なビルがあった。

 こんなところまで来るなんてね、と笑って「気合いのハチマキ」をくれる女の人がいた。

 クロガネシティのどこにも無い民家には「硬い石」をくれる女の人がいた。

 ナギサシティのどこでもない家の中で暮らしていた少年と老人、お姉さんと船乗りさんは口すら利けなかった。

 

 不思議な話だろう。

 普通に生きていれば知覚すらしなかった虚ろの住人のための場所が、どうして世界に組み込まれているのか。

 

 なんとなく──だけど。

 あの世界は必要だから存在しているんだ。表の世界に必要ないからと消去してしまえば逆に今の均衡が崩れてしまう恐れがある。

 要らないけれど、消したら何が起こるか分からない──そんな不安定なもので成立する安定性のために、彼らの席は用意されているんだ。

 

 試して、知って、考察する。

 その繰り返しでおれの世界が拡がっていく。拡がった世界に情報が増えていく。見えなかったものが見えてくる。

 その快感に病みつきになって、色んなところに入って、色んなものを見て、色々遊んで、不意に真っ暗な世界に入り込んだ。そう、まるで、此処みたいな。

 

 

「あれは……此処は、どこなんだ?」

 

 

 ──此処は命輝くもの、命喪ったもの、ふたつの世界が交じる場所。

 ──生の終わりは死の始まりであり、死の終焉は生の発端。

 ──死と闇と夜の静寂に満ちた霊界は、生と光と朝を迎えるための場所。

 ──命喪ったものが流れ着き、再び肉をつけて命輝くものとなり、神奥様の元へ発つ此処は、全てが始まる廻廊。次なる生への休息所。

 ──故に、()()()()()

 

 

「……おれは死んだの?」

 

 

 ──そうとも言えるし、そうでもないとも言える。

 ──此処はふたつの世界が交じる場所。

 ──きみは死んだなら戻らなければいけないし、死んでいないのなら此処に下るべきではなかった。

 

 

 知らない人(シロナさん)はすっとおれの後方を指差した。

 病衣の翻りに追随して、微々たる高さの段差が繰り返される石造りの上り階段が、遠く遠くまで描画されていく。

 戻っていいの、なんて弱気なことを訊ねると彼女は薄い笑みを湛えて頷いた。

 

 

 ──どうか決して、振り返らずに。

 

 

 その言葉に背を押され、おれは幅の広い石階段へ足を踏み出す。

 旗は無く、図鑑は無く、電卓は無く、手持ちはいない。

 歩み方を間違えたら一巻の終わり。

 階段だけが導のカンテラみたいに進む先を教えてくれる。

 両隣から聴こえる波の音。彼方から漂う花の香。足音ひとつしない歩みを繰り返して二百回。

 

 

「え、バクフーン!?」

 

 

 階段の先で、妖艶な笑みを浮かべたバクフーンが待っていた。

 慌てて駆け寄り抱き着けば彼もまた抱きしめ返してくれる。全身を包むほのかな熱はため息が出るくらいに心地良かった。

 

 

「お前っ……迎えに来てくれたのか〜!」

 

 

 喉を鳴らして頷く相棒の顔を両手でわしゃりと揉む。霊峰の力に当てられたヒスイのバクフーンは霊界への接続? 接触? 干渉? が可能なのか。それヨノワールと同僚ってこと?

 どっと押し寄せた安堵に頬が緩んだ途端、背後から聞き覚えのある声がした。

 

 

 

 ──おかえり。

 

 ──ごはんできてるから、ちょっと休んでいきなさいな。

 

 

 

 聴こえてしまったその声に、足が一切の動きを止めた。

 喉の奥で暴れる声を噛み殺して爪が食い込むほど強く拳を握る。そうでもしなければ今にでも叫び出して振り向いてしまいそうだった。

 

 

 ──今日はおともだちみたいにせっかちね。

 

 ──そんなに急がなくたっていいじゃない。あなたのナエトルだってこんなにのんびりしてるのよ?

 

 

 声は穏和で、けれどよく通った。

 思えば小さい頃からそうだった。

 コンテストの覇者である母さんの声は遠くの観客にも届くように、たとえ小さなものでもハリがある。

 背中に回されたバクフーンの手が少し強張っているのを感じて、おれは握っていた拳を解き、彼の背を小さく叩いて「大丈夫だよ」と言外で唱えた。

 

 独りで歩いていたら、振り返ってしまっていたかもしれないけれど。

 相棒がいる今なら大丈夫だ。

 

 ごめんね、知らない人(おかあさん)

 神さまの言葉は教えられない。

 しばらくそっちには帰れない。

 大鍋にたっぷり用意されたシチューも、冷蔵庫でキンキンに冷えたミックスオレも大好きだけど、今はまだ振り返る訳にはいかない。

 全てのポケモンと出会っていないから。

 ポケモンと人の架け橋になれていないから。

 勝手に言葉を使ったことを、まだ謝れていないから。

 

 

「行こう、バクフーン」

 

 

 石のようだった足は動いた。

 隣を歩く相棒と繋ぐ手だけが熱を帯びているのに、全身が羽毛に包まれているみたいにあたたかい。

 おれたちは振り返らずに、残り六十歩ほどを歩き抜いた。

 鼻孔をくすぐる花の香、鼓膜を揺らす波の音。

 海割れの道を抜けた先、花の楽園に見送られて。

 

 ──もう、誰の声も聴こえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戻りの洞窟の前で目を覚まし、アルセウスフォン──そういえばなんで病衣の懐に入ってたんだこれ──が何やら発光していることに気づいて取り出してみると、なんとワープ機能が解禁されていた。

 勿論おれが発布する非正規不敬言語ではなく、正規の宣託である。

 

 主にベースキャンプとキング場に跳べるらしく、確認も兼ねて隠れ泉から砂浜ベース、舞台の戦場、湿地ベース、巨木の戦場、高台ベースと辿っていく。ポケモンたちはボールに入れていれば問題なく一緒に跳べるようだ。

 

 今はアヤシシ様の背に揺られ、ぽこぽこと蹄の音に耳を傾けながら『大志坂』を登っている。

 ……断片的ながら思い出した自分(クソガキド不敬カス野郎)の所業にちょっと、いやかなり引いている最中だった。

 

 我が事ながら意味分かんねえよ何だ「アンノーン文字を解読してプログラム(アンノーン)言語を理解する」って。

 そんなの修得するくらいならまず先にポケモンの言葉が分かるようになってくれ。

 しかもやることが道具の増殖と空間の跳躍って規模がちゃんこい(ちいせえ)のかでっけえのか分かりづらいし。

 アカギは世界を創ろうとしていたのにおれはボールやきのみを増やしたりテレポート能力に目覚めたりすれば満足ですか。

 

 

「あの……アヤシシ様。おれホントにあなたの背に乗る資格あるんですかね……」

 

 

 乗りながら訊ねるというのもおかしな話ではあるが訊かずにはいられなかった。

 シンオウさま──おそらくアルセウスに力を与えられたポケモンの子孫であるアヤシシ様やガチグマ様に認めてもらえて嬉しいのは確かだけど、勝手に神さまの言葉を使ったおれなんかを認めてしまって本当に大丈夫なんだろうか。

 

 正直なところ全然覚えが無い。

 いや、忘れていた記憶が蘇ったのだから間違いなくおれがやらかしたんだろうけれど。

 記憶だけあって実感が無いのが一番困る。

 錯乱からどうにか立ち直ったところにほいっと与えられたのが良くなかったのか未だに受け止めきれていない。

 とはいえやった実感はまるで無くとも、記憶がある以上なんも言い逃れできねえ。

 

 故に──おれはアルセウスに土下座をしなければならない罪状持ちの人間なのだ。

 

 現状推定アルセウスは“全てのポケモンとであえ”以外に何も言っていない。おれが自主的に土下座をしたいと思っているだけであり、向こうはどうお考えなのかはまるで分からない。

 厳しい大地に放り出されて死んでほしいのか、自分の行いを顧みてほしいのか、全く汲み取れないのだ。

 

 ネガティブな思考がぐるぐると頭の中で回り出す。寒さと空腹はマイナスしか連れてこない。

 お背中でうーうー自己嫌悪するおれを、アヤシシ様が突然大きく急旋回して振り落とした。

 

 

「ぎゃんっ!?」

 

 

 制服と違って薄い病衣は衝撃を微塵も吸収してくれない。ダイレクトに伝わる地面の冷たさと土の感触に堪らず顔を上げると、アヤシシ様は静かにおれを見下ろしていた。

 峻厳にして慈悲ある眼差しは初めて出会った時と変わらず優しいもので、奥に灯るのは非難ではなく諭しの色。

 

 ──神の言葉を騙って悔いておきながら、神使の末裔を疑うな。

 

 まるで頭の中に直接響いたように思考がトレースされる。口ではなくその双眼で語ると、彼は再度おれを背に乗せるよう膝を折り曲げた。

 もしかしたら、それは、考えは、おれの勝手な妄想かもしれないけれど。

 

 

「…………光栄です」

 

 

 こみ上げた本日幾度目になる熱い涙を拭って白い背に跨る。

 使命ひとつを与えた神と、力を貸してくれる神使の末裔。

 その意味は今はまだ分からないけれど、とりあえず出来ることから着実に、確実にこなしていこう。どんなに悔いたところで結局は現状それしか出来ないのだから。

 

 白澄み始めた東の空を駆ける風に陽射しの熱が乗り出したのを感じながら、坂の向こうに構えた表門を眺める。

 

 

 ……。

 えっと何から……どう、説明しようね……。

 

 

 

 




ヨノワール
 真面目な性格で気が強い。とはいえ霊界からの指令で動いている間は己の意思が無いため、そうした性格や個性は無いに等しい。

ヨマワル
 テルの生命エネルギーを目当てに集まったヨノワールの配下たち。テルが気絶したあと激昂したバクフーンに焼き払われそうになったので全員撤退した。

知らない人
 かつてギラティナに嫁いだ古代シンオウ人の魂。死して霊界に辿り着いた後も自身は地上に戻らず、数多の魂が再生していくのを見送り続けている。本当にラブトロスの「娘」だったのかは不明。
 モチーフ元はギリシャ神話のコレー/ペルセポネー。



テル(シンオウ地方)
 任意コード実行、なぞのばしょ、道具増殖etcと今回思い出しただけでも数多の改造やバグ技に手を出したクソガキド不敬カス野郎(本人命名)。
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