シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚- 作:ヒュペルボレイオス
思想が強い回です。(本章2回目)
現代に生きていて、音のない世界に身を投じるというのは存外と難しい。
風が草木を掻き分ける音、雨が地面に染み込む音、道行く人の息遣い、話し声、自分の思考。
世界は音で満ちている。
必要な音を都度に取捨選択して生きていく。
だけど──その建物にいる間は、本当に静かだった。
ステンドグラスから差し込む淡い光が床材を柔く撫でる。色彩はほのかに後を追うばかりで、絨毯に混じると分からなくなる。
木製の長椅子は整然と並び
玻璃硝子を通る陽光は時を悟らせず、石造りの壁は外界との繋がりを完全に断つ。
その場において流れる時は存在せず、空が広がることは無かった。
──何よりも心地良かった。
いつか世界が終わる日を迎えるのなら、腰を落ち着ける場所はここが良かった。
切り立つ山の頂きが耀きを戴いて空を裂く絵が好きだった。
真っ暗に染まったステンドグラスを侍らせる巨大な絵画。
見上げ酔いしれながら長椅子の上でタマゴを抱いたときは、その望みが叶った気さえした。
「ぇ…………は、…………?」
籠から降りて見上げた空に息が止まる。
遠くに見えていた時空の裂け目が目前にあった。
世界を破く白光は雷とさえ呼べない“何か”で、そのくせ神さまが指先ひとつで撃ち出せてしまう雷霆だった。
向こう側に
白光の雷霆は即ち“眼”であり、規格など存在しない混沌の中で、
気付いた時には駆け出していた。
肺に残っていた空気の残骸を叩き出して、凍てついた天冠の大気を貪欲に取り込む。
細胞に霜が降りた痛みが胸を劈いた。
それさえも身体の歓喜として認識し、高揚が全身を駆け巡る。
立ち塞がる小さな崖は障害にならない。
戻りの洞窟を守る絶壁に比べたら段差でしかない。
──誤解しないでほしいことがある。山を登って時空の裂け目に辿り着くなんて当然思っていない。
おれが見ているのは裂け目の下。
あらゆる色彩を罪として裁く様な白の冠。
雷霆の直下、雪と同化してしまいそうな儚さと、神の爪先が如き荘厳さを持ち合わせる真白の家。
霊峰の頂きが戴く永劫の耀き、その写し身、その依り代、その美しき■■■■■■!
「シンオウ、神殿────っ!」
声の限り真名を叫んだ。
アルセウスを降ろすための「
四千と三百を超える幾多の
見たことなんて無い。
写真なんて残っていない。
なんで分かったかと言われたら、魂で理解したからだ。
専門書に綴られたほんの僅かな記述を文字が褪せるほどになぞり読んだ。
復元予想図に心を踊らせながらどこか強烈な違和感を抱いていた。
そんな知識の巻藁にひと粒の火種が放り込まれた様に、確信は爆発的に燃え広がって思考を焼いた。
行きたい。
行かなきゃ。
行かないと。
行くべきだ。
何のために求めたんだ。
何のために探したんだ。
費やした時間と用いた空間に報いるべきは今だろう。
今だ今今今行こう心臓が唸る怪獣の様に他人事じみて跳ねるのならば追い求めた夢はすぐそこにある!
──いいですか、テル。
指を掛けた岩がぬめりを纏っておれを蹴落とした。
ぐんと遠ざかる神殿は雪雲の向こうに姿を消す。
衝撃に備えて瞼を下ろした瞬間、全身を包む妖炎の熱があった。
「……バクフーン」
ボールから出た相棒が滑落したおれを受け止める。
三メートルも無い壁から滑った人間を支える程度、ポケモンである彼にとっては造作も無い。
──あなたを粗末にしないでください。
バクフーンは赤い眼でこちらを見下ろしている。
オオニューラ様共々おれの選択を待っている。
心臓の鼓動が平静を取り戻し、伴って頭が冷えていく。
彼方の神殿を見上げた。
割れた爪が瞬く間に再生する。
すぐそこにあると思った神殿は少なくとも天候が変わる程度に遠く、雪雲に包まれて輪郭も朧げだった。
「ごめん、ありがとう」
今は──よそう。
たとえ地続きであっても、たとえ仰ぎ見ることは叶っても、行くべき時は今じゃない。
今優先させるべきは『迎月の戦場』に赴き、荒ぶるキング・マルマインを鎮めることだ。
アルセウスフォンを起動し地図を開く。
現在地を確認し『迎月の戦場』の位置を見る。左手にまっすぐ行けばいい。ノボリさんの向かった先だ。
「……よし、行こう!」
神殿に背を向けて、バクフーンとオオニューラ様に笑いかけた。
落ちても死にはしないような崖でも安全を期してオオニューラ様の背をお借りする。
ドーミラーやドータクンの相手は相変わらずバクフーンに任せながら、捕獲できそうなら随時ボールを投げた。
シンオウ地方ではテンガン山を登るとなると、洞窟──内部登山道を通るルートしか認められていない。
というのもテンガン山はその猛吹雪と急斜面、道なき道しか存在しない特性から、シロガネ山と並ぶ「登頂最難関の山」とされており、本来ならポケモンリーグが認めた者しか立ち入ることが出来ないのだ。
だがシンオウ地方を大きく二分割する山にリーグ認定者しか立ち入れないというのは現実的ではない。
そのため吹雪と断崖に阻まれた“表登山道”ではなく、洞窟を掘り進めて開通させた“内部登山道”を正式なルートとしているのだ。
他の地方から来た馴染みのない人が「表登山道は正規のルートではない」という罠に引っ掛かるのはお約束。
オモテって付いてるじゃん!! と叫ぶ観光客が後をたたない。
なおその内部登山道も途中までしか開放されておらず、カンナギタウンと同じくアグノムたちを描いた壁画で閉ざされている。
結局のところ「テンガン山の山頂」にはリーグ公認者しか行くことができないよう、きちんと管理されていたのだ。
まあその壁画はギンガ団(シンオウ地方)に壊されたんですけど。ざけんな。
「あの壁画って今もあるのかなあ」
思いを馳せて空を見上げた。
これより先の侵入を許さない、と登山者を阻む三湖の壁画。木製だったか煉瓦だったか周囲とは異なる材質で造られた壁に描かれている点と、カンナギタウンの壁画のおそらく写しである点から考えるに、当時の古代シンオウ人が作ったものではない。割と近年に作られたものだろう。
誰が。
どうして。
何のために。
どんな思いで、最奥への道を閉ざしたのか。
「──…………」
そんな思考をぶつ切りさせる
狙い澄ましたかの様に舞い降る雪が白を上塗る。
積み上げられた石灰石。中心に向かってなだらかに太くなる柱の数々は狭い間隔で梁を支え、力尽きたものだけが静かに草原に横たわっていた。
カミナギ寺院跡。
それが、山麓の地図に刻まれていた名前。
「失礼しまーす……」
小さな円形の骸の中心に置かれた箱を開ける。石造りの遺跡が朽ちている中で木製の箱が腐りもしていないというアンバランスな状態が気になったからだ。
案の定、箱の中には目隠し玉やバリバリ玉など近年作られた風体の道具が入っていた。
「……はは。なるほどね」
納得と共に蓋を閉める。
脳裏に浮かんだのはいつかのシンジ湖で見た薄手の白い衣。
いつかの戻りの洞窟で見た、淡い金色の神に寄り添う女性の身を包む白い衣。
──ご安心を。めかくしだまとバリバリだまの準備はできています。
シンジ湖に捧げる舞は
神のために舞う時のみ身に着ける衣装は継がれ遺された信徒の証。
寺院跡だなんて悲しいこと言うものじゃない。ここは今も使われている。他ならぬ、古代シンオウ人の末裔によって。
「物置とか……宝物庫だったのかな」
石畳は『迷いの洞窟』の前に架かっていた石橋の物と酷似していて、『紅蓮の湿地』の各地に掛けられていた幅の狭い木製の橋とは技術力のレベルが違う。
隣の建物にあった木箱にはハイパーボールと寄せ玉の素が入っていて、見た目にそぐわぬ逞しさを感じた。これで捕獲をなさるんですよね?
木のふりをするウソッキー、北を向き続けるノズパスに、柱にぶら下がるグライガー。
その先。
互いに向かい合うディアルガと、対の存在たるパルキアの
「…………テンションって上がり切ると逆に冷静になるな」
ひび割れた台座に刻まれている文章らしき文言を視線でなぞる。侵食が進み、読み取ることは難しい。
傍に落ちている四個の石塊は崩れ落ちた尻尾の先だろう。パルキアの足裏、踵に一本の爪が生えているなんて今初めて知った。
薄く広がる翼の美しさに舌を巻く。
雨水の流れが皺の様に刻まれていても損なわれない完成度。
「……あれ? 無い」
側面に回って首を傾げる。カンナギタウンで見たパルキアの絵と照らし合わせれば明らかな差異。
それはダイノーズの像にチビノーズが無いのと同じくらいの違和感で、無視できない欠損だった。
近くを見渡してもそれらしき落とし物は無く、指先の爪にこびりついた赤黒色と相まって強烈な嫌悪感が湧いて出る。
そんなことはない。
絶対に何かの思い過ごしだ。
向かいのディアルガ像に走り寄る。
ひび割れた台座の裏に刻まれる文章らしき文言、これはパルキアと同じ。
傍らに落ちているいくつかの石塊、これもパルキアと同じ。
正面。
時を動かす心臓を護る聖鎧の中心。
──それも、パルキアと同じ。
「ざっけんな……ッ!!」
古代シンオウ人の技巧がありながら、この二柱の象徴たる白珠と金剛珠が省略されるなどあり得ない。
両肩に、聖鎧に、その宝玉を戴くための形がある以上、そこには二柱の象徴たる宝玉があって然るべきなんだ。
如何な時代にも人々を魅了し、価値を認められる“宝石”が、この巨大な石像に見合うだけの大きさで嵌め込まれていたとしたら。
盗難。
その結論に辿り着くのは、あまりにも簡単だった。
*
「あなたは……確かウォロさま」
「その制服はイチョウ商会! オヤブンギャロップを連れている余所者の集いだね?」
紫髪の男性が告げた二句にウォロの感情がささくれ立つ。
どうしてそうあんまりにも局所的な限り無く最大に近い火力の語句を選び取ってしまったのか、
「ええ、ジブンはイチョウ商会の者です。ヒスイ地方の神話や歴史に大変興味がありまして。中でも
ああよかった。まだ冷静に話をするだけの余裕はあるみたい。
でもきっと今頃、心の中では呪言の様に神話を諳んじ続けている。
怒ってはいけない、悲しんではならない。
心が騒めく度にあなたが何度も何度も唱えるものだから、私まで覚えてしまっている。
「なるほど。ツバキさまはシンジュ団をそのカミナギの民ではないとお考えなのですね」
「ノボリのようなどこのウマのホネとも知れない人間を迎え入れる時点で、シンジュ団の血は怪しいのだよ! きっと過去にも様々な行き倒れを拾っては取り込んできたのだろう? その人情の尊さ、懐の深さ、他者に対する慈悲深さは敵ながら天晴と認めよう。だが民族という観点から見ればシンジュ団はそう! 雑種!」
「なんというヘイトスピーチ……早急な撤回を推奨いたします」
嫌な気配が流れ込んできた。
いろんな色の怒りがいろんな方向から生じていて、私の精神は嫌でも摩耗する。隣のボールからガブリアスが心配そうにこちらの様子を窺っていた。
「今一度言おう! 遙かな昔から結束を固め続けたツバキたちコンゴウ団こそがシンオウさまの信徒たるカミナギの民であり、その威光をヒスイに知らしめる使命を宿して産まれてきたのだ! 現に今のシンジュ団には、コンゴウ団のように特異な超能力を持つ者がひとりでもいるのですかと?」
その口振りだとまるでコンゴウ団の人間は全員私達ポケモンのような能力を宿しているように受け取れてしまうが、わざとなのか気づいていないのか判断が難しい。
朗々と語る声は内容とウォロへの影響に目を瞑れば綺麗だった。
あのね、何が嫌かってこの人には全く邪気が無い。
心の底から「シンオウさま」をお慕い申し上げているからこそ、「シンオウさま」の名を掲げる別の存在が許せない。
彼はどこまでも純粋に「シンオウさま」を想い、それ故に名を騙る異教に憤慨し、先祖から受け継いだ誇りを守るために戦っているのだ。
──その心の在り方は、誰に責められるものでもない。
それは誰もが持っている思いであり、信仰であり、譲れない心に他ならないのだ。
だから私はこの心を拒絶できない。
悪しきものだと断じて、捨て置くことができない。
だってみんな同じなんだもの。
大切なものを否定されたら悲しい。
大切なものを軽んじられたら腹立たしい。
この場の誰もが、ただその一心で、大切なものを守るために戦っているのだ。
「なんと素晴らしい誇りと自負! やはりシンジュ団との対立を生き抜くにはそれ程の意識が必要なのですね」
「応とも! シンジュ団にも神使の末裔を貸し与え給う慈悲深さをお持ちのシンオウさま……その御心のままに! ツバキはマルマインの雷槌が迸る様を拝謁し続けるとも!」
「……シンオウさまの慈悲深さを尊ぶのであれば、マルマインはやはり早急に鎮めるべきです。過ぎたエレクトンエネルギーに翻弄され身をよじる姿に、ツバキさまは何も思わないのですか」
「使命とは厳しく嶮しく苦しいもの。早急に雷槌を放出し速やかに威光を示し終えるよう、このツバキ全力で力添えをして参る所存!」
遠くで雷鳴が鳴り響いた。
男性は嬉しそうな声を上げ、もう片方の男性は帽子のつばを押さえて口をきゅっと結ぶ。
ウォロは──うわ。
恐る恐る見上げたかんばせは「うわ」としか形容しようがなく、私はいつ彼が
いいえ、もうとっくに怒っている。
だって今の音はふつうの雷じゃない。マルマインの爆発でもない。あれは時が乱れ空が歪み世界が破れる時の音。
この山麓のどこかで、時空が大きく歪む前兆だ。
ガブリアスのボールがガタガタと揺れている。お前だけは本当にこんなところで出ては駄目。まだ私が飛び出してしまった方が事態が収まりやすい。
「ふむふむ。カミナギの民であるあなた方コンゴウ団こそが、その血を守りつつ古くから続くシンオウさまの信徒なのですね」
「イチョウ商会は話の理解が早くて助かるよ! 時間を作り広めたシンオウさまもお喜びになる」
「ははあ。となると不思議ですね。コンゴウ団とシンジュ団はほとんど同じ時期に、外からこのヒスイ地方へ渡来したのでしょう?」
ああ──言ってしまった。
大火になる前にこの場が収まると信じたいけれど、鎮火の兆しは全く見えない。
「ギンガ団やイチョウ商会という新参者と比較した場合は確かに現地の民ですが、コンゴウ団もシンジュ団もどちらも渡来人ですよね? 古く古く……この世に過去と未来が生まれたその瞬間からヒスイ地方に住んでいた民こそが、“カミナギの民”ではないのでしょうか?」
「如何にも、悠久の時を遡れば確かに我らは渡来人。しかしコンゴウ団が上陸した時、このヒスイ地方に人間はいなかったとされている! 存在しない人間がカミナギの名に相応しいなどという奇怪なことありはしないのだ」
「──ほう。では、“カミナギ”の名はどこから生じたのでしょうか」
聴いたことがないくらい冷たい声に悪寒が走った。
昏い月の光を宿す白銀の眼が頭をよぎる。
まだ薄い笑みを湛えられているだろうか。まだ平静のかんばせを保てているだろうか。
「“カミナギ”の名は……古くからヒスイに伝わるものだと、わたくしは先代シンジュ団の長から聞き及んでおります」
「ええ。ええ。カミナギの笛、カミナギの民、カミナギ寺院跡。それらは“ヒスイ地方に伝わる名”を冠すもの。何故ヒスイ地方に名が伝わっているのか? 伝える者がいたからですよね」
まあ当たり前ですが、とウォロは小さく息を吐いた。
黒外套の男性が答えてくれなかったらどうなっていたか。紫髪の男性も思うところがあるのか顔を顰めた。
「もしコンゴウ団が真に“カミナギの民”なら、ジブンはお訊きしたいことが沢山あります。『迎月の戦場』の石柱の構造、『神前の高台』の石像の意図、『古代の石切り場』から石を切り出したその方法。『カミナギ寺院跡』に降り立つ龍の真名……」
淡々と。坦々と。眈々と。
薄氷の下で畝る溶岩が鎌首をもたげる。
喉笛を噛み千切りそうな怒りは最早憎悪のそれで、私はボールの中にいるのに目眩に見舞われた。
「ジブンはコンゴウ団とシンジュ団の対立には興味ありません。神話のこと、歴史のこと、遺跡のことを語れるのなら誰でもよいのです。さあ、さあ! どちらでもよいので教えてくださいなカミナギの民よ!」
割れた硝子の如き笑みでウォロは朗らかに謳い上げる。声という楽器を巧みに操り、聴く者の心を素手で撫でてはざらつかせる。
絶対に答えられないことを、別にあなたでなくても構わないと半ば突き放しながら訊ねる様は、意地悪なんて可愛い言葉では済ませない。
ああ、怒ってしまった。来てしまう。
「──あの対の龍の、真名は?」
遙か後方、『祈りの広場』の向こう側で、真昼の夜が顕現した。
先日いただいた感想「テルが壊れる前のシンオウ神殿を見たら気絶しそう」
──ショウ先輩の声が無ければ即死だった。あと物理的距離。byテル